オカルトと現実のはざま9 |  ヒマジンノ国

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端的に話をしてしまえば、「歴史上最悪」ともいえるこの2書、ヒトラーの「我が闘争」と「シオン長老の議定書」という不気味な書物が、まるで凹と凸が噛み合うように、その「基本的内容」がぴったりと合わさるということです。そしてこの2つの書物は、さらに現在の国粋思想(国家主義)とリベラル(自由主義)思想とに合致しているといるということです。

 

人によっては、このような内容は、国家に対する「統合」と「分解」の作用をみてくれば「当然」と思われるかもしれません。歴史をつぶさに観察する能力があれば、それをかなり明確に「文章化」できるといえるのでしょう。

 

この2つの書物はこの国粋とリベラルの原理的な傾向をよく説明しており、その対立の在り方と成り行きを指し示しています。この傾向を極端に示す人々こそが、我々の安寧とする生活と人生を破壊に導いているといって過言ではありません。

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<リベラル的なもの>

 

今日マスコミの力は絶大であって、一つの権力といって過言ではありません。今でも日大のスポーツ問題から首相の虚偽発言の問題まで、下手をすれば世論の誘導さえ行える状況にあります。当然、不正を働き取材を取られる側にまず問題ありきではありますが、しかし、当然のように取材をする側もそんなに偉いのか、と思えるほど横暴であり、責任感を感じません。

 

また再び同じ文脈を引用します。

 

「無尽蔵の饒舌家は国会と行政庁とを舌戦場と化し去った。大胆な新聞屋や、無遠慮な政治論客等は毎日行政官を攻撃して居る。権力の乱用は斯くて官衙の没落を誘致しつつある。五里霧中に徘徊する群衆の一撃の下に万事転覆するであろう。」

 

「リベラル」についていえる力は「解体」といえるでしょう。つまり、物事を研究し、細分化する力です。そのために彼らは「正しい」と思える「観念」を用い、全体の一部を取り出していきます。仮にどんな偉人でも粗を探せば何か問題が見つかる可能性が高いわけです。その問題に対して正しい観念を取り出して攻撃します。

 

「嘘つき」に対しては「誠実さ」を突き付けて攻撃します。しかし攻撃側がいいだした「誠実さ」とは?はたして攻撃ばかりする方にそんな「誠実さ」があるのでしょうか。「観念」的に正しい内容というのは、「実際」に対して実現が難しい場合がほとんどです。おそらく世間的に「誠実」だと思われている人でも、多分小さな「嘘」ぐらいついたことはあるでしょう。

 

つまり「リベラル」的な人々は「カッコいいこと」をいうため、実現不可能なことをいいだす人々と見られますが、同時にマスコミなどで力を得れば、それが強力な武器になっていきます。 

 

「自由・平等・四海同胞なる語は、盲従的な我々の諜者によって世界の隅々にまで宣伝せられ、幾千万の民衆は我々の陣営に投じ、此の旗幟を担ぎまわっている。然るに実際を言ふと、此の標語は至る所平和安寧一致を破壊し、国家の基礎をも覆へし以つて非猶太人の幸福を侵食する獅子身中の蟲である。」

 

以上のように「議定書」にはあります。 議定書に於て、「自由、平等、博愛」の観念は革命の標語として、国の特権階級を駆逐する言葉として書かれています。しかし、また、同時に次のようなこともいえます。

 

人間が完全な自由を得ると、各自に差ができ、平等でなくなります。逆に世の中の人々を完全に平等にしようと思うと、人々は自由を失います。確かに「自由」と「平等」はありがたいですが、これも現実の「ケース・バイ・ケース」に照らしあわせて行わないと、お互いの観念、ここでは「自由」と「平等」ですが、それぞれが互いの観念と食い合い、どんどん身動きが取れなくなります。つまり「自由」を主張する人がいれば「平等」はだめだといいだす人がいるでしょう。逆もしかりです。こうして「リベラル」内でも意見の「相違」ができて行って、次々に「分離」していくことになります。

 

どんなに野党が「平和」、「平和」と叫んでも具体性がないために相手にされないのもこうした傾向のせいでしょう。かつて民主党が色々な綺麗ごとをいって政権を取りましたが、現実味がなく失敗しました。そういったことも同じだと思います。グローバルな傾向を示すには、伝統とか文化的なことよりも、各国で共通に通用する考え方や、合理性が必要なんだと思いますが、形だけになることが多いと思います。

 

しかしだからといって、こうした「観念的な言葉」が不必要かといえばこれは違います。人間は物事を「考えて」から動きます。そうなると「観念的」な目標が必ず必要になります。その際、綺麗ごとの「観念」は必ず必要になります。国そのものを「平和にしたい」という「気持ち」は必ず必要です。実際、人間は「思考中」、こうした現実味のない「抽象性の高い観念」をもとに考えていることが多いですね。考えること自体、実際の物がある、または発生している行為ではないので当然といえば当然といえます。

 

問題はそれを現実に照らし合わせて、どう実現するかです。

 

抽象性の高い観念と、実際の世界とでは同じ目標であってもやり方を変えねばいけません。