ヒマジンノ国 -46ページ目

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

 

今年の秋は暖かいらしいです。紅葉が遅いそうです。中々綺麗に朱に染まった木々は少なかったですが、いくらかの紅葉を見てきました。

 

しかし、今は冬なのでしょうか?秋なのでしょうか?

 

 

この時期は内省的になった方が落ち着きます。

 

 

ラフマニノフを聴いています。ピアノはダニール・トリフォノフ。ピアノ協奏曲の2番と4番(2015,2018)。セルゲイ・ラフマニノフ(1973-1943)は20世紀に活躍した作曲家、兼ピアニストでした。作風は完全にロマン派のもので、豊かな感情表現と、甘美なロマンの味わいが美しいと思います。

 

チャイコフスキーなどと同様のスラヴ臭があります。時々くどいと思うことは個人的には、あります。

 

批評家には酷評されるタイプの作曲家ですが、彼の作品がコンサートから外れることはありません。有名なのはピアノ協奏曲2番です。ロマンティックで内省的、特に第2楽章は美しいと思います。

 

4番は2番に比べると、豪華で、派手な効果があります。映画音楽のように煌びやかに響きますが、それでもやはり第2楽章は2番同様にロマンティックな美しさを感じます。ダニール・トリフォノフは透明なタッチで表現しています。

 

 

もう一枚。

 

 

マリス・ヤンソンスの指揮でラフマニノフの交響曲3番と、交響的舞曲(1992)。両作品ともラフマニノフ晩年の作品で、特に交響的舞曲は彼の最後の作品です。どちらも20世紀に入ってから書かれたとは思えないような19世紀風の作品で、哀愁に満ち、過去を思い起こすような哀切な旋律が聴けます。

 

交響的舞曲は純粋な管弦楽曲ながら、ハープやピアノなども入り、第一楽章の中間部はたゆたうようなロマンティックな雰囲気を描き出します。

 

ヤンソンスはいつものように、角の立たない、よく練られた柔軟な音質で過去の残照を思い起こすような演奏をしています。音を揃えるべき部分もきっちりと揃えています。

 

 

 

寒くなってきましたが、日々落ち着いた生活ができれば人生に不満もない、というところでしょうか。

 

斎藤貴夫というジャーナリストの「日本が壊れていく」という本を読みました。安倍政権下で行われている政策の、裏側に対する取材と、批判とが書いてあります。最近自分でもあまり明るい話題を書かないので、ブログを書くこと自体、ちょっと疲れていますが、この本を読んで、またさらに疲れました。新自由主義と、右翼思想の結合がありそうな気がしました。

 

この手のジャーナリストは闘志むき出しで、反骨精神旺盛なようです。多分権力にも立ちむかって行くのでしょう。

 

しかし自分なんかが思うのは、あんまり争うと、結局どっちが権威側か分からなくなるので、そういう部分は好きではないです。

 

最低限の抵抗などはいるのかもしれません。ですが、物事を勝ち負けで考えすぎてしまうと、変になります。

 

今後は「どう生きてゆくのか」、という問いはどうやっても出てくるでしょう。争いを好む人々はお互いでいがみ合いを続けると思います。

 

ただ、自分はあんまりそうはなりたくはありません。間違いは間違いとして認識した上で、争いのない生き方ができうれば最善ですが、難しいでしょうか。

 

その辺りのことを今後も考えていきたいと思っています。

 

自然の世界はフレキシブルです。

 

自然の摂理に従えば、中庸を壊してしまう程度に、バランスを壊す者は滅びるか、矯正を迫られるか、ということになると考えています。('ω')ノ

 

それは人間の世界も同様で、時間の遅し早しはあるにしろ、滅びるべきものは滅びるのだと考えています。ナチスドイツのような異常な政権、共産主義のような異常な思想などもそのカテゴリーに入るのではないかと思っているんですね。本質的には資本主義も同じではないでしょうか。

 

そういう意味では自分は人類の未来についてそんなに心配はしていませんが、問題は上記の異常な生き方や思想は、その経過途中で沢山の人を巻き込み、犠牲を出す、という点ですね。これは中々回避できないので、弱ります。

 

 

オットー・D・トリシャスというアメリカ人記者が書いた「トーキョー・レコード」という本があります。1941年にニューヨークタイムズ紙の特派員として、当時の日本のことを記録している本です。残されている記録は、真珠湾攻撃の直前での日本の様子というべきでしょう。

 

簡単に引用させていただきます。

 

<しかし驚くべき夕日が夕刻にやって来た。この時内務大臣の平沼騏一郎男爵が、東京で最も大きい日比谷公会堂に集まった3000人の小学校教師と区の職員を前にして、この日の重要性について次のような演説を行った。

 

日本という国は世界に唯一のものである。天は、ニニギノミコト(天照大神の孫)を大和の橿原(かしはら)に降臨させ、彼らの子孫が日本を永遠に支配し、統治するであろうと伝えた。2601年前の今日この佳き日に、わが初代の神武天皇が即位したのである。外国の王朝はみな人間が作り出したものである。外国の王、皇帝、大統領もみな人間の作り出したものである。しかし日本人のそれは、天皇家の祖先から継承された神聖な皇位である。したがって日本の天皇の統治は天の延長である。人間の作り出した王朝は亡びることがあるが、天の作った皇位は人間の力の及ばぬ所である。

 

・・・(中略)・・・

 

ここに表明されているのは中世であって、神によって指名された統治者が、地上のあらゆる現世的統治者に優るものであると公言しているのだ。これは、中世の教皇たちによって提唱され、ヨーロッパのあらゆる宗教戦争の根底にあった主張なのである。

 

何よりもここには、ゲルマン支配者民族の超国家を求めてヒトラーが見出すことのできた権威よりもさらに高次元でさえある権威を土台にした超国家を公言する、もう一つの軍事国家の姿があった。>

 

この本を読んでいると、当時の日本が「イスラム国」のような閉鎖された空間に生まれた、一神教の宗教国家のように思えました(トリシャスの日本人観は抵抗ある部分も多いですが・・・)本来多神教的信条を持つ我が国でしたが、このような「一神教的」印象を持つに至ったのは、薩長が徳川幕府から権力を取るときに、明治政府を作った人たちが、外国(西洋)のやり方を真似た結果だと思っています。それが後の軍閥政治に至った道でしょうか。

 

・・・まあ、この話はさておき

 

当時の日本とドイツについて少し比較します。

 

日本に比べるとナチスドイツというのは沢山の他国からの干渉を受けてできた政権だと考えています。そしてその最たるのものが「ユダヤ支配、あるいは陰謀」と呼ばれるもの(それは今日の「リベラル」とか「新自由主義」とか呼ばれるものに匹敵するもの)です。つまり日本に比べると、諸外国からの影響があったがため、国を団結させるための政権、といえました。

 

その当時のドイツと同じように、現在の日本は国際化して、他国の干渉も多くなりました。

 

今日、コアな右翼思想家たちは戦後のGHQによる「日本人に対する洗脳」プログラム(WGIPや3S政策)について盛んに宣伝しています。自分もこうしたものはあったかも、と考えています

 

しかし「陰謀」をたどっていくと必然的にヒトラーがいっていたように、「国際主義者」(多くの場合、ユダヤ人が指名されます。ユダヤの富豪などが、国際的に政治を動かして、目標とした国を陥れる、という陰謀です。日本もアメリカに隷属しているといわれていますが、アメリカはフリーメーソンが作った国、という意見は多いようです)に帰結していくと思います。馬鹿馬鹿しいと思う人も多いと思いますが、歴史的な順を追っていくと、必然的にそうなっていくはずです。

 

確かに、当時の日本人の持っていた「皇国」の思想は、仮に、ヒトラーのいうシオンの賢人のいうところの「シオン長老の議定書」にあるような欺瞞と力による狡猾な恐怖支配とは全く真逆の思想でしたからこれも「仮に」ですが、GHQがそうした人々の手先であったというのなら、「世界を国際化する陰謀者」にしてみれば、これらは葬り去られるべきものだった、といえてもしまうのです。

 

日本の場合は「道義性」(道徳的に正しいということ)を重視し、新自由主義的な者たちは「力づく」(強いもの勝ち)を重視します。

 

しかしここでややこしくなったのは、第二次世界大戦で日本が参戦した理由です。これは決して「アジア開放」を第一に歌ったものではなく、中国への侵略(これは決して解放戦争とはいえません。仮にどんなに中国が悪くても、中国は我々の主権、この場合、国土と考えても良いですが、を犯していませんしかし、日本軍は中国奥深く攻め入っています)の勢いを止めることができず、その足元を諸外国に見られて、日本は暴発したというべきでしょう。日本と中国の関係を修復しようとしていた石原莞爾の考えと比較すると、こうした傾向が顕著なのは明らかだと思います。

 

恐らく中国はわざと日本を泥沼に陥れたのだとは思います。これは英米を巻き込むためです。また日本が中国に進出してほくそ笑んだのはスターリンに違いありませんでした。

 

末端の兵士たちは「アジア開放」をそのまま実行しようとした者もいたようですが、基本的に侵略から暴発、そしていくらかでも長期戦に持ち込めまいかという目論見で展開した戦争は、良く見ても「自存自衛のため」という表現の方が正しいと思います。理想に燃えていた者もいたかもしれませんそれを軽んずるというつもりはありません。しかし、先の戦争が結局、理想と現実の間で展開し、内訳、つまり侵略性と理想との比率を考えると、自分の場合、7:3ぐらいの割合で侵略性が強かったと思います。

 

そして現在ですが、GHQは10:0で侵略戦争だったとし、コアな右翼は0:10で理想のためだったといっています。我々は理想を取り戻してよいと思います。しかし反省もすべきです。GHQの考えが洗脳による「自虐史観」だとすればコアな保守の考えもまた、洗脳による「自賛史観」といえます。

 

半藤利一、保坂正康、あるいは山本七平でも良いですが、「自賛史観」によらずとも真面目に書かれた書物はあります。

 

そしてポイントは個人的に7:3としましたが、3割とした日本の理想に関する部分です。ここをどう考えるかが重要なわけです。

 

ヒトラーに政権を取られる前のドイツは、ヴェルサイユ条約によって不当ともいえる負荷を国家にかけられました。そのため、国民は物質的も、精神的にも負い目をおわされました。しかしそんな国民の劣等感に火をつけたのがヒトラーでした。いうなれば憎悪を燃料とし、それに怒りを灯すことにより、絶大な支持を得たわけです。劣等感にはアーリア民族こそ最高の人種だという優越感によって洗脳しました。

 

<大衆の国民化はけっして中途半端や、いわゆる客観的立場での弱々しい強調ぐらいでは起こるものでなく、とにかく追求しようと思った目標に向かって容赦のない態度、熱狂的に一方的な態度をとることによって可能となるものである。だから結局一民族はわが国の今日のブルジョワ階層の使っている意味では、すなわちあれこれのたくさんの制限つきの意味では「国民的」になることはできないのであり、極端にはつきものである激烈さを残さず持った国民主義だけが必要なのである。毒は正反対の毒によって破壊されるのであり、無気力なブルジョワ感情だけが、中間の道を天国に通じる道と考えるに過ぎない。>

 

ヒトラーは我が闘争の中でこう述べていますが、これは現在日本でも、ネトウヨやコアな保守が述べている言説とその深いところでの意味合いは全く変わりません。

 

そして今、コアな保守がいうように「陰謀」があるとするのなら、その「陰謀」たる、「リベラル」、あるいは「新自由主義」の大本がいるのではないかということ。それに加担している朝鮮人などがいるのではないかという「人種差別」などがあります。加えて、そこを煽る様に、彼らによって、日本の歴史が糊塗されてきており、蔑まれてきた、あるいはそのように仕向けられてきたという言説などは、ヴェルサイユ条約で劣等感を覚えてきたドイツ民族と同じものがあります。

 

そしてこれを「日本民族は優れている」という賛辞で埋め尽くしていくというやり方。やがては「天皇」という言葉も、彼らの身勝手で持ち出しかねない状況。これらを並べてみると恐ろしいほどにナチスが民主的に政権を取っていった時と同じ条件が揃っていることに気付くと思います。

 

占領者に嘘を教え込まれ、蔑まれてきた、だから国民よ怒れ、と。それはコンプレックスが強ければ強いほどに、自国民の賛美と結びつき、熱狂として燃え上がります。ですがその内面に怒りと憎悪を含むのならば、その行為は暴力と軍事とになっていきます。そしてそのことで喜ぶものたちがいるということですね。

 

仮にヒトラーがいうように「国際化」が悪だとして、それに挑んでいったヒトラー自体が「悪」そのものになったわけです。ミイラ取りがミイラになった、ということです。今日、その経緯から学ぶのは、「陰謀説」を取り扱うのなら、同時に自分達も「思い込み」そのものに囚われてないか、という命題であったはずでした。そして現在もまだ、安倍政権の後ろ盾はアメリカだろうということを思うと、結局、今「愛国心」に燃えている人々を利用して、日本を軍事化したのち、「愛国心」を強い人々を放擲するか、あるいはもっと別の方法で利用しようかとする可能性もあるわけです。右翼などの人々の「忠誠心」を利用している可能性があるとは考えられないでしょうか?

 

また、ニュートラルな一般国民は、まず「国際化を推し進める人々の陰謀」と同時に、「国を私物化したい人々の陰謀」の両方について一度考えねばならない状況に来ていると思います。

 

自分は憲法を改正しても良いと思っているし、必要なら武力の増強もありかとは考えています。ただそこには「理想」がいります。思想と理想のない軍国化は必ず暴走を招きます。政治家の古賀誠は次のように述べています。

 

大正時代の軍部は力を持っていなかった。軍服を着ると隠れて歩いていたというけれど、昭和に入ると、軍服姿に国民が拍手を送るようになる。軍部が力を持ち、政治を軍部が抑えるようになった。それが大東亜戦争に突入するときの状況です。同じことが必ず繰り返されます。」

 

 

 

まあ、というようなことで・・・。

 

ここまで偉そうなことを書きました。

 

確かに今後日本の政治がどうなるかなんて自分には分かるわけがありません。ただ、現在は「真面目に考える」ということを放棄した人達が多い気はしています。仮に、日本の「軍国化」が進む場合、当然嫌ですが、無理やりに反対もしません。本当に「軍国化」したい人がいて、その数が多いなら、もうどうしようもないからです。結局自分達でそう決めた、ということですから。初めに書いたように、そうしたことになれば国の衰退は避けられないでしょう。

 

個人的には争いに巻き込まれずに、いかに自分を守るか、ということにシフトせざるを得ないということですね。

 

こうしたことは、ちゃんと自分でものを考えられる人々は一度よく考えて見るべき事柄だと、今の自分は思っています。

 

最近ウォーキングをしています。

 

先週は合計で6万8000歩ぐらい。40キロちょっとです。しかし15キロぐらい歩いても600Kカロリーぐらいしか減りませんね。少し前まで、ジムで水泳をやっていました。こちらはもう少し効率が良いですが、ジムの中にずっといなければいけないので、若干飽き気味です。

 

屋外をウォーキングすると効率は良くないかもしれませんが、飽きないので自分に向いています。

 

 

ピアニストのエレーヌ・グリモーの著作を読みだしました。グリモーの自分探しの旅みたいな内容で、ロード・ムービーのようです。実話かな、と思いながら読んでましたが、展開が偶然にしては都合がよすぎる気がしています。創作は入っていると思いますね。

 

「たとえば、もうすぐ日が沈むけどれど、太陽が消えるとき、水平線が紫色に染まるじゃない?あの色は喪をあらわしているって知ってる?日没というひとつの出来事は、こんな謎解きを私たちに教えてくれるのよ。」

 

この著作を読みながら、こんな文章にぶつかりました。

 

水平線が常に紫色かは分かりません。ただ、夕日が喪をあらわすとういうのは、とても分かります。昼間が美しく、楽しければ楽しいほど、過ぎていく時間が惜しいものです。

 

先日もウォーキングをしながら、そんな感じを受けたので、この文章を思い出しました。

 

 

特に海沿いの夕日は名残惜しい気がします。

 

 

喪をあらわすといっても、哀しいわけではありません。夕日が美しければ、死もまた甘し、という感じがします。

 

___________________________________

 

ジェス・グリンのセカンド・アルバムを買いました。

 

 

まあまあです。ファーストアルバムがパワフルな印象だったのですが、今回は少し硬い気がします。構えてしまったのかもしれません。「NO ONE」とか「THURSDAY」のような好みの曲が数曲あります。

 

少し前に深夜の日本テレビで「南京事件」の特集をしていました。今年の5月7日の番組だったように思います。それを観ていると、日本軍は「万」に近い単位の中国人を殺したのかな、という印象は持ちました。帰国した日本の軍人の上官は箝口令を引いていたとのこと。

 

実際、捉えた捕虜に発砲した人のインタビューも出てきます。

 

「機関銃を持ってきてバババーッと捕虜に向かって撃っちゃったんだ。捕虜はみんな死んだけれども、『なかに弾に当たんねえみたいなのがいるかもしれないから着剣して死骸の上を突いて歩け』と。ザッカザッカ突いて歩いた。おそらく30人くらい突いたと思うが。何万という捕虜を殺したのは間違いねえ。」

 

 

それに比べると、最近出版された百田尚樹氏の「日本国紀」を本屋で立ち読みしていたら、南京事件はないと考える方が自然、みたいな書き方がしてありました。

 

確かに先のインタビューによる、一兵士が「何万という捕虜を殺した」という発言もどれぐらい真実かは分からないし、信じていいのかは分かりません。ただまあ、それなりにひどいことはしたんだろうな、とは思いましたがね。

 

今の中国政府がいうように、南京で日本軍が20万人とか、30万人殺したとかいうのはさすがにありえないとは思いますね。当時南京に住んでいた人の数を超えてしまいます。こういうのを宣伝するのは、卑怯なやり口だと思います。

 

ただ反対に、全く虐殺に近い現象がなかったか、といわれればそれもかなり怪しいですね。

 

ちょっと前も書きましたが、最近は意見が極端なのばっかりで読んだり聞いたりしていてもつらいです(まあ、自分も最近はオカルト的な物のことを書いたりして、かなり怪しいですから、あんまり人のことをいえませんけどね('ω')ノ)。

 

南京事件が「あった」、あるいは、「ない」、でどっちかの意見に組しないといけないような感じです。なんか証拠を出せ、たって、結局今ここにいる皆が現場に誰一人居合わせたじゃないですから、ある派、ない派共に嘘をつこうと思えばいくらでもつけますね。

 

最近の意見はどれも「意見の中間」がないんですよね。仮に「南京事件」があったとして、どれぐらい殺したか、みたいなことでも明らかになれば大分違うとは思うんですが、そこが分からないからどうしようもない。「ある派」は30万人殺したといい、「ない派」は全く事件などなかった、ともいいます。しかしこの意見は両方とも、実際殺した人数が分からないんだから、盛ってる可能性がかなり高い気がしてますね。

 

ただのプロパガンダ合戦です。これで中国にしろ、日本にしろ、国民の憎しみを煽っておいて、儲かるのは誰、っていう感じがしてます。

 

本当に面倒だなって思います。

 

尖閣諸島が話題になった初めの頃、中国は日本の右翼が騒ぎ立ててる、といっていました。しかし、日本国内を見ると一部の人たちだけが騒いでいるようには見えました。だからむしろ騒いでいた張本人たちは「どこに右翼なんているんだ」とかいって反論してましたし、まあそれもおかしくない意見だと自分も思っていました。

 

でも結局、今の日本をみると「右翼」は花盛りで、今後もどんどん増えるかな、という感じです。

 

21世紀型のファシズムは出てきてますね日本に限らず、中国、アメリカでもこのまま行くと「ファシズム」対「ファシズム」の戦いになるのかな、という気もしてきています旧来のやり方を踏襲しつつ、という感じです。

 

左翼「リベラル」とかいう人達が、うまいこと「右翼」の受け皿になってるんですね。どのみち左翼はいうことだけいって、ものを実現する力がないから、腰砕けになっていきます。しかし「右翼」は近視眼的ではありますが、やることはどんどんやっていく。本当にマッチポンプでしてね。「衆愚」とか「ポピュリズム」とかいわれても仕方ないですよね。

 

力づくで物事を実現し、ある種の人種偏見を植え付けながら、自らの政権を取っていったのはナチスです。最近の日本もよく似た人達はいると思いますよ。また、そういう感じに持っていきやすい状況が不思議と出来上がるんですね。

 

昔の日本は今みたいに世論が割れてなかったから、ナチスとはまた違ったファシズムを形成していましたが・・・。

 

確かに、自分も最近の韓国はやり口は問題あると思いますけどね。彼らも相当悪いと思いますね。頭に来るのも分かります。

 

ただ、いうなれば「ファシズム」自体は洗脳の産物で、実際権力を握るのは一部の人たちだということですね。利用されてるだけだと思うんですけども。

 

歴史が証明していることは多いと思うんですが、人間というのは結局何も学ばない生き物なのかもしれません。

 

かなり寒くなってきました。そろそろ冬かな、という印象です。

 

ラファエル・クーベリック(1914-1996)の演奏したブルックナーのロマンティック(1979)を聴いています。クーベリックはドイツで活躍しましたが、チェコ出身で、高名なヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックの息子に当たります。

 

東欧圏は昔から味わい深い演奏家の宝庫です。

 

クーベリックのその一員でしょうか。ショパン、アウアー、ルービンシュタイン、ランドフスカ、ヨアヒム、オイストラフ、フーベルマン、マタチッチ・・・少し書いただけでも沢山出てきます。全て書けば、多分ものすごい数になるでしょう。ノイマンの演奏するチェコ・フィルなども、フォークロアな美感があって素晴らしかったです。

 

ラファエル・クーベリックの流儀だと、しなやかな旋律の歌わせ方、あるいは19世紀を思わせる、ロマン派の雰囲気などが特徴としてあげられるでしょうか。

 

そこに幾分の東欧の音楽性がスパイスとして加わる・・・という感じがあります。

 

ブルックナーの交響曲4番「ロマンティック」は、この作曲家のものとしては流麗でしなやかな旋律が目立つため、クーベリックの流儀との愛称は良いように思います。ブルックナー特有の自然の霊感も感じます。

 

フィナーレ、展開部の結部、地平線に没する夕日のような印象を残しながら、ベートーヴェンでもワーグナーでも書けなかったような、信じられないマッシヴな音響体となって、強力に神を賛美する主題の迫力も過不足ありません。

 

 

ブルックナーの4番は寒い朝に聴くと、身に染み入るようです。

 

 

ヴォ―ン・ウィリアムズ、「オーボエ・コンチェルト」(1975)。演奏はパーヴォ・ベルグルンド指揮、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団。オーボエ、ジョン・ウィリアムズ。

 

のんびりとした、牧歌的な雰囲気を漂わせる佳曲。

 

ヴォ―ン・ウィリアムズは彼独自の寂寥感と、染み入るような音色をその音楽の中に隠し持っています。この曲もそういった要素が、牧歌的で、時に田園的な印象を醸し出すこの音楽の中に混じり合っていて、魅力的な美しさがあります。有名な「揚げ雲雀」程ではないですが、詩情があり、豊かに歌います。ベルグルンドの演奏については、管弦楽はもう少し濃い味を出してくれても良い気もします。あっさりしてます。

 

また、ここには先の「揚げ雲雀」も併録されています。透明感のある、しつこくない美しさを感じました。

 

しかし、ヴォ―ン・ウィリアムズのこれらの曲を聴くと、とても懐かしい思いに満たされるのが不思議です。

 

 

私事ですが、今は落ち着いてゆっくり音楽を聴く時間があります。心を落ち着かせたいと思います(景色や室内の写真は全て借りものです)

 

グリア博士の「ディスクロージャー」を読み終わりましたので、感想を書きます。

 

必要なことを書いてしまいたいと思っていたら、長くなってしまいました。

 

この本には宇宙人についての証言があり、自分はかなり困惑しています。自分は元々宇宙人には懐疑的でしたし、UFOはあるにしろ、人類の作ったものかと考えていました。

 

ただ、色々な書物を読んでくると、物事をもう少し柔軟に考えないといけないな、とは思うようになりました。ここに書いたことはあくまで、この本を読んだ僕個人の感想でしかありません。判断は各自でお願いいたします。m(__)m

 

自分の興味のあった部分を中心に、いつも通り非常にざっくりですが、書いておきます。色んな証言を本から引用しましたが、部分部分の抜粋でしかありません。なので全体像が捉えにくく、分かりにくいかもしれませんが、ここに引用した部分が個人的には一番気になったこととなります。

 

<続・オカルトと現実のはざま>

 

この本の本題はいわゆる「影の政府」といわれるのもの本質に迫ったものです。

 

グリア博士というアメリカの医師である人物が、独力で、かつて政府の高官だった人や、軍人、学者など、69人分の証言を集めたものです。そして、その内容はほとんどSFというべきレベルであり、にわかには信じがたいものといえます。

 

この問題の本質を簡単にまとめますと、次のようになります。

 

まず、我々が知らないような形で、アメリカ大統領を超えるレベルで、権力を持つ一団がいる、ということ(1)。ET(地球外生命体)は存在し、すでに一部の権力者たちは、それらの訪問を受けている、ということ(2)。そして、ETから吸収した技術や、20世紀に存在したという「超高度技術」を彼らが保持し、ずっと隠し続けているということ(3)、というようなことでしょうか。

 

とりあえず、この本の内容を引用しながら、簡単に上の3つの件を考えて見たいと思います。

 

まず(1)についてですが、この権力体は、一部の軍人、起業家、役人、政治家などからなり、その仲間にならない限り絶対にその存在を公にすることが出来ないとしています。アメリカの大統領でさえ、彼らには敵わない可能性があります。軍事情報分析官だったジョン・メイナードの証言です。

 

本から引用していきます。

 

「組織内の幹部レベルでは、国家安全保障顧問が取締役となる場合、内情に通じたNSAトップの出身者として厚遇されると言って良い。

 

彼等が知っている範囲は限られている。というのは、彼はただ指名された者にすぎないからだ。その点に関して言えば、CIAで新しく指名された者も同様だ。彼らには知らされるだろうが、それはごく限られた知識だ。闇の秘密領域にいる一部の人々だけが、何が行われているかについて本当の情報を知ることになる。

 

しかし、NRO(国家偵察局)についてはあまり多くのことが知られていない―――それは実に目立たない組織の一つだ・・・この質問が上がるたびに、それは厳密な意味で偵察を行う空軍の一組織だ、それでおしまい、となる。これでは多くの疑問が残されたままだ。しかし、UFO、機密情報、地球外生命体問題に関する限り、この組織はまさしく頂点にある―――私は敢えて言うが、大統領はそれについて限られたことしか知らない。私はカーターが何の知識も持ってなかったことを知っている。私はまさにその政権、カーター大統領の政権組織で働いていた。彼らはそれを固い秘密にしていた。」

 

アイゼンハワー大統領(1890-1969)はこの件について当初統制権を持っていたといいますが、それも徐々に離れていったようです。以前も掲載しましたが、彼は次のように演説しました。

 

「政府の様々な評議会において我々は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、軍産複合体による不当な影響力の支配を警戒しなければなりません。根拠のない権力が台頭し、破壊的な力をふるうという危険性が存在し、これからも存続するでしょう。この複合体の重圧が、我々の自由と民主的なプロセスを危機に陥れることを許してはなりません。何事も当然のことと考えるべきではないのです。用心深く見識のある市民のみが、平和的な方法と目的によって、この国防という巨大な産業と軍事の機構に適切な網をかぶせ、安全な自由を共に繁栄させることができるのです。」

 

 

また他の人物も次のようにいいます。

 

「闇の予算の世界はあの親しげな幽霊キャスパーを描写するのに似ている。彼の漫画を見ることはできるが、それがどれぐらいのか、その資金がどこから来るのか、どれぐらい数があるのか、その区画化と守られる誓約のために知るこはできない。・・・(中略)・・・あなたには見当もつかないことだが、たぶんそれはあなたが考えるよりも巨大だ。」ポール・シス博士、マクドネル・ダグラス専門技術者。

 

「どんな活動が行われていようとも、それが秘密の、準政府的な、準民間のグループである限り、私が知る範囲では政府によるどのような種類の監視も伴わない。これこそが大きな懸念なのだ。」エドガー・ミッチェル、宇宙飛行士。

 

など、軍需産業や、石油会社、そして一部のエリートなどによって構成されるこの「組織らしきもの」はまず我々の眼の前に現れてくるとこがありませんが、アメリカの政府組織など、法の網をかいくぐって使い、自分達の都合よく利用しているとしています。

 

「彼らは完全な統制力を持っている。彼らは今起きていることを大統領に知らせる。すると大統領はそれを認可するか、単に’やってくれ’と言うだけだ。彼らは完全な統制力を持っている。彼等に議会の監視はまったく及ばない。彼らは誰に対しても答えない、米国大統領以外には。しかし、私が理解したところでは、その大統領さえも締め出そうとしている。

 

大統領は、もはやこれらのグループに対してそれほどの統制力を持たない。それはまるで別の組織だ。彼らはどのように資金を得ているのか。私にはそれを知るすべがない。」A・H、ボーイング・エアロスペース社。

 

(2)について、この本の中で、あまりETについての細かい説明はありません。ただ証言をしているほとんどの人たちが、ETの技術はかなり前から存在しているといい、少なくともそれは1950年代から秘密にされてきたといいます。

 

そして多くの場合、ETは人類に対して友好的であり、むしろ我々を援助したがっているといいます。そしてそれを隠し、彼らと敵対しようとしているのが、先の「組織」だとしています。

 

中々この辺りは理解が難しいところです。ET自体どのような形で存在しているか、というような表現はこの本の中にありません。ただ一ついえることは、よくいう「リトルグレイ」という宇宙人の代名詞のような存在がおそらくは宇宙人でなく、何かしらのクローンである可能性が高いということをこの本は指摘しているということです。

 

以下は有名な「ロズウェル」に墜落した、UFOに乗っていたとされる、「人型」の生命体についての記述です。

 

「私の友人は自分の眼で異星人の遺体を見ていた。彼らは黒いアーモンドの形をした目を持っていた。やや大きな頭部―――人間の頭部よりも少し大きかった。身長はほぼ9歳くらいの子供の大きさだった。彼らには4本の指があった。親指はなかった。彼らはすべて一つの鋳型から出てきたようだった。なぜなら、彼らはすべて同じに見えたからだ。口はただの小さな細長い切れ目だった。

 

彼らにはちゃんとした耳があったが、頭髪はなく、その姿はとても異様に見えた。彼の頭に浮かんだのは、彼らはおそらく遺伝子操作によってつくられたのでないかということだった。」A・H、ボーイング・エアロスペース社。

 

「(ETの)頭部は実際にはそんなに大きくなかった。しかしその小さな身体に比べたら大きく見えた。その後、私は検死解剖報告書を1961年にウォルターリード病院から入手した。外部技術部の責任者をしていたときだ。私はそこからすべてにを繋ぎ合わせる作業を開始した。身体内部の性質は、その検視解剖報告書に書かれていた。彼らは検死解剖を行い、脳とすべての部分を切開した。脳は変わっていた。身体の大部分も変わっていた―――鼻はなし、口もなし、耳もなし。声帯はも消化器官も、生殖器官もなかった。だから我々が到達した結論は、それが人間の形をしたクローン(複製生物)だというものだった。」フィリップ・J・コーソ・シニア、米国陸軍大佐。

 

上の2つの記述だと、耳があるとか、ないとか、若干の相違点などはあります。以前書いたアニー・ジェイコブセンなども遺伝子操作の可能性を書いてましたので、彼らが実際に存在するのなら、その線はあり得そうな気がしました。

 

では本物の宇宙人とは何か、ということはこの本にはほとんど書いてありません。ですので自分も特にイメージを持ちえませんでした。しかし、証言者のほとんどが宇宙人自体の存在を認めているようです。

 

(3)について、この書物は沢山のページを割いています。

 

ナチスのUFO技術、ETの技術の逆行分析、また、二コラ・テスラ(1856-1943)などによる先端技術などが彼らによって隠匿され、彼らの占有とされているとしています。エジソンなどと並んで紹介される発明家のニコラ・テスラですが、彼は無料で巨大なエネルギーを世界に送信しようとしていたといいます。これは現在の化石燃料や、原子力に頼らずとも得られるエネルギーであったといいます。

 

二コラ・テスラによってフリー・エネルギーは実現していたということです。これによって起こるエネルギー革命は資本家たちにとって脅威であったわけです。

 

セルビア人の科学者、二コラ・テスラは現在マッド・サイエンティスト代名詞というべき存在ですが、その頭脳はおそらくエジソン以上だったでしょう。送電網で、エジソンの提唱した直流電流でなく、交流電流が使われるようになったのは彼の業績です。

 

そのテスラが考えていたフリー・エネルギーについての記述がありますので、引用します。

 

 

「彼がロングアイランド(ニューヨーク州)に持っていた巨大な送信機は、基本的にオーバーユニティー・システムの一つだった。その装置は地球を丸ごと共鳴させるものだったらしい。地球の地殻はきわめて非線形性の強い物質でできているため、位相共役が起きる。最終的にそれが行うことはこうだ:彼が地球内部にエネルギーを送信すると、送信派にエネルギーが供給され始める。彼はこの共鳴効果により、送信したよりも遥かに多くのエネルギーを得ることができる。そのエネルギーは外部、つまり地球内部の環境から供給される。テスラがとてつもないエネルギー波を受信したのはそういう仕組みだ。世界中どこにいてもそのエネルギー源に蛇口を取り付け、無料でそれを取り出す。それがテスラの考えだった。

 

もちろん、J・P・モーガン(テスラに資金を提供した資本家)の考えは違っていた:それにメーターを取り付けられないのは馬鹿げている。テスラの命運が大きく変わったのは、彼の意図が無料エネルギーの生産にあることをモーガンが知ったときだ。中心位置では少し費用がかかるが、それ以外の場所では誰でも無料でそれを取り出すことができた。それで今日の世界を全て賄うことはできなかっただろうが、当時の世界の大部分を賄うことはできただろう。」トーマス・E・ビールデン、米国陸軍中佐。

 

 

テスラがJ・P・モーガン(ユダヤ財閥の一つといわれます)の支援を受けて立てたフリー・エネルギー用の鉄塔の写真です。その後、J・Pモーガンによって破壊されたといわれています。

 

 

UFOの動力などについての記述もありますが、自分には中々理解し難い部分ではあります。

 

「ブラッドによれば、ノートン空軍基地のこの展示会で、ある三つ星将軍がこう言ったという。これらの円盤は光速かそれ以上の速度を出すことができる。言い忘れたが、最大の円盤は直径が約120フィートから130フィートあった。つまりそれは重いということだ―――まさに巨大物体だ。

 

・・・(中略)・・・

 

この複製された異星人の輸送機(Alian Reproduction Vehicle)、フラックス・ライナー(Flux Liner)は、それを何か電子的な方法で行う仕組みを持っている。さて、ブラッドはこの中央の円柱が一種の真空室を持っていると述べた。この真空室は、こうしたすべての科学者たちが自ら製作したオーバーユニティー(over-unity)やフリーエネルギー装置の中で述べているものの一つだ。これらの装置のすべてに、ある種の真空管、真空技術が使われている。」マーク・キャドリッシュ、米国空軍。

 

あまり技術的なことは分からなかったのでこれぐらいにしておきます。

 

<宇宙軍のこと>

 

先日トランプ大統領が「宇宙軍」の創設を宣言しました。詳細は不明のままです。衛星軌道上から、地上に巨大な金属を打ち落とす、「神の杖」などという兵器の存在がとりざたされています。ところが、ディスクロージャーによると、「宇宙軍」自体、1970年代からその計画が進められており、最終的にETと敵対することが目的とされていたといいます。

 

 

この辺は錯綜していてよく分かりませんが、有名なフォン・ブラウンはこのことについて何か知っていたようです。

 

宇宙ロケットの父、ウェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)はナチスからアメリカへと連れ出され、そこで人類の月面着陸成功に貢献しました。その有名なフォン・ブラウンの晩年の代弁者である、キャロル・ロジン博士は次のように述べています。

 

「ウェルナー・フォン・ブラウンが教えた戦略では、まずロシアが敵とされた。1974年には実際に彼らは敵、認定された敵だった。私たちは、彼らが‘キラー衛星(衛星攻撃用兵器)を持っていると教えられた――彼らは’共産党員’だからだ。

 

次にテロリストが敵と見なされ、これはすぐに現実化した。私たちはテロについて多くを耳にした。次に第三世界の国が‘過激派‘とされた。今私たちは彼らを懸念ある国々と呼んでいる。しかし彼が言うには、それは宇宙に兵器を建造する上での第三の敵ということだった。

 

次の敵は小惑星だった。ここまで話したとき、彼はクスクスと笑った小惑星―――小惑星を相手に私たちは宇宙に兵器を建造しようとしているのだ。

 

そして馬鹿げたことの最たるものは、彼が異星人と呼んだ地球外知性体だった。それが最終的な脅しになった私が彼を知り、彼のために演説をしていた4年間に繰り返し繰り返し、彼はこの最後のカードのことを話題にしていた‘覚えておきなさいキャロル。最後のカードは異星人だ。我々は異星人に対抗するために宇宙に兵器を建造することになりそうだ。そしてそのすべては大嘘なのだ

 

この「大嘘」の意味は何なんでしょうか?宇宙人はいない、ということでしょうか、それともETは友好的なのに、それを敵とするという嘘でしょうか?おそらくは後者だと思われます。

 

「彼が語ったのはその策略は加速されているということだった彼はそのスケジュールを述べなかったが誰もが想像できないほどの速度で進んでいると言った。宇宙に兵器を持ち込む策略は、嘘の上に立っていただけでない人々がそれに気づく前に建設を終えることが意図されていた

 

・・・(中略)・・・

 

ウェルナー・フォン・ブラウンが地球外知性体問題について知っていたことについては疑いない。兵器が宇宙に持ち込まれる理由、これらの兵器を建設して迎え撃つ敵、これらがすべて嘘だということを彼は説明した。地球外知性体が最終的な敵と見なされ、それに対して宇宙兵器が建造される。このことがすでに1974年に画策されていたと彼は述べた。これをはなしたときの様子から彼が何かあまりに恐ろしくて口にできないことを知っていたと私は確信している。」

 

そして、この宇宙軍の創設のために彼らがどこから予算を得たか、ということになります。

 

「私は1977年にフェアチャイルド社のある会議室で開かれた会合に出席していた。その部屋は戦略室(War Room)と呼ばれていた。そこでは壁に敵、敵と認定された名前と共に、多くの図表が張ってあった他にもまだ扱いのはっきりしていない対象の名前、サダム・フセインとかカダフィなどの名前もあったしかし私たちはそのとき、テロリスト、潜在的なテロリストについて話し合っていたそれまで誰もこれについて話したことはなかったが、これは宇宙兵器を建造するために必要な、ロシアの次の敵だった

 

・・・(中略)・・・

 

彼らは会議を続けたがそれはこれらの敵を怒らす方法、そしてある時点で湾岸に戦争、つまり湾岸戦争を起こすことに関するものだった。これは1977年、1977年の話だ!彼らは湾岸地域に戦争を起こすことを話し合っていたが、このときまだそれとは確定されてなかった宇宙兵器計画には250億ドルの予算があった少なくともそれは防衛戦略構想(SDI)(1983年レーガン大統領により提唱された)と呼ばれていなかった

 

さらに彼女は続けます。

 

「1990年頃だったが、私は居間に座って宇宙兵器の研究開発に使用された資金のデータを眺めていた。そして、それがあの数字、約250億ドルに達していたことを知った。私は夫にいった。‘私は今何もしていない私は今何もしないで座ってCNNテレビを見ている。戦争を起きるのをただ待っているのよ‘夫はこういった‘君はとうとう頭がおかしくなったな。どうかしてるよ‘友人たちはこう言った。‘今度だけは君は度を越している。湾岸に戦争が起きる気配がないし、誰もそんなことは話していない。‘

 

私は言った。‘湾岸に戦争が起きることになっているのよ私はここに座って、ただそれが起きるのを待っているんだわ‘そして、それはまさにスケジュール通りに起きた。

 

湾岸での戦争ゲームの一部として国民は米国がロシア製スカッドミサイルの迎撃に成功したと教えられた私たちはその成功に基づき、新しい予算を正当化しようとしていた。しかし、次世代兵器のための予算が承認された後で、私たちはそれが嘘だったと知った。事実はそういうことだった。私たちが教えられたようにはその迎撃に成功していなかった。それはすべて嘘だったもっと多くの金をその予算に盛り込み、もっと多くの兵器を製造するためだった。」

 

彼女はロシアのキラー衛星が嘘であることも確かめたそうです。

 

以前も書きましたがアメリカがテロとの戦いで使った予算は、第一次世界大戦と第二次世界大戦で使った額を合わせたものよりも、多いといいます軍産複合体に大量の資金が流れ込んだ可能性があるわけです。

 

わざわざ大量破壊兵器の存在をでっちあげてでも戦争を起こした理由は、この宇宙軍の創設にあった可能性があったかもしれません(これは第一次湾岸戦争の話ではありませんが)。

 

 

しかしこうした陰謀がありうるという可能性はこれらの証言を見てくると、笑って済ませない気がしてきます。

 

この人々は一般大衆を自らの支配下に置きたいがため、高度な技術や存在をふせておこうとしているように思えます。我々には化石燃料やら、扱いにくい原子力に頼らせておいて、その程度を下げようとしているのでしょうか。彼ら一部の人々は、人類を隷属させ、宇宙からは地球を我がものとしようとしている、というようなことなんでしょうか?にわかには信じがたいことではあります。

 

ユダヤ人による世界支配の計画を書いたといわれる書物、「シオン長老の議定書」には次のようにあります

 

「我々に使へるのは、あらゆる主義主張の人々であって王政を建設しやうとする連中、扇動政治家、社会主義者、共産主義者、諸種の空想家等である。我々は我々の利益のために、彼等すべてに皆軛をかけておいた。彼等の各人は夫々自分の場所にあって、国家権力の最後の支柱を倒し、既存の法、秩序を倒壊せしめやうとしてゐる。」

 

今我々一般市民は喧騒の巷にいます。

 

足りない技術力だけでは我々の問題は簡単に解決しないかもしれません。そこにあるのは無秩序な動乱だけとなりかねません。グリア博士はこの本に記されているような技術が公にされるだけでも環境問題を含め、多くの人類の問題が解決されるだろうといっています

 

多くの問題がここに横たわっている気がします。自分も昔は宇宙人の話などもそれほど信じてはいませんでした。しかし、オカルト系の書物でもこの本のようにかなり真面目なものもあって、それを読むと、全ては嘘ではないと思うようになりました。色んな情報を集めてくると、細部の差こそありますが、大筋では辻褄が合ってくることが多いからです。

 

非常に残念ではありますけども。

 

 

 

最後にJ・F・ケネディ(1917-1963)が暗殺された際、胸のポケットに血染めのメモが入っていたといいます。それを紹介して終わりにします。この内容はこの本の中にはありません。自分は噂話程度で知ったにすぎませんが・・・。このメモが本物だというのならば、彼はグリア博士の暴露しようとしている一群の人々の存在を知っていたのだといえるでしょう。

 

グリア博士の本を読んでから、このメモを読むと、彼が暗殺されたのも腑に落ちる部分があります。

 

 

アメリカの皆さん、世界の皆さん。

 
人類の幼年期は終わり、もう1つの新しい時代が始まろうとしています。
 
この地球上の市民として我々は1人ではありません。
 
神は無限の知恵で他の存在、我々と同じ知的な生き物が主の宇宙に住むにふさわしいと考えました。
 
1947年、軍はニューメキシコの砂漠で未知の起源の航空機の残骸を回収しました。
 
科学は、この航空機が宇宙の彼方からきたものであることを確認しました。
 
この時から我々の政府は、その宇宙船の捜索者と連絡を取りました。
 
私はこれらの存在が我々に危害を加えないことを、皆さんの大統領として皆さんに約束します。
 
むしろ彼らは専制政治と貧困、病気、戦争というすべての人類の共通の敵に、

我が国が打ち勝つのを援助すると約束しています。
 
彼らは敵でなく友人です。彼らと共により良い世界を構築することができます。
 
来たるべき日と週と月に、皆さんはこれらの訪問客について、彼らがここにいる理由と、
 
我々のリーダーたちが長い間、彼らの存在を皆さんに秘密にしておいた理由を詳しく学ぶでしょう。
 
我々はすべての人類のために、この地球と皆さんの繁栄に関して、古くから言い伝えられてきた平和への展望を、我々のこの時代に成し遂げることができます。
 
ですから、みなさんどうか臆病ではなく、勇気を持って未来に目を向けるようお願いします。

神の御加護がありますように。

 

今回は退屈なことを書きます。交響曲4番のことです。誰の交響曲4番のことかといえば、ドミトリー・ショスタコービッチ(1906-1975)のことです。

 

ベートーヴェンのものでも、ブラームスやブルックナーのものでもありません。ショスタコービッチのものです。

 

決して心地良い音楽ではありません。('ω')ノ

 

聴いてる人はほとんどいないでしょう。好きで聴いている人は特異な人に違いないです。自分は、彼の作品の中でも難しい作品の一つだと考えています。

 

 

音源はそんなに持ってません。マリス・ヤンソンス、ルドルフ・バルシャイ、チョン・ミュンフン、アンドリス・ネルソンス。初演者のコンドラシンの物を探し続けましたが、欲しいものは手に入りませんでした。

 

 

この曲を1度聴いただけで、どんな曲なのか即座に分かる人がいるでしょうか?異常なまでのモティーフの多さと複雑さ。決して心地良くは無い不協和な響きの連続。

 

数回聴いてかろうじて思い出したのは、マーラーの第5番とか、あるいは7番のような分裂症気味の音楽。ところが、この曲は3つある各楽章のラストが静かな響きで終わるという異質さ。これはブラームスの3番に繋がる、「絶対音楽」としての自己完結性があるということでもあります。

 

ショスタコービッチがこの曲を作曲しているとき、ピアノの譜面台にはマーラーの交響曲7番のスコアが乗っていたといいますから、自分が感じた印象は必ずしも間違いないと思いました。確かに第3楽章を聴いているとマーラーの夜の歌のメロディーが聴こえてきます。

 

ではこの曲がマーラーと同じかといえば、それは違っていて、動機の在り方がマーラーのようにメロディーを主体にしたものでなく、ベートーヴェンのように細かく刻まれた動機群が使われているようにみえます。そこに耽美的な要素はないわけです。

 

これで聴いている者の印象は全く違ってしまいます。

 

ベートーヴェンやブラームス、あるいはマーラーなど、ここには西洋音楽の雄である、交響曲の一連の歴史が流れ込んでいて、想像を絶するような絶対音楽として仕上げられているのです。モティーフの多さは異常で、この作曲家の創作意欲の強さを感じさせます。通俗音楽のパロディーから、カルメンや、魔笛などの引用などまであるといわれますが、これらを全部聴きとることが自分にはできません。

 

1935年に彼は次のようにいったといいます。

 

「最近、私は自分の創作的クレドとなるような第4交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしている。」

 

ソヴィエト連邦は人工的な政治思想の産物であり、心のない、無機的な生活思想だったように思えます人間の心情や、生理現象よりもイデオロギーが優先されました。芸術はボリシェビキを翼賛せねばならず、それに外れることは許されることがありませんでした。それは、実際の「死」を意味することであったわけです。処刑にしろ、強制労働所にしろ・・・。

 

ソヴィエトにおいては西洋における「モダニズム」は形式主義として批判の対象とされました。そして、この曲を作曲中、上演されたショスタコービッチのオペラが「モダニズム」として批判されます当然この交響曲も西洋の交響曲の歴史を一身に受け継いでいるように見えるということはこの「形式主義」の批判を受ける可能性があった訳です。こうしてショスタコービッチはこの第4交響曲の公開を取りやめ有名な第5交響曲を書く羽目になるのです。

 

では、先に書いた、この作曲家における「創造的クレド」とは何だったのでしょうか?

 

この曲を聴く限り、自分は彼が、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク、ブルックナー、マーラーという一連の交響曲作曲家の天才の後を継ぎ、新しい交響曲の可能性を探ろうとしていたことだと考えています。これは本物の天才にしかできない事業であった訳ですがそれは共産主義のイデオロギーに潰されてしまったのだと思っています

 

後期の作品の方が深みがあるのは事実ですが、ここにある嵐のような強烈な内容と生命力はこの後の作品には見られません。作曲家の意欲の伝わってくる作品なのです。

 

 

この第4交響曲こそ、楽器編成は彼の作品中最大であり、作品中にはマーラーの音楽の持つ「憂鬱さ」を超えた「狂気」が乱舞し、それを冷徹に制御するショスタコービッチの尋常ではない精神力が、各楽章の結部の透明なコーダを呼び込んでいます

 

第1楽章は最も理解し難い音楽であり、溢れんばかりのモティーフが全く予測のつかぬ進行を見せながら人間の持つ「本物の狂気」の感情を渦巻いて進みます。途中2度ある強音部は人間の怪物性の咆哮そのものでしょう。

 

第2楽章はくすんだ色調のスケルツォ。これも心地良い音楽ではありませんですがコーダにおいて、有名な第15交響曲で再現される透明な美感の行進曲が現れますカスタネット、ウッドブロック、小太鼓によって刻まれるそのリズムは、この世から遊離したものといえ、とても美しいです。

 

フィナーレの第3楽章は第1楽章同様難しい音楽ですが聴きやすさは増していると思います。冒頭は陰鬱なラルゴで始まると曲想を変化させながらコラールを迎えますその後も複雑な進行を見せながら音楽は進みます。特に、自己のバレエからの引用を含む、7部の構成部の進行は3つのワルツ、あるいはギャロップを含み、緊張感と辛らつな印象を見せながら、推進力があり、個人的にこの曲の最も好きな部分です

 

当時のソヴィエトと正反対の政治思想を持つ、今時のアメリカのポップスを聴いていると、「異性にもてたい」とか「金持ちになりたい」とかいうメッセージを受け取ることは多いです。結局これらも「イデオロギー」が音楽に持ち込まれた結果なのかとは思っています現代は芸術家が「イデオロギー」を離れて創作することが難しい時代のように思えます。

 

ですがショスタコービッチはそうしたかったし、純粋にそうしようと思って書いたのがこの交響曲4番だったのでないのでしょうか。イデオロギーや泡沫的な思想に染まってしまった人に、このような音楽を理解することは容易ではないでしょう。

 

20世紀の偉大な音楽家はアルノルト・シェーンベルグ、イーゴル・ストラヴィンスキー、ベラ・バルトークの3人だといわれています。しかし音楽の深みにおいて、彼らはドミトリー・ショスタコービッチの作品に及んでいません。彼が第5交響曲を書いて以降、ソヴィエトの御用作曲家としてみられた時期もあったようですが、その根底には彼の純粋な芸術家としての魂があるように感じられ、その在り方は単なる御用作曲家であることを超えて、現在でも普遍のものであるように思われます。

 

グリモーのアルバム「メモリー」を聴いています。

 

最近、恥ずかしながらやっとSHM‐CDの良さを知り、一般の物より遅れて発売されたこちらを購入しました。音の粘着性と、密度が上がり、響きの輝きが増しています。

 

また、年内にはLPを聴けるようにしたいです。・・・億劫で動けてませんけども。('ω')ノ

 

指揮者のギュンター・ヴァントとか朝比奈隆が亡くなって以来、尊敬する音楽家がいなくなってしまいました。近頃、指揮者のネルソンスが好みになるかと思ってましたが、そろそろ飽き気味です。

 

そのネルソンスにしろ、また、ティーレマンなんかもですが、皆丁寧な指揮をしますね。その分、音はクリアで透明感が出るようになりました。ところが、そういう技術的なことが向上した反面、演奏が丁寧すぎて、退屈します。極端なことをいえば、楽曲の音符の、全ての音が聴こえてくるというか・・・。

 

聴く側は「待ち」になるんですね。一つの同じ音符の価値というのは本当に、全て同じなのでしょうか?音は並びの前後のシークエンスによって、実は弾くには弾くけども、流してしまうような場合もあっていいのでは?作曲家が「1」という音価を実は「0.8」とか、それこそ「0.9」とかで考えていたりはしないのだろうか、とか感じるときがあります。

 

作り手は、必要な音だから入れはしたものの・・・。

 

ところが最近の指揮者は音価が「1」なら、全部同じ音符は「1」という価値で演奏していないか・・・などと感じてしまいます。教育のせいでしょうか。全員がそうだとは思わないですが、そういう演奏は中々気持ちにフィットしません。マーラーなんかだったら、そういう演奏でも面白いかもしれないですけど。

 

音楽は片方で、物理的な響きのマシンであると同時に、その形而学上の意義は、人間の心にあると信じて疑いません。演奏家はその演奏の技術でもって、人間の心の補佐をすべきです。

 

 

そんな中、エレーヌ・グリモーは「尊敬」する、ということとは違いますが、この頃では唯一の好きな演奏家です。

 

正直、彼女の演奏した楽曲が「最高で、後世にまで残る名演」とかは思いません。ただ自分には不思議と、心から共感ができる演奏家で、存在自体が、個人的には・・・助かります。

 

落ち着き払った理性が彼女の根にはあると思いますが、その理知の上に鋭くも、柔らかい感受性で演奏をしています。感情に訴える演奏ではないですが、穏やかなイマジネーションがあります。

 

特に最近は、過去の作曲家と、まだ生存している音楽家の作品を複数組み合わせ、アルバム全体で一個のメッセージを伝えてきています。アルバム、「クレド」においては、ベートーヴェンとバッハと共に、ココリアーノとぺルトが並列に並べられています。信仰的な素材が、過去と現代を繋ぐので、現代に生きる我々にも訴える形があり得ます。

 

この「メモリー」は、ニティン・ソーニ―と共演した「ウォーター」から派生したものだそうです。「ウォーター」はリストやラヴェルなどの水に関する楽曲を、現代の音楽家、ソーニーのアンビエントで挟んでいく構成でした。「水」に関する感性が強調されたアルバムで、発売当初は自分は良く聴いていました。

 

今回は「記憶」に関するアルバムです。グリモー自身は「瞑想」という言葉を使っているようです。確かに「回顧的」な雰囲気のある曲ばかりですが、「瞑想」というより自分には、むしろ、「思索的」に聴こえて仕方ありませんでした。

 

1曲目は存命のウクライナの作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフによる「バガデル」。静かに、優し気に、回顧的に始まります。ただ、ほんの少しの緊張感を感じさせますそしてすぐにドビュッシーのアラベスク、1番が輝きをもって入ってきます。緊張感も解け、ヨーロッパの知性を感じさせる雰囲気を作り上げていきます。

 

初めは流しで聴いていたのですが、ドビュッシーの曲が4曲も挟まれているのに、気づきませんでした。自分が鈍いので仕方ないですがサティとショパンは気付いた分、妙な気分でした。全部で15曲ありますが、それぞれが違う作曲家が書いた作品を並べたとも思えないように自然に流れていきます。

 

ラストはニティン・ソーニ―の「ブリージング・ライト」で幾分感情的に終わります。

 

50分ほどの、音楽による「回顧的な思索の旅」です。

 

2017年の録音です。