今回は退屈なことを書きます。交響曲4番のことです。誰の交響曲4番のことかといえば、ドミトリー・ショスタコービッチ(1906-1975)のことです。
ベートーヴェンのものでも、ブラームスやブルックナーのものでもありません。ショスタコービッチのものです。
決して心地良い音楽ではありません。('ω')ノ
聴いてる人はほとんどいないでしょう。好きで聴いている人は特異な人に違いないです。自分は、彼の作品の中でも難しい作品の一つだと考えています。
音源はそんなに持ってません。マリス・ヤンソンス、ルドルフ・バルシャイ、チョン・ミュンフン、アンドリス・ネルソンス。初演者のコンドラシンの物を探し続けましたが、欲しいものは手に入りませんでした。
この曲を1度聴いただけで、どんな曲なのか即座に分かる人がいるでしょうか?異常なまでのモティーフの多さと複雑さ。決して心地良くは無い不協和な響きの連続。
数回聴いてかろうじて思い出したのは、マーラーの第5番とか、あるいは7番のような分裂症気味の音楽。ところが、この曲は3つある各楽章のラストが静かな響きで終わるという異質さ。これはブラームスの3番に繋がる、「絶対音楽」としての自己完結性があるということでもあります。
ショスタコービッチがこの曲を作曲しているとき、ピアノの譜面台にはマーラーの交響曲7番のスコアが乗っていたといいますから、自分が感じた印象は必ずしも間違いないと思いました。確かに第3楽章を聴いているとマーラーの夜の歌のメロディーが聴こえてきます。
ではこの曲がマーラーと同じかといえば、それは違っていて、動機の在り方がマーラーのようにメロディーを主体にしたものでなく、ベートーヴェンのように細かく刻まれた動機群が使われているようにみえます。そこに耽美的な要素はないわけです。
これで聴いている者の印象は全く違ってしまいます。
ベートーヴェンやブラームス、あるいはマーラーなど、ここには西洋音楽の雄である、交響曲の一連の歴史が流れ込んでいて、想像を絶するような絶対音楽として仕上げられているのです。モティーフの多さは異常で、この作曲家の創作意欲の強さを感じさせます。通俗音楽のパロディーから、カルメンや、魔笛などの引用などまであるといわれますが、これらを全部聴きとることが自分にはできません。
1935年に彼は次のようにいったといいます。
「最近、私は自分の創作的クレドとなるような第4交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしている。」
ソヴィエト連邦は人工的な政治思想の産物であり、心のない、無機的な生活思想だったように思えます。人間の心情や、生理現象よりもイデオロギーが優先されました。芸術はボリシェビキを翼賛せねばならず、それに外れることは許されることがありませんでした。それは、実際の「死」を意味することであったわけです。処刑にしろ、強制労働所にしろ・・・。
ソヴィエトにおいては西洋における「モダニズム」は形式主義として批判の対象とされました。そして、この曲を作曲中、上演されたショスタコービッチのオペラが「モダニズム」として批判されます。当然この交響曲も西洋の交響曲の歴史を一身に受け継いでいるように見えるということは、この「形式主義」の批判を受ける可能性があった訳です。こうしてショスタコービッチはこの第4交響曲の公開を取りやめ、有名な第5交響曲を書く羽目になるのです。
では、先に書いた、この作曲家における「創造的クレド」とは何だったのでしょうか?
この曲を聴く限り、自分は彼が、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク、ブルックナー、マーラーという一連の交響曲作曲家の天才の後を継ぎ、新しい交響曲の可能性を探ろうとしていたことだと考えています。これは本物の天才にしかできない事業であった訳ですが、それは共産主義のイデオロギーに潰されてしまったのだと思っています。
後期の作品の方が深みがあるのは事実ですが、ここにある嵐のような強烈な内容と生命力はこの後の作品には見られません。作曲家の意欲の伝わってくる作品なのです。
この第4交響曲こそ、楽器編成は彼の作品中最大であり、作品中にはマーラーの音楽の持つ「憂鬱さ」を超えた「狂気」が乱舞し、それを冷徹に制御するショスタコービッチの尋常ではない精神力が、各楽章の結部の透明なコーダを呼び込んでいます。
第1楽章は最も理解し難い音楽であり、溢れんばかりのモティーフが全く予測のつかぬ進行を見せながら、人間の持つ「本物の狂気」の感情を渦巻いて進みます。途中2度ある強音部は人間の怪物性の咆哮そのものでしょう。
第2楽章はくすんだ色調のスケルツォ。これも心地良い音楽ではありません。ですがコーダにおいて、有名な第15交響曲で再現される透明な美感の行進曲が現れます。カスタネット、ウッドブロック、小太鼓によって刻まれるそのリズムは、この世から遊離したものといえ、とても美しいです。
フィナーレの第3楽章は第1楽章同様難しい音楽ですが、聴きやすさは増していると思います。冒頭は陰鬱なラルゴで始まると、曲想を変化させながら、コラールを迎えます。その後も複雑な進行を見せながら音楽は進みます。特に、自己のバレエからの引用を含む、7部の構成部の進行は3つのワルツ、あるいはギャロップを含み、緊張感と辛らつな印象を見せながら、推進力があり、個人的にこの曲の最も好きな部分です。
当時のソヴィエトと正反対の政治思想を持つ、今時のアメリカのポップスを聴いていると、「異性にもてたい」とか「金持ちになりたい」とかいうメッセージを受け取ることは多いです。結局これらも「イデオロギー」が音楽に持ち込まれた結果なのかとは思っています。現代は芸術家が「イデオロギー」を離れて創作することが難しい時代のように思えます。
ですがショスタコービッチはそうしたかったし、純粋にそうしようと思って書いたのがこの交響曲4番だったのでないのでしょうか。イデオロギーや泡沫的な思想に染まってしまった人に、このような音楽を理解することは容易ではないでしょう。
20世紀の偉大な音楽家はアルノルト・シェーンベルグ、イーゴル・ストラヴィンスキー、ベラ・バルトークの3人だといわれています。しかし音楽の深みにおいて、彼らはドミトリー・ショスタコービッチの作品に及んでいません。彼が第5交響曲を書いて以降、ソヴィエトの御用作曲家としてみられた時期もあったようですが、その根底には彼の純粋な芸術家としての魂があるように感じられ、その在り方は単なる御用作曲家であることを超えて、現在でも普遍のものであるように思われます。



