メモリー |  ヒマジンノ国

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グリモーのアルバム「メモリー」を聴いています。

 

最近、恥ずかしながらやっとSHM‐CDの良さを知り、一般の物より遅れて発売されたこちらを購入しました。音の粘着性と、密度が上がり、響きの輝きが増しています。

 

また、年内にはLPを聴けるようにしたいです。・・・億劫で動けてませんけども。('ω')ノ

 

指揮者のギュンター・ヴァントとか朝比奈隆が亡くなって以来、尊敬する音楽家がいなくなってしまいました。近頃、指揮者のネルソンスが好みになるかと思ってましたが、そろそろ飽き気味です。

 

そのネルソンスにしろ、また、ティーレマンなんかもですが、皆丁寧な指揮をしますね。その分、音はクリアで透明感が出るようになりました。ところが、そういう技術的なことが向上した反面、演奏が丁寧すぎて、退屈します。極端なことをいえば、楽曲の音符の、全ての音が聴こえてくるというか・・・。

 

聴く側は「待ち」になるんですね。一つの同じ音符の価値というのは本当に、全て同じなのでしょうか?音は並びの前後のシークエンスによって、実は弾くには弾くけども、流してしまうような場合もあっていいのでは?作曲家が「1」という音価を実は「0.8」とか、それこそ「0.9」とかで考えていたりはしないのだろうか、とか感じるときがあります。

 

作り手は、必要な音だから入れはしたものの・・・。

 

ところが最近の指揮者は音価が「1」なら、全部同じ音符は「1」という価値で演奏していないか・・・などと感じてしまいます。教育のせいでしょうか。全員がそうだとは思わないですが、そういう演奏は中々気持ちにフィットしません。マーラーなんかだったら、そういう演奏でも面白いかもしれないですけど。

 

音楽は片方で、物理的な響きのマシンであると同時に、その形而学上の意義は、人間の心にあると信じて疑いません。演奏家はその演奏の技術でもって、人間の心の補佐をすべきです。

 

 

そんな中、エレーヌ・グリモーは「尊敬」する、ということとは違いますが、この頃では唯一の好きな演奏家です。

 

正直、彼女の演奏した楽曲が「最高で、後世にまで残る名演」とかは思いません。ただ自分には不思議と、心から共感ができる演奏家で、存在自体が、個人的には・・・助かります。

 

落ち着き払った理性が彼女の根にはあると思いますが、その理知の上に鋭くも、柔らかい感受性で演奏をしています。感情に訴える演奏ではないですが、穏やかなイマジネーションがあります。

 

特に最近は、過去の作曲家と、まだ生存している音楽家の作品を複数組み合わせ、アルバム全体で一個のメッセージを伝えてきています。アルバム、「クレド」においては、ベートーヴェンとバッハと共に、ココリアーノとぺルトが並列に並べられています。信仰的な素材が、過去と現代を繋ぐので、現代に生きる我々にも訴える形があり得ます。

 

この「メモリー」は、ニティン・ソーニ―と共演した「ウォーター」から派生したものだそうです。「ウォーター」はリストやラヴェルなどの水に関する楽曲を、現代の音楽家、ソーニーのアンビエントで挟んでいく構成でした。「水」に関する感性が強調されたアルバムで、発売当初は自分は良く聴いていました。

 

今回は「記憶」に関するアルバムです。グリモー自身は「瞑想」という言葉を使っているようです。確かに「回顧的」な雰囲気のある曲ばかりですが、「瞑想」というより自分には、むしろ、「思索的」に聴こえて仕方ありませんでした。

 

1曲目は存命のウクライナの作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフによる「バガデル」。静かに、優し気に、回顧的に始まります。ただ、ほんの少しの緊張感を感じさせますそしてすぐにドビュッシーのアラベスク、1番が輝きをもって入ってきます。緊張感も解け、ヨーロッパの知性を感じさせる雰囲気を作り上げていきます。

 

初めは流しで聴いていたのですが、ドビュッシーの曲が4曲も挟まれているのに、気づきませんでした。自分が鈍いので仕方ないですがサティとショパンは気付いた分、妙な気分でした。全部で15曲ありますが、それぞれが違う作曲家が書いた作品を並べたとも思えないように自然に流れていきます。

 

ラストはニティン・ソーニ―の「ブリージング・ライト」で幾分感情的に終わります。

 

50分ほどの、音楽による「回顧的な思索の旅」です。

 

2017年の録音です。