ヒマジンノ国 -47ページ目

 ヒマジンノ国

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カリブ海に興味があります。海の透明度が高いらしく、一度行ってみたいです。('ω')ノ

 

アニマル・プラネットでカリブ海の孤島、バハマの特集をしていました。この番組が良くって、サンゴ礁を含め、美しい映像が素晴らしかったです。
 

しかし、日本からキューバに辿りつくには、飛行機に20時間は乗るのかな。それを考えるだけで反対に嫌気もさしてしまいます。

 

20時間も座り続ければ、あなたのお尻は確実に死ぬでしょう。

 

 

キューバ出身のカミラ・カベロの音楽が売れているそうです。グループ活動をやめて、初めてのソロ・アルバムです。ポップ・アイコンなので、当然容姿が良く、そこも人気の秘密でしょう。しかし、彼女もアリアナ・グランデのようにただ可愛いだけではなく、歌も歌えるということが、人気の出る大事な条件なのかな、と。

 

 

 

 

自分としてはそんなに好きなアルバムではないですが、たまに聴きます。

 

グループ活動していた時よりも、ナチュラルになったということらしく、落ち着いた雰囲気の中に、中南米(現地をしならい自分にはこういう風にしかいえない('ω')ノ)の空気感が漂います。多分キューバ・・・?

 

確かに「HAVANA」のPVは面白くて、アルバムが出る前から良くヒット・チャートで流れてましたが、ミニドラマ仕立てのプチ・セクシーな映像です。これを観ていたので、アルバムを購入しました。世間の流行に相乗りしたわけではありません。

 

 

アメリカの恋人と故郷のキューバとの間で揺れ動く女心みたいな解釈であっているのかな?(映像でなく、歌詞の内容についてのコメントです)結構イカします。

 

去年もルイス・フォンシの「デスパシート」が流行ったように、ラテン系の情熱は特に凝ったことをしなくても、イカしますね。節回しがいいのかな?もっとも、カミラの場合は雰囲気重視かと思います。アルバム全体にキューバの熱帯夜を思わせるものがあります。

 

ということで、お尻を殺すことなく、キューバの雰囲気をつまみ食いですよ。

 

(ちなみに「バハマ」と「ハバナ」は違う場所です。「ハバナ」はキューバの首都です。)

 

 

ルービンシュタインによるピアノ・コンチェルト集(1952-1975)。

 

20世紀を代表するピアノの巨匠、アルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)によるピアノ・コンチェルト集です。ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、グリーグ、シューマン、チャイコフスキー、ラフマニノフなどの有名なコンチェルトがこのボックス1つに収められていて、中々贅沢です。

 

共演する指揮者は色々で、ヨーゼフ・クリップスから、オーマンディ、ラインスドルフ、ジュリーニ、バレンボイムなど、こちらを聴く楽しみもありますね。

 

録音も悪くなく、音色は、演奏のせいもあるんだと思いますが、味わいが濃く、曲によっては濃厚すぎるきらいもあります。

 

ブラームスの1番のコンチェルトなど、指揮者のラインスドルフ共々、楽器の音色を生かして濃厚、ルービンシュタインのたっぷりしたピアノと共に、十分な仕上がり、といって良いと思います。しかし、濃厚すぎる分、自分はこの1曲でお腹が一杯になりました。並録のグリーグまで聴き通せませんでした。

 

 

また、グリーグのコンチェルトの演奏自体も、ルービンシュタインは素晴らしいと思います。指揮者のウォーレンシュタインが少し雑なので残念ですね。

 

チャイコフスキーのラインスドルフは派手にやりすぎな気がします。ただ、ルービンシュタインはどの曲の演奏でも安定していて、魅力的です。

 

ベートーヴェンやラフマニノフも素晴らしい演奏だと思います。現代の演奏家のものと比べると時代を感じさせるものはありますが、演奏の豊かさは素晴らしく、ルービンシュタインの風格は格別です。聴きごたえのあるものばかりだと思います。

 

 

演奏のことはともかく、自分はグリーグとかチャイコフスキーのピアノ・コンチェルトが好きです。両作品とも北の国の作曲家による作品なんですが、チャイコフスキーの曲は、北国の冷たさに、煌めくような華やかさをまとわせて、華美で豪華な作品にしています。

 

それに比べると、ノルウェイのグリーグにはチャイコフスキーのような豪華さはありませんが、北欧に期待するような爽やかさが溢れていて、森林浴に浴するような美しさがあります。

 

評論家の吉田秀和氏が、グリーグのピアノ・コンチェルトはシューマンのそれの2番煎じといったことがありますがここでは、曲の構造ばかり見ていては、芸術の十分な評論にはならないと思います。曲の構造の論評が必要な場合も当然ありますけども。

 

ここにあるのは北欧の作曲家にしか書けない抒情性であって、それを聴き取ることがこうした作品を評価するには必要な素養だと思います。

 

そしてそこにある異国情緒を楽しめることがまた、一般聴衆の喜びであるとも、自分考えるわけです。

 

 

 

モーツアルトの音楽には美があります。その美は見てくれだけのものでなく、調和としての美であるようにも思われますね。

 

彼は貴族達の元で働いていたようですが、貴族にはなれませんでした。ただ残された音楽は貴族的な雰囲気があるようです。もっと貴族らしい音楽を探せば、ショパンとかリストとか・・・ラヴェルなんかもそんな感じがあるのかなあ・・・。ただ、モーツアルトは彼らほど気取ってなくて自然です。

 

しかし、子供とか女性的なものとか、そんな雰囲気を漂わせつつも、モーツアルトの音楽はどこまでも気品があるんですよね。不思議です。

 

 

フリードリヒ・グルダによるモーツアルト、ピアノソナタなど(1948-1982)。

 

最近は力こぶの入った音楽を避けることが多いですね。

 

歳のせいかな。疲れちゃいます。簡単に音楽を楽しむなら、モーツアルトぐらいが丁度良いです。

 

そういう意味ではやっとモーツアルトが理解できる歳になったのかしらん?

 

そんな中でも、自分はピアノ・ソナタがずっと理解できませんでした。すごく単純すぎる気もして。ただこのグルダの演奏を聴いて、美しいと思うようになりました。

 

グルダの演奏は、音の粒がそろって綺麗ですね。表現も明確で、きりっとしてます。

 

リリー・クラウスなんかの演奏だと、内容を抉る代わりに草書風で、ちょっと造形も崩れると思ってました。グルダはもっと楷書風ですが、音の角も立てません。輝きがありつつも、モーツアルトに必要なピアノの音色の真珠のような美感が出ていて、好きです。

 

 

トン・コープマンによるモーツアルト「レクイエム」(1989)。

 

いわずと知れたモーツアルトのレクイエムです。古楽器による演奏です。

 

格別な透明感が出ている演奏で、古楽器にしかできない演奏だと思います。合唱もノン・ヴィブラードで通し、徹頭徹尾、響きに濁りがありません。新鮮で、バロック以前の時代に戻ったような、不思議な美感が出ています。

 

透明感抜群の、研ぎ澄まされた演奏です。この音源を流すと、部屋中の空気が綺麗に浄化されたような気がします。

 

 

ジョン・エリオット・ガーディナーによる「モーツアルト・レコーディングス」(1984-1989)。

 

モーツアルトの交響曲とレクイエム、大ミサ曲などが含まれています。

 

これも古楽器による演奏です。古楽器は音が広がりすぎないので、聴く側もかなりライトに聴けますね。このボックスの中で好きなのは、29、31、33番などの交響曲です。これ等の曲などは有名でないわけでもありませんが、35番以降の交響曲に比べると、ちょっとばかり地味なイメージ。29番は始まりが繊細な華やかさがある分、好きな人も多いかもしれませんけども。

 

しかし、これ等の小曲ほど、自分にモーツアルトのロココ的な美感を感じさせてくれる曲はないです。今回は特に31番「パリ」が良かったです曲調は、どこか子供っぽいですが同時に貴族的でもあり装飾は過多です。その第1楽章の内面は、愉悦に溢れ、楽しさの限りだと思います。

 

モダン楽器による、ベームの演奏なんかだと、いくらか間延びしていたものが楽器の演奏にしたおかげで、きびきびとし、力強さが出たと思います。古楽器特有のアンティークな響きの美しさも、魅力に一役買っていると思うんですね。

 

 

エリック・ハイドシェックによるモーツアルト「ピアノ協奏曲選集」(1957-1961)。

 

20,21,23,24,25,27番を収録していますハイドシェックを聴くのは初めてです。リリー・クラウスなんかと同じく、20世紀の大ピアニスト、アルフレッド・コルトーの弟子なんだとか

 

聴いていると即興性とイマジネーションのある人のようですその辺は師匠のコルトーっぽいといっていいんでしょうか。

 

しかし、表現はグランドマナーな感じです指揮者のヴァンデルノートも新鮮な指揮をしています

 

まあまあかな?

 

 

うーん、快感です。モーツアルトの音楽の根底には、人間としての調和と愉悦とがあり、それを感じずにはいられません。

 

今日は涼しくて、過ごしやすかったです。秋ですね。天気は相変わらず定まらない様子ですが、じめじめはしてないし、風も気持ちいいです。

 

初夏の異常な暑さもすでに忘れてしまいそうです。夕暮れになると聴こえる虫の音も秋らしいです。

 

 

ストラヴィンスキーの宗教音楽を聴いています。

 

フィリップ・ヘルベッヘによるものです(2009)。イーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)は当時主流だった、ロマン派後期のワーグナー・ランゲージから脱却し、独自の在り方を成功させた作曲家です。当時としてはアヴァンギャルドな作風といって良いと思います。

 

近頃有名になりつつある彼の「詩篇交響曲」がこの録音のメインでしょう。確かに「詩篇交響曲」はストラヴィンスキーらしい音楽の効果があります。

 

しかし、個人的にはこの作品よりも、他に含まれた「ジェズアルドの記念碑」「ミサ曲」、「コラール変奏曲」が美しいと思います。

 

「ジェズアルドの記念碑」の中の、ジェズアルドは350年前のイタリアの作曲家です。この作品はそのマドリガーレからの引用を行って、ストラヴィンスキーが作曲したものです。また「ミサ曲」もロマン派風のもってりした内容でなく、アルス・ノヴァの時代を思わせる純度の高い作品で、甘く美しく響きます。そして、「コラール変奏曲」はバッハの作品からの引用です。

 

古楽の名家、フィリップ・ヘルベッヘによって、どの作品も清潔で透明感のある音楽になっていると思いました。そこには一種の危うさというか、近代的なストラヴィンスキーと、数百年も遡るような過去の作曲家の融合には不思議な雰囲気があります。

 

独特ですが、アーリー・ミュージックの味わいもあって、好きです。

 

個人的には雰囲気が良いと思って聴いています。

 

 

アルトゥール・ルービンシュタインによる、ショパンの「夜想曲」(1967)。

 

ルービンシュタインは20世紀のピアニストとして、ホロヴィッツとかコルトークラスになるんでしょうか。しかし、恥ずかしいことですが、自分はほとんど聴いてきませんでした。最近は今まで聴いてこなかった演奏家などの穴埋めをしたいと思っていて、ルービンシュタインを聴きました。

 

ルービンシュタインは急いでピアノを弾き切ってしまうようなタイプではなく、どっしりと構えて、たっぷりと豊かに弾いていくタイプのようです。風格と気品とが同居し、味わいも濃いと思いました過不足のないショパンです。

 

20世紀の、もう1人のショパン弾きであったアルフレッド・コルトーは、曲の、内容の「意味」を掘り起こすように演奏しましたが、ルービンシュタインはまるでショパンの楽譜という地図を、目の前に広げて見せるような、懐の広い演奏です。

 

ショパンの楽曲は揺れるような心持が、落ち着いた構造体をもって表現されている曲ばかりです。ゆっくりと解きほぐすようなルービンシュタインの演奏は人間の心理を解きほぐしていくことと同じような効果があると思います。

 

もっと簡単にいえば、「慰めがある」ということですけど。

 

ショパンの「夜想曲」全集はピリスあたりを持ってますが、あまりピンとこなかったので、当面このルービンシュタインの演奏を聴くつもりです

 

 

また似たようなことを書きますね。

 

アル・ゴアが「不都合な真実」を発表した時、その中身の資料が間違っているとかで、難癖をつけられました。しかし政治家というものは物事の大局を判断して、意志決定をするものではないのかと、自分には思えます。

 

日本では、防災省を作ろうとかいってますね。しかし災害は根から立たないと意味がないと思うんですが、一体どうするつもりなのだろうと、余計なことばかり考えてしまします。何か策はあるのでしょうか?

 

地震は防げないにしても温暖化などは手の打ちようもあったはずです。毎年災害だらけになったらどうするのでしょう。西日本豪雨に国は1000億ばかり出すそうですが、今後の災害については?こんなのいくらお金がっても足りません。寄付にも限界があると思います。防衛費ばりに災害対策費も出していく余裕などないと思います。

 

世界的に、政治家でもっと、地球環境改善を訴えていく人というのが出ないものでしょうか?安倍さんにしても繰り返し日本で災害があったのだから、意見を発信するチャンスだったように思えますが、しません。利己的に見えますね。本当に政治家というのは分かりません(もしすでに何かしら発言している政治家がいたら、スイマセンm(__)m)

 

日本の産業界も武器産業界に入りたいところも多いんだろうな、とか思います。アメリカにはジャパン・ハンドラーとかいう組織があるとかいいますが、安倍さん、反対などしづらいんでしょう。色んな「忖度」というものがあるのでしょうか。そういう部分を断ち切ったり、ちゃんと自分達の意見をいえるというのが政治家の力量というものだと思うんですが、今の安倍さんにあるとも思えません。当然「不都合な真実」である環境問題も自分の意見では発表などできないでしょう。他の国の政治家も大なり小なり同じかもしれませんけども。

 

金持ちとか、政治家は為政者であって、自分達のことしか考えてないような気がしてます。極右なども結局自分達が権力を握りたいだけで、「天皇」という言葉を利用しているように思えます。「自己愛」を「天皇」という言葉に頼って肯定してるだけでね。今時それはないよ、とか思いますけど。

 

彼らは甘いところにたかる虫みたなもので、反面、災害に遭うのは我々市民だし、そこに復興支援するといっても、出所は税金だったりします。

 

まあ、金持ちも税金は払いますし、災害にも遭うとはいえ・・・何だか市民は何かにつけ、恩恵もなく、取られるばっかりな気がするんですよね。違うかなあ。皆どんどん貧しくなっていくだけな気もしますね。

 

体操の塚原夫妻のことが批判されてます。話を聞いてますと、しっかりした人に見えます。今まででいえば常識人の範疇だったんでしょう。しかしよくよく見ていると、自分から謝るということがほとんどありませんね。各論では「間違ったことをした」、とはいいますが、総論では自分達は「正しい」という感じで、今回の件を主張してるようです。個人的には好きにはなれません。

 

最近は成功者でも生き方に問題があれば非難されるようになってきてます当然そうあるべですし、「成功」した分、「天狗」になっているんじゃないかという感じです「傲慢」ということでしょうか。所詮、皆同じ人間なのにね。

 

政治家もそう見えることが多いです「傲慢」ということは「自分の都合」に合わせて状況を見ているということなんでしょうただ「真実」はそうなると見えてきませんよね

 

ということで・・・今回も勝手な意見を書きました。えー・・・自分も色々見えてないこともありそうなんでこれぐらいにします。

 

 

 

カール・ベームの指揮したモーツアルトのレクイエムを聴いています。古典様式の中に気品のある劇性と壮麗な歌とで、鎮魂の意義を表現しています。

 

さて・・・あまり人を非難したり、自然現象を非難したい気もありません。気持ちのいく宛もない、というところです。

 

逆説的ですが、悲劇を美しく表現でき、それに同調できるなら、人は慰めを得ることが出来、心を汚さずに済みます。それは音楽の力であり、その尊い魅力だと信じています。

 

自然災害が多く、自分から特別いえるようなこともなく、またブログでも中々明るい話題を書きたいとは思えません。喪に服したいと思います。

 

明日は我が身ながら、皆様に平和な心持がおとずれるよう、祈りたいと思います。

 

安倍さんの自民党総裁3選が決まりそうです。その際は改憲発議を加速させるとのこと。

 

しかし野党は憲法改正の代案を表立って出してきませんが、ちょっと変ですよね。与党とグルだと思うぐらい。野党は「安倍さんやめろ」ということをさんざんいいます。お陰様で、安倍応援団は「安倍さん以外誰がいるんだ」の一点張り。別に安倍さんを応援したとて、苦情を出してもいいはずですが、何かそんな雰囲気は薄いです。野党も極端すぎるんですね。例えば、今は安倍さんが首相なんだから、とりあえず全面否定でなく、それなりの「提案」を出すとか・・・。日本人には2大政党制は向かないのかなあ・・・。

 

改憲案ももっと中道を守ったものが出てきて良いと思うんですが、出てこない。

 

自民党の改憲案プラス、安倍万歳応援団と、それを全面否定する野党とで、同じことの繰り返しです。また既成事実に弱い日本人は、どんどんやりたいことを続ける安倍自民党と野党を比べて見れば、野党なんかより、安倍よりになる人も多いだろうということで・・・。ほとんどマッチポンプ状態です。議論はもっと中間部がないとできないのに、まさに衆愚を絵にかいたような感じです。

 

安倍さんがこの前イスラエルに行った時、靴に料理が入って出てきたとかで話題になりました。あのイスラエル訪問もユダヤよりのトランプ大統領にいわれたから行ったという経緯があるようです。しかもその際、三菱重工の人達を連れて行ってるんですが、これもマスコミは報道しませんね。日本が武器の輸出の原則を変えた理由の1つに、ステルス戦闘機F35の部品のことがあったようです。

 

日本のF35の組み立ては三菱重工がやってるんですね。安倍さんが来てすぐにイスラエルは案の定F35を飛ばしてました。イスラエルと日本では無人攻撃機の共同開発の予定などもあるそうです。

 

中曽根元首相とか小泉元首相などはアメリカの大統領と仲が良かったですが、安倍さんも当初そういうのは狙っていたんでしょうか?そういう人は長い政権を築けますね。ただ、これ等の政権は日本を外国に売ってしまった要素があった訳ですが、安倍さんも危ないかな、て思っています。

 

安倍さんはアメリカの覚えもいいんでしょう。国内は右翼を押さえていて、政権も安定している。正直、極右の一部とアメリカ政権の日本担当部に何かしらの合意があるんじゃないかと思うぐらいです。それは国民の側を見てない、てことになりますがね。

 

まあ・・・良いけどね。悲観的なことばかり書いても仕方ないよ。ただまあ、そんな政治家も我々が選んだってことなので、責任は負わないといけないんでしょうけど。・・・ただ何だかすごくマヌケな気分です・・・。

 

今後も同じようなことを書きそうです。

 

パリ協定などを含む、脱炭素化社会を目指すのに逆行するものとして融資をしている日本の銀行が批判されました。また、2018年、地方の回転寿司6社が魚価の高騰などが理由で経営破綻に陥ったということです。

 

少し前ですが、ヨーロッパでも異常気象で、スペインでは45度を超える猛暑だったそうです。

 

先日、地球の温暖化を止めようと、日本の天才青年が空気から二酸化炭素だけを取り除く装置を開発したとかで、放映されてました。科学技術が地球温暖化を止める可能性はあるのかもしれないと思いました。

 

ただやはりそれでも問題の根本はそこにあるのではなく、今我々の作っている社会、そこに参加する人々の思想なり意志にあると思っています。

 

以下は2015年の記事ですが。

 

<(CNN) 世界の人口の1%の富裕層がもつ資産の総額は来年までに、残る99%の人口の資産を合わせた額と同程度になるという推計を、国際支援団体のオックスファムが19日に発表した。また、世界の富裕層上位80人の資産総額は、貧困層35億人の資産総額に匹敵するという。

 

今回の推計によると、1%の富裕層が握る資産が世界の富に占める割合は、2009年の44%から、14年は48%に増加した。このままのペースが続けば来年までには50%を超す見通し。
 
残る52%の富についても、人口の5分の1の比較的豊かな層が46%を握っていて、その他の層が握る割合は世界全体の資産のわずか5.5%にとどまる。
 
昨年の大人1人当たりの資産額は平均で3851ドル(約45万円)。これに対して富裕層の資産額は平均270万ドル(約3億円)だった。
 
スイス・ダボスで始まる世界経済フォーラムの年次総会で共同議長を務めるオックスファム幹部のウィニー・ビヤニマ氏は、各国の首脳に対して広がる格差問題への対応を呼びかける方針。「富裕層とそれ以外の層との格差は急速に拡大しつつある」「より公正で、より豊かな世界の妨げとなっている既得権者に立ち向かうべき時だ」と指摘している。>

 

このようなバランス感覚を欠いた人類全体の在りようが是正されない限り、温暖化が解決されても、また別の何かの問題が出てくると思われます。

 

振り返ってみれば「競争」だけしていればよいという「資本主義」、「分配」だけしていればいいという「共産主義」なんていう馬鹿馬鹿しい思想に我々は騙されてきたわけで、もうそろそろ反省すべき時のように思います。競争しても良いでしょうが、世界を破壊しない程度に私有財産の上限を決める、などの考えがあっても良いでしょう。

 

やはり本音をいうと、今地球全体で、もっとまともなコンセンサスを取れないのは、こうした「富裕層」が自分達の利益しか考えない生き方をしているからだと考えています。それこそ、経済力による「天井のない」、強いもの勝ちの社会です。そして、それがこの世界の規範だといわんばかりの様子で、その社会の中で暮らす人々もそれを真似ようとします。しかし、普通に考えて見れば、このような社会は、いずれは・・・「人類丸潰れの社会」といっても過言ではありません。

 

「競争して何が悪い」という気持ちがあるのでしょう。ただもうそれも現実に色んなほころびを見せ始めています。世界は一部の人たちだけの為にある訳ではないと思います。

 

本来1時的にでも今のような急進的な社会を一旦止めて、環境問題に徹底的に取り組んでみる、とかいう状況があっても良さそうなものです。そういうことを世界全体で取り組めば、人類全体で共有できる価値観が多いことに気付くこともできると思っています。現在の我々の社会は、科学技術などにしても一定のレベルにあると思いますし、仮に、利益ばっかり追求しない、もう少し大人しい社会になっても、一般の人々はそれほど不満をいうでしょうか。

 

1パーセントの人が世界中の富の50パーセントを握っているということは、残りの90パーセント以上の人々で残りの富を奪い合っているということです。そこでは過当競争があり、罵り合いがありますが、そんなことまでする必要が本当にあるのでしょうか?それを見て、先の1パーセントの人々は何も感じないのでしょうか?

 

ですから、スーパー富裕層というのですか、何となくそういった人々を称賛するような感じが世の中にはありますが、見方によっては、今後ですが、環境破壊などが進めば、そういう人々の在り方が、相当恥ずかしい生き方と見られる可能性もあると思います。

 

確かに「一概にどう」といえない側面もありますが、「競争して物持ちになることは素晴らしい」とかいわれても、何でもかんでも鵜呑みにできない世の中なので、その辺はちょっとおかしいとは思っています。何とかうまいこといいくるめられている気がしています。当然生活に必要な物は持たなければなりませんが、必要以上に、有り余るほど持つ場合は、それなりの哲学なりが必要です。他との競争に勝つために持つ、とかばかりでは世の中おかしくなっていきます。あるいは、他人を支配するためとか、などは理由としては厳しいでしょう

 

つまり、ほんの一部の人々のわがままに、その他多くの、我々が付き合わされている可能性がある、ということでしょうか。

 

地球上の生態系でも、草木や草食動物がいなければ、肉食動物も生きていくことができずに滅んでしまいます。同様に環境破壊が進めば、いずれ我々は生きていけなくなります。「科学が発達すれば、そんなことないよ」とか、いいだす人もいるんでしょうか。トルストイの「イワンの馬鹿」を思い出しますね。

 

残念ながらそれを支えてしまっているのは我々市民一人一人であり、彼らに飼いならされてしまった結果のようにもみえます

 

もっといえば・・・言葉は悪いですが・・・それこそ「洗脳」というところでしょうか。

 

ただこのまま環境が破壊され、我々の生活が脅かされるようなことになれば、パラダイムシフトの可能性も出てくるでしょう。いい加減自分達だけ良ければ良い、という生き方で通していると、結局自分に返ってくる、ということが自然の摂理なのは明らかで、それを何かうまいこと避けようとしても結局無駄ではないでしょうか。

 

我々のしてきたことの結果は徐々に出てくるでしょうから、反省すべき時に反省すべきだと自分は考えています。

 

今朝はアルド・チッコリーニの演奏で、アルベニスの「イベリア」(1966)を聴いていました。

 

4曲目の「ロンデーニャ」からラストの「エリターニャ」までの9曲です。以前、このチッコリーニの、56枚のボックスを途中まで聴いていたのですが、すっかり続きを聴くことを忘れていて、久しぶりに続きから聴きだしたところ、アルベニスの音楽が途中までになっていたのでした。

 

久しぶりにアルベニスのイベリアを聴きます。

 

スペインのアンダルシア地方の民族音楽が各曲に含まれていて、エキゾチックな雰囲気が楽しめました。熱帯の雰囲気がありますが、べたつかない、カラリとした涼し気な印象と、スペイン独特の民族的感情が混じり合います。長い曲ですが、落ち着いた孤独感とスペインの味わいを満喫できるという点では飽きません。

 

チッコリーニは決して大型のピアニストではないし、イベリアの演奏についても他に良いものがあるでしょう。

 

しかし、今朝は涼しかったので、彼のあっさりとして、全く嫌みのないピアニズムがアルベニスの音楽と合わさって、とても良い雰囲気でした。さっぱりとしながらも、エキゾチックな朝でした。

 

 

晩年のアバドはモーツアルトの演奏には古楽器を使ったりして、色々こだわっていました。確かにピリスと共演した、ピアノ・コンチェルト20番と27番のディスク(2011)などはその成果でしょう。カラフルでみずみずしい演奏です。ただ20番と27番だと、他方が短調で、もう1曲が白鳥の歌ともいわれる作品だけに、そこまでの色合いはいらないとも思えます。

 

個人的にはこのコンビだと、ヨーロッパ室内管弦楽団を用いた21番(1993)と、ウィーン・フィルを用いた26番(1990)が好みです。最近は録音が良くなって、モーツアルトの管弦楽の魅力が以前にもまして魅力的に聴こえるときがあります。ガーディナーの演奏などその好例で、モーツアルトがどれほど純粋な音楽を書いていたのか、見直すに充分なものがあります。

 

この26番の録音はウィーン・フィルを使っています。古楽器の演奏の時のような爽やかさは減退しますが、音楽を的確に表現するにはこちらの方が適しているようです。

 

ウィーン・フィルという伝統あるオーケストラを用い、グランドマナーで、音楽する喜びを感じさせる演奏です。ピアノのピリスも的確で華やかです。

 

オーケストラの弱音部にウィーン・フィルの音色が持つ、特有の懐かしさを感じます。

 

 

ポリーニによる、ショパンのエチュード集(1972)。高貴で品のある演奏です。良く整理され活動的な音楽です。

 

音楽がコンパクトに収まっていくがゆえに、内へ内へと綴られていく演奏です。テクニシャン特有の、強音部がキンキンいうところはあるにしろ、音色そのものは丸みがあり、ふくよかな美しさを感じさせるところが多々あると思います。

 

幾分しっとりはしているにせよ、その本質は煌めくような精神の持ち主でしょう。やや明るめのショパンであり、激しく動きのある音楽と詩的なパートとの描き分けが明確です。

 

実家の岐阜にしばらく戻っていました。気温が37度とか38度ありました。猛暑を通り越して、酷暑です。

 

 

 

写真にやたら日差しが入ります。

 

 

南の島より全然暑いです。

 

元気なのは子供ばかり。

 

 

 

元気過ぎて、狂ってます。暑さにやられている可能性はあります・・・。全然いうことは聞かないし。

 

 

暑すぎて墓参りも断念したのでした。

 

 

どうなっとんねん!