ヒマジンノ国 -48ページ目

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

 

お盆休みに入りました。

 

しかし・・・暑いです。どこまでも暑いです。どこにいても暑いです。うかつに街中に出られないです。ギリギリ早朝、涼しい?ような時間があるような・・・。

 

余裕があるときは朝から音楽を聴きます。どうせなら涼みたいので、涼しげな曲が良いですね~。

 

 

ピアノ、エレーヌ・グリモー。モーツァルト、ピアノ協奏曲23番(2011)。

___________________________________

 

モーツアルトのピアノ・コンチェルトが涼しいです。モーツアルトの書いた、カラフルで自然、さっぱりした管弦楽と、水の音を思わせるピアノの音が絡むので、爽やかな朝には最高だと思いますよ。

 

エレーヌ・グリモーのピアノの音色はいつもほど切れ味はないと思います。モーツアルトの音楽はピアノの音がキンキンすると駄目なので、少し押さえてるのかもしれないですね。管弦楽もそんなにこだわった演奏でなく、これぐらいだと楽に聴けて良いですね~。朝、何も考えずに聴いています。

 

 

ジョン・エリオット・ガーディナーと、マルコム・ビルソン(フォルテピアノ)によるモーツアルトのピアノ・コンチェルト集(1983-1988)。

_____________________________

 

モーツアルト存命時の楽器や演奏法にこだわったピアノ・コンチェルト集です。

 

グリモーの演奏よりずっと芸術的なものを目指しています。そこは朝聴くには若干堅苦しい気がしてます。しかしそれを考えても魅力なのは、演奏の美しさです。イングリッシュ・バロック・ソロイスツの奏でるアマデウスの管弦楽の夢見るような美しさは筆舌に尽くしがたく、最早天国の音楽です。フルートは本物の天使が吹いているに違いないんです。

 

カラフルな22番、23番あたりは色とりどりの花々が香る、天使たちの庭園そのもの。

 

これに比べると、モダーン楽器による演奏はブヨブヨ~。

 

 

アリアナ・グランデのベストアルバム。日本独自盤。

___________________________________

 

アリアナ・グランデの良さが良く分からなかったんですが、このベストアルバムのおかげで開眼。可愛いだけかと思ってました。

 

ノリが良くて涼し気、ただこちらは夜の涼しさかな。シュワシュワしたセクシーな音楽。確かに高音部のピアニッシモはマライヤを思わせます。何枚分のアルバムをまとめたのかは知りませんが初めから10曲目ぐらいまで聴いていて飽きないし、開放的で気持ちが良いです

 

アリアナの可愛さが倍増するアルバムです。

 

 

しかし・・・暑い。モルディブに戻りたいよ~。

_____________________________

_____________________________

 

 

涼し気な音楽からは離れます。

 

急に重い音楽で申し訳ないですが、最近、ショスタコービッチの交響曲11番「1905年」を良く聴いています。ロシアの帝政が翳りを見せ始めた、1905年の民衆弾圧を描いた標題音楽です。

 

1番身に迫るのは人々を帝政側が銃撃するシーンを描いた第2楽章。権力の暴力を音楽で描かせたら、ショスタコービッチの右に出る者はいません。描かれる虐殺シーンの、行進する軍隊の堂々とした姿に聴き手は異常な興奮を覚えますが、それは本来なら興奮すべき音楽であってはならないもの。そのグロテスクな行進は皮肉ですが、それは皮肉を超えて、軽蔑でもあります。

 

ショスタコービッチはこの曲と交響曲12番を書いたことで、共産党に推薦され入党します。これ等の音楽で、共産主義を礼賛したと思われたわけです。

 

そして・・・彼は泣いたのです。何故か?

 

うれし泣きなどではありません多くの友人が拷問され、殺された権力側にどうしてつきたいと思うでしょうか?この第2楽章のロシア軍の残虐さに、ソヴィエト共産党の残虐さを聴き取るのは自分だけではないでしょう。

 

 

マルセル・メイエの録音集(1925-1957)。

_____________________________

 

ジャン・コクトーやフランス6人組周辺で生きた伝説的女流ピアニスト、マルセル・メイエ(1897-1958)のスタジオ録音全集。旧EMIから出ていたボックスとほぼ同じ内容らしいです。実はEMIのボックスがずっとほしかったんですが、結局再販されずじまい。新品はネットで2万を超える値段ですし、ワーナーが再販しないようなので、観念してメルブランのボックスを購入しましたサンソン・フランソワのボックスもワーナーは再販しない気でしょうか?強く抗議したいです

 

シャブリエ、ラヴェル、ドビュッシー、バッハ、ラモー、スカルラッティ辺りが含まれています職人的ですが楽曲に対する優しい眼差しがあり、愛情が感じられます。表現は機械的なところがなく、洒落ています。

 

こういう演奏を聴いてしまうと今の演奏家は固いし、創造力が足りないように思えるところがあります。おそらく現代人は時間がないのではないでしょうか。メイエの演奏を聴いて、当時はまだまだ自由な時間があった時代ではなかったかと思えました。

 

現代人はこういうものを再び取り戻すべきです。寛容さがなければ世界は救われません。

 

法律が沢山ある国は良い国かどうか・・・。

 

法律の目的の1つに、問題を起こす人の行動を抑制させる目的があると思います。

 

他人の物を盗めば捕まるし、詐欺や殺人などを犯せば同様に逮捕されます。近年飲酒運転で被害に遭う人が増え、法律が整備され、償うべき罪の重さが改正されました。時代によって人の行いが変わり、それにつれて法律が修正されるのは良いことかもしれません。しかし事細かに法律を整備すれば決まりごとが増えすぎ、我々一般人の生活が不自由になっていきます。

 

法律が増える、ということは必ずしも良いことだといってしまっていいのか迷うところです。逆にいえば法律に抵触していなければ何をしていい、という発想になりかねません。

 

法律は現実世界の中で人間の行動を規制する最終手段の1つのように思えます。

 

例えば飲酒運転をするかどうかは結局本人の匙加減次第です。自分が車を運転しなければならないと思えば、ほとんどの人がお酒を事前に飲まないでしょう。こうしたことは人間の質の問題であり、道徳の問題ということになります。そういう意味からいえば、法律が多い国は自制のきかない人が多く、人間の質が低い可能性があります。

 

人間が「自ら」社会を壊さないように、仕向けた考えと行動規範が、「道徳」といっていいのかもしれません。

 

しかしこれも単純に行動規範だからといって、自分にルールのように課してしまっては法律の在り方とそう変わりませんから、人は根から自然にそういう行いができるように努力するものです。そこには思想や宗教なども関係してくるでしょう。

 

現代社会の中で問われていることがこの道徳の問題だと思います。自己陶冶といいますか、自分で自分をどうコントロールするかが現代社会のテーマになってきているように思えます。飲酒運転で人をひいてしまっては建設的なことは何1つありません。こうした簡単な自己統制ができるかできないかだけで、人は多くの時間と労力を失う必要はなくなるわけです。最近は道徳を欠いた犯罪が増えてきてるように思えますが、こうした犯罪がなければ人々はそのことの後始末のための労力や時間を、もっと別の建設的なことに使えるわけです。

 

現代社会はこの道徳を色んな局面で切り売りさせられる場面が多いと思います。自然災害が増えているようですが、これも自分達の利益と、自然環境を秤にかけた時、何方を取るかといわれれば、利益を取るからでしょう。しかし何故こうまでして利益に執着しなければいけないのか?多分多くの人が、社会がそうだから、とでもいうのだろうと思います。

 

自分も現代社会を否定するわけでもありませんし、そのすべてが駄目だというわけでもありません。しかし、現代のその「社会」そのものが持つ考えが相当に「道徳」に反しているように思えるのも、自分には事実です。「道徳の欠如」が現代社会の病理の1つではないでしょうか。

 

オウムのような危ない信仰団体に入信する人達にしても、事前にちゃんとした道徳観念があったなら、あそこまで新興宗教にのめり込んだかは疑問です。初めから入信しないか、あるいは、途中でおかしいと気づいた可能性もあると思います。現代社会にはない、その自分達の「道徳の規範」というか、そういうものを彼らが求めていた可能性があったような気がしています。

 

現代社会は当然自分達を自分で根っこから批判はしませんので、自分達を肯定します。しかし、先の言葉とはやや矛盾すると聞こえるかもしれませんが、昨今の社会問題や環境問題からもいえるのは、ちょっと過激にいうのならば、その「社会」の在り方が根本から間違っていたのではないかという可能性です。先日「因果応報」という言葉を使いましたが、人間社会が一定の水準に達し、その結果が出始めているのが今の人類社会だと自分は考えています。それもあまり良くない結果に転がろうとしているように思えるのです。

 

間違っていることを「正しい」といい続ければそれは「背徳」であって、偽善です。そしてその間違いに対して答える者がいないから新興宗教に入信するものがいるのだと思いますし、またそのような社会に疲れて犯罪を犯すものがいるのだと思います。

 

自分は革命を起こしたり、宗教を起こしたりしろ、という気は毛頭ありません。単純に我々は「自然環境が大事である」とか、「人の嫌がることはしない」とかいう考えを取り戻すべきではないでしょうか、ということがいいたいのです。こうした考えは自称進歩的な人たちから馬鹿にされて来ましたが、結局またここに戻ってくる他ないように思える考え方です。

 

革命とか、宗教とかで世の中が一時的に良くなることはあるようです。しかし社会を占めるのが大多数の一般人である以上、革命や宗教の英雄やカリスマが、どんなに頑張っても世の中は変わってこなかったのだと思います。結局は私達一般人が道徳や環境問題に興味を持ち、その絶対数が増えることで、初めて世の中が変わるのだと思います。

 

憲法で旧来の日本の道徳を取り戻そうとしている人達もいます。これ等も内容とやり方共々、問題が多すぎます。道徳は各自の自主性に頼るものだと思います。憲法や法律で明記してしまったものは道徳ではありえません。結局まず第1に考えなければいけないのは、私達が今ある普段の生活を普通に続けながら、自主的に今ある問題をどう考え、学ぶことか、ということではないのでしょうか?

 

偉い人達がそんなペースでは世の中は良くならない、とかいずれはいいだすかもしれません。そして残念ですが、それは真実かもしれません。

 

しかしながら、また何か急激に物事を変えても、結局一時しのぎになるだけで何も根本から変わらない気がします。

 

やはり、一般人がこれ等の問題にちゃんとした興味を持ち、そうした人たちが増え、じっくり考える社会をつくることが、時間はかかりますが、問題のより根本に近い解決法なのではないかということです。

 

アンドリス・ネルソンスによるショスタコービッチの交響曲全集の取り組みが続いています。明晰で曖昧さのない演奏です。激情による表現が好ましい4番よりも、標題音楽である11番が良いと思いました。

 

このごろ音楽を聴いても中々感動することがありません。クラシック音楽に対する興味は現在ショスタコービッチで何とか繋ぎとめている状況です。

 

 

マリス・ヤンソンスによるショスタコービッチの全集が最近の好みです。彼がどんな思いで作曲をしていたのか、評伝を読みながらレニングラード交響曲を聴いて、泣けて仕方ありませんでした。

 

 

キリル・コンドラシンによる演奏が良いというので探しますが、現在ほとんど廃盤で困ります。今は8番ぐらいしか手に入りません。

 

 

ヴァイオリン協奏曲の1番はあんまり面白くありませんでした。

 

 

最近自分のブログについて少し考えてみる機会がありました。

 

元々自分の考えをまとめるために始めたブログです。自分は一般の人と価値観が違うことが多いものですから、自分の意見をいえる場が少なくて、ブログを利用しようと思い立ったのです。

 

アクセス数のことなども考えたりしましたが、元来金集めや人集めで始めたブログではありませんので、そこにこだわるのも何だか馬鹿らしい気がしてやめました。何より、他人のことを考えすぎると自分の本当に考えている意見をいい難くなります。

 

是々非々で良いのではないかということですね。

 

とはいえ、他人さまのことを全然考えないわけではありませんし、また他のブログの悪口をいいたいわけではありません。他人との交流が増え、そのブログが支持を集めることは素晴らしいことです。ただ、それはそれ。

 

自分はもう一度自分のいいたいことをちゃんといっていきたいと考えるようになりました。その辺を覚悟してもう一度ブログを書いていきたいと考えています。

_____________________________

 

物事は因果応報です。物事の原因となることが先にあるから結果が生まれるわけです。現在起こっている気候の変動は、我々人類のせいだと考えるのが妥当です。これも私達が撒いた原因が結果となって表れてきたせいです。

 

自分は音楽を良く聴きますが、非常にざっくりというのなら、1950年ごろまではいわゆる「芸術」と呼ばれる作品が生み出されていました。「芸術」である、ということは美術的でありながら、我々人間の本質に関わる事象がその作品に含まれていたということです。しかしそれ以後、世界が商業化し、音楽が産業になるにつれて、多くの音楽が社会スタイルや、ファッションの宣伝に使われるだけの存在になってしまい、「芸術」は「娯楽」となり、価値観の逆転が起こりました。

 

これを多くの人々が「進化」と捉えたようですが、はっきりってしまえば・・・これは「嘘」です。

 

初めにいっておきますが、自分はたんに「芸術」と呼ばれる以外の音楽作品も好きですし、良く聴きます。

 

ですが、物事には順位があり、自然環境がなければ人間が存在できないように、まず自分たちで人間の本質を問うことが出来なければ、社会の在りようも娯楽もあり得ません。他人がお互いを激しく攻撃し合うようでは社会は成り立ちません。そのために「社会のルール」がありますが、その前には「道徳」があり、道徳の意義を知るためには「人間の意義」が問われなければなりません。

 

商業主義は自然よりも人間の「欲」が優先して良いと教え、「娯楽」が「芸術」だと教えました。しかしこれら全ては人間にとって「背信行為」であることを現代人は認識すべきです。これも間違っては困りますが「欲」や「娯楽」を否定するのではなく、物事には順位付けが必要であり、また同時に他のものでは代用がきかないということです。

 

偉いとか、「偉くない」とかいうことでなく、単に順位付けとしてです。

 

こうしたことは音楽のことだけでなく、あらゆる社会的な思想や考えに共通する事柄です。

 

本来の物事の順位付けが、次の時代も人類が快適に生きていきたいというのならば・・・必ず必要になります。これはとてもはっきりといえることです。その「背信行為」に手を染めない生き方が必要とされるのではないかということです。

 

こんなことを書いてもどうしようもないかもしれないですが。

 

現代は地層から年代を読み解く時代区分からいうと、「人新生(アントロポセン)」という時代区分に入ります。この言葉は実際に地層を調べてできた言葉ではなく、現代の人間の活動から見た地球の在り方から、2016年に新たに作られた言葉です。

 

大気中のCO2量の増加、海洋内のマイクロプラスチック量の増加、多くの河川での大量の淡水の利用と、ダムの建設。また人類の人口増加や、熱帯雨林の減少など、人間活動による地球上の変化が後々地層に現れるだろうから、ということになります。

 

今年モルディブに旅行に行きましたが、島にあるサンゴの群生地が死滅していました。普通に考えれば海水の温度の上昇からだと思います。同じ島の2016年の映像にはサンゴの群生地はまだ残っているので、ここ1、2年のことかと思います。

 

近年、日本でも自然災害が増えていると思います。先日の豪雨でも180人以上の人が亡くらられています。この調子だと今後さらに頻繁になっていく可能性もあるかと思います。災害対策に関する報道をワイドショーでやってましたが、毎年災害の規模が大きくなったりするのなら、事前にそれを予測するというのはナンセンスだと思います。

 

自然災害を元から無くすのなら、こうした自然環境の変化を元に戻すか、安定させるか、のような取り組みが本当は必要なんでしょう。ただ当然そんなに簡単には直るはずもありません。自然環境の変化の元が私達の実際の生活から始まっているのなら、私達の生活の改善が求められるからです。人類全体での同意など得られないでしょう。今の生活を修正しろ、といわれればキレる人がほとんどでしょう。京都議定書も有耶無耶にされてしまいましたし。

 

自然などに対する畏敬の念などが後退しているように思います。新しい世代はそのようなことが起こらないように、もっと別の考え方が必要になると思います。そうでなければ、水や食料の獲得が難しくなっていくことも目に見えて分かる様になっていくと思います。

 

科学が急激に発達して、我々が完全に地球の生態系から独立できるようになるかもしれないですが、だから自然を勝手気ままに扱ってもいい、というのは違うとも思えますね。やはり本当に必要なこととそうでなことの見極めができるような人達が育ってこないと、人類の次の時代は厳しいと思います。

大雨の災害に遭われた方々に、遺憾の念を表します。同時に、早い回復を祈願しています。m(__)m

__________________________________

 

ここ最近聴いたアルバムから良かったものを、書いておきます。

 

 

チャーリー・プースの「ヴォイスノーツ」。

 

最聴いたものではこれが一番良かったです。

 

若手で売り出し中の歌手です。アルバムとしては初めて聴きますが、MTV観ながら結構良いなあ、と思っていた人です。

 

とろけるような甘い声と、爽やかでなめらかなメロディーで、相当に洒落た内容ですね。「イケメン丸出し」の音楽が並んでいて、アップテンポの曲がなく、しっとりした清涼感で通しています。

 

アップテンポの曲がないので後半はだらけてしまうのが残念です。

 

 

ネーヨの「グッドマン」。

 

落ち着いたグルーヴ感と透明感のあるハーモニーは健在で、こちらもかなり爽やかなアルバムです。透明感のある響きにのって、割とシナを作らない曲が多く、大人な雰囲気もあると思いました。

 

ヘッドフォンで聴くと全然面白くなかったですが、スピーカーから流すと、透明感が溢れて美しいです。

 

 

ビービー・レクサの「エクスペクテイションズ」。

 

ビービー・レクサの本格的なアルバムです。以前ほどの切羽詰まった表現欲が消えて、かなり落ち着いてきた印象があります。クールでやるせない雰囲気に独特な熱い声がのります。どの曲も感情がこもってコブシが効き、聴かせるのはさすがだと思いました。

 

自分は以前ベベ・レクサの表記で記事を書いてましたが、最近はビービー・レクサの表記が増えてきたので過去記事も合わせて、表記を直しました。

 

 

マーティン・ギャリックスのアルバム。ベスト盤的なものとか。

 

有名なオランダのDJのベスト盤。単に電子音と打ち込みの音楽ばかりでなく、メジャーな歌手を迎えた楽曲が数曲含まれていて、それが魅力です。トロイ・シヴァン、デュア・リパ、ビービー・レクサ、アッシャーを迎えた曲は最高です。

 

 トロイ・シヴァン 

 

  デュア・リパ 

 

 アッシャー

 

ということなんですが・・・どのアルバムも恋愛の曲ばっかり(当たり前か)で、正直疲れました。皆、寂しいのか、ムラムラしてるのかのどちらかかな。若い人の曲ばかりですからね。オジサンの聴く曲じゃないかも~。

 

雰囲気重視で楽しませてもらってます。

 

映画を観てきました。今年に入って4本目ぐらいかな。個人的には怪獣映画とかSF映画みたいなお子様映画ばっかり観てます。いつまで経っても成長しないよ~。

 

まずはスター・ウォーズ・シリーズのスピン・オフ作品の「ハン・ソロ」。本国では大コケ、シリーズ初の赤字になる予定とか。でも自分は面白かったかな。本編のエピソード7・8よりか面白いです。

 

というか、本編シリーズを雑に作りすぎて、ちょっと観客に見放され始めてる気がしてますけど。そんな中で短いスパンでシリーズを出し続ければ批判も出ますかね。あんまりお客さんのことを考えてない感じです。ウーム。

 

それはともかく、この作品の内容はまあまあだと思いますね。

 

ハン・ソロのキャラが本来のイメージと離れてるとかいわれてるみたいです。まあでも、考えようによってはキャラのイメージは繋がらなくもないとは思いますけどね。甘い見方かな~。同シリーズのテレビアニメとの関係性もあるのかな。「反乱者たち」に出てきた奴が黒幕で出てきますね。こういうのは好きだけど、一般のファン向けではないから、分からないですよね。本編でも出てきたキャラですけどね。

 

続編ありきの内容ですが、赤字のせいでどうなるか分からないよ。しっかりしろ、スター・ウォーズ。

 

ついでに今年観た他の映画の内容も書いておきます。

 

 

「ピーター・ラビット」

 

ブラック・ジョークと人間とウサギのバトル満載のコメディ映画。

 

それなりに笑えました。なんでピーター・ラビットでこんな映画にしようと思ったのかは分かりませんけど。

 

爽快感のある映画ですね。後は・・・豚のキャラがむかつくとか、動物の毛並みのCGすごいな、という記憶ぐらいしか残ってないです。

 

良くいえば、何も考えずに観てられる映画です。

 

 

「ランペイジ」。

 

巨大化した生物が暴れまわるお馬鹿怪獣映画。それなりにちゃんとした内容にはなってます。

 

ラフな作りですが、怪獣映画を楽しんで作ってる感じはしました。批評とか何も考えず観れる内容としてはかなりノーマル(どういう意味!?)な部類かも。

 

ピーター・ラビット同様、難しいことは考えずに観ましょう。

 

 

「パシフィック・リム、アップライジング」。

 

今年観た内ではこれが1番ひどかったです。問題は脚本じゃないのかな~。大まかなプロットは悪くないと思いますが、登場人物のセリフが足りな過ぎると思いました。キャラがいつの間にか心変わりしていて、観てる側がおぎなわないといけないです。

 

1作目はちゃんとしてたのに~。映像はすごいんですけどね。

 

このアップライジング以外は今年の映画は割と面白かったです。

 

今年に入って、JR東村山駅前にある噴水にカモの親子が住み着きました。コガモが数匹いて、親ガモが育ててましたね。5、6羽いたかな~。

 

 

今は大きくなってその噴水に住み着いています。人々が足を止めて眺めます。ちょっと可愛いんですね。

 

 

しかし今日見ると、コガモが2羽増えてました。

 

 

また人がたかるカモ~。見に来て~。

 

ブラームスのことを書こうと思って、随分前に手を付けました。しかし個人的にはブラームス自体得意ではないものですから、全くといっていいほど筆が進みませんでした。

 

しかし、1年以上放っておいたと思いますが、そろそろ書いてしまわなければと思い、時間のあるうちに無理やりまとめました。

 

若い時は交響曲を中心に音楽を聴いていたものですから、当然ブラームスのものも聴いてきています。

 

彼には小品の名曲も沢山ありますが、基本は管弦楽の大曲の大家というイメージがあります。ですので、有名な数曲の大曲について自分の意見を述べています。足りないと思う部分は後々補筆していくつもりです。

 

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の音楽は玄人に愛されているように思われる。演奏家やクラシック音楽を聴きこんだものにとって彼は一種の権威であり、強調こそしないが、彼らの代弁者のように思われているふしがある。

 
セピア色の音楽の世界が秋の哀愁を思わせ、ロマンティックな内省的感情に満たされるような思い、というのが一般的なファンの反応というべきだろう。
 
彼の音楽は決して楽しいものではないから、滋味とか渋みとかがある程度は理解できるようにならないと、聴いていても理解そのものが難しい。
 
_____________________________
_____________________________
 
人は自分を鍛えるために苦痛の中に飛び込むときがある。あるいは、そういう状態にいなければならない状況に居合わせることがある。体を鍛えるのなら、体の能力を限界まで追い詰めるかもしれない。楽器を演奏するのなら、嫌というほどその楽器を繰り返し扱うのだろう。こうしたことが仕事になるのならなおさらだ。
 
どんなに「嫌だ」といってもやめることができないことになる。
 
本来、動物はそうした苦痛は嫌いなはずである。だが残念ながら人間に生まれてしまった我々は違う。本能以外のところであっても、生活がかかっていればやるしかない。一種の自虐的行為とも思える行為を我々はしなけらばならない時があるわけだ。
 
ブラームスの音楽は止むを得ずやらなければならないことへの肯定、そして美化とがある。ライヴァル関係にあった、ワーグナーの音楽は能動的な行為を行う者への活力と傲慢さへの肯定と美化だが、ブラームスの音楽はそれとは異なっている。
 
大人しい穏健な態度から導かれるのは、当人に課せられたノルマをこなす努力と、その報酬とである。自らが最大限に率先して動くわけではないから、その余った労力は工程への献身と正確さ、あるいは能率化に向けられることになるといって良いのかもしれない。
 
そして、そうした彼の性格は「絶対音楽」の守護者にこそ、ふさわしいものだったといえるだろう。
___________________________________
 
ブラームスの得意とした、交響曲。その交響曲は、作曲家を代表するようなモニュメンタルな作品であることが多い。しかし「作品がモニュメンタルであること」は作品に「標題的要素」を盛り込むことになりかねない。
 
実際、多くの大衆の眼を引きつける交響曲には「標題」や「ニックネーム」が付いている。
 
モーツアルトの「ジュピター」交響曲。ベートーヴェンの「田園」あるいは「英雄」交響曲。ベルリオーズの「幻想交響曲」、ドヴォルザークの「新世界」交響曲、マーラーの「復活」交響曲など・・・。
 
「絶対音楽」はしかし、外部の言葉、つまり「標題」や「ニックネーム」に頼ってはならないことがルールである。音楽はどこまでも音楽であり、音楽自身の語法で書いていなければならないからだ。言葉での解説が必要なものは決して「絶対音楽」ではないのである。
 
確かにベートーヴェンの「英雄」交響曲やモーツアルトの「ジュピター」交響曲は標題音楽ではない。しかしそこに「標題」や「ニックネーム」がついてしまう以上、人はその音楽語法の中から、「音楽以外」の何者かを読み取っている、ということになる(ブラームスが標題性を否定しているといっているのではない。彼の作品にも標題が付いているものもある)。
 
だから、より純粋に音楽の「絶対性」を目指すのなら、そうした「標題」や「ニックネーム」さえ不要、ということになるし、そうでなければならないのだ。
 
ブラームスの生きた時代、音楽の「絶対性」と「標題性」がしきりに議論された。ウィーン楽派時代にではこの点はまだはっきりと意識されず、未分化であったといえるだろう。しかし、ベートーヴェンが現れ、その音楽語法を徹底的に突き詰めた結果、音楽が表現できる範囲が拡大され、音楽が相当程度まで「言語」に迫れることを示した結果、音楽は「絶対化」のみならず、言語で描ける程度に物事が描けるのではないか、という「標題化」が意識されるようになったのである。そしてこれがロマン派の呼び水となっていった。
 
新しいものを好むワーグナー、リストらはその標題性を取り入れた「新ドイツ楽派」を提唱した。これは文学的なドラマを音楽で描く、あるいはオペラに対する新形式をもたらす音楽群であった。
 
しかし音楽の行く末を案じるブラームスはこの「新ドイツ楽派」を批判し、純粋に音楽を音楽語法のみで描くブラームス派を作り上げていった。
 
音楽で音楽以外のものを描こういう試みは「音楽」が「音楽のみ」で自立できないようになる可能性を有していた。ベルリオーズのように音楽で自分の「恋愛体験」を描いたとするとき、それで一番大切なのは彼自身の「恋愛体験」を描いたことなのか、あるいは「恋愛体験を音楽で描いたこと」なのか?という疑問が出る。
 
前者の場合何も音楽で描く必要などいるのだろうか。小説の方がふさわしい表現になるのではないか?もっと適切な語法が他のジャンルにあるのではないか?
 
何か物事を音楽で描く、という時、それは「音楽」が「音楽」であるべき特性が意識されなければならない。それがなければ「音楽」は「音楽」でないのであり、そこを外してしまうと「音楽」は「音楽」だけで存続することができなくなってしまうからである。
 
そして時代がワーグナー派に傾く中、音楽独自の存続を憂い、彼らと決別したのがブラームスだったのである。

 

音楽語法が音楽語法でのみ表現されなけらばならないのならば、音楽はより自己目的的な性格を持たねばならないことになる。

 

故に古典派の時代は新たな音楽体系に対する準備から完成に至る過渡期であった。

 
だが、古典派、もっというのならベートーヴェンが完成させた「音楽の絶対性」はロマン派に入りその応用として各自の表現力の拡大を求めていく形となった。
 
ここで重要になるのはベートーヴェンが行った音楽による「表現の完成度の高さ」である。
 
ベートーヴェンの出現によって「音楽」は「音楽」のみによって、つまり「音楽」自身で存在することを許されたのである。「音楽」は単に雰囲気を醸し出すだけの貴族の慰み物でなく、よりはっきりと「音楽」のみで「雰囲気」を超えた、「意図」を表現できるようになった。これにより「音楽」は人々がもっと真剣に対峙できる「芸術」となり、「音楽」そのものの独立を促した。
 
そしてまたベートーヴェンはより音楽表現の域を広げ、世俗的なものから超俗的な音楽までを書き、さらにいえば、単純に感情表現でなく「田園」シンフォニーのような描写性の高い作品までを書いた。
 
こうした試みがロマン派の天才達に受け継がれ、めいめいが思い思いにその目指すところによって、ベートーヴェンを受け継いでいったのだった。
___________________________________
___________________________________
 
その中でベルリオーズからリスト、ワーグナーに至る道は、超俗世性と描写性を合わせもった未来志向の音楽であり、より細部にこだわった、説明型の音楽となっていった。そして、当時の人々はこれらの音楽はまだ彼らが見たことのない、新しい音楽だと思った。
 
ベートーヴェンは次のようにいっている。
 
「描写は絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせだといえるであろう。詩の領域は描写という点では音楽の領域ほどに制約せられていない。その代わり音楽は他のさまざまの領土の中までも入り込んで遠く広がっている。人は音楽の王国へ容易には到達できない。」
 
ベートーヴェンは音楽の描写性に一定の距離を取ったが、ベルリオーズ達は違った。つまり高い描写性を保つ音楽はまだベートーヴェンが手を付けてない領域であり、そこを追求することが「新しい音楽」を作ることになると考えたのである。
 
しかし、である。音楽はベートーヴェンのいうように「目に見えぬ」芸術であるのだから、当然「描写」には向かない。
 
確かにR・シュトラウスの「アルプス交響曲」を聴けば、まばゆく輝く太陽、壮大なアルプスの光景、目の前を通りすぎて行く牛の群れが、目に見えるように描かれている。だが、この音楽を「初見」でそのように理解できる者は「音楽」のことをいくらか分かっている者でしかないだろう。なぜならそこには生きた人間の感情が少なく、いわば、状況を説明した音が並んでいるに過ぎなからだ。だからこれらの作品は、音楽というジャンルそのものを「初めて聴く」人々を獲得することができない、玄人達の音楽である。
 
<最初に人々はメロディーをその環境とともに創り出した。これが古典主義様式の意義である。やがて主題だけの創作(ヴァーグナー)、つづいて「環境」だけの創作(印象主義)が現れた。両者ともにもはや完全な自然に即応していない。シュトラウスの後期の交響的な作品、あるいはリストに見られる環境なしのメロディーは、メロディーの造形的な凝縮を抜きにした環境(ドビュッシーやレーガーにしばしば見られるような)が考えられないのと同様に、そもそも不可能なものである。>(W・フルトヴェングラー著「音楽ノート」、葦津丈夫訳)。
 
とは指揮者フルトヴェングラーの言葉である(この際の「環境」、という言葉は、その「土地そのもの」のことを示す言葉か。つまり、R・シュトラウスの環境なしの音楽というのは、ドイツ聴衆という環境なし、というぐらいの意味か。人間が感情的な理解を示すには凝縮の作用がいる。単に開放的な音楽には直接的な感情の流入がない)。
 
故にこれ等の音楽は「音楽のみで表現しうる」埒外の音楽である可能性が強まった、ということができる。音楽で絵画を描くことは本来不可能である。その「本来」の音楽の意義に頼ることが音楽の自律性を確保できる。
 
つまりそこには「状況の説明」、「ニックネーム(標題)」等を取り除いた音楽がなければならない。音楽は「リズム」、「感情」、「雰囲気」などのやや曖昧とした事柄の表現が「本来(本質的)」に許される芸術であり、その事柄の組み合わせが「本当」に「自律的」に音楽が「存在」できる状況を作ることができるのである。
 
果たして、ブラームスは「依存性」の音楽であるワーグナー、リストの路線に音楽の独立的存在の危機感を覚え、より自覚的に「絶対音楽」の創作に向き合っていったということができるだろう。
 
___________________________________
___________________________________
 
ブラームスはハンブルグの貧民窟に生を受け、作曲家シューマンによってその価値を見出されると、やがてはドイツ音楽の巨匠となっていた。その存在はバッハやベートーヴェンに比肩する存在として考えられている。
 
その作風は先に書いた通り、バッハからべートーヴェンにいたる、彼らが完成させた「絶対音楽」の語法をもとにして、「音楽」を聴いてのみ分かる「音楽」を書いた。その内容は深い思慮と堅実な書法に支えられ、複雑で奥行きのあるものとなっている。