ヨハネス・ブラームス1 |  ヒマジンノ国

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ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の音楽は玄人に愛されているように思われる。演奏家やクラシック音楽を聴きこんだものにとって彼は一種の権威であり、強調こそしないが、彼らの代弁者のように思われているふしがある。

 
セピア色の音楽の世界が秋の哀愁を思わせ、ロマンティックな内省的感情に満たされるような思い、というのが一般的なファンの反応というべきだろう。
 
彼の音楽は決して楽しいものではないから、滋味とか渋みとかがある程度は理解できるようにならないと、聴いていても理解そのものが難しい。
 
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人は自分を鍛えるために苦痛の中に飛び込むときがある。あるいは、そういう状態にいなければならない状況に居合わせることがある。体を鍛えるのなら、体の能力を限界まで追い詰めるかもしれない。楽器を演奏するのなら、嫌というほどその楽器を繰り返し扱うのだろう。こうしたことが仕事になるのならなおさらだ。
 
どんなに「嫌だ」といってもやめることができないことになる。
 
本来、動物はそうした苦痛は嫌いなはずである。だが残念ながら人間に生まれてしまった我々は違う。本能以外のところであっても、生活がかかっていればやるしかない。一種の自虐的行為とも思える行為を我々はしなけらばならない時があるわけだ。
 
ブラームスの音楽は止むを得ずやらなければならないことへの肯定、そして美化とがある。ライヴァル関係にあった、ワーグナーの音楽は能動的な行為を行う者への活力と傲慢さへの肯定と美化だが、ブラームスの音楽はそれとは異なっている。
 
大人しい穏健な態度から導かれるのは、当人に課せられたノルマをこなす努力と、その報酬とである。自らが最大限に率先して動くわけではないから、その余った労力は工程への献身と正確さ、あるいは能率化に向けられることになるといって良いのかもしれない。
 
そして、そうした彼の性格は「絶対音楽」の守護者にこそ、ふさわしいものだったといえるだろう。
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ブラームスの得意とした、交響曲。その交響曲は、作曲家を代表するようなモニュメンタルな作品であることが多い。しかし「作品がモニュメンタルであること」は作品に「標題的要素」を盛り込むことになりかねない。
 
実際、多くの大衆の眼を引きつける交響曲には「標題」や「ニックネーム」が付いている。
 
モーツアルトの「ジュピター」交響曲。ベートーヴェンの「田園」あるいは「英雄」交響曲。ベルリオーズの「幻想交響曲」、ドヴォルザークの「新世界」交響曲、マーラーの「復活」交響曲など・・・。
 
「絶対音楽」はしかし、外部の言葉、つまり「標題」や「ニックネーム」に頼ってはならないことがルールである。音楽はどこまでも音楽であり、音楽自身の語法で書いていなければならないからだ。言葉での解説が必要なものは決して「絶対音楽」ではないのである。
 
確かにベートーヴェンの「英雄」交響曲やモーツアルトの「ジュピター」交響曲は標題音楽ではない。しかしそこに「標題」や「ニックネーム」がついてしまう以上、人はその音楽語法の中から、「音楽以外」の何者かを読み取っている、ということになる(ブラームスが標題性を否定しているといっているのではない。彼の作品にも標題が付いているものもある)。
 
だから、より純粋に音楽の「絶対性」を目指すのなら、そうした「標題」や「ニックネーム」さえ不要、ということになるし、そうでなければならないのだ。
 
ブラームスの生きた時代、音楽の「絶対性」と「標題性」がしきりに議論された。ウィーン楽派時代にではこの点はまだはっきりと意識されず、未分化であったといえるだろう。しかし、ベートーヴェンが現れ、その音楽語法を徹底的に突き詰めた結果、音楽が表現できる範囲が拡大され、音楽が相当程度まで「言語」に迫れることを示した結果、音楽は「絶対化」のみならず、言語で描ける程度に物事が描けるのではないか、という「標題化」が意識されるようになったのである。そしてこれがロマン派の呼び水となっていった。
 
新しいものを好むワーグナー、リストらはその標題性を取り入れた「新ドイツ楽派」を提唱した。これは文学的なドラマを音楽で描く、あるいはオペラに対する新形式をもたらす音楽群であった。
 
しかし音楽の行く末を案じるブラームスはこの「新ドイツ楽派」を批判し、純粋に音楽を音楽語法のみで描くブラームス派を作り上げていった。
 
音楽で音楽以外のものを描こういう試みは「音楽」が「音楽のみ」で自立できないようになる可能性を有していた。ベルリオーズのように音楽で自分の「恋愛体験」を描いたとするとき、それで一番大切なのは彼自身の「恋愛体験」を描いたことなのか、あるいは「恋愛体験を音楽で描いたこと」なのか?という疑問が出る。
 
前者の場合何も音楽で描く必要などいるのだろうか。小説の方がふさわしい表現になるのではないか?もっと適切な語法が他のジャンルにあるのではないか?
 
何か物事を音楽で描く、という時、それは「音楽」が「音楽」であるべき特性が意識されなければならない。それがなければ「音楽」は「音楽」でないのであり、そこを外してしまうと「音楽」は「音楽」だけで存続することができなくなってしまうからである。
 
そして時代がワーグナー派に傾く中、音楽独自の存続を憂い、彼らと決別したのがブラームスだったのである。