ヒマジンノ国 -49ページ目

 ヒマジンノ国

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ブラームス、ピアノ協奏曲1番。ベルナルド・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。ピアノ、クラウディオ・アラウ(1969)。

 

愛聴しているディスク。瑞々しさが感じられる。ハイティンク、アラウ共々新鮮で魅力的な表現だと思う。

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<ピアノ協奏曲1番>

 
ブラームスが初めて完成させた大曲で、24歳の時に書かれた。若い時代の作品だけに、後年のブラームスとは違い、入念さが少し足りないと思われる。それ故、ブラームスの円熟した作品を好む人には好まれないかもしれない。
 
しかし個人的にはこの曲はブラームスの作品の中で好きなものの1つである。すでにブラームスらしいピアノの饒舌さは垣間見られはするが、その内容は本質的に伝統的なピアノ協奏曲であり、彼には珍しい爽やかさも見られる。特に第2楽章は美しく、雨上がりの、湿った草原に清涼な空気が漂っているような雰囲気が、我々の心を癒してくれる。
 
<交響曲について>
 
ブラームスの書いた曲は全部で4つである。その中でも交響曲1番は成立までに長い時間を要したことで知られている。
 
歴史的に交響曲の存在がクローズアップされ、作曲家としての最も重要な主張を盛り込むべきジャンルとして認識されるようになったのは、やはりベートーヴェンの存在が大きい。
 
ベートーヴェンは、交響曲としての音楽世界が、1個の自立した小宇宙であり、理性ある大人でさえも一聴しうるに足る作品群として、一般大衆に提示してきた。
 
さらに彼は作品の中に沸騰する感情と、尊大な自尊心を盛り込み、これが聴き手を感情を満たすことになる。このことはこの作曲家の成長過程で起こった、自己克服のための自発的な感情と観念の流露であり、必然的に必要とされたものとしてみることができる。こうして出来上がった作品は、彼以前の作品とは1時代を画したものとして存在するようになる。
 
しかし、翻ってみればこの作曲家における尊大な自尊心は、後の作曲家の傲慢心を刺激し、聴き手、あるいは作り手に必要以上の帰依と礼拝を求めていく結果となったといえる。そしてブラームスを困らせたのもこの点だといって良いだろう。
 
ブラームスは歴史上その名声を確たるものにした交響曲の作曲を人生の後半に行った。その数はたった4曲しかない。これは当時の作曲家の書いた交響曲の数の平均の半分ほどに過ぎない。しかしこの4曲が彼の名声を決定的にしたのである。それは音楽そのものの存在を尊重した作品たちである。
 
その作品たちを簡単に駆け足で見てみたい。
 
ブラームス、ドイツ・レクイエム。セルジュ・チェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1981)。
 
美しく繊細な合唱、そして第3曲に聴く濃厚なロマンティシズムは素晴らしい。チェリビダッケにだけ許された、個性的だが説得力のある名演。
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ブラームスは気難しい性格だが、尊大な自尊心を抱くような人物ではなく、もっと別のところにいる作曲家であった。交響曲に先立って発表された彼の管弦楽の大曲「ドイツ・レクイエム」は穏やかで優しい感情に包まれており、激情の様子がほとんどない。これはブラームスが無理をせずに書いた作品のように思える。これを聴く限り、ブラームスは本来ベートーヴェンよりはバッハに近い作曲家だったように思われる。
 
<第1交響曲>
 
果たして自ら課した厳しい内面への要求から、彼は20年のもの歳月をかけて43歳の時に交響曲1番を完成させた。慎重すぎる性格、そして完璧主義が同時に存在するブラームスにとって、このジャンルの創作は彼の人生にとって最も重要なことであった。その重圧は彼が第2の楽聖たるべきという、大衆からの期待にもよっていたように思える。
 
彼の生涯はそういったベートーヴェンの幻影との戦いだったともいえる。
 
ワーグナーの音楽は楽劇(オペラ)であるが、その在り方は、端的にいえば「発明型」の作曲家であった。しかし「発明」には真新しいアイデアがいる。それ故、ワーグナーの楽曲には新たな視点と技術が持ち込まれるが、ブラームスにおいてはそれがない。
 
反対にブラームスは、「発見型」といって良い作曲家だったろう。そのため、彼の第1番はベートーヴェンからシューベルト、シューマンに至る古典的な作曲の技法の歴史を1つにまとめたような内容になっている。特にこの曲の場合、「曲調」のアイデアは楽聖のものを引き継いだように思え、一種確信犯的な曲となっており、それが他の3曲とやや異なる雰囲気を醸し出している。
 
指揮者の朝比奈隆は第1楽章をベートーヴェンの第5の模倣といい、第4楽章についてはもういい尽くされたが、第9からの引用とも思えるような内容、あるいは人によってはシューベルトのハ短調との類似性を指摘する者がいる。
 
 
ブラームス、交響曲1番。シャルル・ミンシュ指揮パリ管弦楽団(1968)。
 
この曲の理想的な演奏だと思える。深い呼吸と切羽詰まった緊張感とが見事に解決されており、第1楽章は再現部において、背筋が伸びるような一本の筋が入る。
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しかしそれでもなお、中間の2つ章を聴く限りこれはロマン派の作品には違いない。スケルツォを排した間奏曲など、特にそうした感じを出す。
 
評論家の吉田秀和氏はブラームスのロマン派の作風について、次のように述べている。
 
「ブラームスの大規模楽曲の特徴の一つは、ロマン派がシューベルトからはじまって、抒情的なよくうたう旋律を主題にして、ベートーヴェンのあの見事に構成されたソナタ形式の作曲をやろうとしたことである。ところが、ベートーヴェンの主題は、これを小さな動機に分析して展開さすのに大変都合よく設定されていたのだから、よくうたう歌を特徴とする行き方は、そこに大きな問題があったわけである。だからシューベルトやシューマンらの交響曲には、ベートーヴェン流のあのたたみあげてゆく力動的構成感がない―――また別の長所はあったが―――。ブラームスはそこを解決しようとした。そうして『第1番』もそうだが、あすこではまだ、何というか完全に成熟しきらない青春のおりみたいな、力みかえった、堅苦しい悲愴感が残っていたが、『第2番』にいたって、それがもっと無理のない、明るくて、しかも強いものとして解決されている、と私は思う。」(吉田秀和著、「名曲300選」)。
 
ブラームス、交響曲1番。アルトゥール・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団(1951)。
 
ミンシュ以外ディスクなら個人的にトスカニーニの演奏を推す。エネルギッシュに歌うブラームスであり、激情がトスカニーニを通し生の感情で伝わってくる。高い使命感を持った熱演。
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さてもう1点この曲について書くのなら、ブラームスは曲の内容と形式との重要性を秤にかけた場合、彼は形式の方を取る、ということである。
 
グスタフ・マーラーの復活交響曲を考えてみてほしい。かの作曲家の書いた作品は、自らのいいたいことを「初めから終わりまで」徹底して述べなければならないような、一種の強迫観念とも取れる長大な内容を有している。特に第5楽章における、英雄の復活までの道のりは信じられないほど壮大であると同時に、異常なほどのしつこさを見せる。
 
同様に、マーラーには劣るとはいえ、ベートーヴェンもいいたいことはいい尽くさなねばならない性格であった。
 
徹底的に主題を展開させるエロイカの第1楽章、勝利の凱旋をこれでもかと表現する第5の第4楽章、そして管弦楽から声楽入りの巨大な音響体に生成していく第9のフィナーレ。ここにおいても歓喜のメロディーの繰り返しは徹底している。
 
しかしベートーヴェンにおいてはいいたいことを尽くしながらも、全体のバランスは計っている風がある。ただ「いいたいことをいい尽くす」ことにおいて、ベートーヴェンとマーラーの両者は合致している。
 
このマーラーとベートーヴェンとの傾向は、つまり作曲家における、内面の強烈な表現欲による。
 
ところがブラームスにおいては、確かに交響曲1番のフィナーレは彼にしてはしつこく、彼の交響曲の中で一番長い楽章にも関わらず、やや作為的な感じが残る。ベートーヴェンの第9は長大であり、フィナーレは若干この曲のバランスを崩しているようにもみえる。それに比べると、ブラームスの第1のフィナーレは決して曲のバランスを崩すようなスケールにはなっていない。
 
実際このフィナーレのメロディーは先人たちのアイデアを借用しつつ、この曲にフィットするように作られた感じがあると思う(とはいえ、この第4楽章が1番初めに設計された様である)。マーラーとベートーヴェンは自分の「いいたいこと」を全ていいつくすためには曲のバランスを壊すようなこともしたことを考えると、ここにはブラームス独自の性質があるように思える訳である。
 
ブラームス第1のフィナーレのメロディーは、メロディーそのもに力があるとはいえ、「いいたいことを尽くす」作曲家のものに比べるとやや寸足らずにも思え、初めから計算されていたもののように見える。
 
どこか、書かされた曲、といっていいのかもしれないが、この辺りにブラームスの考え方というか、あり方が表れているように思えてくるのである。
 
彼は、いいたいことよりも形式的な整合性とかバランスを求めるのである。そしてこれはこの第1において顕著であると感じる。この曲が完成度が高いながらも、曲調のアイデアにおいて習作的な感触を残すことと無関係ではないように思われるのである。
 
それ故、本来なら、この曲はベートーヴェンの「第10」と呼ぶようなあり方とは違うニュアンスを示している。ベートーヴェンの音楽はバランスを取りつつも「いいたいことを尽くす」音楽であるのに対して、ブラームスの第1は「自分の求めるもの」を形作るために、楽想を「調整した音楽」であるということである。そのため、ベートーヴェンの作品は新鮮でありながら「粗削り」であるが、ブラームスの音楽は新鮮さを犠牲にしてでも「完成度が高い」ということがどうしてもいえる。
 
そしてそこがベートーヴェンとの決定的な差といえるだろう。

 

第2と第3交響曲において、個人的な推薦音源を持っていない。正直、これ等の曲の名演というものを意識したことがない。ドイツ風のカラヤンでもベームでも、イタリア風のジュリーニでもアバドでも、個性的なフルトヴェングラーでもトスカニーニでも良いと思う。どれも名演だと思う。他にも色々ある。

 

ブラームスの交響曲は全集になり易いから色んなものを聴くことが出来るだろう。

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<第2交響曲>

 

交響曲を書くという重荷を第1を書いたことによって外したといわれるブラームス。故にペルチャハで短期間のうちに仕上げられた第2交響曲は、第1に比べればライトな作風に思われ、ブラームスの「田園」なる呼ばれ方が定着している。

 

確かにそのニックネームには一理があるように思われる。穏やかでくつろいだ雰囲気がこの曲にあるのは確かだろう。

 

・・・だが・・・とも思う。くつろいだ気分は「田園」とはイコールではない。そんな重箱の隅をつつくような意見など本来必要でもないだろうが、昔から何か奥歯にものが挟まったような気分の方も多いかと思われる。

 

個人的にはそのニックネームはブラームスの作品の本質をついてないと思う。まずはその辺りのことから書いていきたい。

 
第1がどこか他人の楽想から出来上がってきたような雰囲気があるのに対して、この第2から第4までの作品こそが本当のブラームス自身の言葉で書かれた作品であるといえる。
 
しかし、仕方ないことかもしれないが、ブラームスの作品は何かとベートヴェンの作品と比較される。第1はベートーヴェンの「第10」、あるいはこの2番は「田園」(当然これもベートーヴェンの作品からの引用だ)といわれる。
 
ベートーヴェンの「田園」は聴くからに田園風景を思わせるような自然描写がある。ところがブラームスの音楽はどうだろう。「くつろいだ気分」はべートーヴェン、あるいはブラームスの当該作品にいえる特質なのかもしれないが、ブラームスの音楽についてはベートーヴェンの音楽ほど明確な描写性がない。ベートーヴェンは音楽のリアルな描写性に対して限界があることを認めているが、彼は田園交響曲でもってその描写性を追求してみた感じがあることも事実だ。
 
逆にいうのなら、ブラームスのような「観念的で曖昧な表現」は実際人間の感情の在り方に近く、その表現に向いているともいえる訳だ。
 
なぜなら明確なる描写性はブラームスが目指している音楽の「絶対性」を遠ざけるからだ。だからここには「人間の感情の表現」がある。いわば「具象性」への嗜好でなく「抽象性」への嗜好ということである。
 
あるヴァイオリニストがブラームスの感情表現のうまさについて語っている。
 
少し引用する。
 
<夢、あこがれ、胸さわぎ、絶望、大勢の中の孤独―――。
 
人間が自然に表す言葉、きもち、それらをブラームスほどはっきりつかまえた作曲家はいないのではないだろうか?
 
昔、ヴァイオリン・コンチェルトが初演されたとき、うやむや、どっちつかず、メランコリックなだけ等々と酷評された。しかし逆に考えてみると、人間のきもちというのは元来そうしたものではないだろうか―――。いったい何人の人が言っていることと思っていることが同じだと断言できるだろう・・・。
 
「いま泣いたカラスがもう笑った」のたとえ。なぜ人間は無性に悲しくなったり、また急にホッとしたりするのだろう。―――きもち―――の不思議。>(ブラームス、三宅幸夫著。ヴァイオリニスト、堀米ゆず子の言葉から)。
 
実際ベートーヴェンの「田園」は我々の世界に「田園」というものがあることが前提となっており、等身大の人間の存在を超えて(それでもなおベートーヴェンの田園は絶対音楽に含めてよいと思うが)、人間以外の前提を要していることは間違いがない。当然ブラームスはこの曲を書いているときにニックネーム(標題)が付くとは考えてもみなかっただろうし、そのニックネームは彼の作品の本質からいえば的外れのように思われる。
 
<モーツアルトにもヴェートーヴェンにも愁いはあるが、ブラームスのは感傷的で、暗い。愚痴っぽくて、人間的と言い換えてもいい。
 
風光明媚な避暑地ペルチャハで一気呵成に書かれた「第二交響曲」を、たいていの解説は「美しい自然を反映してブラームスには珍しい明朗な気分に溢れた曲」としてある。「ピアノ協奏曲二番」は、イタリア旅行の影響によってラテン的な明るさが導入されている、という。誰しもそんなふうに聴こえるのだろうか。にわかには信じがたい。
 
・・・(中略)・・・
 
「第二交響曲」の導入の二小節、二度下がって元に戻って四度下がる、この俯き加減の音型のどこが明るいものか。「交響曲四番」の冒頭にいたっては、メロディーは下降上昇をあてどなく繰り返し、低徊してやまない。だが、こんなゆくえさだめぬ旋律を書けるのは一人ブラームスだけではないか。>(宇野功芳編集長の本、わが愛しのブラームス、宇神幸夫から)。
 
つまりこの第2交響曲については、「くつろいだ」感情の表現体として構成されているにすぎないのである。しかも後半の楽章はむしろ活発であり、躍動感さえあるともいえるだろう。そこにこの曲の本質があるように思え、同時にこの曲特有の「とらえがたさ」があるように思われる。
 
そしてそのこと自体がブラームスの音楽性の本質なのだと思う。

 

ヨハネス・ブラームス交響曲全集。クルト・ザンデルリング指揮ベルリン交響楽団(1990)。

 

ザンデルリングによる美しい響きの全集。落ち着いたスローテンポから、グラデーションのきいた響きが全編を覆う。その分、運動性に欠け、曲の彫り込みが浅く、好みの分かれるところ。

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第3交響曲もまた発表された時、この曲もまたベートーヴェンとの比較が持ちだされた。
 
この曲は第2交響曲とうってかわり、ブラームスは感情の激しい動きを表現している。舞曲とも思えるような情熱があり、人々を興奮させる力のある曲だ。第3楽章のしぶい情熱の魅力を何に例えよう?
 
そういう意味では確かにベートーヴェンの「英雄」を思わせるところがない訳でもないのだが・・・。
 
<交響曲『第二番』と『第一番』の関係は、弦楽四重奏曲『第二番イ短調』と『第一番ハ短調』のあとでは、誰もが一様に、英雄的な作品を期待した。それで『第三番ヘ長調』(1883年)の完成を、皆が喜んだ。一部の批評家は早速、この曲に「英雄」の名を冠したが、これはこの曲にピッタリとはいえない。>(大作曲家の生涯、H・ショーンバーグ著、亀井旭、玉木裕訳)。
 
この曲もまたニックネームをつけるには中々難しいものがある。
 
<フーゴ―・ヴォルフ『第3交響曲』批判は、明らかに首領を失ったワーグナー派が巻き返しを狙ったものだが、よく考えてみると、そこには単なるプロパガンダ以上の意味がこめられているように思えてならない。つまりヴォルフはこの交響曲のなかに、彼自身はっきりとは気づかなったにせよ、何かそれまでにはない「異質なもの」を嗅ぎ取っていたのではないだろうか。たとえば作品の外枠をなす第一楽章と第四楽章は、両方とも「ディミヌエンド」で消え入るように終わる。これは、交響曲に対する既存のイメージから完全に外れていると言えよう。>(ブラームス、三宅幸夫)。
 
試しにベートーヴェンの「英雄」聴いてみるといい。第一楽章において、ここでは複数の動機が各々の性格を各自に語りながら、同時に存在しつつ、時には分離されて展開されていく。それは観念的な正確さをもとにしつつ、抒情性と激しさをない交ぜにしたヒロイックな音楽である。そしてついにはコーダにおいて、外に伸び行く力と、内面へと吸引する力とが同時に圧縮され、核爆発を起こす。
 
直前における天才達、ハイドン、モーツアルトまでの歴史において、ここまで意志の力でもって、「力」そのものを表現した音楽は未だかつてなかった。しかもその緊張感を楽章最後まで保ち続けることによって、まさにこの音楽が「英雄」のものであるという印象をはっきりと際立たせている。
 
ところがブラームスの第3、第1楽章においては情熱的な中間部に対して、結部に至ってディミヌエンドでもって、その激情を彼は隠してしまう。そのおかげでこの曲もまた、「何か」をいわれることを避けているかのように思われる。
 
ここにおいて激しい情熱を示しながらも、描写性、あるいは標題性を排除し、人間が身一つで理解できる「絶対音楽」を指し示し、体現しているのがブラームスの音楽ではなかろうか。
 
ブラームスの作曲家生活において、彼の生涯を象徴するような音楽はやはり第1交響曲だろう。しかし、それもベートーヴェンやワーグナー、マーラーなどに比べると印象が薄い気がする。むしろ、この第2や第3を含め、作品ごとにそれほど出来高の差を意識させないのがブラームスの特徴といいうるのかもしれない。

 

 

 

ブラームス、交響曲4番。ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団(1959)。

 

エバー・グリーンともマイル・ストーンともいえる演奏で、語るのも惜しい。曲の情緒、スケールなど非の打ちどころがなく、一切の無理無駄がない。

 

20世紀前半の最高の指揮者の1人ブルーノ・ワルター。その演奏がステレオで残ったという文化遺産のような価値を知ることが出来る音源。

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<第4交響曲>

 

ブラームスの書いた最後の交響曲で、強く先人を意識し、楽想の(書法でなく)アイデアの盛り込み方に習作的な感触を残している第1、ブラームスらしい彼独自の言葉で書かれ、ややもってりした第2、室内楽風の第3に比べると、第4は特に彼自身の本当にいいたいことが表れている曲のような気がする。ブラームス自身の実感がこもっている曲だという感じが強いと思う。

 

彼はこの曲に先立つ3つの交響曲において、音楽内における自己コントロールに執心していたように感じられた。また同様に、この第4にもバランス感覚は働いている。そして、これまでの交響曲において、彼は楽章によっては情熱を表現し、いくらかの激しさを見せもした。それはこの作曲家自身の内面の声には違いないが、その深みはこの第4において最も深い、といって良いだろう。

 

この第4の各楽章の楽想において、自己の苦労、そして諦念を主体として内面からくる力強い力感は、聴衆にブラームスの意見をはっきりとぶつけてくる。ここで感じられるのは彼が生涯続けた絶え間ぬ努力と、そして諦念を含むしぶい感情である。

 

 

ブラームス、交響曲4番。エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団(旧レニングラード・フィル、1973)。

 

鋭利な切れ込みと、冷徹な指揮で描き出す、ブラームスの諦念。強烈な金属的なまでの響きと、真剣さが出色だと思う。第2楽章はロシアの凍てつく大地を思わせる。

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この曲を聴くと自分は思う。「ブラームスは本当に書きたい音楽を書いて来たのだろうか?」と。彼はもしかしたら多くの人々の期待に応えるように、自己を犠牲にしたのではないのだろうか、と。確かに第4は努力とそこからくる充実感も感じられるが、同時にそれは嘆き節のようにも聴こえ、自虐の声にも思える。このような内容を音楽にしたのはブラームスだけではないだろうか。

 

「人間の混じりっ気のない感情」を表現したベートーヴェンの第5がある。これは後年のように自然の霊と一体になったベートーヴェンの音楽ではなく、激情そのものによって書かれた音楽であり、貴族的なモーツアルトと比べても、その生々しさ故にユニークな性格を持っていることは間違いがない。

 

自分はこの傾向のある音楽(人間の感情を強く書いた作品)として、ブラームスの第4を加えることにしたい。当然第1楽章の、冒頭、木枯らしに吹かれて散る枯葉ような主題は、いくらかの描写性を感じなくもないが、これはそれでもブラームスの音楽である。

 

ベートーヴェンの第5は「標題性」を感じさせるほどに書かれた内容がはっきりして粗削りである。だが、ブラームスの音楽はもっと複雑で、諦念、円熟、詠嘆などの感情が入り混じり、入念である部分は異なりはする。

 

だが何より、ベートーヴェンの第5同様、大衆に訴える力があり、室内楽的な第3に比べても、彼の本心を力強く歌うこの音楽はブラームスの書いたユニークな傑作の名に恥じない名曲だろう。

 

曲想にも独創性がある。第2楽章なども美しい。つかみどころのない第2交響曲に比べても交響曲としての貫禄があることは疑いがない。

 

しぶい内容なのは確かだが、批判のしづらい彼の作品群の中にあっても、最も批判の少ない作品といえるだろう。

 

 

ブラームス交響曲4番。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団(2011)。

 

ムラヴィンスキーと同じような厳しさがある。曲は見事にシェイプ・アップされ、曖昧さや、緩慢さがない。一見、緩やかで充実した世界がこの曲の特色のように思われるが、ベートーヴェンの第5のごとく、筋肉質で力感ある音楽だと悟らせてくれる演奏だと思う。

 

 

ブラームス、ヴァイオリン協奏曲。ベルナルト・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。ヴァイオリン、ヘンリック・シェリング(1971)。

 

愛聴していた、といえば語弊があるかもしれない。ただ長らくこれを聴いていたことは事実だ。淀みなく、標準的ともいえる演奏で、美しいと思う。

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ブラームスにも中期の傑作が多い時期があった。ピアの協奏曲2番とヴァイオリン協奏曲はその代表作といえる。最後はこれらの有名なコンチェルトを覗いておくことにしたい。

 

ブラームスの生涯は他の作曲家と比べて比較的平和であり、悲劇ともいえる傾向が少なかった。自己との葛藤を繰り返すような部分もあったとは思うが、それほど目立つこともない。また天才特有の短命でもなかった。1つあるとすれば女性の問題だろうか?真面目な彼はシューマン夫人と親密になったようだが、恩師であるシューマンに義理立てしたのか、生涯結婚もしていない。ワーグナーとかモーツアルトなら、何の問題も感じなかったであろう問題に関して、彼は常に考えを馳せた。

 

社会の常識的な人間として、彼は頑固なまでにその行為を抑制した。頑固過ぎて常識を逸脱しているようなときもあったが、本質的に彼はヒューマニズムに溢れた人間であり、1個の人間として尊敬に値するものがある。

 

これ等の作品も彼のそういった作曲家の性格を反映してか、安定感と安心感のある名作となっている。

 

<ピアノ協奏曲2番とヴァイオリン協奏曲>

 

 

ブラームス、ピアノ協奏曲2番。カール・ベーム指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。ピアノ、ウィルヘルム・バックハウス(1967)。

 

腰の据わったバックハウスのピアノ、往年のカール・ベームとウィーン・フィルとの組み合わせで、文句をいう人が少ない演奏の1つ。

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これらは彼の充実した創作時期に書かれた曲である。協奏曲といいつつも、分厚いオーケストラの伴奏やスケルツォを挟むなど、まるで交響曲のような趣をみせる、ブラームスの作品である。

 

ブラームスの本質的な気質として、全体を強力に統一していこうとする性質、それは解体的(デジタル)な集中力でなく、連続的(アナログ)な集中に向いているように思われる。

 

解体的(デジタル)な楽器であるピアノにおいて、その響きは平面的な広がりを見せるがゆえに、各音に対する距離が明確となる。だから、作り手はその音の距離(響きのこと)を意識することが多い。しかし、ブラームスの書いたこのピアノ協奏曲2番で優先されるべき事柄は、その距離感を意識的に扱った、「響きの美しさ」でなく、その語り口であった。もっといえば哲学的(衒学的)とでもいうべきまでの饒舌さと、内容の複雑さである。

 

このピアノ協奏曲2番は、全4楽章にまで広げられた構成と共に、まさにピアノを伴ったという交響曲という風情がある音楽である。

 

 

ブラームス、ヴァイオリン協奏曲。レオ・ブレッヒ指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団。ヴァイオリン、フリッツ・クライスラー(1927)。

 

昔の演奏家は大仰でなく、必要なことしかしなかった。アドルフ・ブッシュとかフリッツ・クライスラーとか。ブッシュに比べればクライスラーは華があり、メロディーを心から楽しむ風情がある。

 

古い録音だが、トーキー映画を思わせるような音質が美しき骨董品を思わせる名演だと思う。

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ブラームスはピアノよりもヴァイオリンのような楽器の方が美しさを導きやすいように思われる。メロディーが1本の線のように途切れなく響いていく様はブラームスの気質によく合っているのではないのだろうか。

 

ブラームスはヴァイオリン協奏曲の初めの楽章において、奥ゆかしく上品だが、華やかにゆったりと広がる旋律を創作している。前のめりにならない、落ち着いた音楽であり、その場に漂うような美しさがある。

 

哲学的な印象を見せるピアノ協奏曲2番と違い、ブラームスにしか書けない優美な作品といえよう。

 

まだ音楽の価値観が未分化であった古典派の時代、ベートーヴェンの出現により、その表現の在り方は非常に高度なレベルにまで引き上げられた。言語と音楽との境界線が幾分曖昧となり、そのはざまで作曲家たちは苦しむこととなった。

 

言語は現実的で実際的な世界を求めるが、音楽は必ずしもそうではない。音楽元来の論理は「音楽」そのものに従うしかない。

 

ブラームスが肥大化していく音楽のアイデアと語法の世界を避けたのは、音楽が他のジャンルへの依存を始めていたのを目の当たりにしたからなのかもしれない。古典派の頂点によって音楽技法の完成ともみられる世界が開示された。そこにワーグナーたちは乗っかった訳だが、アイデアを音楽外に求めれば求めるほど、その完成度では補いきれなくなっていった。

 

それ故音楽語法が本来持つ原点に返り、それを極めようと、ブラームスはしたのかもしれない。「音楽」という独立した世界を守る道である。しかし、彼はそこから「発展」の方向性をも葬ってしまった。

 

実際、「音楽」という独立した世界は誰のものだろう?作曲家のものか、聴衆のものか?「音楽の独立」などといってもそれを取り扱う「人」の存在が欠けていては「音楽」は存在し得ない。

 

作曲家と違って、聴き手は必ずしも「音楽」の絶対性を求めているわけではない。人によっては「耳障り」の良いもの、「華麗なもの」などを求める。大衆の中で音楽の「絶対性」などというものを求めるのは一体誰なのだろうか?

 

その数は少ないに違いないが、ところが、ブラームスの音楽を求めるのはそういった人たちなのである。

 

もっというのなら、ブラームスは「クラシック音楽」の語法で「クラシック音楽」を練り直しているのである。

 

まさに彼の音楽は「クラシック音楽愛好家」のための「クラシック音楽」なのだ。そしてその「音楽の絶対性」を聴き分ける能力において「クラシック音楽愛好家」たちは自負心を持ち、まさにブラームスの音楽はそれに答えているのである。

 

音楽の「大衆性」はモーツアルトやハイドン、ベートーヴェンの頃は、ブラームスの時代と比べればまだずっと未分化だったように思える。今日、ブラームスの音楽が「音楽会」以外の日常に現れてくることは珍しい。時折耳にはするが、モーツアルト、ショパン、ワーグナー、ヴェルディなどに比べれば明らかな差がある。

 

バッハもベートーヴェンも、極論すれば過去の音楽群をまとめ、それを統合し、さらにその上に、音楽そのものを発展させたのであった。ところがブラームスの時代、「音楽」といわれるのもの範囲が巨大化し、絶対性と標題性との間で引きちぎられることとなってしまった。それが各個人の党派争いとなってしまったせいで、統合者がいなくなってしまったのだ。

 

ブラームスの場合、過去の音楽の結合の要素は強い。しかし、バッハとベートーヴェンのように音楽をもう1つ上のレベルにまで引き上げることをしなかった。充分な過去の技術の裏付けがブラームスにはあったが、「発想」という意味での「新しいアイデア」を彼は消化できなかった。

 

逆にいえば彼は生涯、我々が「クラシック音楽」と呼ぶもののブラッシュ・アップに努めたのであり、その作品の完成度がかのベートーヴェンより高いのは当然ともいえる。

 

しかし・・・本質的なところで彼には音楽を発展させる能力を欠いていたのであろうか?3大Bの一人ともいわれる彼に・・・その素養があったのではなかったか?

 

19世紀中葉から後半にかけて、音楽を新しいレベルに引き上げたのはワーグナーだと思われていた。ところが彼には音楽における論理的な裏打ちが弱く、ついには「音楽の絶対性」を破壊する道筋をつけることとなる。

 

もしこれをワーグナーでなく、ブラームスがその高い技術で、新しいアイデアとの結合を行っていたらどうなっていただろう?音楽はもっと安定して、新たな次元に向かっていた可能性はあったのではなかったか?

 

しかし歴史はそうはならなかった。全体像を掴むにはワーグナーは巨大すぎ、またベートーヴェンの後を継ぐという、大衆の期待から、彼はのびのびと自由に発想する時間を奪われてしまったような気がする。彼に第2の楽聖への道を歩ませようとしなかったのなら、あるいはブラームスはもっと自由な発想を得ていたのかもしれない。

 

今年はお正月、ゴールデン・ウィーク共にやることがあり、先日も少し書きましたが、海外旅行を諦めてました。

 

ところが、例年空くことのない6月に突然時間ができてしまいました。

 

それで短い間でしたが、海外旅行に行ってきました。場所はモルディブで、今回はお金を節約しつつ楽しんできました。エンブドゥ・ヴィレッジというところがあるので、そこへ行ってきました。

 

 

モルディブは今は雨期シーズン。ベストシーズンではないですが、到着した初日から良く晴れて美しかったです。

 

 

滞在した場所は本当に小さい島で、ホテルがありますがグレードは3です。

 

残念ながら、モルディブ特有のラグジュアリー感はありません。今回は去年、モルディブであまりシュノーケリングが楽しめなかったので、そのリベンジです。サンゴの群生地もあるようでその辺もお目当てでした。

 

ローカルな感じの、自然を売り物にしたリゾート地のようでした。

 

 

日本人がわずかにいましたが、ほとんどがドイツ人です。ほぼ占領されているといっていいです。

 

 

 

多分3日も居れば飽きる場所かな、と思いました。ただ1年以上ぶりの南国で、本当にホッとします。

 

ホテルはともかくとして、景色はどこまでもすこぶる美しいです。香りも良いですね。熱帯の木々から、あの忘れていた香りがします。アロマの線香で南国を模したものがあります。南国を知らないであの香りをかぐと、本当にこんな匂いがするのかと思いますが、本当です。

 

去年のフィノールはそれに加えてアロマの香水も多用して、物凄い良い香りでしたが、エンドゥブ・ヴィレッジはそういうのはないです。しかし、部屋から外へ出て、木々の下まで来ると良い香りがします。ああ、久しぶりに南国にいるよ、と思いました。

 

島は樹木で覆われています。この中なら暑さも避けられますね。

 

 

 

 

 

3日ぐらいの滞在なんですが、実質は2日半ですね。初日と2日目はとても晴れました。海に入って、先を見ると青色しかないです。あのトリップ感が好きです。