ブラームス、ピアノ協奏曲1番。ベルナルド・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。ピアノ、クラウディオ・アラウ(1969)。
愛聴しているディスク。瑞々しさが感じられる。ハイティンク、アラウ共々新鮮で魅力的な表現だと思う。
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<ピアノ協奏曲1番>
ブラームス、ピアノ協奏曲1番。ベルナルド・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。ピアノ、クラウディオ・アラウ(1969)。
愛聴しているディスク。瑞々しさが感じられる。ハイティンク、アラウ共々新鮮で魅力的な表現だと思う。
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<ピアノ協奏曲1番>
第2と第3交響曲において、個人的な推薦音源を持っていない。正直、これ等の曲の名演というものを意識したことがない。ドイツ風のカラヤンでもベームでも、イタリア風のジュリーニでもアバドでも、個性的なフルトヴェングラーでもトスカニーニでも良いと思う。どれも名演だと思う。他にも色々ある。
ブラームスの交響曲は全集になり易いから色んなものを聴くことが出来るだろう。
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<第2交響曲>
交響曲を書くという重荷を第1を書いたことによって外したといわれるブラームス。故にペルチャハで短期間のうちに仕上げられた第2交響曲は、第1に比べればライトな作風に思われ、ブラームスの「田園」なる呼ばれ方が定着している。
確かにそのニックネームには一理があるように思われる。穏やかでくつろいだ雰囲気がこの曲にあるのは確かだろう。
・・・だが・・・とも思う。くつろいだ気分は「田園」とはイコールではない。そんな重箱の隅をつつくような意見など本来必要でもないだろうが、昔から何か奥歯にものが挟まったような気分の方も多いかと思われる。
個人的にはそのニックネームはブラームスの作品の本質をついてないと思う。まずはその辺りのことから書いていきたい。
ヨハネス・ブラームス交響曲全集。クルト・ザンデルリング指揮ベルリン交響楽団(1990)。
ザンデルリングによる美しい響きの全集。落ち着いたスローテンポから、グラデーションのきいた響きが全編を覆う。その分、運動性に欠け、曲の彫り込みが浅く、好みの分かれるところ。
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ブラームス、交響曲4番。ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団(1959)。
エバー・グリーンともマイル・ストーンともいえる演奏で、語るのも惜しい。曲の情緒、スケールなど非の打ちどころがなく、一切の無理無駄がない。
20世紀前半の最高の指揮者の1人ブルーノ・ワルター。その演奏がステレオで残ったという文化遺産のような価値を知ることが出来る音源。
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<第4交響曲>
ブラームスの書いた最後の交響曲で、強く先人を意識し、楽想の(書法でなく)アイデアの盛り込み方に習作的な感触を残している第1、ブラームスらしい彼独自の言葉で書かれ、ややもってりした第2、室内楽風の第3に比べると、第4は特に彼自身の本当にいいたいことが表れている曲のような気がする。ブラームス自身の実感がこもっている曲だという感じが強いと思う。
彼はこの曲に先立つ3つの交響曲において、音楽内における自己コントロールに執心していたように感じられた。また同様に、この第4にもバランス感覚は働いている。そして、これまでの交響曲において、彼は楽章によっては情熱を表現し、いくらかの激しさを見せもした。それはこの作曲家自身の内面の声には違いないが、その深みはこの第4において最も深い、といって良いだろう。
この第4の各楽章の楽想において、自己の苦労、そして諦念を主体として内面からくる力強い力感は、聴衆にブラームスの意見をはっきりとぶつけてくる。ここで感じられるのは彼が生涯続けた絶え間ぬ努力と、そして諦念を含むしぶい感情である。
ブラームス、交響曲4番。エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団(旧レニングラード・フィル、1973)。
鋭利な切れ込みと、冷徹な指揮で描き出す、ブラームスの諦念。強烈な金属的なまでの響きと、真剣さが出色だと思う。第2楽章はロシアの凍てつく大地を思わせる。
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この曲を聴くと自分は思う。「ブラームスは本当に書きたい音楽を書いて来たのだろうか?」と。彼はもしかしたら多くの人々の期待に応えるように、自己を犠牲にしたのではないのだろうか、と。確かに第4は努力とそこからくる充実感も感じられるが、同時にそれは嘆き節のようにも聴こえ、自虐の声にも思える。このような内容を音楽にしたのはブラームスだけではないだろうか。
「人間の混じりっ気のない感情」を表現したベートーヴェンの第5がある。これは後年のように自然の霊と一体になったベートーヴェンの音楽ではなく、激情そのものによって書かれた音楽であり、貴族的なモーツアルトと比べても、その生々しさ故にユニークな性格を持っていることは間違いがない。
自分はこの傾向のある音楽(人間の感情を強く書いた作品)として、ブラームスの第4を加えることにしたい。当然第1楽章の、冒頭、木枯らしに吹かれて散る枯葉ような主題は、いくらかの描写性を感じなくもないが、これはそれでもブラームスの音楽である。
ベートーヴェンの第5は「標題性」を感じさせるほどに書かれた内容がはっきりして粗削りである。だが、ブラームスの音楽はもっと複雑で、諦念、円熟、詠嘆などの感情が入り混じり、入念である部分は異なりはする。
だが何より、ベートーヴェンの第5同様、大衆に訴える力があり、室内楽的な第3に比べても、彼の本心を力強く歌うこの音楽はブラームスの書いたユニークな傑作の名に恥じない名曲だろう。
曲想にも独創性がある。第2楽章なども美しい。つかみどころのない第2交響曲に比べても交響曲としての貫禄があることは疑いがない。
しぶい内容なのは確かだが、批判のしづらい彼の作品群の中にあっても、最も批判の少ない作品といえるだろう。
ブラームス交響曲4番。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団(2011)。
ムラヴィンスキーと同じような厳しさがある。曲は見事にシェイプ・アップされ、曖昧さや、緩慢さがない。一見、緩やかで充実した世界がこの曲の特色のように思われるが、ベートーヴェンの第5のごとく、筋肉質で力感ある音楽だと悟らせてくれる演奏だと思う。
ブラームス、ヴァイオリン協奏曲。ベルナルト・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。ヴァイオリン、ヘンリック・シェリング(1971)。
愛聴していた、といえば語弊があるかもしれない。ただ長らくこれを聴いていたことは事実だ。淀みなく、標準的ともいえる演奏で、美しいと思う。
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ブラームスにも中期の傑作が多い時期があった。ピアの協奏曲2番とヴァイオリン協奏曲はその代表作といえる。最後はこれらの有名なコンチェルトを覗いておくことにしたい。
ブラームスの生涯は他の作曲家と比べて比較的平和であり、悲劇ともいえる傾向が少なかった。自己との葛藤を繰り返すような部分もあったとは思うが、それほど目立つこともない。また天才特有の短命でもなかった。1つあるとすれば女性の問題だろうか?真面目な彼はシューマン夫人と親密になったようだが、恩師であるシューマンに義理立てしたのか、生涯結婚もしていない。ワーグナーとかモーツアルトなら、何の問題も感じなかったであろう問題に関して、彼は常に考えを馳せた。
社会の常識的な人間として、彼は頑固なまでにその行為を抑制した。頑固過ぎて常識を逸脱しているようなときもあったが、本質的に彼はヒューマニズムに溢れた人間であり、1個の人間として尊敬に値するものがある。
これ等の作品も彼のそういった作曲家の性格を反映してか、安定感と安心感のある名作となっている。
<ピアノ協奏曲2番とヴァイオリン協奏曲>
ブラームス、ピアノ協奏曲2番。カール・ベーム指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。ピアノ、ウィルヘルム・バックハウス(1967)。
腰の据わったバックハウスのピアノ、往年のカール・ベームとウィーン・フィルとの組み合わせで、文句をいう人が少ない演奏の1つ。
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これらは彼の充実した創作時期に書かれた曲である。協奏曲といいつつも、分厚いオーケストラの伴奏やスケルツォを挟むなど、まるで交響曲のような趣をみせる、ブラームスの作品である。
ブラームスの本質的な気質として、全体を強力に統一していこうとする性質、それは解体的(デジタル)な集中力でなく、連続的(アナログ)な集中に向いているように思われる。
解体的(デジタル)な楽器であるピアノにおいて、その響きは平面的な広がりを見せるがゆえに、各音に対する距離が明確となる。だから、作り手はその音の距離(響きのこと)を意識することが多い。しかし、ブラームスの書いたこのピアノ協奏曲2番で優先されるべき事柄は、その距離感を意識的に扱った、「響きの美しさ」でなく、その語り口であった。もっといえば哲学的(衒学的)とでもいうべきまでの饒舌さと、内容の複雑さである。
このピアノ協奏曲2番は、全4楽章にまで広げられた構成と共に、まさにピアノを伴ったという交響曲という風情がある音楽である。
ブラームス、ヴァイオリン協奏曲。レオ・ブレッヒ指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団。ヴァイオリン、フリッツ・クライスラー(1927)。
昔の演奏家は大仰でなく、必要なことしかしなかった。アドルフ・ブッシュとかフリッツ・クライスラーとか。ブッシュに比べればクライスラーは華があり、メロディーを心から楽しむ風情がある。
古い録音だが、トーキー映画を思わせるような音質が美しき骨董品を思わせる名演だと思う。
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ブラームスはピアノよりもヴァイオリンのような楽器の方が美しさを導きやすいように思われる。メロディーが1本の線のように途切れなく響いていく様はブラームスの気質によく合っているのではないのだろうか。
ブラームスはヴァイオリン協奏曲の初めの楽章において、奥ゆかしく上品だが、華やかにゆったりと広がる旋律を創作している。前のめりにならない、落ち着いた音楽であり、その場に漂うような美しさがある。
哲学的な印象を見せるピアノ協奏曲2番と違い、ブラームスにしか書けない優美な作品といえよう。
まだ音楽の価値観が未分化であった古典派の時代、ベートーヴェンの出現により、その表現の在り方は非常に高度なレベルにまで引き上げられた。言語と音楽との境界線が幾分曖昧となり、そのはざまで作曲家たちは苦しむこととなった。
言語は現実的で実際的な世界を求めるが、音楽は必ずしもそうではない。音楽元来の論理は「音楽」そのものに従うしかない。
ブラームスが肥大化していく音楽のアイデアと語法の世界を避けたのは、音楽が他のジャンルへの依存を始めていたのを目の当たりにしたからなのかもしれない。古典派の頂点によって音楽技法の完成ともみられる世界が開示された。そこにワーグナーたちは乗っかった訳だが、アイデアを音楽外に求めれば求めるほど、その完成度では補いきれなくなっていった。
それ故音楽語法が本来持つ原点に返り、それを極めようと、ブラームスはしたのかもしれない。「音楽」という独立した世界を守る道である。しかし、彼はそこから「発展」の方向性をも葬ってしまった。
実際、「音楽」という独立した世界は誰のものだろう?作曲家のものか、聴衆のものか?「音楽の独立」などといってもそれを取り扱う「人」の存在が欠けていては「音楽」は存在し得ない。
作曲家と違って、聴き手は必ずしも「音楽」の絶対性を求めているわけではない。人によっては「耳障り」の良いもの、「華麗なもの」などを求める。大衆の中で音楽の「絶対性」などというものを求めるのは一体誰なのだろうか?
その数は少ないに違いないが、ところが、ブラームスの音楽を求めるのはそういった人たちなのである。
もっというのなら、ブラームスは「クラシック音楽」の語法で「クラシック音楽」を練り直しているのである。
まさに彼の音楽は「クラシック音楽愛好家」のための「クラシック音楽」なのだ。そしてその「音楽の絶対性」を聴き分ける能力において「クラシック音楽愛好家」たちは自負心を持ち、まさにブラームスの音楽はそれに答えているのである。
音楽の「大衆性」はモーツアルトやハイドン、ベートーヴェンの頃は、ブラームスの時代と比べればまだずっと未分化だったように思える。今日、ブラームスの音楽が「音楽会」以外の日常に現れてくることは珍しい。時折耳にはするが、モーツアルト、ショパン、ワーグナー、ヴェルディなどに比べれば明らかな差がある。
バッハもベートーヴェンも、極論すれば過去の音楽群をまとめ、それを統合し、さらにその上に、音楽そのものを発展させたのであった。ところがブラームスの時代、「音楽」といわれるのもの範囲が巨大化し、絶対性と標題性との間で引きちぎられることとなってしまった。それが各個人の党派争いとなってしまったせいで、統合者がいなくなってしまったのだ。
ブラームスの場合、過去の音楽の結合の要素は強い。しかし、バッハとベートーヴェンのように音楽をもう1つ上のレベルにまで引き上げることをしなかった。充分な過去の技術の裏付けがブラームスにはあったが、「発想」という意味での「新しいアイデア」を彼は消化できなかった。
逆にいえば彼は生涯、我々が「クラシック音楽」と呼ぶもののブラッシュ・アップに努めたのであり、その作品の完成度がかのベートーヴェンより高いのは当然ともいえる。
しかし・・・本質的なところで彼には音楽を発展させる能力を欠いていたのであろうか?3大Bの一人ともいわれる彼に・・・その素養があったのではなかったか?
19世紀中葉から後半にかけて、音楽を新しいレベルに引き上げたのはワーグナーだと思われていた。ところが彼には音楽における論理的な裏打ちが弱く、ついには「音楽の絶対性」を破壊する道筋をつけることとなる。
もしこれをワーグナーでなく、ブラームスがその高い技術で、新しいアイデアとの結合を行っていたらどうなっていただろう?音楽はもっと安定して、新たな次元に向かっていた可能性はあったのではなかったか?
しかし歴史はそうはならなかった。全体像を掴むにはワーグナーは巨大すぎ、またベートーヴェンの後を継ぐという、大衆の期待から、彼はのびのびと自由に発想する時間を奪われてしまったような気がする。彼に第2の楽聖への道を歩ませようとしなかったのなら、あるいはブラームスはもっと自由な発想を得ていたのかもしれない。
今年はお正月、ゴールデン・ウィーク共にやることがあり、先日も少し書きましたが、海外旅行を諦めてました。
ところが、例年空くことのない6月に突然時間ができてしまいました。
それで短い間でしたが、海外旅行に行ってきました。場所はモルディブで、今回はお金を節約しつつ楽しんできました。エンブドゥ・ヴィレッジというところがあるので、そこへ行ってきました。
モルディブは今は雨期シーズン。ベストシーズンではないですが、到着した初日から良く晴れて美しかったです。
滞在した場所は本当に小さい島で、ホテルがありますがグレードは3です。
残念ながら、モルディブ特有のラグジュアリー感はありません。今回は去年、モルディブであまりシュノーケリングが楽しめなかったので、そのリベンジです。サンゴの群生地もあるようでその辺もお目当てでした。
ローカルな感じの、自然を売り物にしたリゾート地のようでした。
日本人がわずかにいましたが、ほとんどがドイツ人です。ほぼ占領されているといっていいです。
多分3日も居れば飽きる場所かな、と思いました。ただ1年以上ぶりの南国で、本当にホッとします。
ホテルはともかくとして、景色はどこまでもすこぶる美しいです。香りも良いですね。熱帯の木々から、あの忘れていた香りがします。アロマの線香で南国を模したものがあります。南国を知らないであの香りをかぐと、本当にこんな匂いがするのかと思いますが、本当です。
去年のフィノールはそれに加えてアロマの香水も多用して、物凄い良い香りでしたが、エンドゥブ・ヴィレッジはそういうのはないです。しかし、部屋から外へ出て、木々の下まで来ると良い香りがします。ああ、久しぶりに南国にいるよ、と思いました。
島は樹木で覆われています。この中なら暑さも避けられますね。