ヨハネス・ブラームス6 |  ヒマジンノ国

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第2と第3交響曲において、個人的な推薦音源を持っていない。正直、これ等の曲の名演というものを意識したことがない。ドイツ風のカラヤンでもベームでも、イタリア風のジュリーニでもアバドでも、個性的なフルトヴェングラーでもトスカニーニでも良いと思う。どれも名演だと思う。他にも色々ある。

 

ブラームスの交響曲は全集になり易いから色んなものを聴くことが出来るだろう。

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<第2交響曲>

 

交響曲を書くという重荷を第1を書いたことによって外したといわれるブラームス。故にペルチャハで短期間のうちに仕上げられた第2交響曲は、第1に比べればライトな作風に思われ、ブラームスの「田園」なる呼ばれ方が定着している。

 

確かにそのニックネームには一理があるように思われる。穏やかでくつろいだ雰囲気がこの曲にあるのは確かだろう。

 

・・・だが・・・とも思う。くつろいだ気分は「田園」とはイコールではない。そんな重箱の隅をつつくような意見など本来必要でもないだろうが、昔から何か奥歯にものが挟まったような気分の方も多いかと思われる。

 

個人的にはそのニックネームはブラームスの作品の本質をついてないと思う。まずはその辺りのことから書いていきたい。

 
第1がどこか他人の楽想から出来上がってきたような雰囲気があるのに対して、この第2から第4までの作品こそが本当のブラームス自身の言葉で書かれた作品であるといえる。
 
しかし、仕方ないことかもしれないが、ブラームスの作品は何かとベートヴェンの作品と比較される。第1はベートーヴェンの「第10」、あるいはこの2番は「田園」(当然これもベートーヴェンの作品からの引用だ)といわれる。
 
ベートーヴェンの「田園」は聴くからに田園風景を思わせるような自然描写がある。ところがブラームスの音楽はどうだろう。「くつろいだ気分」はべートーヴェン、あるいはブラームスの当該作品にいえる特質なのかもしれないが、ブラームスの音楽についてはベートーヴェンの音楽ほど明確な描写性がない。ベートーヴェンは音楽のリアルな描写性に対して限界があることを認めているが、彼は田園交響曲でもってその描写性を追求してみた感じがあることも事実だ。
 
逆にいうのなら、ブラームスのような「観念的で曖昧な表現」は実際人間の感情の在り方に近く、その表現に向いているともいえる訳だ。
 
なぜなら明確なる描写性はブラームスが目指している音楽の「絶対性」を遠ざけるからだ。だからここには「人間の感情の表現」がある。いわば「具象性」への嗜好でなく「抽象性」への嗜好ということである。
 
あるヴァイオリニストがブラームスの感情表現のうまさについて語っている。
 
少し引用する。
 
<夢、あこがれ、胸さわぎ、絶望、大勢の中の孤独―――。
 
人間が自然に表す言葉、きもち、それらをブラームスほどはっきりつかまえた作曲家はいないのではないだろうか?
 
昔、ヴァイオリン・コンチェルトが初演されたとき、うやむや、どっちつかず、メランコリックなだけ等々と酷評された。しかし逆に考えてみると、人間のきもちというのは元来そうしたものではないだろうか―――。いったい何人の人が言っていることと思っていることが同じだと断言できるだろう・・・。
 
「いま泣いたカラスがもう笑った」のたとえ。なぜ人間は無性に悲しくなったり、また急にホッとしたりするのだろう。―――きもち―――の不思議。>(ブラームス、三宅幸夫著。ヴァイオリニスト、堀米ゆず子の言葉から)。
 
実際ベートーヴェンの「田園」は我々の世界に「田園」というものがあることが前提となっており、等身大の人間の存在を超えて(それでもなおベートーヴェンの田園は絶対音楽に含めてよいと思うが)、人間以外の前提を要していることは間違いがない。当然ブラームスはこの曲を書いているときにニックネーム(標題)が付くとは考えてもみなかっただろうし、そのニックネームは彼の作品の本質からいえば的外れのように思われる。
 
<モーツアルトにもヴェートーヴェンにも愁いはあるが、ブラームスのは感傷的で、暗い。愚痴っぽくて、人間的と言い換えてもいい。
 
風光明媚な避暑地ペルチャハで一気呵成に書かれた「第二交響曲」を、たいていの解説は「美しい自然を反映してブラームスには珍しい明朗な気分に溢れた曲」としてある。「ピアノ協奏曲二番」は、イタリア旅行の影響によってラテン的な明るさが導入されている、という。誰しもそんなふうに聴こえるのだろうか。にわかには信じがたい。
 
・・・(中略)・・・
 
「第二交響曲」の導入の二小節、二度下がって元に戻って四度下がる、この俯き加減の音型のどこが明るいものか。「交響曲四番」の冒頭にいたっては、メロディーは下降上昇をあてどなく繰り返し、低徊してやまない。だが、こんなゆくえさだめぬ旋律を書けるのは一人ブラームスだけではないか。>(宇野功芳編集長の本、わが愛しのブラームス、宇神幸夫から)。
 
つまりこの第2交響曲については、「くつろいだ」感情の表現体として構成されているにすぎないのである。しかも後半の楽章はむしろ活発であり、躍動感さえあるともいえるだろう。そこにこの曲の本質があるように思え、同時にこの曲特有の「とらえがたさ」があるように思われる。
 
そしてそのこと自体がブラームスの音楽性の本質なのだと思う。