ヨハネス・ブラームス5 |  ヒマジンノ国

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ブラームス、交響曲1番。アルトゥール・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団(1951)。
 
ミンシュ以外ディスクなら個人的にトスカニーニの演奏を推す。エネルギッシュに歌うブラームスであり、激情がトスカニーニを通し生の感情で伝わってくる。高い使命感を持った熱演。
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さてもう1点この曲について書くのなら、ブラームスは曲の内容と形式との重要性を秤にかけた場合、彼は形式の方を取る、ということである。
 
グスタフ・マーラーの復活交響曲を考えてみてほしい。かの作曲家の書いた作品は、自らのいいたいことを「初めから終わりまで」徹底して述べなければならないような、一種の強迫観念とも取れる長大な内容を有している。特に第5楽章における、英雄の復活までの道のりは信じられないほど壮大であると同時に、異常なほどのしつこさを見せる。
 
同様に、マーラーには劣るとはいえ、ベートーヴェンもいいたいことはいい尽くさなねばならない性格であった。
 
徹底的に主題を展開させるエロイカの第1楽章、勝利の凱旋をこれでもかと表現する第5の第4楽章、そして管弦楽から声楽入りの巨大な音響体に生成していく第9のフィナーレ。ここにおいても歓喜のメロディーの繰り返しは徹底している。
 
しかしベートーヴェンにおいてはいいたいことを尽くしながらも、全体のバランスは計っている風がある。ただ「いいたいことをいい尽くす」ことにおいて、ベートーヴェンとマーラーの両者は合致している。
 
このマーラーとベートーヴェンとの傾向は、つまり作曲家における、内面の強烈な表現欲による。
 
ところがブラームスにおいては、確かに交響曲1番のフィナーレは彼にしてはしつこく、彼の交響曲の中で一番長い楽章にも関わらず、やや作為的な感じが残る。ベートーヴェンの第9は長大であり、フィナーレは若干この曲のバランスを崩しているようにもみえる。それに比べると、ブラームスの第1のフィナーレは決して曲のバランスを崩すようなスケールにはなっていない。
 
実際このフィナーレのメロディーは先人たちのアイデアを借用しつつ、この曲にフィットするように作られた感じがあると思う(とはいえ、この第4楽章が1番初めに設計された様である)。マーラーとベートーヴェンは自分の「いいたいこと」を全ていいつくすためには曲のバランスを壊すようなこともしたことを考えると、ここにはブラームス独自の性質があるように思える訳である。
 
ブラームス第1のフィナーレのメロディーは、メロディーそのもに力があるとはいえ、「いいたいことを尽くす」作曲家のものに比べるとやや寸足らずにも思え、初めから計算されていたもののように見える。
 
どこか、書かされた曲、といっていいのかもしれないが、この辺りにブラームスの考え方というか、あり方が表れているように思えてくるのである。
 
彼は、いいたいことよりも形式的な整合性とかバランスを求めるのである。そしてこれはこの第1において顕著であると感じる。この曲が完成度が高いながらも、曲調のアイデアにおいて習作的な感触を残すことと無関係ではないように思われるのである。
 
それ故、本来なら、この曲はベートーヴェンの「第10」と呼ぶようなあり方とは違うニュアンスを示している。ベートーヴェンの音楽はバランスを取りつつも「いいたいことを尽くす」音楽であるのに対して、ブラームスの第1は「自分の求めるもの」を形作るために、楽想を「調整した音楽」であるということである。そのため、ベートーヴェンの作品は新鮮でありながら「粗削り」であるが、ブラームスの音楽は新鮮さを犠牲にしてでも「完成度が高い」ということがどうしてもいえる。
 
そしてそこがベートーヴェンとの決定的な差といえるだろう。