ヨハネス・ブラームス7 |  ヒマジンノ国

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ヨハネス・ブラームス交響曲全集。クルト・ザンデルリング指揮ベルリン交響楽団(1990)。

 

ザンデルリングによる美しい響きの全集。落ち着いたスローテンポから、グラデーションのきいた響きが全編を覆う。その分、運動性に欠け、曲の彫り込みが浅く、好みの分かれるところ。

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第3交響曲もまた発表された時、この曲もまたベートーヴェンとの比較が持ちだされた。
 
この曲は第2交響曲とうってかわり、ブラームスは感情の激しい動きを表現している。舞曲とも思えるような情熱があり、人々を興奮させる力のある曲だ。第3楽章のしぶい情熱の魅力を何に例えよう?
 
そういう意味では確かにベートーヴェンの「英雄」を思わせるところがない訳でもないのだが・・・。
 
<交響曲『第二番』と『第一番』の関係は、弦楽四重奏曲『第二番イ短調』と『第一番ハ短調』のあとでは、誰もが一様に、英雄的な作品を期待した。それで『第三番ヘ長調』(1883年)の完成を、皆が喜んだ。一部の批評家は早速、この曲に「英雄」の名を冠したが、これはこの曲にピッタリとはいえない。>(大作曲家の生涯、H・ショーンバーグ著、亀井旭、玉木裕訳)。
 
この曲もまたニックネームをつけるには中々難しいものがある。
 
<フーゴ―・ヴォルフ『第3交響曲』批判は、明らかに首領を失ったワーグナー派が巻き返しを狙ったものだが、よく考えてみると、そこには単なるプロパガンダ以上の意味がこめられているように思えてならない。つまりヴォルフはこの交響曲のなかに、彼自身はっきりとは気づかなったにせよ、何かそれまでにはない「異質なもの」を嗅ぎ取っていたのではないだろうか。たとえば作品の外枠をなす第一楽章と第四楽章は、両方とも「ディミヌエンド」で消え入るように終わる。これは、交響曲に対する既存のイメージから完全に外れていると言えよう。>(ブラームス、三宅幸夫)。
 
試しにベートーヴェンの「英雄」聴いてみるといい。第一楽章において、ここでは複数の動機が各々の性格を各自に語りながら、同時に存在しつつ、時には分離されて展開されていく。それは観念的な正確さをもとにしつつ、抒情性と激しさをない交ぜにしたヒロイックな音楽である。そしてついにはコーダにおいて、外に伸び行く力と、内面へと吸引する力とが同時に圧縮され、核爆発を起こす。
 
直前における天才達、ハイドン、モーツアルトまでの歴史において、ここまで意志の力でもって、「力」そのものを表現した音楽は未だかつてなかった。しかもその緊張感を楽章最後まで保ち続けることによって、まさにこの音楽が「英雄」のものであるという印象をはっきりと際立たせている。
 
ところがブラームスの第3、第1楽章においては情熱的な中間部に対して、結部に至ってディミヌエンドでもって、その激情を彼は隠してしまう。そのおかげでこの曲もまた、「何か」をいわれることを避けているかのように思われる。
 
ここにおいて激しい情熱を示しながらも、描写性、あるいは標題性を排除し、人間が身一つで理解できる「絶対音楽」を指し示し、体現しているのがブラームスの音楽ではなかろうか。
 
ブラームスの作曲家生活において、彼の生涯を象徴するような音楽はやはり第1交響曲だろう。しかし、それもベートーヴェンやワーグナー、マーラーなどに比べると印象が薄い気がする。むしろ、この第2や第3を含め、作品ごとにそれほど出来高の差を意識させないのがブラームスの特徴といいうるのかもしれない。