ヒマジンノ国 -45ページ目

 ヒマジンノ国

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今回は前回の続きで書き切れなかったことを簡単に書いておきます。

 

ざっくりと、非常に簡単に書きますが、こういう情報も少しぐらいは役に立つのかもしれません。

 

自分も勉強不足で、知らないことが多いですが、カルロス・ゴーンが捕まって、初めて日産がフランス企業になる可能性があったことに気が付きました。グローバル経済の中で、やはり日本も自分達のことだけ考えていれば良い、というような状況は過ぎ去ったような気がしています。

 

以下は世界の企業の時価総額ランキングですが、平成元年には日本の企業がトップのほとんどを占めています。ところが平成30年になると、上位35社の内、日本企業は1社のみとなってしまいました。

 

 

当然日本国内にも外国の影響が色濃く表れるようになってきています。

 

その影響が強く表れている事柄の1つに「食」の問題があると思います。実際に「遺伝子組み換え」のとうもろこしや、大豆など、かなりの頻度で使われているようです。

 

日本国内では遺伝子組み換えの栽培はほとんどされてないといいます。ですから、これらも外国の企業が率先して行っているように見受けられます。モンサントと呼ばれる企業などはかなり悪名が高いと聞いています。

 

日本では穀物の多くを輸入に頼っています。その際に沢山の遺伝子組み換え食品が入ってきています。しかも日本の法律では、次のようになっています。

 

・ 主な原材料(原材料の重量に占める割合が上位3番目以内)にしか表示義務がなく、含まれる量が5%未満であれば「非遺伝子組み換え」と表示できます。  

 

・組み換えDNA、およびそれによって生成したたんぱく質が残らないものにも表示義務がなく、油や醤油などはGM作物の使用は表示されません。 

 

「非遺伝子組み換え」表示が必ずしも安全でないことが分かります。

 

日本の「食」は安全と思っている人が多いと思いますが、実のはその逆の可能性が高く、世界で1番「遺伝子組み換え作物」が食べられている可能性があります。

 

2012年にフランスのセラリーニ教授が遺伝子組み換えの食物を食べさせたマウスの実験結果を公表しました。

 

 

上の写真がその結果だとしていますが、巨大な腫瘍ができてしまっています。この実験結果に企業は当然反発していますが、さて本当のところはどうなのでしょうか?企業側が正しければ問題ありませんが、当然セラリーニ教授側が正しいこともあり得ます。

 

グローバル企業の恐ろしさを我々は知って良い時期に来ていると思います。世の中日本人だけで回っているわけではないのですから。

 

遺伝子組み換え作物は、安価なので家畜のえさなどにも流通し、牛肉、豚肉、牛乳などにも影響があるといわれています。そして、多大な利益を上げている、有名な世界的ハンバーガーチェーン店のポテトや、あるいは世界的なコーヒーショップの飲み物なども、これらの作物が使われている、といわれています。1度調べてみることをお勧めします。

 

遺伝子組み換え作物は虫害に強く、生産性も高いために、価格が下がります。ところが人間への影響はまだまだ未知数です。何でそんなものを世界中に大量に流すのか・・・?

 

私たちの「欲」は際限がないのに、その割に、一旦立ち戻って物事を確認するということがあまりありません。今後、日本人に癌や、子供の疾患など増えないと誰がいえるでしょうか。こうしたことはもっとチェックされるべきでしょう。

 

まずは、穀物は国産を買うのがベストな気がしています。

 

また、同様に問題なのが人口甘味料なのかもしれません。

 

元々毒性が強いといわれる人口甘味料ですが、これらの原料にも遺伝子組み換えのとうもろこしが使われているといいます。以下のものは気を付けなければなりません。

 

アスパルテーム

アセスルファムK(カリウム)

スクラロース

ネオテーム

サッカリン

アドバンテーム

 

お菓子やジュースに入っている原材料を見ると、入っているケースがあります。特にノン・シュガー、カロリー・オフとかゼロ・カロリー系は入っている確率が高いですね。飴とか飲み物とか、又はチョコなどにも入っている場合はあります。こういった人工甘味料を口にしないとなると、コンビニでお菓子など買うのにかなり神経質にはなりますね。

 

これらによって20以上の副作用の可能性が報告されているそうです。
 
糖尿病

ガン

頭痛

メタボリックシンドローム

血液系の病気(心臓病、脳梗塞など)

代謝障害

甲状腺障害

アルツハイマー

パーキンソン病

内臓障害(胃や肝臓、副腎、腎臓などの肥大・石灰沈着)

奇形児の出生率増

骨格異常

目の疾患(眼病、視力低下、失明)

耳鳴り

神経疾患(頭痛、めまい)

アトピーやじんましんなどの皮膚病

 

など。
 
小さな子さんがいる家庭などは要注意だと考えています。我々の世代はもしかしたらそんなに問題は出ないかもしれません。しかし、2世代、3世代となっていくうちに、どうなっていくかが心配です。
 
これはあくまで個人的意見ですが、本来我々が口に入れるものぐらいは自分達の国で作り、消費させるべきだと思います。食物自給率が50%を切るなんてことは本来国づくりにあってはならいことです。100%に近い水準に戻していくべきです。
 
何でも金の価値に置き換えてしまうから、こういうことになってしまうのではないでしょうか。本来、農業は国の基幹を為す大事な産業だという位置づけで、もっと賞揚されるべきだと思います。
 
こうした知識の共有は面倒かもしれませんが、自己防衛に役立てるし、また、一種の啓蒙の役割もします。私たちは自分で身を守らなければならない時代に来ていると思います。
 
そしてそうやって身を守ることが、日本社会全体にも必要なことで、そういった人たちが増えることで、「社会に対する啓蒙になれば良い」ということではないかと、考えています。

 

今回の記事は興味なければ読み飛ばすか、無視してもらって構いません。

 

「いいね」もいらないです。

 

以前ケイティー・ペリーが洗脳技術のMKウルトラなんかに使われているんじゃないかという話を少し書きました。フリーメーソンとかイルミナティといわれる組織の手先みたいな感じでいわれています。

 

これらの組織は世界中の優秀な人を集めて、自分達の野望に使おうとしているとか・・・。彼らは自分達がその組織に属していることを秘密にしますが、それとなく手などでシンボルを使って表現しているといいます。

 

特に多いのが手で666を作るグッドマークとか、片目をモチーフにして、眼を隠したり、眼の周りをかこったりするポーズだといいます。政治家とか芸能人などに多いとか・・・。

 

 

本当かな・・・。レディー・ガガはよくやってますね。(トランプ大統領がまともだ、という人は結構多いみたいです。自分はもう、ややこしくて良く分かりません。とりあえず付記しておきます)。

 

まあ、グッドマークぐらい、誰でもするといえばしますけどね。

 

 

彼等のやり方はエリートを必要以上によく見せるんですね。大衆がエリートに従順に従うようにするためです。

 

しかし、実際、世の中エリートとといっても、同じ人間です。NHKの「マイケル・サンデルの白熱教室」という番組で、クリスティアーノ・ロナウドが年間数十億もお金を稼ぐことが正しいのか、という議論をやっていました。

 

確かにあるジャンルの天才が大活躍するのはすごいですね。ですが年間80億も稼ぐとなると、どうなの、とは確かに思います。人が暮らしていくのに、そんなに沢山お金はいりません。サッカーがうまいことは確かにすごいけど、何百回とゴールを決めても、大地から大根は生えない。

 

世界的なサッカー選手と、(例えば)農家の人を比べて、こんなに収入の差がある必要があるの?とは確かに思いますね。極論ですが、サッカー選手が世の中からいなくなっても、世界は回ります。しかし、農家がいなくなれば世の中は困ってしまいます。

 

さて、・・・その他、諸々・・・印象操作をフリーメーソンやイルミナティとかがしているとかで・・・(ロナウドが彼らの仲間かはしらないです。まあ、どちらでも良いですが・・・)。('ω')ノ

 

芸能人だと、ケイティー・ペリーがその広告塔の1人だとかいいますね。

 

 

で、最近テイラー・スイフトのCDを見ていたら似たような感じになっていました。

 

 

ネットで調べたら、彼女もその仲間はではないかという話です。テイラーがクローン人間だという話がありますが、そこまでいくとさすがによく分からない・・・。(>_<)

 

しかし、他にも・・・雑誌のレコード芸術を見ていたら、指揮者のクルレンツィスも・・・。

 

 

お前もか、と思いました。芸術家だからそんなポーズなのかもしれませんけども。

 

亡くなった、クラシック音楽批評家の宇野功芳が、クラシック音楽界も、フリーメーソンかゲイの方が売れやすいとかいってた気がしますね。

 

彼らの作ったものを否定したいとかではないんですが、ちょっと気色悪いですね。あんまりよくない噂を聞きますのでね。

 

1992年に国連でアジェンダ21というの採択しましたが一見人類の理想を歌ったような文言の裏には、エリートたちが主体になって彼らに都合よい世の中にしようという計画があるとかいう人がいます

 

例えば普段口にするものには意図的に人類の数を間引きをするために毒性の強いものを入れているとか

 

ゼロ・カロリーの飲み物に入っているアスパルテームという物質は長期に飲み続けると、脳に損害を与えるような、毒性の強いものといわれているようです。そういうものを、知らない内に人に飲ませて人減らしをしようとしているとかいわれています。アスパルテームについては批判が多くなって、最近減ってきたみたいです。ただ、人口甘味料は個人的に1度疑ってかかることが多くなりました。

 

他にはやはり、遺伝子操作された大豆なども危険だということだそうです。

 

こうしたことが意図的にやられている可能性があるのだと・・・。

 

他にも色々いわれているようですが、最近ちょっと有名になってきているのがケムトレイルという、飛行機から噴霧される物体です。

 

 

飛行機雲を装って、大気に金属片や化学物質を混ぜたものをまいているという話です。これは気候を変化させたりできるらしく、人体にも有害といわれています。これらは通常の飛行機雲より、長い線となって長時間空に残るといいます。

 

飛行機雲の中にも長く残る物もあるらしいですが、通常の飛行機雲は10分もすれば消えるものがほとんどです

 

これに気付いた航空会社の人が、告発をしようとしたら、ひどい嫌がらせとバイアスをかけられたという話を聞きました。ヤクザみたいなもんですね。

 

 

上のような雲の軌跡の場合はケムトレイルの可能性があるそうですこれも国際的に計画してやっている人達がいるといわれています。日本でもあるそうです。見たことがある人もいるのかもしれません。

 

気候を変えたり、あるいは毒性のものをまいて、これも知らない内に人を減らそうとしているとかでね。アメリカでは反対運動は結構あるようです。

 

アスパルテームの件もそうですが、市民が反対の声を上げると、止めることも多いらしく、気が付く人が増えればと思っています。

 

自分は正直最近は食べるものも少しづつ気を付けだしてます。水道も民営化するとかいうしね。日本企業も外国人の社長とか増えてきてる気がしますね。

 

まあ、こういったことを信じるのは馬鹿だというかもしれませんが、個人的には直感的に怪しいと思ってしまうところもあるので。気になる方は一度ご自身で調べてみることをお勧めします。

 

読んで不快になった方がいらっしゃったら、申し訳ないです。

 

とりあえず以上です。勝手なことを書いておいてなんですが、まずは個人的見解ということで。正誤の判断は、各自でお願いいたします。

 

LPを購入しだして、無駄遣いをするようになりました。そろそろ支出を押さえないといけないようです。アナログ盤に使うアクセサリーがどれもそこそこの値段です。そんなにお金もないのに、このままだと危険です。('ω')ノ

 

それでもイザベル・ファウストの無伴奏が欲しいです。強欲だな。(>_<)というより、ただのお馬鹿。

 

初めだし、欲しいLPをある程度はまとめて手に入れたら、後はゆっくりしたいです。

 

そんな中、当初購入したいものの内に、LPでマリア・カラスの声が聴きたいという欲望がありましたので、とりあえず少し購入しました。

 

今やっている映画も観たいですが、時間があるかな?

 

 

椿姫の全曲です。チェトラによる、1953年録音のカラスによる唯一のヴィオレッタのスタジオ録音です。有名なのは1955年のジュリーニとのライヴの方でしょう。「トスカ」なんかが欲しかったんですが、新品だと「椿姫」と「カルメン」しかありませんでした。

 

 

自分はマリア・カラスを理解するのに時間がかかりました。

 

多くの人は1960年代のステレオ録音を求めますし、自分もそうでしたが、「トスカ」、「ノルマ」など、彼女の十八番を聴いても、個人的に中々マリア・カラスの良さは分かりませんでした。

 

正直何も知らない人がカラスを聴いて、オペラを聴こうなんて思う人はどれぐらいいるのでしょうか?結構難易度が高いのでは?と自分には思えます。オペラを聴くのなら、他の人から入った方が良いかもしれませんね。

 

あくまで個人的見解ですが、彼女のすごさを理解できたのは1950年録音の「アイーダ」と「トロヴァトーレ」のライヴ録音を聴いてからでした。迫力がすごいんですね。

 

自分は録音に残されたカラスの芸術については、ドイツの音楽評論家、ユルゲン・ケスティングの著作を参考にしています。その著作に書かれていることは自分には良く理解できるものですから。マニアックな評論家のチョイスかもしれませんけども。日本だとカラスを専門に批評している人はいるのかな?確認してないので分からないですが、ケスティングの録音評はしっかりしているというのが自分の意見です。

 

以前書いたので、繰り返しになるかもしれませんが、彼によるとスタジオに入った1953年には彼女の声の衰えは始まっていたようです。

 

ヴェル・カントの名手たる彼女は、日本人のように声をしぼるのでなく、横隔膜の力を目いっぱい使って声を広げ、音色に艶を出します。ただ彼女は声がこもりやすく、テバルディのような声の美しさがない。しかしそれを補って上回るのが、その声のコントール技術と、圧倒的な声のパワーでした。1950年のライヴ録音は物凄く音が悪いんですが、その歌唱は圧倒的でした。現代人の芸術的価値観にはやり過ぎに映るかもしれませんが「すごい」という意味においてはこれ以上はないと思ったものです。すさまじい威力の声をコントロールして、歌でドラマを表現する彼女の力は計り知れません。

 

フルトヴェングラーの指揮、アルフレッド・コルトーのピアノ、これらは音楽の中に自己を没入させて、演奏する音楽のパート全てに意味を見出していく方法を取ります。楽譜は単なる記号でなく、それ以上のものということでしょうか。マリア・カラスは彼らと同じことを、声でできるわけです。ヴェル・カントの技術を使って、オペラの中の歌に徹底的に性格と意味とを与えることができたのが彼女でした。

 

歌の美しさ、というのもあると思いますが、カラスを聴く場合、それ以上に彼女の作り出す「声のドラマ」を聴かなければなりません。

 

そしてケスティングの言葉を借りれば<カラスが「最高位(アッソルータ)」にあり、ドラマティックなパート、抒情的なパート、装飾的なパートの全てを完璧に歌うことができたのは、1947年から1951年のあいだだけである。>となるわけです。

 

 

後年のステレオ録音によるオペラの全曲においては声の衰えが隠しようもなく、パワーのない、歌う技術で乗り切っているように思えます。そして、全体にやや間延びするため、全盛期のものと比べると全体の統一感を欠いているようにも聴こえます

 

しかし、反対の見方をすれば、その分味わい深いという意見もあると思います。

 

ただまあ、これは厳しすぎる批評家的な見方でもあるでしょう。少なくとも、スタジオ録音にしても有名な53年録音(モノラル)の「トスカ」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」は個人的に大好きです。それに比べるとこの「椿姫」は微妙な位置づけかもしれません。LPになって音も少しマシかな、と思ったんですが、音はそれなりに悪いままです。

 

それでもカラスの力ある歌唱は聴けますね第1幕のラスト、ヴィオレッタのアリアを聴くとこんなに歌える人はいないな、ということを思いますね。それにケチをつけるのもあんまり自分の感性の貧しさを晒すようで、止めにしないといけませんね。

 

 

カラスによるカルメン全曲です。先ほどから書いている、1960年代のステレオ録音です。1964年の録音ですねケスティングの批評を載せちゃいます。

 

<1964年末には、大々的な宣伝と共に「カラスのカルメン」がリリースされたラドニ・ミルネスは『レコードで聴くオペラ』の中でこの録音をきわめて批判的に扱っている。いわく、カルメンには魅力(チャーム)がないし(そもそもメリメの原作におけるカルメンも魅力的ではない)、声には低音の重みが欠けている。そのうえカラスのフランス語は「個性的」である、と。これはおそらく、慣用句(イデオマティック)ではない、という意味なのだろうだがこれは、正確に発音する能力というより、声の問題である。カラスは多くの母音を声の状態に合わせて発音しなければならず、いわば喉声で色付けせざるを得なかった・・・(中略)・・・

 

細部はかなり含蓄に富み、音楽的にも十分に仕上げられているとはいえ統一感は薄い。この録音は少なくとも私たちにとっては作為的に過ぎる。≪トスカ≫の録音と違って技術的芸術作品ではなく、オーラを奪われた作品に堕している指揮者ジョルジュ・プレートルが問題の多い版を用い、しかも皮相な、まさにひどい音楽運びをしているだけになおさらである。>(鳴海史生、訳)

 

自分はフランス語の発音のことは分からないですが他の件に関してはケスティングと同意見です。指揮者のプレートルを嫌いではないですが、彼はカルメンには向きませんかね

 

カラヤンが、カルメンに関していえば、レチタティーヴォありの「ギロー版」となしの「アルコア版」の両方を録音しています。本来ビゼー自身はレチタティ―ヴォなしで作曲していました。カラヤンの演奏を聴くと分かるのですが、その管弦楽はカラッとした、南欧風の印象が強く出たものでした。しかるに、ギローの編曲したレチタティーヴォ入りのものを聴くと、流れは良くなりましたが若干音楽がべとつきますね。

 

そしてプレートルの流儀というのは、粘着性のあるややしつこい指揮ですからこのマリア・カラス盤のようにレチタティーヴォ入りでやると、相当程度やにっこくなって、ビゼーの美しい管弦楽の良さが無くなりますね

 

マリア・カラスもやはり声はかなり弱っていますただ、ここでも彼女はかなり声だけでドラマを作っていて、そこは聴きものなんじゃないんでしょうか?自分は嫌いじゃないです踊りに自信がなく、舞台で彼女はカルメンをやりませんでしたが、わざわざ録音してカルメンを残したという理由には、彼女なりの目算があったからだとは思います。

 

個人的には、彼女が意志的になる時や、ふてぶてしい性悪な女の性格を声に滲ませて歌で演じるとき、カルメン本人とのイメージが重なる場合があり、心中では「そうそう」と思うことがありますね。

 

とまあ、あんまりこんな批評に頼りすぎると音楽を聴く楽しさがなくなってしまいますでしょうか。

 

当然今でもカラスのカルメンが決定盤の1つだという人も多いとは思いますし。そういう人はやはりそう聴くべきだと思うし上記はあくまで自分個人の主観にすぎません

 

自分はカラスの声が聴きたくてこの盤を購入しました。正直、今さら名盤かそうでないかにはあまり興味がありません問題はカラスの声をできるだけ生に近い声で聴きたいことでした

 

するとネットのHMVのアドバタイズには次のようにありました

 

「今回登場するLPでは、カラス自身がLP発売のために認めたものでもある、パリの保管庫に眠っていたLPカッティグ用のマスターテープを使用しているのがポイントでもあります。このテープは最初のカッティングのために使われて以降、使用されることがなかったというもので、LPの仕上がりがとても楽しみなところです。」

 

そんなテープがあるんですね。マリア・カラスの声を聴きたいと思っていた自分には朗報でした。

 

購入して思いましたが、正直かなり音の良いLPだと思います軽くて、透明な音質で満足しています

 

 

中古の抜粋盤(直上の写真)も持っていますが、さすがに音が違うかなと思います音の透明度が増したので、プレートルのやにっこさもあんまり目立たなくなりましたそれに若いときほどの力強さはないですが、カラスの歌声も生の感じがして、良かったです。こういうのが聴きたかったかなと思います

 

こういう録音を聴くと批評と音楽の楽しみは別かな、と思う時がありますね。批評は必ず必要ですけどね。楽しみは色々かな。('ω')ノ

 

また、「椿姫」と「カルメン」を比べるとやはり、「椿姫」の方がカラスらしくはあるかなと再認識もした次第です。

 

  

 

彼女の評伝とか映画から察するに、カラスがかなり力づくで成功を勝ち取っていった様子が想像できますね。「マリアカラスの真実」という映画を観ると、彼女の晩年の孤独はそうした無理やりの行いの結果だったように思えます。因果応報です。世界的な名声を得ましたが人間的にはどうだったかな?と思いが残ります。

 

リアルな録音を聴きながら歴史に触れたような気がしました。

 

LPを聴き始めて、一月ぐらいですが、色々と迷走しながらやらせてもらっています。この前もレコード針の扱い方を知りたくて、少しばかりいじっていたら、急に再生されるLPの音が悪くなってしまいました。

 

針圧を低くすると、針がレコード盤を跳ねてしまうし、ノイズも良く拾います。反対に針圧をかけすぎると、レコード盤を痛めるとかで、これもダメなのだそうですね。

 

  

 

レコード盤に埃が乗ります。それが嫌で、何の知識もなく、軽くティッシュ・ぺーパーで払おうとしたら、今度はティッシュ・ペーパーから大量に埃がこぼれ、さらに悲劇が増しました。おかげで一時期、ピアノの音は割れるは、ノイズがひどいはで、泣きたくなるぐらいになりました。仕方なく、色んな清掃道具を購入し、針圧を調整し直して、再び元の音を取り戻します。

 

 

アナログ盤を聴くのは色んな掃除をしてからでないといけないようです。ほとんど儀式みたいな感じといえます。

 

アナログ盤を聴くのはできるだけ朝の良い時間に、常に針先と盤面を掃除しながら聴くことに決めました。('ω')ノ

 

 

さて、ローラ・ボベスコのLPを聴いて、ヴァイオリンの音が格別美しく再現されるのだと思うに至りました。芯のある、厚みのある音が暖かく再現されます。

 

フルトヴェングラーの演奏もLPで聴いて、全く今までと印象が変わってしまいました。CDで聴いて当然フルトヴェングラーという指揮者の実力は知っていましたが、どこか完全に好きになり切れませんでした。しかし、LPで彼の演奏するべートーヴェンの交響曲を聴くと、弦の厚みと、その合奏から流れ出てくるメロディーのまろやかさが、CDでは聴き取れていなかったものだと感じるようになりました。彼の演奏は考えていたよりもずっと滑らかだったのかもしれません。CDで聴くとどうしても音の汚さが目立ちますが、LPで聴く限り、むしろ美しいと思うようになりました。彼の演奏する田園のまろやかな美しさは以前から好きでしたが、愛聴するほどでもありませんでした。しかし、今後は違うかな、と感じています。

 

ボベスコのライヴ盤も好きです。ヴァイオリンの高音がすっと抜けていくだけで、こんなに感動するものだとは考えてもいませんでした。LPで聴くと何より音の像が大きいと思います。CDでも音を大きくすると良いのかもしれませんが、楽器の音以外の、空気の音というのか、そういう部分も大きくなるので、ちょっと落ち着きません。しかしLPだと楽器の音だけが大きくなるように思えます。おかげで、楽器の音色(弦楽器とアナログ盤は相性がいいように思えます)が隅々まで見渡せるので、その音色の繊細な移ろいが楽しめます。なおかつ、音の押し出しが強いので、音が部屋を満たします。

 

ボベスコのライヴ盤は選曲が、ヴェラチーニのソナタ、ショーソンの詩曲、ブラームス、ドビュッシーのソナタという組み合わせで、品と色気を併せ持つこのヴァイオリニストの美しさが良く出ています。音色を生かそうとして、フランスの作曲家だけで固めてしまうと結構べたつきますが、絶妙な選曲で、だれることがなく、色気のある音色を楽しめる構成ではないでしょうか。

 

 

LPはヴァイオリンの音色が良いと感じたので、集めようかと思います。

 

早速ですが、ヒラリー・ハーンのバッハ(2017)を聴きます。彼女のデビュー盤はこのバッハの無伴奏を半分録音(1997)したもので、20年ぶりにその続きを録音したことになりますね。過去の演奏のCDは持っています

 

 

当時は17歳でこれほどの演奏ができるのか?とかで、センセーショナルなものだったそうです。自分はタイムリーで確認してないので、詳しくは知りません。

 

デビュー盤のこの演奏は構えた様子がなく、非常に素直な様子で弾き切っていますモーツアルトのようとでも申しましょうか。そういうものをどう評価するかは難しいですね。

 

新しい方はもう少し円熟味があるようです。いくらか構えた様子も感じました。

 

最近の人は感情をあんまり出さない演奏が多いですね。この演奏もそうだと思います。感情を出し過ぎると、節回しが付きすぎてべったりしますが、調子が合わせられれば感情移入ができるので、のめり込める要素になります。そういう類の演奏ではない気がしました

 

録音も最近は繊細で、アクを感じさせないものが多いように思えます。ショスタコービッチとかプロコフィエフなんかの精度の高い演奏をそんな録音で聴くと、真に近代的なスタイリッシュな美を堪能できるように思います。こういうクールな態度は自己コントールを主体とする理性からくるように思われ、下世話な人間の感情を超克したものを感じさせます。当然ボベスコとは違う世界です。ボベスコが下世話ということではありませんよ。

 

パルティ―タ1番が始まって硬質で透明なヴァイオリンの音色が部屋に満ちた時、まさにバッハの持つ理性と調和とを感じました色彩は純白を思います。透明な大理石、とでもいうような感じです。これはヒラリー・ハーンの円熟味がさせる技というよりも、彼女の高い技術と、その精緻な録音からくると思われました実際、埃一つない空間だと思いました。

 

ボベスコのヴェラチーニのソナタを聴いた時にも思いましたが、音の像が大きいので自分は聴き手として、作曲家の作り出した世界に飲み込まれたような気がしましたそこは数百年前のバロックの世界であって今の我々のいる喧騒の世界とは違う、という印象です。これは必ずしもバロックの作品だけでなく、古典派とかロマン派の作品でも同じような効果は得られると思います。

 

古い作品はその内部に作られた時代の空気を宿していると感じます。だから我々聴き手は、その作品を聴いているとその時代の空気に触れるような気がします。

 

その世界は現代のように「何か一つの価値観」に裁かれる世界でなくてもっと寛容な価値観に彩られた世界だったように思えます。価値観という考えさえあったか分かりませんそれ故、そこにいると誰しもが存在を許されるような気がするのだと思います。仕事から帰って来た人達がクラシック音楽に癒されるの一つの原因は、そういった過去への一時的な回帰にあるような気がしています

 

果たして、自分の眼前にもハーンによってチリ一つない様な清潔なバッハとバロックの世界が顕現した気になりましたその演奏の正確さ故に、普段よりもっとリアルな世界があるような思いでした繰り返し聴けば、慣れてしまうでしょうがこういう瞬間が自分は音楽を聴いていて本当に好きです。

 

音楽の美しさと使命とを思います。

 

歴史上に存在したピアニストの数を全て数えることは難しいと思います。

 

ハロルド・C・ショーンバーグの「ピアノ音楽の巨匠たち」を読んで、18世紀以降のヨーロッパとアメリカにおけるピアニストの数を知るにつけ、今日、我々が知る、あるいは、知っている、ピアニストというのは何だろうという思いになりました。この書物には沢山のピアニストが紹介されてますが、とても覚えきれる数のものではありません。当然、ベートーヴェン、リスト、ショパン、ゴットシャルク、カール・タウジヒ、クララ・シューマン、ルビンステイン、レシュテツキなど、その時点で特筆されるべき存在になった人達がいますが、そういった人達は一部で、今では忘れ去られた、有名だった人達が他にも沢山いました。

 

 

これは何もピアニストに限ったことではなく、野村あらえびすこと、野村胡堂の書いた「楽聖物語」を読むと、ここに紹介されている演奏家も現代ではほとんど聴かない演奏家の人達の名前が出てきます。こういうものを読んでいると今日我々が、「あの演奏家が一番だ」、とかいっている様子はあまりに惨めで小さなことかもしれないと思ってしまいます。

 

 

また、音楽之友社の「不滅の名盤1000」を読むにつれて、こういう本ができるのは悪いことではないですが、物事の真実を伝えているのかどうかは微妙だと感じるようになりました。

 

歴史が消してきた人達の人生の上に、こうしたものが出来上がってきているとなると、良いことばかりでなく悪い面も考えられるかとは思います。

 

「名盤ガイド」などは「こういう演奏を聴かせたい」という思惑は選定者にあるでしょう。基準はいると思いますが、どこを基準にしているか、ということは書かれるべきでしょう。

 

まあ、一般人はクラシック音楽など一種の娯楽にすぎませんから、この手の本は必要でしょうけども。アディクトな人々にはどうでしょう?

 

フランスの教養人であったミシェル・レリスは「オペラティック」(大原亘久、三枝大修訳)の中で次のように述べています。

 

<オペラのレコードやフェスティバルの数が増えてくると、最も評判の高い歌手であっても退屈なスターに堕してしまいがちだ。今日では、クラシック音楽の分野でも、レコードのベストセラーというものが生まれるようになった。カラス、テバルディ、デル・モナコなどがそうだ。一方で、こうした時代の寵児たちとくらべて商業的に弱いアーティストにとっては、まさに不遇の時代である。彼らが外国で売り出されることはほとんどなく、「偉大な」録音〔名盤〕となるべく制作されたレコードのおいても配役が回って来ることは稀である。かくして、売れっこ以外の歌手の歌声を聴こうと思ったら、一苦労せざるを得ないのである

 

金銭的な理由からあたらしい作品をかけることがなく、有名なオペラの最高の上演―――出来ばえの保証されたもの―――ばかりを行おうとするフェスティバルは、なんと腹立たしいものだろう。

 

すべては観光産業の発展に、またレコードやラジオといった産業の発展に結びついているのだ。>

 

 

20世紀初頭、まだ録音技術が発達していなかった時代、ピアニストは自分達の記録をピアノロールに残しています。そのいくつかを古いLPで聴きました

 

ここに収められているのはレオポルド・ゴドフスキ―(1870-1938)、ウラディミール・ド・パハマン(1849-1933)、フレデリック・ラモンド(1869-1948、フルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)、アルトゥール・フリートハイム(1859-1932)、マルク・ハンブルグ(1879-1960)、ルドルフ・ガンツ(1877-)、ハロルド・バウアー(1873-1951)オシップ・ガブリロヴィッチ(1878-1936)です。

 

個人的にはパハマンとブゾーニの名前は知っていましたが他の人々は書物で確認などしないと分からない人達です。これらの人々も当時は有名人であり、それなりには名を知られた人達でした。ここにある全ての演奏家のピアノロールを初めて聴きましたが、本人が目の前で生き生きと演奏しているかのように聴こえました。

 

しかし「ビロードのような音色」といわれたパハマンの演奏などは、正規の録音があるらしいのでそれを聴かないとちょっと分からないかと考えています。

 

ゴドフスキ―の演奏はクールな技術的達観があってなされているように聴こえました現代に通じるものがあると思います。それでも感情の流れ方は自然で、魅力がありました。

 

他で個人的に記憶に残ったのはガブリロヴィッチです

 

<彼は非常なニュアンスの幅と究極の音楽的エレガンスを掌中に収めていた批評家たちは初めから彼の音色を激賞した。1906年にウィーンの『Deusthes Volksblatt(ドイチェス・フォルクスブラット)』の批評家は、ガブリロリッチの「歌うようなタッチ、影のようなピアニッシモ、そして決して聴き手に押し付けない強さ」について書いた>(「ピアノの巨匠たち」、ハロルド・C・ショーンバーグ著、後藤泰子訳。)

 

ショーンバーグは著作の中でそう書いていますがこういった評論が分かるような、繊細で滑らかなショパンがピアノロールからも聴かれました。

 

 

「コジマの時代」と題されたワーグナー歌手の録音集。CDで12枚組。

 

我々の時代のワーグナー歌手といえば誰になるんでしょう。自分は勉強不足なので現代のものはちょっと分かりませんね。

 

自分なんかだとどうしてもハンス・ホッタ―とか、フラグスタート、ブリギット・ニルソンなどになってしまいます。

 

ヴォ-タンはハンス・ホッタ―、アルベリヒはグスタフ・ナイトリンガージークフリートはヴィントガッセン、ブリュンヒルデはアストリッド・ヴァルナイあたりが最高でした。そして1951年バイロイト音楽祭録音の「神々の黄昏」のハーゲン役のルードウィッヒ・ウェーバーはこれ以上望めない程の上手さでした。

 

しかしここに記録されているのは1900年から1930年までの録音で、その時代に活躍した歌手と一部、指揮者のものが入っています。記録されているのは90人以上にのぼります。

 

マリアンネ・ブリント(Ms/1842-1921)、リリー・レーマン(S/1848-1929)、ヘルマン・ヴィンケルマン(T/1849-1912)、ヴィルヘルム・グリューニング(T/1858-1942)、エルネスティーネ・シューマン=ハインク(A/1861-1936)、エルンスト・クラウス(T/1863-1941)、エレン・グルブランソン(S/1863-1947)、パウル・クニュプファー(Bs/1865-1920)、マルタ・レフラー=ブルクハルト(S/1865-1954)、エリック・シュメーデス(T/1868-1931)、テオドール・ベルトラム(T/1869-1907)、アルフレート・フォン・バリー(T/1873-1926)、アドリエンヌ・オズボーン(T/1873-1951)、ヴァルター・ゾマー(T/1878-1955)など。

 

指揮者としてはジークフリート・ワーグナー、R・シュトラウス、フェリックス・モットルなど。

 

例えばヘルマン・ヴィンケルマンなどはパルシファルの初演で主人公のパルシファルを歌った人物です。

 

彼の録音はマイスタージンガーからの一節です(1900年の録音)。しかし、今となっては何を考えて聴いて良いかは分かりません。今の歌手と歌い方が違い過ぎて、録音されている人達の特性の区別がつかないのです。90人分も入っていますから、当然といえば当然でしょうか・・・。

 

ジークフリート・ワーグナーはローエングリンの前奏曲などを演奏していますが、現代ほど音の角が立たず、ダイナミクスもこれ見よがしのところがありません歌手達もそうですが、皆が皆、現代の演奏家のようにつんのめって、焦った様子を見せないのが興味深いところです。

 

こうして色々聴いてみると、今我々が名盤として語っている録音というのは、今まで生きていた人々が演奏したり歌ったりしてきたもののほんの一部だということを実感します。沢山の人たちが演奏し、歌った、そこにかけられた彼らの情熱と努力があったかと思うと、歴史の壮大さとか、自分の小ささを改めて実感させられたのでした

 

我々の知性や知識など、たかが知れているのだと感じました。

 

近頃聴いたり読んだりしたものの中から少し書きます。

 

かなり長いページの本を何冊か並行して読んでいます。個人的な弱さというか、年齢のせいというか、長い書物を一気に読める集中力が持続できません。かじり読み的に数冊同時に並行させて読んでます。ニューエイジ系の書物2冊、音楽関係の書物で吉田秀和のもの、あるいはベルリオーズのもの。小説2冊、これはSFとナボコフの「ロリータ」ですが、このうち小説2冊は挫折してもおかしくないです。

 

そんな中、やっとのことソロモン・ヴォルコフの「ショスタコービッチとスターリン」を読み終えました。ソロモン・ヴォルコフはソヴィエト生まれの、音楽批評家兼ロシア文化史家です。有名な著作は「ショスタコービッチの証言」のようです。ちなみに自分は「証言」の方は未読です。

 

 

この本から沢山の発見をしました。その中の1つが、ショスタコービッチの「ヴァイオリン協奏曲1番」の価値です。この曲は以前自分のブログで面白くなかった、と書きました。これは自分の中では今でも多分正しいでしょう。ただ、傑作とも思えませんでした。古来、ヴァイオリン協奏曲は楽しい作品が多く、ショスタコービッチの同時代の先輩であるプロコフィエフの作品も、美しく、楽しみがある作品です。

 

個人的にそうした先入観がありますから、このショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲1番のグロテスクな内容というのは、中々受け入れがたいものがありました。ヴォルコフはこの作品を「典型的な地下文化」の作品だとしています。

 

ヴォルコフの著作を読む限り、この曲は繰り返しソヴィエト中枢から「形式主義」の批判を受け、絶望の淵に立たされた彼が、弾圧の厳しい時期に書いた秘密の作品だったようです。

 

当時スターリン、あるいはその意向を批判することは批判した者の命を奪いかねない行為でした。反対に作曲家が、西ヨーロッパの流れを受け継ぐ、「形式主義」の批判を受けることもまた、1つ間違えば死に直結することでした。この作品は1948年に完成されていますが、この年、ソヴィエトの作曲家同盟はスターリンの思惑によって、ショスタコービッチをとりわけ告発の対象としたのでした。

 

この後ショスタコービッチは公職から追放され、絶望を味わいます。

 

今更かもしれませんが、ショスタコービッチの態度と作品は常に複雑で、表向きは「死の恐怖」から免れるため、ソヴィエトのイデオロギーに沿った風な印象を見せます。しかし、彼の本心は恐らく、こうしたイデオロギーによる締め付けを殊の外嫌っており実際の作品の内容はその心情の吐露に使われたと考えられます。その上、吐き出された感情の吐露が、公的に読み取られないようにしなけらばならない、という難しさがあったようです。

 

このヴァイオリン協奏曲もその例に漏れず、当時彼が感じていた鬱屈した感情の表現があり、そこを聴かなければならないようです。暗示的な内容も多く、簡単には分かりにくい作品のように思えます。

 

皮肉と辛らつさを持った第2楽章のスケルツォも素晴らしいですがこの曲の核心部分は間違いなく第3楽章にありカデンツァを含む長大なヴァイオリンのパッセージは真実味があり、慟哭や絶望を超えてしまった、この作曲家の心の虚ろな動きが表現されていきます。

 

フィナーレは静かな第3楽章から一転、熱狂的なリズムに乗って諧謔とも自虐ともとれる音楽になります。そして曲の終わり近く、「スターリンの肖像」といわれた、第10交響曲のスケルツォが一瞬顔を出しますが、真にゾッとするシーンです

 

 

2010年に録音されたエサ・ペッカ・サロネンとリサ・バティアシュビリの演奏がどれぐらい曲の内容を掘り起こしているか他の音源を知らないために、分かりにくいですしかし1つはっきりといえることは、この演奏の美しさでしょうか。

 

最新の録音に支えられて、信じられないような繊細なヴァイオリンの芳香が、清冽なガラス張りの空間に漂うかのようです。その美しさは類まれなものでしょう。第3楽章のカデンツァの孤独なリサの集中力は、聴くものを引きつけヴァイオリンの描くメロディーの軌跡は、光の線で描いたエッチングのようです

 

この先、ショスタコービッチの音楽はファシズム傾向の強くなっていくこの世界の中で、より一層、その意義が見直されていくような気がします。

 

 

チェリビダッケによる東京でのライヴ。同じ音源がソニーからも出ています好みの問題はあるでしょうが、一般的に、ワーナー(旧EMI)から出ているブルックナー8番の演奏と比べても、演奏内容はこちらが上でしょう。

 

今回手に入れたのはAltusレーベルから出ているLPです。

 

 

チェリビダッケの演奏をLPで聴きたいと思っていたので、池袋のディスクユニオンの中古を発見しましたが、即買いをしてしまいました。新譜は廃盤とのこと。

 

演奏のことだけいってしまえば、海賊盤で出ている1994年リスボンライヴの方がさらに良いと思います。こちらも調べてみるとLPが存在するようですしかしこの海賊盤を作っていた会社は解散しており手に入れる方法は最早皆無。自分はCDで満足します

 

 

チェリビダッケの演奏がまだ海賊盤でしか出回っていなかった時代に、自分はいくつかの演奏をCDで聴いていましたその時に感じた弦合奏の美しさは想像を絶していたものです。

 

中々これぐらい旋律の滑らかな美しさにこだわった指揮者も珍しいでしょう。LPを手に入れることができてとても満足しました

 

 

こちらは新譜です。テオドール・クルレンツィスの演奏した「マーラー交響曲6番」(2016)。

 

前回のチャイコフスキーの「悲愴」に比べると、個人的にはこちらの方が受け入れやすかったです私見ですが、クルレンティスの演奏はトスカニーニのように直情的なもののように思えますしかし、オーケストラの精緻さは比べ物にならず、その点はジョージ・セルとか、ピエール・ブーレーズなどを思い出しました。

 

エネルギッシュですが透明感抜群で、全く現代的というべきスマートさがあります。個人的にはチャイコフスキーについてはもっとロマンティックな演奏が好みですね。しかし、マーラーは各楽器が明晰に鳴ったりする様子や、現代的にブラッシュアップされたスマートさは良く合うと思いました。ただ刺激はチャイコフスキーの演奏の方に分があった気がします。そういう意味ではクルレンツィスファンには少し物足りない演奏かもしれません。

 

一度ベートーヴェンの演奏がどれぐらいになるか聴いてみたいですねトスカニーニの演奏を現代的にしたぐらいのことができるなら、素晴らしいと思います。クルレンツィスは響きが精緻な分、曲の骨格が見えすぎるきらいがあり場所によっては響きも薄く聴こえてしまいます。あまりその方向が出過ぎると、自分の場合は退屈しそうです

 

2019年になりました。皆さん、明けましておめでとうございます。('ω')ノ今年もよろしくお願いいたします。

 

今年のお正月は沢山寝ましたね。心労があると、忘れたくて、沢山寝られます・・・?

 

 

実家の岐阜で初詣でをしました。

 

家族行事かな。今年はあんまり寒くなくて助かりました。温暖化のせい・・・?どうせなら、熱帯にでもなってくれ。

 

うーん、まあ、そうもいかないか・・・。

 

 

 

さて・・・。今年の抱負は特にないです・・・。

 

強いていえば・・・ニューエイジ思想に興味を持ち始めました。といっても、ほとんどの人には分からないか・・・。今の世の中じゃカルト思想みたいなものという認識かな。

 

それ以外だと、時間が合えばパラオに行きたいかなー。日本人の経営する5つ星ホテルがあるらしいです。行けたら最高だけどなー、まだ行けるかは分からないです・・・。ううーん。

 

・・・もう書くことないな・・・。

 

ということで、だらだらと新年のあいさつでございました。

 

今年もあと数日になりました。今年の後半は週一ぐらいでブログを更新しました。よくやった方です。('ω')ノ

 

今はLPを聴くことが楽しみかな。特に朝。10時から11時ぐらいに窓からそそぐ陽光が部屋に入り込むときに聴くと、特に美しいと思います。

 

 

中古でLPをいくつか買いました。今でも有名でCD化されている物から、そうでない物迄。

 

 

モッフォの歌う「つばめ」なんて珍しいな、と思いました。全曲です。

 

よく分かりませんが、CDを聴いているときより、自分が落ち着いてきた気がします。不思議なもので・・・。

 

さて、また来年もよろしくお願いいたします。皆さん、良いお年を。

 

ルーマニアのヴァイオリニスト、ローラ・ボベスコ(1921-2003)のLPを購入しました。ボベスコは初めて聴きます。好きな演奏家とかでもありません。好き、嫌いというより、自分は名前ぐらいしか知らないのが本当です('ω')ノ。

 

LPを聴けるようにしたものの、売り場が殊の外少ないことに気付きました。レコード屋でアナログ盤を扱っている店は少なく、扱っていても品物が限られています。ここ最近は池袋に行くことが多かったので、HMVとタワーレコードで物色しました。中古も買いましたが、ノイズは入ってますかね。

 

ボベスコが売り場で良さそうに見えましたので購入してみます。ヴァイオリンの音色の美しさに定評があるようです。ちなみに、1983年の東京でのライブ録音です。

 

だけれども・・・今の自分にこの演奏の美しさを聴き分けれられる自信はありません。色々とCDでヴァイオリンの音色は聴いてきましたけども、LPは余り聴いたことがないので、中々に難しいです。今朝も久しぶりにリサ・バティアシュヴィリのプロコをCDで聴きましたが、それも美しかった。アクが全くない。

 

同じ音源でもLPより、CDの方が音が整理されて聴こえます。個人的な感触だと、CDでの音の再現は音の響いている空間を入れているように聴こえます。聴こえ方が客観的というか。それに比べると、LPは音そのものが入っているように聴こえました。CDだと演奏家をホールの片隅で聴いているような印象ですが、LPは丁度今目の前で演奏しているような感じです。ですのでLPの方が音像も大きく、音の芯が詰まっているように聴こえます。

 

ま、個人的な印象を書けば、そんな感じです・・・。

 

自分はこのボベスコの演奏、美しいと思いました。何かと比較ができないのでなんですが、演奏家の、艶やかで芯の詰まったヴァイオリンの音色が、オレンジ色の色彩を思わせ、豊かです。丁度目の前で演奏してくれているような雰囲気も良いです。CDでは体験できないような美の空間を感じます。しかし、LPはお金がかかりますね。贅沢だなと思いました。

 

 

音楽之友社の最新版「不滅の名盤」を買ってきました。知っている批評家がほとんどいなくなってしまいました。交響曲の欄を見ている限り、今の日本で認められている標準的な名盤ばかりかな、という気はします。トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルター、カラヤン、ベーム、バーンスタイン辺りは消えませんね。マストなのかな。

 

しかし、チェリビダッケが1枚も入ってないのはなぜ?この辺はよく分かりませんでした。クルレンツィスなんか結構入ってます。チャイコフスキーの悲愴もそんなに良くなかった、と自分は思ってますけどね。個性的ではありますけど。どういう指針で各ジャンル選んでいるか一言欲しいと思いました。勝手に名盤として書いてあるので。歴史的価値が定まっているのはわかり易いけども。

 

一応正統派を意識してるのかしらん。

 

アナログ盤を聴けるようにしました。去年ぐらいから計画していましたが、やっとです。('ω')ノ

 

装置はできるだけ廉価なものにしました。スピーカーももう20年ぐらい変えてないので、交換することにしました。全然こだわりがなかったものですから・・・。ところが、スピーカーを変えて、音響環境が変化、その差にびっくりしてます。相当にひどい音を聴いていたのでしょうか。改善した今の状況もどんなものかな・・・?

 

やはりスピーカーですかね。DALIの3万円ぐらいのにしましたが、音の伸びとか、繊細な響きとかが全く違います。やったね。('ω')ノ

 

 

フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲全集をLPで購入。正直買おうかどうかと物凄く迷いました。

 

・・・今更フルトヴェングラーを聴く?最近は中々CDで聴くこともありません。ほとんど義務感みたいな感じで購入。・・・しかしこれは正解でした。アナログ盤で聴くと、音を無理やり詰め込んでない感じがします。ゆったりとして、自然に響きます。CDで聴くと電気臭があり、音のエッジも無理やり立たせてある感じがします。そっちを好む人もいるかもしれないです。個人的には旋律のつながりに自然さを求めていたフルトヴェングラーの演奏に、アナログ盤は向いているのかな、と思いました。

 

田園が好きですね。あのスローテンポの第1楽章は美しいですね。

 

 

ベームのモツレクも購入しましたが、こっちは期待ほど感動せず、です。

 

 

テイラー・スイフトのレピュテーション。これはCDで聴いていて、好きなアルバムでした。だから期待してアナログ盤も購入しました。ジャケットも面白いです。

 

 

しかしアナログ盤は期待外れ。これはCDの方が良いですね。CDの方が音の輪郭がはっきりしていて、エッジが効いてることが、効果的に響きます。音の電気臭もむしろこちらは面白いです。爽快感が出るんですね。まあ、電子音を使っているんだから当たり前か・・・。今風といわれれば、その通りです。この手のポップスはCDでも良さそうですね。

 

 

アナログ盤ならサム・スミスの方が良かったです。自然な歌声です。