LPを購入しだして、無駄遣いをするようになりました。そろそろ支出を押さえないといけないようです。アナログ盤に使うアクセサリーがどれもそこそこの値段です。そんなにお金もないのに、このままだと危険です。('ω')ノ
それでもイザベル・ファウストの無伴奏が欲しいです。強欲だな。(>_<)というより、ただのお馬鹿。
初めだし、欲しいLPをある程度はまとめて手に入れたら、後はゆっくりしたいです。
そんな中、当初購入したいものの内に、LPでマリア・カラスの声が聴きたいという欲望がありましたので、とりあえず少し購入しました。
今やっている映画も観たいですが、時間があるかな?
椿姫の全曲です。チェトラによる、1953年録音のカラスによる唯一のヴィオレッタのスタジオ録音です。有名なのは1955年のジュリーニとのライヴの方でしょう。「トスカ」なんかが欲しかったんですが、新品だと「椿姫」と「カルメン」しかありませんでした。
自分はマリア・カラスを理解するのに時間がかかりました。
多くの人は1960年代のステレオ録音を求めますし、自分もそうでしたが、「トスカ」、「ノルマ」など、彼女の十八番を聴いても、個人的に中々マリア・カラスの良さは分かりませんでした。
正直何も知らない人がカラスを聴いて、オペラを聴こうなんて思う人はどれぐらいいるのでしょうか?結構難易度が高いのでは?と自分には思えます。オペラを聴くのなら、他の人から入った方が良いかもしれませんね。
あくまで個人的見解ですが、彼女のすごさを理解できたのは、1950年録音の「アイーダ」と「トロヴァトーレ」のライヴ録音を聴いてからでした。迫力がすごいんですね。
自分は録音に残されたカラスの芸術については、ドイツの音楽評論家、ユルゲン・ケスティングの著作を参考にしています。その著作に書かれていることは自分には良く理解できるものですから。マニアックな評論家のチョイスかもしれませんけども。日本だとカラスを専門に批評している人はいるのかな?確認してないので分からないですが、ケスティングの録音評はしっかりしているというのが自分の意見です。
以前書いたので、繰り返しになるかもしれませんが、彼によるとスタジオに入った1953年には彼女の声の衰えは始まっていたようです。
ヴェル・カントの名手たる彼女は、日本人のように声をしぼるのでなく、横隔膜の力を目いっぱい使って声を広げ、音色に艶を出します。ただ彼女は声がこもりやすく、テバルディのような声の美しさがない。しかしそれを補って上回るのが、その声のコントール技術と、圧倒的な声のパワーでした。1950年のライヴ録音は物凄く音が悪いんですが、その歌唱は圧倒的でした。現代人の芸術的価値観にはやり過ぎに映るかもしれませんが、「すごい」という意味においてはこれ以上はないと思ったものです。すさまじい威力の声をコントロールして、歌でドラマを表現する彼女の力は計り知れません。
フルトヴェングラーの指揮、アルフレッド・コルトーのピアノ、これらは音楽の中に自己を没入させて、演奏する音楽のパート全てに意味を見出していく方法を取ります。楽譜は単なる記号でなく、それ以上のものということでしょうか。マリア・カラスは彼らと同じことを、声でできるわけです。ヴェル・カントの技術を使って、オペラの中の歌に徹底的に性格と意味とを与えることができたのが彼女でした。
歌の美しさ、というのもあると思いますが、カラスを聴く場合、それ以上に彼女の作り出す「声のドラマ」を聴かなければなりません。
そしてケスティングの言葉を借りれば、<カラスが「最高位(アッソルータ)」にあり、ドラマティックなパート、抒情的なパート、装飾的なパートの全てを完璧に歌うことができたのは、1947年から1951年のあいだだけである。>となるわけです。
後年のステレオ録音によるオペラの全曲においては声の衰えが隠しようもなく、パワーのない、歌う技術で乗り切っているように思えます。そして、全体にやや間延びするため、全盛期のものと比べると全体の統一感を欠いているようにも聴こえます。
しかし、反対の見方をすれば、その分味わい深いという意見もあると思います。
ただまあ、これは厳しすぎる批評家的な見方でもあるでしょう。少なくとも、スタジオ録音にしても有名な53年録音(モノラル)の「トスカ」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」は個人的に大好きです。それに比べるとこの「椿姫」は微妙な位置づけかもしれません。LPになって音も少しマシかな、と思ったんですが、音はそれなりに悪いままです。
それでもカラスの力ある歌唱は聴けますね。第1幕のラスト、ヴィオレッタのアリアを聴くと、こんなに歌える人はいないな、ということを思いますね。それにケチをつけるのもあんまり自分の感性の貧しさを晒すようで、止めにしないといけませんね。
カラスによるカルメン全曲です。先ほどから書いている、1960年代のステレオ録音です。1964年の録音ですね。ケスティングの批評を載せちゃいます。
<1964年末には、大々的な宣伝と共に「カラスのカルメン」がリリースされた。ラドニ・ミルネスは『レコードで聴くオペラ』の中でこの録音をきわめて批判的に扱っている。いわく、カルメンには魅力(チャーム)がないし(そもそもメリメの原作におけるカルメンも魅力的ではない)、声には低音の重みが欠けている。そのうえカラスのフランス語は「個性的」である、と。これはおそらく、慣用句(イデオマティック)ではない、という意味なのだろう。だがこれは、正確に発音する能力というより、声の問題である。カラスは多くの母音を声の状態に合わせて発音しなければならず、いわば喉声で色付けせざるを得なかった。・・・(中略)・・・
細部はかなり含蓄に富み、音楽的にも十分に仕上げられているとはいえ、統一感は薄い。この録音は少なくとも私たちにとっては作為的に過ぎる。≪トスカ≫の録音と違って技術的芸術作品ではなく、オーラを奪われた作品に堕している。指揮者ジョルジュ・プレートルが問題の多い版を用い、しかも皮相な、まさにひどい音楽運びをしているだけになおさらである。>(鳴海史生、訳)
自分はフランス語の発音のことは分からないですが、他の件に関してはケスティングと同意見です。指揮者のプレートルを嫌いではないですが、彼はカルメンには向きませんかね。
カラヤンが、カルメンに関していえば、レチタティーヴォありの「ギロー版」となしの「アルコア版」の両方を録音しています。本来ビゼー自身はレチタティ―ヴォなしで作曲していました。カラヤンの演奏を聴くと分かるのですが、その管弦楽はカラッとした、南欧風の印象が強く出たものでした。しかるに、ギローの編曲したレチタティーヴォ入りのものを聴くと、流れは良くなりましたが、若干音楽がべとつきますね。
そしてプレートルの流儀というのは、粘着性のあるややしつこい指揮ですから、このマリア・カラス盤のようにレチタティーヴォ入りでやると、相当程度やにっこくなって、ビゼーの美しい管弦楽の良さが無くなりますね。
マリア・カラスもやはり声はかなり弱っています。ただ、ここでも彼女はかなり声だけでドラマを作っていて、そこは聴きものなんじゃないんでしょうか?自分は嫌いじゃないです。踊りに自信がなく、舞台で彼女はカルメンをやりませんでしたが、わざわざ録音してカルメンを残したという理由には、彼女なりの目算があったからだとは思います。
個人的には、彼女が意志的になる時や、ふてぶてしい性悪な女の性格を声に滲ませて歌で演じるとき、カルメン本人とのイメージが重なる場合があり、心中では「そうそう」と思うことがありますね。
とまあ、あんまりこんな批評に頼りすぎると音楽を聴く楽しさがなくなってしまいますでしょうか。
当然今でもカラスのカルメンが決定盤の1つだという人も多いとは思いますし。そういう人はやはりそう聴くべきだと思うし、上記はあくまで自分個人の主観にすぎません。
自分はカラスの声が聴きたくてこの盤を購入しました。正直、今さら名盤かそうでないかにはあまり興味がありません。問題はカラスの声をできるだけ生に近い声で聴きたいことでした。
するとネットのHMVのアドバタイズには次のようにありました。
「今回登場するLPでは、カラス自身がLP発売のために認めたものでもある、パリの保管庫に眠っていたLPカッティグ用のマスターテープを使用しているのがポイントでもあります。このテープは最初のカッティングのために使われて以降、使用されることがなかったというもので、LPの仕上がりがとても楽しみなところです。」
そんなテープがあるんですね。マリア・カラスの声を聴きたいと思っていた自分には朗報でした。
購入して思いましたが、正直かなり音の良いLPだと思います。軽くて、透明な音質で満足しています。
中古の抜粋盤(直上の写真)も持っていますが、さすがに音が違うかな、と思います。音の透明度が増したので、プレートルのやにっこさもあんまり目立たなくなりました。それに若いときほどの力強さはないですが、カラスの歌声も生の感じがして、良かったです。こういうのが聴きたかったかな、と思います。
こういう録音を聴くと批評と音楽の楽しみは別かな、と思う時がありますね。批評は必ず必要ですけどね。楽しみは色々かな。('ω')ノ
また、「椿姫」と「カルメン」を比べるとやはり、「椿姫」の方がカラスらしくはあるかなと再認識もした次第です。
彼女の評伝とか映画から察するに、カラスがかなり力づくで成功を勝ち取っていった様子が想像できますね。「マリアカラスの真実」という映画を観ると、彼女の晩年の孤独はそうした無理やりの行いの結果だったように思えます。因果応報です。世界的な名声を得ましたが、人間的にはどうだったかな?と思いが残ります。
リアルな録音を聴きながら、歴史に触れたような気がしました。






