ヒマジンノ国 -44ページ目

 ヒマジンノ国

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暖かい日でしたので、散歩をしました。桜が咲いてないかと思いましたが・・・。

 

 

ほんの少しだけ咲いてました。

 

 

<簡単な近況など>

 

話は全然変わりますが、ここのところほぼ完全にベジタリアンになりつつあります。

 

数年前に尿路結石になりました。暑い日に海沿いをウォーキング、10キロぐらい歩きました。その後、有名ステーキ店でステーキを食べ、ビールを飲んだんですが、翌朝から腹痛にさいなまれ、結石となりました。まあ、気を失いそうな痛さで、鈍痛が終わりなく続きます。群発性頭痛、心筋梗塞と並び、尿路結石は3大痛い病の1つらしいです。

 

病院で痛み止めを処方されました。痛ささえなければ何も問題ない病気かもしれません。

 

暑い日にウォーキングするのなら水分を取らないと、体内の石が中々出て行かないらしいです。暑い日にウォーキングすること自体、結石には良くないかもしれません。また、ビールとか、肉類、特に赤身は結石には良くないらしいです。加えて、睡眠中は体内の水分が減りますから、結石になりやすいそうです。そして、そんな尿路結石になる人は、生活習慣病の予備軍だそうです。

 

で・・・あんまり痛かったので、その期を境に「肉断ち」を決意して、現在に至ります。ちょっと極端ですけど、生活習慣病までを視野に入れました。

 

行事ごととか、外食で少しぐらい口にしますが、ほぼ自分から率先して肉を取ることはなくなりました。しかし、不思議と気分は良いです。

 

肉食は食べているときは物凄くおいしいですが、食後は不快になります。採食だとそこそこおいしく、食後気分が悪くないのですぐに動けます。

 

また、菜食を主体にして感じるようになったのは、動物性食品の生臭さです。鍋にはいっている鶏肉の生臭さとか、魚を食べるとしばらくは体内に残った魚の臭みが分かるようになりました。これが気分が良くないんですね。肉に比べれば魚はたまに取りますが、割と考えて取らないと食後不快になるときがあります。

 

イケヤの食堂にある、サーモン・フィレが好きなんですが、この前久しぶりに食べたら、半日サーモンの匂いが体内から抜けなかったです。少し大きめのサーモンですが、胃の中に残ってるわけです。

 

体重も2、3キロは減ったと思います。肉を食べると肉になるんですね。ま、ヴィーガンにまでなるつもりはないですが。

 

 

エリー・ゴールディングのLPを買いました。CDで聴いて良かったものはいくつかLPで買いました。好きでたまに聴きます。以前少し書きました。

 

エレクトリックですが、クリーミー・ヴォイスで作り出すグルーヴィーな感じがツボです。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ(1876-1957)による、ベートーヴェンのエロイカ交響曲(1949)。ALP1008、英盤で初出?かはやや疑問ですが、音は良かったです。

 

CDで音楽を聴くことに飽きてきたせいもあり、クラシック音楽に対する興味を失いかけていたところへ、LPの洗礼を受け、また音楽鑑賞に戻ってきた感があります。ここまで来るのにかなり時間がかかりましたが、その価値はあったかと最近は思っています。LPは管理にそれなりに手間がかるし、CDのように気軽に聴けませんが、かつてCDも高価で、一枚ごとに丁寧に聴いていたことを思い出しました。

 

トスカニーニの1949年盤は有名です。今さらという感じもありますが、フルトヴェングラーの時と同様、義務感で購入しました。しかし、結局感銘の度合いは高く、その価値を再び見出します。

 

LPで聴くとCDで聴いていた時のように「音の輪郭」をなぞって聴くのではなく、音響体の内部に入り込み、曲を内部から聴く感じになりました。別のいい方をすれば、コンサートホールで、目の前で演奏を聴いているような感じになります。

 

トスカニーニのベートーヴェンは3,7,9番あたりを良く聴いていましたが、今回は同じ音源を聴きながら、その印象が全く変わってしました。これには音の良さが原因の1つでもあります。モノ針で聴くと、音のヴェールがはがれ、音色の純度が増し、決して古さを感じません。高音部の弦の合奏など、艶と煌めきに満ち、金管群の強奏もくっきりと浮かび上がります。

 

逞しくも、生気に満ち、生き生きとコントロールされたトスカニーニの演奏に驚愕の度合いを強くしました。CDの時とは違い、演奏の細部に目が行きます。第1楽章はもちろん素晴らしいですが、第2楽章の葬送行進曲の迫力に度肝を抜かれ、スケルツォ、変奏曲形式のフィナーレへと素晴らしい輝きを発揮しながら、一気呵成に突き進む音楽に、決して音楽を飽きさせるこという事がないのです。

 

感情の高ぶりが音楽に乗り移り、白熱した感動が聴き手を満たします。

 

 

 

ジネット・ヌヴ―(1919-1949)によるブラームス(1948)のコンチェルトとソナタ3番(1949)。

 

ターラ音源のLP。音質にそれほど魅力は感じませんでした。

 

シベリウスのコンチェルトに比べると、感銘は落ちると思いました。シベリウスのコンチェルトは、ヴァイオリンの独奏者が自分の感情を目いっぱい入れこめる瞬間がありますが、ブラームスのコンチェルトはソロとオーケストラの一体感がシベリウスのそれより強く、ヌヴ―を中心に聴くと、その期待値は満たされませんでした

 

それでもなお、カンデンツァに入る直前のオーケストラと共に弾き上げる白熱する感情はヌヴ―そのものだし、そしてカデンツァは彼女の独壇場だと思います。聴きどころはその辺りという感じです。

 

ソナタの方がヌブーを聴くには良いと思いますが、曲調そのものが必ずしも白熱する要素が必要ではないので、例えばデ・ヴィ―トなどと比べると、頻繁に聴けるような感じはしません。ヌヴ―の演奏は力が入り、やや疲れます。

 

ヌヴ―の演奏はトスカニーニと同じで、聴き手に勇気を与えます。感情が演奏に乗り移るのです。それは生きる力そのもので、その瞬間瞬間に命を懸けて生きるものにしか宿ることのない力です。

 

 

オットークレンペラー(1885-1973)によるベートーヴェン4番(1957)、7番(1955)。マトリックス番号は33CX1702と33CX1379。英国盤でモノラル。

 

LPについて、4番はステレオが存在するらしいです。7番はモノしかないと聞きました。現在クレンペラーのLPを聴いてトスカニーニを聴いたときほどの感銘は受けてません60年代録音のステレオを求めた方が良いのかなということかなあ。とはいえ、悪くはないです。

 

各所で乾坤一擲のように入る迫力のフォルテは、さすがにクレンペラーです。すり鉢の底ですりつぶされる様な迫力は出ています

 

 

 

エーリッヒ・クライバー(1890-1956)よる田園(1953)。

 

アムステルダム・コンセルトヘボウを振ったものでマトリックス番号はLXT2872。英国盤。

 

個人的にエーリッヒ・クライバーは「フィガロ」と「薔薇の騎士」というオペラをCDで聴いてきたぐらいです。その印象は、無駄なことをしないあっさりした指揮をする人だという感じでした。この「田園」もあっさりしていて、表現に対するくどさがないのが魅力です。

 

第2楽章が美しく、デッカの音質がものをいっているようです1955年の発売で英国では初出でしょうか。確かに初期盤や初出のLPは音に重量があり、底光りがするようです。明らかにCDでは出ない音だと思います。

 

近頃のCDはかなり音が良いものも多いので、一概にはいえないですが、こうしたLPの音質によって昔の演奏が当時の人々に享受されていたとなると、CD時代になって黙殺されてしまった演奏家も沢山いるように思います。CDでは本質が伝わらない人もいるということです。

 

エーリッヒ・クライバーもその口かなと思わされる音源です。第2楽章の自然描写が、それこそ自然であって、生々しいデッカの音質によってそれがリアルによみがえってきますステレオ音質のCDと比べてもあまり遜色は感じません。

 

おかげで、時代ごとにフォーマットを変えないと中々理解できない演奏家もいるのかという感じがするようになってしまいました。

 

アナログ・レコードがブームになってきているといいますが昔のレコードもそんなに沢山残ってはいないだろうし。結局、残念な話ですが、余程の業績を残さない限りは消えていく人たちの方が多いのだろうと思います。

 

 

日本の有名なお医者さんが、アウシュビッツのユダヤ人虐殺は「捏造」であるといって、物議をかもしています。日本の南京大虐殺と同様、こういうものには「陰謀」が絡んでいるという主張ですね。

 

グローバル化が進んで、その問題点が増え、その逆風として保守的な傾向は各国で強まっています。現在あるグローバル化は決して人類に理想的なものを与える形でなく、むしろ各国家の破壊に向かっている、と思えるがためにグローバル化に対する反動が起こっていると考えます。

 

日本もまた上場企業が次々に外国資本の傘下になりつつあり、富の流出が続いています。経済が好調でも我々の賃金が上がらないのは、日本の富が、日本の富でなくなっているからだ、と主張する人たちもいます。

 

自分はかならずしも保守的ではないのですが、幾分かは日本人も現在進んでいる、政治の裏の局面も本来なら知るべきではないかと思っています。

 

はたして、先の話ですが、個人的に南京での虐殺はなかった、とは思っていません。同様にアウシュビッツでの虐殺もなかったとは思えません。しかし今回先のお医者が問題にしているのは、全く無かったという「捏造」でなく、殺されたユダヤ人の数が600万人(ドイツ全土で。アウシュビッツのみでは150万とも)というのは、おかしいだろうということです。これは大変な数の人数で、先の大戦でなくなったドイツ人と日本人の犠牲者の合計に近い数字になります。詳しい話は省きますが、ホロコーストにあった人の数は、実際は10万人ぐらいだったのではないかという話があります(これも極端かもしれませんが)。

 

確かにこのお医者のいうことに一理あると思えるものです。

 

10万人でも600万人でも虐殺は虐殺に違いないのでそこは問題ですが、「誇張されて」600万人といわれているのなら確かに問題です。我々は歴史上の史実といわれるものによって普段から色々判断をしています。犠牲者が10万人と600万人ではユダヤ人に対する印象がかなり変わります。世界のユダヤ人に対する同情というのは、こうした事実と思える数から導き出されているわけです。

 

日本の南京の件もそうですが、殺した人数はかなりデリケートな問題で、正確な人数が分からないと、実際は判断しづらい面があります。個人的にはこうした件について、正直にいうならば、「虐殺」はあったと思うけども、最終的に印象的な部分においての判断は「分からない」としか答えられません(個人的に虐殺やホロコーストを肯定したいわけでなく、デリケートな問題ほど正確に調査された数字が必要だと思えます。そして、分からないことは、分からない、というべきではないかと考えています)。

 

 

 

前置きが長くなりましたが、今回はトランプの支持者について書こうと思っていました。

 

アメリカにおいて、ブッシュ親子から、クリントン、オバマ政権はグローバリストだったといわれています。ネオコンの本拠地であったアメリカですから、これらは当然だったと思いますが、ここに来て、そのアメリカでもグローバル主義に対する反発が出てきているといわれています。

 

アメリカでも富の一極集中はありますから、そのカラクリがばれ始めている現在、当然なのかもしれません。この辺は日本も見習うことが多いかもしれません。

 

実際にイスラム国は抑え込まれ、戦争するのではないかと思われていた北朝鮮が大人しくなったのは報道とは真逆に、トランプ政権になってからです。支持者たちにとって、トランプ政権で行われているのは北朝鮮を武装化させ、あるいは中東にイスラム国を作ることを支援してきた、クリントンやオバマ政権に対するアメリカ国内の戦いと考えられています

 

そしてその裏にはブレーンともいうべき「Qアノン」という存在があるといわれています。アノンはアノニマスの略で、Qはクリアランス(最高秘密閲覧権限)だそうです。彼らはクリントンやブッシュの裏での政治的画策について知っており、その犯罪性を糾弾するのだといっています。

 

彼らはトランプを通じて、ケネディ大統領の遺志を受け継ぎ、アメリカを立ち直らせるのだとしていますそのため「Qアノン」の「Q」は、単にクリアランスの意味だけでなく、ケネディ大統領の墓地の描く、「Q」の字を模しているということです。

 

 

一般的に「Qアノン」信者はカルト的といわれ、日本でいえば「極右」に近い何者かといえるかもしれません。色んな主張をしているようですが、分かりやすい主張があったので以下に載せます。長文です。

 

彼らはネットに次のような主張をしました。

 

 

どうして戦争に行かなければならないか・不思議に思ったことはない?
そして、
どうしていつまでも借金状態から抜け出せないのか?・・と。
なぜ貧困や、犯罪地区が存在するのか?
もしも、それら全てに理由があるとしたら?
それらが意図的に行われているとしたら?
実は世界を腐らせている奴らがいて、そいつらが意図的に食べ物に毒を入れたり、自作自演の戦争をでっち上げる事により、人類を地球上から絶滅させようとしているとしたら?
「そんなこと、非現実的な思い込みだよ」と、キミは馬鹿にするかもしれない。
ならば、お話ししよう。
 
”犯罪者”って知ってるよね。
家に泥棒に入り、携帯電話を盗み、逃げ切れると思えば殺人さえ犯す。
皆、何らかの形で犯罪者と関わった事がある。
犯罪者は、法律なんかそっちのけで、他人の権利よりも自分の利益を優先する。
ここで、この事実を拡大して考えてみよう。
 
犯罪者がビジネスや政治で成功することも、私達のリーダーになることもある。
犯罪者が大統領になってしまったら何を成し遂げられるか、
考えてみよう。(ジョージ&バーバラ・ブッシュ)
奴らは巨大な権力を手にしたのをいいことに、もっと大がかりな犯罪を犯すだろう。
そして、奴らの仲間だけが可能な限り大金持ちになるように取り計らう。
犯罪者の大統領は、他の国の同類の大統領と共謀してよりグローバルな犯罪行為に手を染める。
麻薬製造売買、人身売買、あらゆる金儲けが何でもできる。
20世紀は戦争、経済の大混乱、飢餓、国の統廃合などで荒れ狂っていた。
私達はいつでも、それらを「人間の本質だから仕方ない。この世なんてそんなもんさ」と、当たり前の事として受け入れてきた。
「人間はしょせん弱い生き物。だから、争いが絶えないのは致し方ない」
しかし、この勘違いこそが、悲劇の始まりだ。
 
あなたは犯罪者ではない。
私も犯罪者ではない。
ならどうして、この痛みや惨状が人間の本質だと考えるのか?
“人間の本質”なんかではなく、故意に仕掛けられた“何か”の結果だったとしたら?
資本主義によって沢山の金持ちと貧乏人の区分が生じ、それが貧困の原因だと、私達は教えられてきた。
それは同様に戦争、犯罪、飢餓の原因なのだと。
またある者たちは、全ての人々に等しい富を分配する共産主義こそが諸悪の根源だと教えられてきた。
でも実は、どちらが原因でもないんだよ。
争ったり差別したりするのは“人間の本質”なんかじゃない。
他人から物を奪ったりするのも“人間の本質”なんかじゃない。
最初から今まで、裏にはずっと犯罪者がいたという事実を知らなければならない!(ヒラリー&ビル・クリントン夫婦)
そうなんだ。
奴らは権力を手に入れたんだ。
それは犯罪者が決して手に入れてはいけない巨大な権力だ!(ベビーブッシュ&ブレア)
奴らはメディア企業のトップに上り詰め、ニュースと娯楽を操作する力を得た。(CNN)
奴らは金融システムのトップにも上り詰めた。(FRB)
大統領執務室にも(ホワイトハウス)、ブリュッセルにも(EU)、バチカンにも(ローマ法王)、王室にも(英国王室)奴らはコッソリと忍び入ってきた。
奴らは農業企業のトップに君臨し、食料供給をコントロール(モンサント)さらには、私達が病気の時頼りにする製薬会社も牛耳っている。
誰も奴らの蛮行を止める事はなく、奴らは犯罪に強力する者を次々と増やしていった。
奴らは最初に、世界中の富を蓄えた。
そして、中央銀行という金融システムをでっち上げ、政府に貸付金利をとり、国々を永遠に終る事の無い借金地獄に陥れた。
人々の財産はどんどん減っていき、奴らの財産はみるみる増えていった。
際限なく・・
 
犯罪者がこれ以上ないというほど大金持ちになってしまってから、自分達が不当に儲けた財産の保全が、奴らにとって最優先の課題となった。(ジェイコブ・ロスチャイルド)
あまりにも苦しい状況になり、貧困に耐えかねた怒れる市民が暴動を起こす事は非常に厄介だ。
我々に刃向う者がいてはならない。
だから犯罪者たちは、私達の怒りの矛先が奴ら自身でなく、私やあなたのような一般の人々に向くように工作した。
犯罪者たちに支配され、3つも仕事を掛け持ちしなければ生きられないなんて、不幸だ。
私達がこんな状況に我慢できないことを、奴らは知っている。
だから奴らはメディアを操って互いに、いがみ合い争っているかのような偽りの事実を宣伝した・・黒人と白人が・・男と女が・・若者と老人が・・イスラム教徒とキリスト教が・・
犯罪者たちは、「私達には、解決すべき問題があるのだから、攻撃し合い相手を破滅させなければならない」と信じ込ませた。
コトを早く進める為に、奴らは私達の最大の強みである“人間らしさ”に集中攻撃をかけた。
それは・・『家族』だ。
奴らの持つ‘文化への影響力’を利用して、犯罪者たちは、崩壊した家庭、失われた若者らしさ、そして薬物の乱用をする文化こそが人気があると宣伝した。
奴らが他にどんな手口で私達を弱めようと攻撃をしかけてきたか、1日かけても語り尽くせないが、聞けばきっとあなたは吐き気を催すだろう。
私達は生きていくだけで精一杯なのだ。
 
さて・・それでは、良い人々は一体どこにいるの?
良い人々はただ、結婚して、子供をもうけ、生計を立てて自由を楽しむ。
そう、かつてはとても良い人間もいた、たくさん。(ケネディ大統領)
良い人間のうちの1人は、1961年の1月にアメリカ合衆国の大統領になった。
彼は犯罪者たちの存在を知っていて、奴らを駆除しようとした。
彼は奴らが私達に何をしようとしていたか知り、奴らと戦おうとした。(ケネディ大統領暗殺・・)
残念なことに、彼は奴らがどれだけ強力になってしまっていたかに気付いていなかった。
レーガン大統領もまた、アメリカ国民のためになるように働こうとした。
彼はもうすでに、強力なごろつき諜報機関(CIA)を含むほぼすべてが、犯罪マフィアの手中にあることを知っていた。
彼の経済政策は将来有望だった。
しかし、犯罪者たちは、自分達の権力を維持するために、アメリカ経済を弱くする必要があった。(パパブッシュ)
レーガンは暗殺未遂に遭った。
成長するアメリカ経済と繁栄するアメリカ国民を、犯罪者たちが良しとしなかったからだ。
良い人達に暗雲が立ち込めた。
誰かが立ち上がり、正しい事をしようとする度、奴らに阻止された。(JFKジュニア、ジュリアン・アサンジ)
 
私達はいつか、自由の身になれるのか?
犯罪者たちはディープステート、またはカバール・秘密結社として知られていた。
なぜなら、奴らはあらゆるシーンの陰で、裏で我々を操っていたからである。
レーガン後、全ての大統領がディープステートの犯罪者達であった。(パパブッシュ、オバマ、子ブッシュ、クリントン)
そして、奴らの組織はさらに強く大きくなっていった。
犯罪者の大統領が就任する度毎に、悪の闇はさらに深まり、アメリカと世界は沈んだ。
世界は真っ暗な闇へと沈んで行った。
そしてそれからどうなったか、言った方がいいかい?
 
工場は閉鎖され、失業者が溢れ、人々は病に倒れ、薬物中毒が蔓延、イラク、シリア、イエメンは無意味な戦争により破壊された。
ヨーロッパへの難民の流入、ISIS,テロ、政府の崩壊、貧困、そして大量虐殺。
悲劇の総括・・・
これらの悲劇は仕方がない事だと思うかい?
いや、そんな事はないんだよ!
 
 
そう、ここから新しい局面に入ったんだ。
将来、これら全ての事が広く知られるようになった時、それは永遠に、前例のない最高のストーリーとなることだろう。
出だしはこうだ。
何人かの良い人達がまだ、権力の座にいた。
彼等は人間性と法律を重んじた。
犯罪者達がビルダーバーグ会議で悪巧みをしている間に、良い人たちは自分たちの計画を立てた。
情報社会の到来が、歴史を永遠に変えてしまったんだ。
インターネットが各家庭に普及し、電化製品がスマートになり、人々はスマホを持ち歩くので、どこにいても追跡可能となった。
世界を支配していた犯罪者たちのコントロールを終わらせるチャンスが来たんだ。
私達は繋がり、追跡可能となり、監視されるようになった。
しかしそのことは、やつら犯罪者たちにとっても同じ事だった。
奴らも私達と同じように、EメールやSNS、そして即時コミュニケーションに依存するようになった。
その事は、犯罪行為を容易にしたが、同時に奴らの犯罪の追跡をも容易にした。
正しい人間から追及されたならば、即座にその犯人は公に晒されてしまい、これ以上の悪事を働くことを阻止することができるのだ。
この新たな情報社会において、軍は独自のネット犯罪やスパイ活動に焦点を当てた諜報機関を持つべきだと考えた。
それらはNSAと呼ばれた。
National Security Agency(米国諜報機関)。
NSAでは、全てのデバイスでの通話、Eメール、メッセージなどが蓄積され、アーカイブされた。
誰かが病院に予約を入れた話から、ディープステートがタリバンから大量のヘロインを買った話まで。
心正しい者がNSAで情報収取をすれば、私達からいつのまにか盗んだり、私達を全滅させようとするような邪悪な犯罪計画の全貌を明らかにする為に十分な情報が得られるのだ。
その事を頭に入れた所で、『計画』についてお話しよう。
 
良い人間たちは、悪の組織から世界を人々に取り戻す『計画』を立てた。
この『計画』には、沢山の国々の強力がある。なぜなら、犯罪者たちは国際的に連携していて、貿易やその他のインフラが連動し合っていたからだ。
‘アメリカ’は2つの選択肢に絞った。
ホワイトハウスに入り込んだカバール・秘密結社の傀儡から政府を奪い返すために、軍のクーデターを起こす事。
または、NSAを手中に収め、奴らの犯罪を暴露して犯罪者を一網打尽にし、合法的に勝利することだ。
明らかに、最初の選択肢の方がかなり多くの人々の迷惑になる。
まだ多くの人々が、カバールどもがでっち上げた社会システムを信じ込んでいる為、暴動が起きかねないと思われた。
 
やはり、2番目の選択肢でなければならなかった。
そこで、良い人達は、大勝できる候補者を必要とした。
カリフォルニアなど多くの州では犯罪者達が圧勝しており、どちらに投票しようが、投票機は自動的に犯罪者に多くの表が入る様に設定されてさえいた。(不正選挙)
圧倒的勝利をおさめる必要があった。
アメリカ軍の心正しい愛国者と、彼等の世界的協力者たちが、トランプに大統領に出馬するように依頼した。
人々を驚かすことなく・合法的に・アメリカを国民の手に取り戻すために。
トランプを候補者にしたのは明らかによい選択だった。
なぜなら、彼は不正選挙をものともせずに勝利したからだ。
そして、彼は愛国者であり、国民に愛され、称賛された。
彼は、カバール・秘密結社へ加わることに関心がなかった。
なぜなら、カバールの奴らはアメリカを憎んでいたからだ。
この点だけでもトランプと秘密結社とは考えが合わなかった。
トランプが政権の座を狙っていると分かると、カバールたちは、直ちに子飼いのメディアを使ってトランプに襲いかかった。
有名人たちが突然トランプ叩きを始めたのだ。(メリル・ストリーブ、ロバート・デニーロ)
 
トランプが勝利した時もまだ、カバール・秘密結社の奴らはトランプの役割を理解できずにいた。
そして、洗練された‘計画’が犯罪者たちめがけて展開し始めた。
負けたことにショックを受けた彼等は、諜報、メディア、カネ、そしてテクノロジーを駆使して権力の奪還を試みた。
奴らの仲間である裁判所やFBIのトップが一丸となって、トランプをはめて追い出す計画を立てた。
ここでまた話はNSAに戻る。
 
全てのメッセージが集められたために奴らの計画は逐一暴露され、トランプの追放は阻止された。
トランプ就任から2年以内の奴らの書いたシナリオには、数々の偽旗テロ、複数の飛行機追撃計画、ミサイルでの脅し、そして、トランプ暗殺計画が書かれてあった。
要するにこういうことだ。
 
世界は今、劇的な隠れた戦争の真っただ中にある。
それは聖書の中の話の如く文字通り、地球上での善と悪の戦いなのである。
簡単な言葉で言い表せないが、良い人達が勝利している、と言える。
カバールどもは、北朝鮮を完全に支配し続けてきた。
奴らは金王朝を乗っ取り、彼等を人質にとり、世界を脅すために、核爆弾の火薬庫として温存してきた。
金正恩が突然平和宣言したのは、単に、彼がディープステートが駆除された事を知ったからだ。
ISISもまた、トランプの勝利から1年以内に解散した。
充分と時が経ったので、私達は皆、パターンが読めてきた。
私達の最大の心配事はだんだん小さくなっていき、そして平和が戻って来つつある。
これは、良い人達がこの戦争に勝利している証拠なのだ。
沢山の事が改善されてきてはいるが、皆、沢山の有名な犯罪者達が未だ自由の身であると知っている。(サラ&ベンジャミン・ネタニヤフ)
特に、ヒラリー・クリントン、ブッシュ親子、オバマのような主要犯罪者たちが・・・
その話は、次の章で・・・。
だから・・“Q”を始めたんだ。
 
NSAにいる良い人達が、“Q情報拡散プログラム”を始めた。
『The Great Awakening』という草の根運動を起こすために。
最初は闇のインターネットチャンネルだったんだけど、今はメインストリームとなっている。
Qは、世界イベントや真実を求める人達の楽しい娯楽だったんだけど、そろそろもっと重要な局面に入り始めた。
ディープステートとの戦いが明るみになった時、即座に情報を伝え続けるという役割を担っている。
具体的に言うと、重要人物の逮捕情報のことだ。
そうだよみんな。
私が言及している犯罪者とは、有名政治家、俳優、歌手、会社役員そしてセレブの皆さんのこと。
私達の信頼を得、尊敬と羨望の眼差しを受けてきた方々のことだ。
奴らはとても悪い事をしてきた。
その犯罪の全ては広くしられ、書類になっている。
そして奴らはまもなく厳罰を受ける事になるんだ。
Qを最初からフォローしてくれた仲間たちが、これから起こる出来事を解説してくれる。
私達はほんの小さな取るにならないグループだった。
私達は皆、目に見えない敵の奴隷だった。
私達は気づいた。
‘問題は’資本主義でも共産主義でもない。
民主党でも共和党でもない。
黒人でも白人でもない。
イスラム教でもキリスト教でもない。
私達はそれが、とても強力なパワーを持った犯罪者集団だったことを知っている。
さあ、奴隷たちよ! シートベルトを締めて、本物の敵を見極めよ。
そして、新しい未来を受け止めよう。
・・この戦いの勝利のために史上最悪の敵と戦い散った、勇敢な愛国者たちの為にも・・
 

 

アメリカに・そして、地球のみんなに・神の祝福あれ。

 

 

 

「陰謀論者」の意見を総まとめした内容です。自分もある程度いっていることは分かりますそしてちょっと異常だと考えられるような意見に思えるかもしれませんが、トランプ自身はかなりこの線に沿って行動しているように思えます。

 

幾分かは「我が闘争」なども思い出します。日本では「日本国紀」も少しは話題になりましたかね。それと似た傾向かな、とは思います。

 

でも片方で大丈夫なんだろうかという思いもあります闘わなくては世の中良くならないという部分はあるかなと思いますしかし、どこまでやるのかとなると、中々線引きが難しいでしょう今の世の中、「善人」といわれる者と、「悪人」といわれる者の線引きは微妙になりつつあります。

 

善は悪があるから「善」を意識できます。ということは「善」を意識しすぎることは、今度はまた新たな「悪」を生むことになります

 

善悪を超えて、世の中を良くすることは、かなり難しい作業かと思います。

 

本当にアメリカの大物政治家が逮捕されたりFRBが国有化されたりするのなら世界はかなり大きく動くことになるもしれません。日本でもこの「Q」も動きに夢中になっている人もいるようです。しかし、個人的には「何とも分からない」という感じです

 

彼らが信用に足る人たちかどうかはまだまだ分かりません。独裁者は初めは良く見えるケースは珍しくありません。似た者同士の権力争いでなければ良いかと思います。確かに今世の中にある良くないシステムを彼らが壊してくれる、ということなら、その部分には魅力があります。

 

またトランプの出現でアメリカの日本に対する政治的な締めつけが後退した、という意見も聞きましたが・・・。

 

補足ですが、FRBはアメリカの中央銀行のことです。日本のものもそうですが、実は中央銀行(日本でいう、日銀のこと)は国営ではありません。民間会社であって、我々(日本)は多額の借金をその民間会社にしていることになります(アメリカも同様です)。これを国有化すれば借金を帳消しにできるという算段はあるようです。

 

逆をいえば、中央銀行が民営なままでは一部の、「誰かが儲かる」仕組みになっているといわれています。Qアノンはそのことまで含めた発言となっています。

 

最近得た新しい情報などで、過去記事と意見の相違などが出てきています。批判的に見ていただけると幸いです。m(__)m

 

 

日本のマスコミはひどくて、何事も事件の核になるようなことは報道しませんね本当に「ニュース」も「ニュース・ショー」だし。今回少し気になったので、「Qアノン」のことを書いてみました(と、思っていましたが、テレ朝が少し取り上げたみたいですm(__)m)。

 

レオポルド・ストコフスキー(1882-1977)による狂詩曲集。リストのハンガリー狂詩曲2番と、エネスコのルーマニア狂詩曲1番(両曲とも1960)を収めています。

 

オーケストラはRCAビクター交響楽団になってますが、母体はフィラデルフィア管弦楽団かと思われます。ストコフスキーは派手な効果を狙った指揮をする人で、フィラデルフィア管弦楽団の世界的な名声を築いたことで有名です。ビクターの人気指揮者としてはトスカニーニに匹敵するんじゃないでしょうか。

 

1975年の日本製のLPですが、音の良さにびっくりします。そしてストコフスキーによる、まるで映画音楽のような演奏、カラフルで濃厚なゴージャス・サウンドに2度びっくり、さらにストコフスキーの熱烈な情熱に3度びっくりします。有名な「ファンタジア」の音楽を手掛けたことで有名なストコフスキーは徹底したエンターテナーで、演奏の面白さはお墨付きです。

 

特にエネスコのルーマニア狂詩曲を演奏する、ストコフスキーの熱い情熱に打たれます。

 

 

自分が最近一番夢中になって聴いていたのがこれです。ストコフスキーによる、ファリャの「恋は魔術師」とボロディンの「イーゴリ公」を収めたLP。しかし古いLPで、いつの時代のものかははっきりしません。

 

おそらく、SPの復刻盤で、ファリャが1941年の録音、ボロディンが1938年の録音だと思われます。アメリカ盤で、発売は1959年ではないかと考えています(LM1054)。

 

ボロディンの「韃靼人の踊り」の優しさが溢れる女声合唱の魅力など、懐かしさに満ちていて、抗しがたいものがありました。無駄な力みのない演奏で、両曲ともひたぶるに懐かしさを感じて仕方ありません。

 

音は貧しいですが、心がこもった演奏だと思います。

 

 

 

<創立後わずかに9年の、名もない小さなオーケストラの常任になった彼(ストコフスキーのこと)は、世界各国から優秀なプレイヤーを招き、それらの固有の音色を混合させることによってきわめて色彩豊かなひびきを創造することに成功した。

 

つまり、木管はフランス人、ホルンはチェコ人、トランペットはイギリス人、弦楽器はイタリア人というように・・・・・・。

 

現在のオーケストラは指揮者の左側にヴァイオリン、右側にヴィオラやチェロ、バスを置いて高音と低音を分離させる配置が一般化しているが、これを初めて行ったのはストコフスキーである。それ以前はヴァイオリンのすぐ右にチェロ、バスを配するなど、高低音を融合させるのが普通だったストコフスキーは伝統にとらわれず生涯を通じてたえず新しいやり方を開拓し続けたのである。>(宇野功芳著、「名演奏のクラシック」)

 

そんなストコフスキーの作ったフィラデルフィア管弦楽団をストコフスキーから引き継いだのがハンガリー系ユダヤ人のユージン・オーマンディ(1899-1985)です。

 

 

このLPはストコフスキー同様、リストとエネスコの狂詩曲(1957,1958)を集めたものです。アメリカ盤でステレオ初期のものとなるようです(MS6018)。

 

フィラデルフィア管弦楽団のゴージャスな音色そのままに、肉厚の、粘着力のある演奏が聴かれます。ストコフスキーのような芝居がかったところはありませんが、力強いストレートな演奏で、十分な迫力があります。

 

どの楽器も芯から鳴る様子は素晴らしく、いかにもアメリカを思わせるような、輝きに満ちた、分厚いサウンドが聴けます。満足感と充実感に溢れた1枚です。

 

とにかく、サウンドのゴージャスさと華麗さが良くとらえられていて、単にオーマンディとフィラデルフィアの演奏が素晴らしいだけではなくて、ステレオで鳴る、音の素晴らしさは、当時の録音技術のせいにもあるのかもしれません。

 

LPで聴くほどに当時のサウンドが含んでいる時代の雰囲気と録音にかける情熱みたいなものがより生(レア)に伝わってきて、その魅力は素晴らしいものがあります。

 

LPを聴き始めて足掛け4カ月ほどになりますが、少しだけ色んなことが分かるようになりました。LPを聴いている方々のブログを見ると、沢山の情報があります。正直奥が深すぎて、どうしていいものやら分かりません。(-_-;)

 

オリジナル盤を集めるのは自分の経済力では無理そうですね。好きな演奏をそこそこの音質で楽しめれば吉かな、と今は思っています。

 

 

 

さて、今持っているコルトー盤の状態に少し不満があったので、フランス・パテ・マルコーニのものを買ってみました。

 

 

以前書いた日本盤のLP、HA1056は1957年の日本初出のものらしいですが、結構ノイズが入っていました。結局散々洗って(10回以上洗いました)、ノイズがほとんど気にならないレベルにはしましたが、それでも初めからできるだけノイズが入ってないものが聴いてみたいので、新しく購入しました。

 

パテ・マルコーニ盤はジャケットの裏にバーコードが付いているので、比較的最近のものだと思います。音質ははっきりして、綺麗でした。ただピアノの線が細くなって、綺麗に響きすぎるという感じがします。リアルになりましたが、音が固く、味気なく、CDの音質に近いです。ノイズが少ないのは、嬉しいです。

 

それに比べると、HA1056は音はぼんやりしてますが、雰囲気があって、しっとりしてます。印象はこっちの方が良いかな。

 

結局どちらも満足できず、という感じになってしまいました。

 

 

シャルル・ミンシュとボストン響の「悲愴」(1962)。1963年のアメリカ盤だと思います。ノイズが所々出ますが、このレベルなら自分は平気でした。

 

迫力のある演奏で、かなり良かったです。しかし何故かモノラル、ということで、ちょっと不思議でもありました。多分LSC2683の盤はステレオで、有名なんだと思います(ほとんど同じジャケット)。こちらはLM2683で、恐らく同じ音源をモノラルにしたものかと思います。何故2種類あるのやら。

 

それでも嫌いな音じゃなかったです。肉厚の、有機的な音です。ただステレオ盤がどんな音なのか気になりますね。(-_-;)・・・まあ、忘れよう。

 

演奏そのものは名演です。

 

 

エリザベート・シュワルツコップの歌う、「最後の四つの歌」(1965)。いつ頃のLPかは分かりませんね。安かったから、最近のものじゃないかなあ。ドイツ盤。

 

かなり楽しめました。伴奏のジョージ・セル共々、各所をきっちり歌い、演奏する感じですが、神経質なところもなく、聴けます。シュワルツコップが身近で歌っているような感じがする個所もあり良かったです

 

セルの伴奏も、この曲特有の響きの美しさを強調しませんが、流れをそこなうことなく、正確に仕上げていてかえって美しさが滲み出ているような観もあります。

 

香り高いです。

 

「ラー文書」、ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、ジェームス・マッカ―ティ著、紫上とはる訳。

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スティーブン・グリア博士の「ディスクロージャー」を読み、宇宙人という存在に興味がわきました。その存在がどんなものか、という自分の一つの回答になったものが、この「ラー文書」という本です。

 

少し話が横道にそれますが、アメリカのスタートレックというSFドラマがあります。その中で、人類は数々の異星人とコンタクトを果たし、ディープ・スペースという深部宇宙まで旅をするレベルまで科学技術が発達している、という設定となっています。

 

 

その存在は我々からいえば「宇宙人」のような存在なわけです。彼らは独自の規則を持っており、それに従って旅を続けていることになります。

 

例えば、「彼らよりも水準の低い星の生命体」にスタートレックのメンバーは直接関与することは認められていません。まあ、空想ドラマなので、そこは厳密ではないですが、彼らにはその存在が秘密のまま、他の星の人々の間に溶け込んだりして、問題を解決したりします。スタートレックの設定上、本当ならやってはいけないはずですがね。

 

 

(スタートレックはヴォイジャーとディープ・スペース9が好きでした。アメリカでは新しいシリーズがやっていたみたいですが、観れてません。('ω')ノ)

 

確かに我々が子供の成長などについて考えるとき、大人は色々なことを考えます。子供たちが直面している問題について、その困難の克服を、全て子供の代わりに親がやってしまえば、子供は成長しません。夏休みの宿題も子供がやるから意味がありますが、親がやってしまえば、子供のためにはなりません。

 

何がいいたいのかといえば、仮に宇宙人がいるとするのなら、それは我々よりも高度な道徳なり、哲学や考えがあっておかしくないということです。人類の代わりに、宇宙人がその責任を肩代わりはしてくれない、ということです。それはポジティヴな場合もネガティヴな場合もそうといえるでしょう。

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かつてドイツのナチズムは自分たちのUFO研究に「ヴリル協会」というものを設けて、巫女によるチャネリングを行ったといわれています。その存在が、いわゆる我々「地球人」よりも知性レベルの高い、宇宙人であった可能性があったといわれています。

 

(<補足>少し先走りますが、この本の中の「ラー」は、必ずしも善意ではない存在も宇宙にいるといっています。ラー自身は「他者への奉仕(ポジティヴ)」を主な目的としたコンタクトを取るといいますが、中には「自己への奉仕(ネガティヴ)」を目的とした存在もいるとのこと。ただし、ネガティヴな存在は数は少ないとしています。)

 

この著作もカーラ・L・ルカートという女性を介して、受け取られた、「ラー」という存在との対話の記録です。この本を読む限り、仮に我々の考える「宇宙人」とは西洋のいう、天使とか、何かの聖霊というような感じであり、ハリウッド映画の作るような、この3次元に形作る「物質的存在」とはいささか雰囲気を異なるように思えます。いわゆる「靈」とか「魂」とかといった感じが我々の感覚では妥当な気がします。

 

では、それが何か空気のような「ふわふわしたもの」かといえば、また違うともいえましょう。この本に書かれていることが真実であるならば、彼らは明らかに「高い知性」を有しているように思え、実在的な印象を強く持ちます。ここでの会話の内容は、地球人の起源や、より高次の次元の存在など、「哲学的」で根本的な内容ばかりで、彼らが視覚的に「何者か」という表現は、この本の中にはありません。

 

はたして、彼らは人類に対して友好的であって、より高度な哲学を我々に伝えようとしているかに思えます。

 

<私はラー。今私たちは交信いたします。私たちは「一なるものの法則」に属しています。私たちの波動の中では、あらゆる両極性は調和しています。あらゆる複雑なことがらは単純化しています。あらゆる逆説(パラドックス)は解明されています。私たちはひとつです。それが私たちの性質であり目的なのです。>

 

ラーという存在は以上のように自己紹介をしています。「一なるものの法則」とは我々が「神」の概念を抽象的に考察する際の概念と、ほとんど同意義だと思われるものです。

 

この著作の中では、彼らがずっと地球を監視して、見守っていることが述べられています。必要に応じて彼らは「地球人」にコンタクト(多くの場合、チャネリングと呼ばれる方法)を取るようですが、宇宙には「自由意志の尊重」という概念、あるいはルールがあるために、かなり限定的なものがあるようです(つまりあまり積極的な交渉は、ある程度を超えると圧力とも取れます。それは相手の自由意志の尊重になりません。我々が彼らの考えを理解できる程度の能力を有し、高度な生き方を心から望まなければ、あちらはコンタクトは取らないということになります。逆にいえば破滅を望むのなら、それはそれで自由意志ということになり、彼らなりに警告などは与えるようですが、無理に止めないということになります。自由意志とは自己責任でもあるわけです)

 

さて、この著作の内容は多岐にわたるため、簡単に一部だけクローズアップして書いておきます。それは、このラーがいうところの、人類がこの世界に生まれて、生きている(生かされている)意味についてです。

 

分かりにくいかもしれませんが、簡単に書いておきます。

 

彼らによると我々人類は「第三密度」と呼ばれる状況に置かれた存在であり、そのための学びをするために生きているといっています

 

我々の前段階というのは、「第一密度」と「第二密度」であり、それは鉱物や植物、動物などの存在をあらわしているそうです。つまり、「生命」が生まれるとその存在は「全体」から切り離され「個」となります。自分を「自ら」意識できない鉱物や水のような存在が「第一密度」だとすると(鉱物や水にも意識はあるとしています)、「自己」を「個」として認識を(ある程度自覚して)始めるのが「第二密度」の動物や植物たちといえます。そして我々「第三密度」においては、その「個」がより深く認識され、「個」が各自の「個」だけで生きていけないことを理解するための「学びの場」であるとしています。

 

そしてその学びを繰り返し、遂に「全体は一つ」という認識になるとき、「第三密度」を卒業し、「第四密度」に入るとしています自分だけでなく、他人も大事である、という考え方になる、ということです。それは、いうなれば我々の宗教が「天国」といってきたような世界でしょうか。しかしその後も学びを続けることは我々の考えている「天国」とは違います)

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当然、このような話が受け入れられるためには輪廻転生」の概念を受け容れる必要があります。この概念は最近のスピリチュアル・ブームの中でも盛んにいわれるようになりました。

 

つまり「人間」は何度も生まれ変わりを繰り返しながら自身を徐々に成長させているという考え方です。生まれ変わるごとに各自のクリアするべき「テーマ」が決まっておりそれを何度も繰り返すことによって、成長していくいうものです。このテーマにおいてはエドガー・ケイシーなどが詳しいようです

 

ここのラーがいうこともほとんどそれと同じです若干の引用をします。

 

<転生の回数が蓄積されていくと、存在はさらなる要求を見い出すようになります。それには取引する要求、愛し愛される要求、動物的な行動様式から品性を高め、より全体的視野をもとうとする要求などがあります。

 

第三密度の周期の初期のあいだに関しては、輪廻転生は、身体という乗り物のエネルギー複合体が中断したそばから迅速に無意識に起きます。それは、直前の転生の体験を熟考したり癒したりする必要があまりないためです。

 

・・・(中略)・・・

 

寿命の短命は「一なるものの法則」のゆがみのひとつで、存在は、自分が耐えうる以上に激烈な体験を今以上たくさん受け入れるべきでないことを暗示しているのです。しかしこのゆがみは個人レベルでのみ効力が発し、惑星複合体や社会複合体に対しては影響力をもちません。

 

存在や叡知や愛を拒絶したことにより、それらが存在の自己の一部として受け入れられぬまま「創造者」の意識に映し出された場合、かなり厳しい体験がその後で続いて起きてくることになります。それで、その存在をそうした体験から外してあげる必要が起きるために、寿命の短縮が起きるのです。そして当人には、死後の癒しや、その人生をきちんと評価する必要が生じてくるのです。>

 

補足的にもう一冊だけ書物を紹介します。

 

若干話は飛びますが、よろしくお願いいたします。

 

 

「眠れる預言者エドガー・ケイシー」光田茂著。

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宇宙に残る記憶媒体、アカシック・レコードを読むことができたという、アメリカの靈能者エドガー・ケイシー(1877-1945)の紹介本です。

 

彼は病気の人の治療のために、その人の前世を見ることができたといわれています。この本の中身はエドガー・ケイシーについての総合的な案内本のようですが、その中にケイシーによって前世を読まれた人達の例が示されています。

 

それが、この書物の中に、いくらか具体的に書かれているので、上記の内容と合わせて、若干の引用をしていきたいと思います。

 

本来、エドガー・ケイシーについてはもっと十分なスペースを取って書かれるべきだと思います。しかし、エドガー・ケイシーについて書きだすと、その内容は「ラー文書」同様、多岐にわたった内容ですので、厖大です。ここでは省きます。しかし、この靈能者(?)のいっていることはかなり「ラー文書」のいっていることとかぶります。また「ラー文書」内にもケイシーについての言及もあります(他には二コラ・テスラなどについても)。

 

エドガー・ケイシーが患者や彼に関係ある人々の前世を読んだ(リーディングというらしい)その例の引用です。一応、輪廻転生があるのではないかという、証明の意味合いぐらいでの引用です。

 

これらは各個人の持つ人生の問題や、性向について掘り下げるために聞かれたものです。

 

いくらか唐突に思えるかもしれませんが、引用します。

 

  神を否定し続ける男性(十字軍の遠征に失望)

 

ケイシーの身近に、徹底した無神論者がいました。彼の前世に興味を持った人が、リーディングにその原因を尋ねました。それによると、彼は前世で十字軍の遠征隊に加わりエルサレムの奪回に参加したひとりであったということでした。しかし、聖地を奪還するという聖なる目的の裏で、宗教指導者たちの目に余る乱交、不道徳な行為を目撃し、宗教に大きな失望を感じ、それ以来宗教を毛嫌いするようになったというのです。

 

また、全く逆のケースとして宗教的に寛容な女性がいました。彼女のライフリーディングによると、彼女はキリスト教とイスラム教との間で宗教戦争がしばしば行われている時代に生まれましたが、イスラム教徒の人々と接したところ、彼らが人格的にも非常に高潔で、高い道徳的な生活を送っていることを経験し、それ以来、他の宗教にも優れた点があることを認めるようになったということです。>

 

ここで語られていることは「良い」ことも「悪い」ことも、生まれ変わりを超えて持ち越されていく、ということです。そしてその内容はラー文書のいうところと意味合いは合致しているように思えます(つまり各存在の成長が求められる、という意味において、です)。

 

ここで問題になってくるのが、こうして持ち越された「業(カルマ)」が、過去に犯した「罪」とか「悪い」行いの克服へと変容する場合です。

 

「ラー」のいうことが正しければ、人間は他者と理解し合うための学びをしているといえます(一なるものの法則)。それ故に、他者と分離をもたらすような生き方や考え方は矯正されねばならない、ということになります。

 

もし、物事が建設的に変容し、次世代に持ち越されるのなら、何も問題はありませんが、物事が悪い方向へと変容した場合、それは次回の人生で学ぶべき「テーマ」となり得るとしています。

 

以下のようなケースがあったと、ケイシーのリーディングは述べています。

 

  交通事故

 

次のケースは15歳の時に交通事故に遭った少年のものです。彼は交通事故の後遺症でその後の人生を車椅子で過ごさねばなりませんでした。彼のケースは、いろいろな意味でカルマについて深い示唆を含んでいるので、少し詳しく解説することにします。

 

ライフリーディングは、彼が直前の前世でアメリカ独立戦争の時に兵士として戦い、その時の人生では、困難な状況に遭遇しても、それを快活さと忍耐をもって最善の形で克服する能力を培ったと評価しました。それによって彼は精神的にも靈的にも成長することができたのです。

 

彼が半身不随というハンディキャップを負うことになる前世の理由は、それよりさらに前のローマ時代にありました。

 

リーディングは、初期キリスト教時代のローマで彼が作ったカルマについて次のように説明しました。彼は捕らえられたキリスト教徒と闘技場で戦うことを楽しみにし、何の抵抗も示さず屈してしまう人々に嘲笑を浴びせたのです。「そのために、今度は自分自身が同じ苦悩を味わうことになり、自らの苦しみを軽んじなければならなくなったのである」と。

 

このケースを使って、カルマの重要な側面を説明しておきたいと思います。

 

この男性の嘲笑のカルマは初期キリスト教のローマ時代で作られたことをケイシーは指摘したわけですが、その時の過去世から今回の人生までの間に少なくとももうひとつの過去世がありました。そこでこの男性はすぐにこういう疑問を起こしました。「ローマ時代のカルマはなぜ直後の人生に現れず、今回の人生に現れたのでしょうか」と。それに対してケイシーは次のように答えました。「直後の人生に現れていたなら、あなたはその重荷に耐えられなかった。それゆえに、次に人生ではカルマを償えるほどの精神力を鍛えることに費やされたのだ」。

 

ローマ時代の直後の人生で罪を償おうとしても、それでは彼にとってあまりに荷が重すぎたのです。ケイシーはこの種の状況に対してしばしば「たとえあなたが重荷を引き受けようとしても、神がそれを許し給わない」という言葉で説明しましたが、このケースがまさにそれでした。魂が成長するまでカルマの負債は延期されるのです。何という高い配慮でしょう。

 

すなわち、現在の人生において何らかの身体的障害を持っている人たちは、たとえそれが前世のカルマによっているのもであったとしても、それを背負うことを神に許されているほど精神的・靈的に成長した魂であるということです。>

 

このような前世や来世、この世あの世という概念は現代に浸透している一般的な無神論的な概念と正反対の意義を持っているように思えます。はたして、上記の交通事故にあった少年の例は、確かに我々が生死を繰り返しながら、成長を続けているという、良い例のように思えました。

 

自分には、こうした記述はラーのいうところと良く似通っているように思えるのです。偶然の一致、というよりも、何か背後の理由から導き出されてきている、「一致」のように思えます。

 

もし人生が一回こっきりで、死後全てが消えてしまうというのなら、我々が努力して、自分の今いる状況を改善したとしてもそれは「一回こっきりの夢」のようなものです。仮に、何も努力せず、人生を面白おかしく暮らしても、当人が死んでしまえば「努力した人」と「努力しない人」に何の差もありません。

 

ここで述べられていることは、今の社会の中で求められている「富」や「名誉」が必ずしも人生の目標でないことを暗示しています。人は各自に自分で設定している「目標」があり、それを自分の力で克服していくことこそが大事であり、その問題に取り組んでいる限り、その人生は肯定されるべきであるということです。単に誰が「善い」とか「悪い」という事柄に左右されず、人は自分の人生を、自分なりに歩めば良いのではないのでしょうか?

 

自分が最近こうしたオカルトともいえる思想や思考を支持するようになってきたのは、こうした点が大きいです。

 

今私たちが生きていて、それが必ずしも現実的に利益をもたらすものでないにしても、そこで行われている努力自体は次の人生に影響し、意義があるということは、私たち人間の倫理や道徳性に照らし合わせてみても、重要なことのように思えます。

 

そういった意味で、我々が「自己」を顧みるとき、より深い意味で自分という「存在」を自覚するようになるのではないでしょうか。

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「ラー文書」というこの本の中では、その他にもアトランティスなどの古代文明について、また、惑星連合という彼ら「宇宙人」の存在など多岐にわたって書かれています

 

こうした部分は中々理解が難しい部分かもしれません。

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まず一般的な人には全く理解されない内容だろうことは、今回も承知して書いています。

 

あくまで個人的な意見ですが、この本を読む限り、ひどいデタラメを書いてるとも思えませんでした。むしろ、最近は他のニューエイジ系の書物や、宗教書なども漁っていますが、点と点が繋がっていくような感じで、我々の認知してこなかった世界像が一定の形をもって出来上がっていくことに驚いています。

 

人類にはガリレオ・ガリレイの例がある様に、物事の真実性が実は「常識」の中にない可能性があるのではないのかもしれないと、考え始めています。

 

とりあえず、以上です。自分も自由は尊重されるべきだと思っております。

 

今回も「いいね」はいりません。m(__)m

 

廉価盤の中古LPで過去の名演奏を集めたいと考えています。いくつか買ってみたので書いていきますね。('ω')ノ

 

アルフレッド・コルトー(1877-1962)によるショパンのエチュード集(1933)。

 

有名な1933年の演奏で、芸術的な美しさが傑出した演奏だと思います。現代のピアニストでも美しい演奏をする人はいますが、その美には硬さがあります。しかし、コルトーのピアノに宿る美は柔らかく、至純です。

 

ロマン派の生き残りだった人ですから、作品内部に物語を求め、どの楽曲からも作品の意義が聴かれます。作品に対する文学的理解はこれ以上を求め得ないでしょう。細かいニュアンス、感じ切ったピアニッシモ、全ては演奏家本人が心から感じ切っているとしか思えません。

 

ショパンのサロン音楽に、香り高い、コルトーのフランス風のしゃれっ気と、品の良いポエジーが絡みます。

 

夢みるような美しい演奏です。現代人にこういう演奏は絶対に無理です。まさに、失われた時代を取り戻す歴史的な記録です。

 

 

同じ演奏を赤盤でも持っていますが、こっちはさらにノイズが多く、聴くのに苦痛です。ですが、音はこちらの方が良いです。

 

出だしから透き通った、張りのある音が出ます。ノイズさえ入らなければ、まるでピアノの音色に虹がかかるようです。

 

しかし・・・油で炒め物をするような音が入り続けるので、手放す予定です。(-_-;)

 

 

 

久しぶりにCDでも同じ演奏を聴いてみました。こちらも美しくリマスタリングされていると思います。しかし、やはり音が固く、コルトー独特の柔らかい美を幾分は損なっていると思います。

 

CDでも良いとは思いますがアナログ盤で聴けるなら、そちらがお勧めでしょう。

 

 

文春新書の「クラシックCDの名盤、演奏家篇」の中で中野雄氏が次のように述べています。

 

<音楽史に遺る女流では、この人(ジョコンダ・デ・ヴィ―ト)とジネット・ヌヴ―が双璧だと思う。>

 

とあります。

 

この前、ヌヴ―を聴いて驚いたばかりです。そのヌヴ―と比較される人とはどんな人なのか興味があったので、デ・ヴィ―ト(1907-1994)を1枚買ってきました。

 

ジョコンダ・デ・ヴィ―トはイタリアの女流ヴァイオリニストで、最近まで存命だったようです。しかし1962年に引退していますので、ちょっと知名度が低いのかもしれません

 

ここでの曲目はブラームスのソナタ1番、3番です。一聴して、ヌヴ―のような衝撃はありませんでした。大人しく、しみじみとしています。音色と演奏には気品がありブラームスには良く合うようです

 

繰り返し聴くほどに良く感じられる気がします。

 

 

 

後はバリリ・カルテットのヴェートーヴェン13番と15番を買ってきましたこちらもCDで持ってますが倍音などLPの方が良く聴こえますね

 

これも当分聴いていきたいと思います。

 

('ω')ノ<イエス、NO MUSIC、NO LIFE!

 

イザベル・ファウストの無伴奏が結局手に入れられなくて、何か代わりのものを探していました。代わりといっては怒られるんでしょうけど、ユリア・フィッシャーの無伴奏をアナログ盤で購入しました。

 

2004年の録音で、当時まだ21歳という若さの録音です。

 

比較ついでに、先日発売されたヒラリー・ハーンの無伴奏を聴いてみました。ハーンの演奏は、これに比べると厳しめの演奏です。少しシゲティを思い出すような、鋭い音色の切れ口で、細部をクローズアップするようなスケールの大きさがありました。

 

 

聴いていると、欧州の生の空気そのものを詰め込んだような、フレッシュな印象です。その分、ヴァイオリンの音色も濃くて、少しくどさはあるのかな。自分は1度に全曲を聴き通そうとは思わないような雰囲気です。

 

それに比べると、フィッシャーの無伴奏は音の角も弱く、すらすらと進みます。しかしヴァイオリンの音色の潤いと艶は丁度良くて、聴き心地が良かったです。

 

無伴奏はどの曲も同じような音型がちょっとづつ姿や角度を変えて進みます。こういう演奏で聴いていると、そのどの側面にも美と調和があることに気付かされます。落ち着いて心静かに聴くと、その文脈の長さと、繊細さとに驚きを新たにします。

 

このLP、ジャケットが真っ白なんですが、1曲聴き終わると、不思議とそのイメージ通りの感想を持ちます。真っ白な、クリーム状の静謐さです。昔からCDなんかでも、レコードのジャケットはその演奏の雰囲気を良く表しているケースがありますが、今回もそれを感じました。

 

聴き心地と嫌味のない味わいで、音も良く、当面のお気に入りになると思います。

 

 

 

最近聴いたうちで1番びっくりした演奏が、フランスの天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴ―(1919-1949)の演奏です。曲目はシベリウスの協奏曲(1947)です。

 

音は固くて悪く、高音部は鋼のようです。キンキンします。それでも聴き込んでしまう様な迫力がこの演奏にはあります。

 

ヌヴ―は、今の人のように曲全体の造形とか、客観性にそれほどの注意を払いません。

 

彼女はヴァイオリンを通して人に伝えたい気持ちがあるに違いなく、今の人たちとは比較にならないような集中度で、ヴァイオリンを弾き切ります。そのアタックの強さ、強烈な情熱的訴えに、目頭を熱くする人もいるかもしれません。胸を熱くさせる演奏家です。まるで巫女のようです。

 

小股が切れ上がるような強力な表現、その迫力は原始的な何ものかに例えられるともいえましょうか。

 

生まれながらの天才だったようです。将来も嘱望されたに違いありませんが・・・。

 

 

残念ながら、1949年、彼女の乗った航空機はアゾレス島の山腹に墜落し、兄ジャンと共にその若すぎる命を散らしたそうです30歳という若さです。

 

数は多くないようですが、彼女の他の録音も聴いてみたいと、強く思わされました。

 

LPを水洗いしました。

 

AltusのチェリビダッケのLPに入ったノイズが気になって仕方ないので、2度ほど洗いました。ノイズが完全に消えるわけではないですが、音は良くなりました。洗って音が良くなるなんて、CDを聴いていた時に比べると、少し不思議な気がします。

 

最近ブルックナーは聴かないんですが、久しぶりにブルックナーを聴いて良かったと思いました。ブルックナーは昔好きだった分、聴きすぎて、今となっては食傷気味になってます。

 

この作曲家の音楽に対して自分は、勝手な妄想で、「水晶」のイメージを持っています。青白い感情の、半透明の透ける世界観が好きでした。チェリビダッケの演奏を聴いて、久しぶりにその感覚が戻ってきました。弦の音色も管の音色も、決してどぎつくなくて、柔らかさがあります。

 

第5のフィナーレの結部は壮大なコラールですが、聴いているときはこれほど偉大な音楽も珍しいと・・・思えるものです。

 

賛歌なんですね。

 

神への賛美なのか、この世界への賛美なのか分かりません。しかし、歓呼の感情で「この世の全てを受け容れよう」という、その思いには頭が下がるものがあります。

 

 

グラモフォンのLPを中古や新品で幾つか揃えたんですが、中々良いと思えません。音が良くない感じがします。昔、カラヤンのトスカをCDで聴いた時は胸をときめかしたものです。

 

このトスカはカラヤン流の厚化粧の演奏ですけども、内容に良く合うと思って聴いたものです。黄金の響きが夕映えを思わせるような美しさです。

 

しかしLPはドイツ製の中古ですが、音がこもってる気がします。

 

 

唯一比較的満足したのが、古めのカラヤンの演奏した第9です。1枚のカッティングで、第3楽章は途中で盤を返さなければなりません。しかし、音は前に出てきます。

 

これも2度洗いました。

 

輝く音色の中に、ベルリン・フィルの各パートが絡み合う様子は美しいですね。

 

颯爽としながら、厚みのある合奏は、「ああ、カラヤンだ」と・・・。

 

爽やかなベートーヴェンですが、これも明らかにベートーヴェンです。ケレン味のない迫力と、豪奢に響くカラヤンスタイルのベートーヴェンです。

 

何か、しきりに懐かしくなってしまいました。

 

 

ある方の紹介でLP関連の書籍を購入しました。もう廃刊になっている書籍で、古本でも原価より高い値がします。

 

日本のLP受容の歴史と優秀録音のディスクを綴ったもので、緻密な内容です。充分に復刊する価値があると思いますが多分そうはいかないでしょうね。中身は相当に面白いです

 

 

自分1人ではこの本の存在に気付くことはありませんでした。紹介していただいた方に、改めて感謝いたします。m(__)m

 

ありがとうございました。

 

近所のレコード屋さんがワゴンセールをしていましたので、半額で中古LPを複数枚購入しました。1枚500円もしませんね。('ω')ノその内から少し気に入ったものについて書かせてもらいます。

 

シャルル・パンゼラ(1896-1976)の「デュパルク歌曲集」(1931-1937)。

 

シャルル・パンゼラはスイスのリリック・バリトン。フランス歌曲に名唱が多いとのことです

 

アンリ・デュパルク(1948-1933)はフランスの作曲家で、生涯に500程の歌曲を書いたとされていますが、自分でそのほとんどを破棄し、残っているのはわずか16曲といわれ、その内、12曲をパンゼラがここで歌っています。

 

パンゼラの歌い方は古く、ヴィブラードのかけ方なども完全に旧時代のものだと思います。しかしその匂い立つような雰囲気と、甘美な歌声は現代では得難い美しさがあります。幾分ベル・エポックな感じもします。妻のマドレーヌ夫人のピアノの伴奏も素晴らしいです。

 

デュパルクの歌曲は、少し精神的な重さを感じさせはしますが、感傷的な詩と共に、この世のはかなさと美しさとを歌っています。2曲目に収録されているジャン・ラオールの「フローレンスのセレナーデ」が好きです。

 

爽やかですが、ピアノの甘い伴奏に始まり、小さな小川を思わせるような歌曲です。

 

夜の中に 美しさ

ダイヤモンドと輝く星よ

 

瞳をお向け 瞼を閉じた

ぼくのいとしいひとに向かって

 

あのひとの眼に

大空の祝福を注いでおくれ

 

あのひとは眠っている・・・窓から

幸多いあのひとの部屋に忍びこんでおくれ

 

あのひとの白い肌の上に 口づけのように

夜明けまで 休んでおくれ

 

そうしたら あのひとの胸の思いが

東に昇る愛のお星を夢みますよう!

 

(訳詞 橋本一明)

 

 

フェルッチョ・タリアヴィーニ(1913-1995)による名唱集(録音年不明)。

 

自分の世代だとほとんど名前しか知らないような歌手です(パンゼラもですが)。テノールでとろけるような美声です。知性よりも、気持ち一杯、喜びを感じさせて歌うのが胸を打ちます。

 

1面はプッチーニの名曲が5曲。ボエームの第一幕「冷たい手を~」のアリアは誰が歌っても感動的です。フェルッチョは嫌味のない、細かいことを気にしないような歌い方ですが、気持ちがまっすぐ伝わってくる気がします。

 

どんな人柄だったか知りませんが、真面目で愛嬌のある人かな、という感じが脳裏をよぎりました。

 

他の曲も甘美に歌い上げています。ワゴンで買ってきたLPではこれが一番沢山聴いています

 

歌うことが人間の営みであることを感じさせてくれます。

 

 

理屈はともかく、歌うことが楽しい人なんだと思いました。1995年に生地の養老院でひっそりと息を引き取ったそうです。