ヒマジンノ国 -43ページ目

 ヒマジンノ国

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ホールジー。2015年ごろから活躍し始めたアメリカのポップシンガーで、まだ20代です。最近自分が1番好きな歌手です。しかし楽曲も歌詞も20代とは思えないです。

 

イカす。(^^)

 

 

それほどアップテンポにもならないし、けだるく寂しげですが、静かな内面に秘めた芯の強さを感じさせます。アルバム「ホープレス・ファウンテン・キングダム」が人気です。

 

反骨的な要素はあるんでしょうが、滑らかな旋律で思いの外静かに聴かせてくれるところがユニークだし、魅力です。

 

 

CDが売れなくなって、HMVもタワーレコードもアナログ盤に力を入れ出してきました。新宿のタワーレコードはクラシック・コーナーを移転して、アナログ盤のフロアを作りました。結構ちゃんとしてました。


しかし、クラシックのアナログ盤はないんですね。(*_*)

 

HMVもアナログ盤専門の店舗が増えてますね。新宿とか吉祥寺の店舗に行きます。ここも良い雰囲気です。


良い感じですが、ここにもクラシックはないのね。(+_+)クラシックなら、ディスク・ユニオンが1番ですか?

 

クラシック以外のレコードをあんまり集める気がないので、自分にはその点は、微妙だったりします。ビートルズもほとんど興味がない。その手の過去のレコードを探すわけではないから、自分のホントに欲しいものは輸入するしかない。

 

 

エヴァネッセンスのアナログ盤も結局1週間かけて輸入しました。

 

このアルバムは飽きないです。好きです。('ω')ノオーケストラ版にも興味があります。

 

昔は池袋とかにHMVの大型店舗があって良かったけど、現在のタワレコもHMVも厳しい経営には変わりないようです。最近の流行りの歌手はストリーミングしかないケースもありますね。

 

時代は変わった。(゚Д゚)ノ!!

 

いらないソースが増えました。たまにはそれについて書きます。

 

 

アンネ・ゾフィー・オッターの歌う「シンプル・ソング」。

 

昔買ったブラッド・メルドーとのアルバムが良かったので、再びオッタ―のアルバムを買ってみました。バーンスタインのミサ、あるいはマーラー、コープランド、ぺルトなどから歌曲を選んで1枚のアルバムに。しかし、平凡な出来じゃないかな。

 

アイヴズ、コープランド、ドゥリフレ、メシアン、プーランクなどの選曲は刺激がありますが、知らない曲が多い。(+_+)知性を刺激する要素はあると思いました。 

 

 

バーンスタイン、「ミサ」(2018、ヤニック・ネゼ・セガンによる)。

 

世間的にこのミサ曲がどの程度名曲と認められているのかは疑問です。今がちょうどお試し期間みたいなものでしょうか。

 

ロックン・ロールなどを含む多彩なアイデア、難解さを排した曲調など、名曲と認識される要素はあります。

 

しかし「ミサ」というわりに、涜神的な雰囲気は強く、微妙。先のオッタ―も歌っていた、シンプルソングは名曲ですが、やはりテノールが歌うべきじゃなかろうか?

 

 

ラベック姉妹の演奏する、ストラヴィンスキー「春の祭典」(2016)。

 

ピアノデュオ、ラベック姉妹による、ハルサイのピアノ版。いかんせん、ピアノを強打しすぎて、音が固く、うるさい。DGもどういうチョイスをしたのかと頭を悩ませます。面白い、の埒外に出ないアルバム。

 

センスは良いと思うけども。こうピアノの音がきついと、聴いていて苦痛です。

 

 

最近のクラシック演奏者はカッコばっかりつけてる。

 

 

マギー・ロジャースのアナログ・レコード(2019)。

 

いらない、というほど悪くないです。ただ少し単調かな。聴いていて飽きるような・・・。ナチュラルな雰囲気は好きですね。

 

10連休になりました。!(^^)!勤勉な日本人はどこへやら。しかし、自分は休日が大好きです。

 

自由な日々こそ、素晴らしい!!

 

ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)による、1962年のバイロイト音楽祭のライヴ録音。この「パルシファル」は、本邦のクラシック愛好家の間では有名な録音なので、説明不要でしょうか。(*^^*)

 

CDで良く聴いていた録音ですね。LPでも購入しました。1970年代のオランダ盤です。6747 250。

 

 

CDでもLPでも、特に音質に差はない方でしょうか。フィリップスらしい、全体が良く溶け合った録音で、デッカとかコロンビアよりは、EMIに近い感じの音質ですかね。輪郭線が強い分、CDの方が金管楽器などの強奏は目立つようです。

 

バイロイト劇場の柔らかい響きを目指して作曲された、この作品の雰囲気を伝えるかのように、柔らかさを基調とした、ステレオ録音です。

 

 

1951年の戦後初のバイロイト音楽祭の「神々の黄昏」。こちらもハンス・クナッパーツブッシュの録音です。SBTLP 6175。

 

ワーグナーの本懐を聴くのなら、有名なパルシファルの録音(上述のもの)より、自分はこちらを取ります。同年、同音楽祭のフルトヴェングラーの「第9」に比肩しうる、唯一のワーグナーの演奏だと思います。

 

パルシファルは動きの少ない音楽なので、この「神々の黄昏」の方が動きが多く、オペラを聴いている気になれます。モノラル録音ですが、有名なデッカのワルター「大地の歌」(1952)の名録音に匹敵するか、それ以上の録音でしょう。

 

そのため鑑賞には全く問題ありません。モノラルとは思えないほどの楽器の分離感と、明瞭さがあります。他にクナッパーツブッシュだと1955年(モノラル)の「さまよえるオランダ人」も割合に良い音質でした。ただ、オランダ人の方は、演奏の緊張感はちょっと落ちますね。

 

この「神々の黄昏」、何より演奏内容の素晴らしさは特筆されるべきだと考えています。

 

旅に向かうジークフリート、彼の持つ指輪を自分のものにしようとする、影の英雄ハーゲン。ハーゲンの張り巡らせた奸計にのせられて、グンターとハーゲンはライン川を下って来るジークフリートを大声で呼び止めます。

 

ジークフリートが行き過ぎてしまうのではないかと焦るグンター。するとハーゲンは両手をメガフォンにして大声で叫びます。

 

「Hoiho!Wohin,du Heitrer held?」  (ホイホー!どこへ行くのだ、朗らかな英雄よ!)

 

まだ物語の序盤、クナッパーツブッシュは巨大な迫力で、どんな細部も見逃さない深い意味合いを表出していきます。グンターの焦りとハーゲンの良く通る遠吠えのような単純なシーンでも、非常なリアルさを持って迫ってきます。まさに目の前にハーゲンとグンターがいるようです(゚Д゚)ノ!!

 

こんな迫力はフルトヴェングラーも、カラヤンも、ベームでも出せません!ショルティも同様です!

 

これほどワーグナーのオペラに精通した指揮者は珍しいでしょう。楽器の響かせ方もライトモティーフごとに変えて、魔法のような音色に徹しています。年代物の美酒を思わせる低弦、魔法の耳鳴りのように響く弦の合奏、金属の部品を思わせるような金管楽器の響かせ方、ワーグナーの書いた神話的な雰囲気がこれでもかと創造されていきます

 

クナッパーツブッシュのゆったりとしたテンポの中、歌手たちは水を得た魚のように生き生きと歌いだし、破格の声量と太い声色のヴァルナイ、ヒロイックな雰囲気を湛えるヘルマン・ウーデなど素晴らしいです。

 

そして極め付きである、このオペラの影の主役である、ハーゲンそのものを思わせるルードウィッヒ・ウェーバー(1899-1974)。

 

ルードウィッヒ・ウェーバーは涎を垂らさんばかりの歌い方で、スケベ心満載のハーゲンの心情を表現しつつ、邪悪な本性をみせることもためらいません。なんという上手さ!(゚Д゚)ノ!!なんという卑劣な人物!

 

 

クナッパーツブッシュの指揮によって徐々にハーゲンの暗い計画に心を開いていくブリュンヒルデの妖しさ、粗野なギービヒ家の集まりの卑俗な雰囲気など、その場で現場を目撃しているようなリアルな音楽が繰り広げられます。

 

 

そして遂に、ブリュンヒルデが、英雄が人間に生まれた宿命的な運命の苦しさを神々に歌い上げ、この巨大なオペラの総括を計ると神々の黄昏のテーマがオーケストラ一体と成って信じられない迫力の音の柱となり、浄化を果たしていきますバイロイト劇場の天井を突き破らんばかりの迫力は、フルトヴェングラーにも無理でしょう

 

ジークフリートのテーマが最後の一撃で粉々に砕け散るまで息もつかせぬ演奏です。

 

スゲエっす(゚Д゚)ノ!!(゚Д゚)ノ!!

 

 

音はCDとLPだとCDの方が好きです。まさにワーグナーの真髄を聴かせる、名演です!(*^^*)

 

 

ゲオルク・ショルティ(1912-1997)による「ジークフリート」(1962)。これも説明不要の演奏でしょう。クラシック音楽の録音史に残る金字塔です。SET242-246。英国盤。ED3とED4の組み合わせ。

 

 

CDで聴いてきた音がどうしても好きになれないのでLPに賭けました。CDの音が悪いわけではありませんが、ショルティの演奏がきつく、汚いので、CDだとその感じがはっきりしすぎます。LPで聴いてようやくその良さを体験できた気がします。

 

 

人間の持つ集中力はおよそ40分ぐらいが現界だといわれていますが、ワーグナーのオペラは4時間が標準サイズです。そのために聴き手が音楽を支配するのではなく、音楽が聴き手を支配することになります。その分、作られる音環境は重要で、これが良くないと聴いていて苦痛になります。

 

またワーグナーのオペラは無駄な会話が多く、例えば「ラインの黄金」における、ヴォータンを含む神々と巨人とのやり取り、また「ワルキューレ」第2幕、ヴォータンの苦悩を聴かされるブリュンヒルデの場面、また「ジークフリート」では始まってすぐの、ミーメとジークフリーとのやり取りなど、一言いえば済むことを、長文で展開させていきます。

 

正直、聴いていて嫌になるほど長く、特にワーグナー初心者には躓きの石となります。

 

こういう部分をワーグナーに精通している指揮者は意味深く、あるいは面白くやってくれるので良いですが、ショルティは全くできていませんまあ、できなくても構わないのですが音の広がりは欲しいところでした

 

LPだと確実に音の広がりは出ますので、それなりに音楽の中で呼吸ができます。ザッハリヒカイトな感じだと、どうしても指揮がせかせかしますので、呼吸が浅く聴こえます。個人的にはCDだとその感じが強調されている気がして、つらかったです。

 

CDでもボリュームを上げればいいのでしょうが、自分の装置は大したことがないので、結局音の輪郭線を強調されて、変に音の圧みたいのを感じてしまいます。ショルティの音にガンガン殴られている感じかな。それが4時間も続く・・・。それが嫌いでした。(+_+)

 

LPだと音の際は消えて、音と聴き手の分離感は減るように思えました。

 

多分プロデュ―サーのカルショーはその辺のところは意識していたような気がします。ショルティ特有の轟音はやや音を大きめにして、なるべく音楽の中で呼吸する感じで聴ければ、特に面白い演奏をしてくれなくとも楽しめます

 

しかし、LPで聴いて、改めてこの録音の商品価値の高さというのを実感しました

 

ショルティの作り出す、生気のある音色と濃厚なウィーンフィルの甘美な味わいが、よほどしっかりLPに定着していて、旧世代のワーグナー演奏とは違う、生々しい感じが魅力的です。ショルティも普段はザッハリヒですが、自分が理解できるところに来ると、突然爆発して、迫力のある指揮をします。「ジークフリート」だと第1幕の、途中から最後まで、魔剣ノートゥングを鍛え直す音楽の迫力は、誰にも負けない素晴らしい指揮ぶりだと思います(゚Д゚)ノ!!

 

 

ストコフスキーの「ニーベルンゲンの指輪」ハイライト集(1966)。フェイズ4ステレオ。PFS4116。英国盤。

 

ワルキューレの騎行、森のささやき、ジークフリートの葬送行進曲などの定番曲が、ストコフスキーの編曲版で納められています。純粋にワーグナーを聴く感じではないですね。面白いけど

 

原曲の雰囲気は残してますが原曲のあずかり知らない楽器の音が鳴ります。面白いから良いかな。

 

 

 

とまあ、上述のワーグナーの感想は全て自分の主観に基づいております。特に他人様に意見したいわけではありません。批判的にご覧いただきたいと思います。

 

よろしくお願いいたします。m(__)m

 

ロリン・マゼール(1930-2014)による「展覧会の絵」(1963)。デッカの開発したフェイズ4によるLP。1974年の日本製。

 

ステレオサウンドが開発されて、スピーカーのLR,両翼の音の違いが明らかになりました。録音チャンネルも時代が進むにつれ、2チャンネルから、3チャンネルになり、ついに4チャンネルになったのがこのフェイズ4サウンドです。

 

チャンネル数が増えるにつれ、各楽器の音色の明瞭度と分離感が高まります。そして歌い手が歌いながら移動する様子も、録音を聴いて分かるようになりました。

 

初めて聴いた時、この録音の良さには本当にびっくりしました。(゚Д゚)ノ!!ソロ楽器の明瞭度の高さ!音の隈取りの鮮やかさ!強音部のシャープな迫力!立体的で、明瞭な音響!!

 

CD世代の自分には驚きのサウンドです!

 

多分、実演はこんな風に聴こえないでしょう。人工的な音響効果かもしれませんが、今自分の保有している管弦楽の録音では、これが1番音が良いと思います。

 

ひと昔のアメリカは、機能的なトスカニーニ流のオーケストラ美学を受け継いだかのように、ハンガリー系の指揮者達が活躍しました。フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ゲオルク・ショルティ、ユージン・オーマンディ、アンタル・ドラティ。ロリン・マゼールは厳密にはアメリカ人かもしれませんが、彼もハンガリーの血が混じっています。

 

でも・・・本来なら・・・自分は彼らのことに興味がありません。

 

現実的で、オケを鳴らす手腕は評価できますが、彼らの演奏には、情緒ってものがないですね。セルは冷酷、ショルティはガサツ、オーマンディも繊細さを欠く。マゼールも割と血が通ってない(あくまで個人的な見解です)m(__)m。

 

しかし、LPでショルティとか、このマゼールを聴くとその音作りのシャープさが当時の最新の録音技術といかにマッチしていたかを認識させられて、舌を巻いています。CDで聴くと音が固くて、より彼らの冷酷さ(゚Д゚)ノ!!が目立ちますが、LPで聴くと、音は柔らかくなり、臨場感が増して、彼らの音作りも鋭さが心地良く思えてきます。狙いは・・・こういうことか・・・と。

 

ストコフスキーのワーグナーをフェイズ4で持っていますが、マゼールの録音の方が良く聴こえます。それは多分彼のシャープな音作りが、録音の明瞭さに寄与しているからでしょう。

 

 

マゼールはCDでマーラーを聴いてきたぐらいでしたが、LPでもっと聴きたいと思い始めています。ハンガリー系の指揮者のLPが割と高値で取引されているのが分かった瞬間でした。多分自分ももう少し買います。(+_+)

 

デッカの録音技術も素晴らしさもあるんでしょうけども、苦手だったこの手の指揮者も今後は視野に入れたいですね。

 

純粋に音を聴く楽しみがあると思いました。

 

 

オランダ人指揮者、エドゥアルド・フリプセ(1896-1973)によるマーラー交響曲8番「千人の交響曲」(1954)。マーラーの8番は1950年にストコフスキーが(多分、世界初録音)、1951年にヘルマン・シェルヘンが入れていますね

 

フリプセはその後の録音になります。3番目の録音かどうかは不明です英国盤、ABL3024、3025のマトリックス番号が振ってありますが同時にA00226Lという、オランダ初出時の番号も振ってあります。アメリカではEPICから、オランダとイギリスでは1954年にフィリップスから発売されたものと想像されますエドゥアルド・フリプセという指揮者もほぼ無名、多分オランダのローカルな指揮者でロッテルダム・フィルのオーケストラ・ビルダーだったようです。

 

久しぶりにマーラーの8番を聴きます

 

名曲で傑作であることに疑いはありませんが個人的には聴くのにしんどい音楽です。モニュメンタルな作品をマーラーは目指したのでしょうが陰気な感じがしてしょうがないです。確かに第1部は宇宙全体が鳴り響くような輝かしいまでの音の洪水が、巨大な合唱となって聴き手を圧倒します(1000人のオーケストラですから!実際はコーラスが多いだけですが・・・)この巨大な演奏効果に比肩しうるか、または凌駕できるのは、ベルリオーズのレクイエム、そのラクリモーサだけでしょう(コーラス以外のオーケストラの規模はベルリオーズの方が上です!本当にクレイジーなのはベルリオーズの方でしょう!)。

 

第2部はゲーテのファウストから終わりの部分に音楽をつけていますがあの晩年のマーラー現世に対する執着と、ゲーテの書いたこの戯曲とには明らかな齟齬がありますね音楽としては充分なので、問題ないかもしれないですがこの第2部がどうしても暗い感じがするので、今まで沢山聴いてきませんでした

 

 

バーンスタインが2度録音していて、1度目(CBS、1966)のチクルスでは張り切った、若々しい演奏で、第1部では音響をぎりぎりまで張りつめて演奏しています深みには欠けますが迫力は満点です。2目(DG、1975)のチクルスでは、バーンスタインは8番と「大地の歌」を録音せず他界してしまったので映像用のソフトから流用した録音が使われています。最晩年の自己没入するスタイルと、壮年期の上滑りするほどの情熱的演奏との、中間に位置する演奏で、中庸を得ています。しかし、最晩年の自己没入型の演奏を8番でも聴いてみたかった、と思うのがファンの心情な気もします。

 

アバドがファッショナブルで、柔軟な演奏をしていますね(DG、1994)。第一次世界大戦前のヨーロッパにあった、ユーゲント・シュティール(アール・ヌーボー)には一種の広告主義(表現主義というべきですか)があったように思いますがアバドの演奏はこれによく合うんですね

 

雰囲気は違いますが、ブーレーズも美演で、緻密、輝かしい演奏です(DG、2007)。こちらも表現主義の雰囲気があって好きです。楽しく聴くなら、アバドかブレーズかと思っています。

 

クラウス・テンシュテットは感情よりもオケから出てくる響きを優先して曲を構成するので、非常に魁偉なフォルムになります強いていえばクレンペラーのマーラーとよく似ていますしかし、テンシュテットの方がずっと現代的でシャープです。8番も落ち着いて、冷静な演奏で、魁偉ですが、音をきっちりと揃えて美しく、聴きごたえがあります(ワーナー、旧EMI、1986)。まあまあですが、テンシュテットはライヴの人なので、5、6、7番のライヴ演奏を知っている人にはいささか物足りない感じもするはず。これはこれで名演でしょうけどね(8番のライヴ盤も存在するそうです。自分は聴いとりません(+_+))。

 

他はクーベリックとかジンマンとか、マゼールとか・・・。

 

聴きはしましたが、あんまり記憶にないです。名盤は各自にあるでしょうから、この辺で止めます。あんまり気にしたってしょうがないですね。(*^^*)

 

しかし、CDで聴く演奏は皆、緻密なアンサンブルと高い録音技術によって支えられていて比較すると、フルプセの演奏の古臭さはいかばかりか、という感じがしますねこれをCDで聴くと多分自分は耐えらないと思います(聴いてませんが、CD化もされています)。

 

でもLPで聴く限り、この演奏は味わい深くて上述のどの演奏よりも、好きになりました確かにコーラスはもやもやしますし、当時の良好な録音に比べると音も少し落ちるとは思います。マーラーの演奏で録音効果が弱いのは問題がありますからね。管弦楽の妙味が聴き取れないと、マーラーを聴く面白さも半減とまではいきませんが、幾分削がれます。

 

ただLP特有の音の広がりがあり、ふくよかさがあるので、聴いているとかなり美しく思えてくるのも事実です。

 

演奏は丁寧で、奥行きのあるものです。愛情があって第2部も心地良く聴けましたまた第1部のラストのグロリアは感情を入れて決めてくれているので、良いと思います久しぶりにマーラーを良いな、と思って聴きました

 

まあ、現代の聴き手には面白みのない演奏かもしれませんけどね。個人的な楽しみということでいえば、結構な名演だと思いました。

 

(゚Д゚)ノ!!ですよね、フリプセさん!

 

 

何年前に買ったかさえ忘れてしまった、古い映画の全集をたまに観ています。最近やっとVOL1の半分ぐらいに到達しました。全部で100本ありますので、全部観終わるのはいつになるか分かんないです。(-_-;)

 

その内、VOL1に収録されているのは8割が西部劇です。

 

おかげで西部劇が面白いと思えるようになりました。「荒野の決闘」(米1946)とか「赤い河」(米1948)など最近観たなかでは面白かったです。ジョン・ウェイン(1907-1979)の名前も覚えました。

 

 

渋いね。(^o^)


古い映画は最近の映画みたいに細部まで計算された脚本でなくて、もっと大らかなので、初めは少し拍子抜けしますが、観ているうちに慣れました。こういうと怒られるかもしれませんが、演技も昔の人の方が下手だと思います。時代を感じます。

 

「砂塵」(米1939)で、マレ―ネ・ディートリヒ(1901-1992)が出てきます。


でも何だか馴染めなかったりして。


彼女は有名なドイツの女優で、今でもファンは多いでしょう。典型的な西部劇で、彼女をフィルムで初めて観たんですが、存在感と貫禄がすごいです。肝が据わってると思いました。自分で歌を歌って、ショーもできる、叩き上げ感のある女優でした。

 

・・・ところが、中々美人と思えなくて(ファンの方、すいません)。m(__)m


脚本も多分、ディートリヒに寄せてます。主人公が割と平和主義な保安官補佐なんですが、急に性格が変わったように彼女を口説いたりする。それを真面目にやっている分、おかしくて吹き出したりしました。

 

代表作なんかを観るべきなんでしょうね(゚Д゚)ノ。

 

 

時代の差を感じるな、と思って観ていました。

 

逆にいうと最近の映画は緊張感がありすぎて、残酷なのも多いかなと思いますね。人の死ぬシーンもリアルに描きすぎるのかな。古い名作映画は落ち着いて観ていられる良さがあると思います。

 

今の女優は戦う女の役とか多いですからね。当時はマレ―ネ・ディートリヒみたいな強い女性像は珍しかったのかも、と思えます。

 

テレビドラマの「シカゴ・ファイヤ」とか「シカゴ・PD」を好きで観ています。働く女性ということもありますが、出てくる女の人が皆強い。

 

 

でもどちらかというとその方が今の「アメリカの女」みたいな感じがします。しかし西部劇に出てくる女性は、日本でいえば「女らしい」感じの女性像が多いです。

 

でかいスカートに花飾りのついた帽子とか。

 

家庭を守る女の像です。作品にもよるとはいえ、可愛い感じを出しているな、と思いました。アメリカにもそんな時代もあったのか、という感じですね。

 

 

それに比べると男の感じはあんまり変わらないですかね

 

女性が男性ぽくなってきたのかな?そういう意味では、現代は男女同権の時代ですね。

 

オーソン・ウェルズ(1915-1985)の出ている「第三の男」(英1949)とか、「駅馬車」(米1939)が記憶に残っています。

 

「第三の男」はサスペンス映画で、物語は今の基準からすれば何ということもないですが、映像のフォトジェニックな雰囲気が魅力的でした。特にラスト、密に思いを寄せるアンナを、墓地傍らの路上で待つ作家で主人公のホリー・マーチンス。しかし、自分のかつての恋人が事件の犯人だったこともあって、彼女はホリーを一瞥もせずに去っていきます。

 

そのシーンの構図というか、雰囲気というか。今ある流行りの映画ではまず観ませんね。忘れがたいです。

 

 

「駅馬車」はまだ未開発時代のアメリカで、街から街を繋ぐ馬車(駅馬車)を舞台にして描かれる西部劇です。駅馬車の存在自体は西部劇で良く出てくるので西部劇を見たい人は一度は観ることになると思います

 

駅馬車に乗り込む人物の多彩な描写とか、それをもとにして展開する物語の子気味良さとか

 

遂に駅馬車はインディアンに襲われて、迫力ある逃走シーンになりますが当然CGなどなく、生身の人間がやっているのが良いのでしょう最初から最後まで飽きさせないで良くまとまっている映画でした。

 

 

近頃になって、TR-3Bといわれるアメリカ軍の新兵器の目撃情報が増えています。ブラックマンタ、あるいはアストラと呼ばれるこの物体は「反重力装置」をそなえているといわれ、宇宙空間の航行も可能だといわれています。・・・(~_~)本当か~?

 

 

2014年にアフガニスタンの軍事訓練キャンプで撮られた映像がユーチューブに出ています。空中でホバリングしていた次の瞬間、機体が光って、地上では大爆発が起こります。

 

 

ヘリコプターならこういう動きはするんでしょうけども、飛んでいる航空機の形が違います。

 

 

TR-3Bの存在をアメリカ軍は否定していますが、写真や映像などで結構撮影されています。特有の3角形の形状で、中央と3つの角が光るようです。

 

 

ネットでは次のような解説などが掲載されています。

 

<ディスクロージャーであり、長年エリア51やグルームレイク、ネリス空軍基地で秘密プロジェクトに携わっていたエドガー・ロートシルト・フーシェはTR-3Bの推進システムについてこう語っている

 
「水銀に由来するプラズマは150Kの温度で250000気圧に加圧され50000回転に加速され重力の遮断を行い超電導プラズマを発生させます」>
 
マッハ10まで出せるとかもいってますね。本当かなあ。重力も無視できるので、比例的に速度を上げることなく、一気に加速できます。まず撃ち落とすことは不可能です。
 
一応、地球製UFOだといわれていますね。
 
推進原理について、ナチスのヴリル協会がETとの交信で獲得したという話があります。最近読んでいた「ラー文書」という本も、カーラ・L・ルカートという女性が触媒となり、他星の人と交信しているといっています。電波系ですね。
 
 
マリア・オルシックなどの数人の女性からのチャネリングで、情報を得たナチスはいくつかの円盤の試作機を作ったといわれています。
 
UFO原理の究明を、イタコにお願いした、ということかな。(~_~)
 
 
 
この辺の情報を戦勝国のアメリカなどが持ち帰って、独自に研究したというのが、オカルト系の神話の1つですね。実際、ナチス技術の研究に関しては、ステルス戦闘機、ロケットミサイルなどの結果をアメリカは出してはいます。
 
エドワード・スノーデンは宇宙から異星人が乗ってきたUFOというものはいなくて、目撃されているものは全て地球人の作ったUFOやその試作機だという話をしているようです。
 
中々詳しいことは分かりませんが、写真などを見る限り、現代にアメリカ軍の三角形の航空機がいるのはほぼ間違いないと思います。

その性能がどの程度のものなのかは議論がありますけど。ただの航空機かも。(+_+)
 
トランプが「宇宙軍」を宣言して随分になりますが、実態が見えてきません。やはりこのTR-3Bなどの秘密機が念頭にあるのでしょうか。「神の杖」などの兵器も本当に存在するのなら、アメリカ軍の軍事力は我々の想像をはるかに超えているものになりますね。
 
F35の性能が悪いとか、どうとか・・・比べ物にならない話です(話が事実ならね(*^^*))。
 
うーん、どうなんだろう?

 

誰も信じないだろうし、先日書いた記事のおまけとして書いておきます。まともに信じても怖いだけだし、それを大真面目に受け止めるのもキ〇ガイとも取れますので。

 

以下は色々前提アリでの話です。

 

他人様のブログを読んでアンチ・キリストについての言及があったので、私見をほんの少し書いておきます。他人様はその出生を1962年の2月5日だといっていました。自分は2月5日だとは聞いていましたが、出生は1964年だと聞いていました(聞いたとか書いてますが、あくまで色んな書物を拾った結果です)。

 

それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で述べた「大審問官」のような存在といえます。アメリカのジョシュア・D・ストーン博士が著作で次のようにいっています。

 

<世界の主要な宗教において、現行の時代の終焉とともに、偉大なマスターの到来を見ることになるとの言及がある。キリスト教では、これをキリストの再臨と呼び、ユダヤ教では救世主(メシア)の到来という。ヒンドゥー教ではカルキ・アヴァターが、またイスラム教ではイマーム・マハディが来ることになっている。仏教では、そうした存在はマイトレーヤ・ブッダと呼ばれ、その到来がゴーダマ・ブッダ(ブッダ/釈迦)によって今から2500年以上も前に予言されている。

 

それにしても、すべての大宗教が心待ちしている世界教師たる存在が、すでに地上に存在することを今こうして報告できるのは、なんとも喜ばしいことである。その存在は、名を「主マイトレーヤ」という。主マイトレーヤは、霊的聖師団(スピリチュアル・ハイラーキー)の長であり、マスター中のマスターであり、人類と天使の主たる存在である。彼はまた、大いなる白色同胞団(グレートホワイト・ブラザーフッド)の最高統治者とも呼ぶべき地位にある。これは、この界層での熟達を果たし、靈(スピリット)へと帰還した、あらゆる宗教の輩出したマスターたちからなる集団である。>(アセンション・マニュアル下、ジョシュア・D・ストーン博士著、紫上とはる訳)

 

まさに「なんのこっちゃ」的文章ですが。該当する「マイトレーヤ」なる人物は実際にいるそうです(いや、いないかも(-_-)・・・)。1977年に受肉?(転生?)したとか、オーバーシャドウするとかいってます。まさに何のことやら。この人物の本当の誕生日を探しても出てこないんです。一度1960年代?みたいなことが書いてあるブログを見たような。かなり前の話で、ちょっと定かではないです。

 

日本だと「大本教」とか「日月神示」のいうようなことと関係しているのでしょうか。42カ月というのはいわゆる「三歳苦難」を指すのでしょうか。

 

自分も「黙示録的なこと」に興味があって、色々調べています。その中で書かれていることを総合すると、アンチ・キリストが悪の親玉(!?)なんかなとは思いますね(多分)。・・・宗教家?人を指している!?(-_-)?

 

まあしかし、これ以上書くのは止めます。色んな意味で問題ありそうです全然間違っている可能性もありますし・・・。興味ある方にはあくまで参考に、ということで。

 

自分としてはやはり、まず各自がちゃんと生きることだと思ってますので。

 

今回はホントにたわごとで、独り言にすぎません。すいません。少し気になったので書きましたけども。「いいね」はいりません。

 

ドナルド・トランプのブレーンの一人にピーター・ティールという人物がいるといいます。ペイパルの創業者で、ゾルタン・イシュトバンやザッカ―バーグなどのSNS企業の著名人と仲が良いといいます。

 

ゾルタン・イシュトバンやこのピーター・ティールは「トランス・ヒューマニズム」思想の持ち主で、無神論者です。トランス・ヒューマニズムとは人体と最新機械技術を融合し、半ロボット人間をつくる思想です。これによって人類は、今ある人体よりも高い身体的能力を持つことができるといわれており、不老不死も夢ではないといっています。

 

ところがこの人達はずっと前から「ワンワールド・オーダー」といわれる者の手先ではないかといわれてきました。一番議論になっているのが、「人体にマイクロチップ」を埋めるという、その技術のことです。このマイクロチップを人類全体に埋めることによって、買い物などをキャッシュレスでできるようにするものです。同時にそれによって、「人類の一括管理」をしようとしているのではないか、ということになると思います。

 

 

<また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666を指している。>

 

上は新約聖書の「ヨハネの黙示録」からの一節ですが、人体に埋め込まれるマイクロチップがこの「獣の刻印」を指しているというのが議論になっています。

 

実際にチップを体内に埋め込む人達は増えており、日本でもいるようです。「日本トランスヒューマニスト協会」というものも既にあります。

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先日書きましたが、トランプ支持者の「Qアノン」がこの「ワンワールド・オーダー」をぶっ壊すのだと、息巻いていますが、しかしそのトランプのブレーンにピーター・ティールがいるのはどういうことなのだろうかと、考えてしまいます。

 

「Qアノン」の強みは国家の機密情報にアクセスできることだとかいいますが、その機密情報はピーター・ティールをはじめとする、SNS著名人たちからもたらされたものでは?と勘繰りもします。色々綺麗ごとをいっているようですが、「Qアノン」やドナルド・トランプも大丈夫なのかと、個人的には、かなり勘繰って見ています。

 

ゾルタン・イシュトバンは2025年までに人類の大半が体内にマイクロチップを埋めることになるだろう、などといっているようです。

 

「聖書」やその他の宗教書は基本的に、「人間が人間らしく生きていること」を説いていることが多いように思います。それは各自が人間的に自立することを求めていて、そのための教義だといえます

 

ところが新約聖書がわざわざ「ヨハネの黙示録」で書いていることは人間が各自で能動的に生きることを止めコントロールできない人間の獣性を引き連れたまま、何者か「一人」あるいは「一つの者」に管理される社会の出現と崩壊ということになります。

 

一個人や、一つのルールで他人を裁くというのはとても難しいし、やらない方が良いでしょう。それを世界全体に被せてしまうのは横暴という以外に、あり得ないことです。

 

結局「悪」さえなくせば世の中が良くなる、みたいな考えだと、かえって世の中おかしくなるといえます。まずは「自分」、自分がどう考え生きていくか、ということがしっかり認識できて、その上で「自立」した人間が増えない限り、社会はより「強い者」への依存を深めていき、その崩壊が起こるというのは確かに世界(宇宙?)の法則にあっているような気がしています。

 

世界の動向を見るのは必要だと思うんです。しかし、トランプが救世主になるとかいう人もいますが、その辺はどうなんでしょう?一人の英雄が世の中を良くするとか、今までの歴史を見てきて、そんなことが「根本的」にあったのかどうか、疑問です。

 

たとえばイエスとかブッダの言葉だって、それを実行するから初めて意味があるのであって、そういう人が増えるから世の中が良くなるわけでしょう?

 

つまりイエスとかブッダが「世界を救う」、のではなく、それを投げられた我々が「自分や世界を救うかどうか」、その問題になるわけです。聖者が「救世主」などといわれるにしても、結局それはその聖者のいうことを「聞いて行動した」人が多い、ということになるはずです。もっといえば、他人が世界を、または自分を根本的に救ってくれるかどうかは、もっと別の問題です。

 

救世主自体は、救済の意味を提示する役割として、情報源になるかもしれませんが、実際の救いは各自の問題のはずです。救世主とか英雄となった人は、結果の問題としかいえないでしょう。

 

根本的な問題を抜きにして(最終的な結果を吟味せずに)、人を救世主だと持ち上げたり、自ら名乗ったりするケースは危ないと思います。

 

最近のアメリカの「Qアノン」騒動もそれに似た怪しさは感じています。ヒトラーも日本なんかでは初めは英雄視されてました。

 

まあ、しかし、色々分からないことも多いのでここまでにします。彼らが本当に立派な人達かどうかはこれから見ていくしかないでしょうね。

 

今更ですが・・・5月からの元号が令和になりました。

 

初めて見た時はよく意味が分かりませんでした。令には「良い」という意味があるとか。万葉集からとられているらしいですが、自分には、日本の古典などの知識が全くないので、一般人でも分かり易い、明治、大正、昭和、平成に比べると、少し知的なイメージが出たのかな、という印象があります。

 

昭和天皇が崩御した時はよく覚えています。今考えると、昭和天皇というのは歴史の証人みたいな人で、奇跡的な生き残りの人だったように思います。チャーチル、ルーズベルト、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、東条英機、蒋介石という歴史の表舞台にいた人達の、本当に最後の生き残りだったような気がしています。

 

平和とその必要性、真実味を最も体現していたように思える人でした。その崩御には、相当な重みがありました。今の天皇陛下はその意思を強く受け継いでいるのでしょう。平成は「戦争がなかった」という意味において、「平成」の字のごとく、平和に成った、ということでしょうか。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤンによるオペラ・ハイライト。

 

ドイツの指揮者でこれほどイタリアオペラを得意にした人はいたでしょうか。カラヤンは不思議な人で、尊敬していた先輩は、アルトゥーロ・トスカニーニとヴィクトル・デ・サバタというイタリア人の指揮者でもありました。

 

推測の域を出ませんが、彼の家系をたどると、南欧の方と関係があるのではないかと思えるような感じです。

 

ドイツのオペラだとR・シュトラウスが良く合うというのが一般的でしょうが、イタリアのヴェルディも良かったと思います。特にオテロはトスカニーニに匹敵する演奏だと思います。

 

ヴェルディの「アイーダ」(1959)とプッチーニの「ラ・ボエーム」(1972)の抜粋です。ボエームは再販物で恐らく2000年ごろのドイツプレス。アイーダはイギリス盤で、SXL2242、マトリックス番号は初出ですが、自分の所有物は、本当の初出であるレーベル表記とは違います。いわゆるED1ではなく、多分ED3かED4でしょう。それでも、音は両方とも満足しています。

 

アイーダは豪壮なカラヤンの迫力ある演奏が聴けました。音質も生々しくて充分かな、と思います。LPで聴く限り相当な迫力です。カラヤンのアイーダは新盤の感情を押し殺したようなものより、旧盤のこの方が好みです。第2幕が好きですね。有名な凱旋行進曲から、ラストの壮麗な合唱までが楽しいと思います。

 

ヴェルディに比べると、プッチーニについてカラヤンは固くなる時があります。トゥーランドットやこのボエームなどですが、しかしそれも全体を通してみると些細な部分ですので、個人的にはむしろカラヤンのイタリアオペラに対する相性の良さというのを実感します。

 

(後記、クリスチャン・メルランの書籍でカラヤン家が、マケドニアのギリシア系移民の末裔であるという話を読んでいたのを思いだしました。(-_-;)すっかり忘れてました。なんともはや。

 

ギリシア系アメリカ人のマリア・カラス同様、カラヤンもスカラ座に引きつけられたのが分かる気がします。彼らのあの、理知的で端正な顔立ちの印象、そしてギリシアはローマ帝国の文化的礎です。ローマ帝国の文化的礎ということは、ヨーロッパの文化の源流であるわけです。美と理知的な芸術的融合こそ、ヨーロッパの文化的な力の底力であり、彼らはそれを体現しているように見えます。)

 

 

ユッシ・ビョルリングらの歌う、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(1953)と「パリアッチ」(1953)抜粋。

 

ユッシ・ビョルリング(1911-1960)、ジンカ・ミラノフ(1906-1989)など、前世紀前半に活躍した名歌手が歌う、ヴェズリモ・オペラの傑作です。ヴィクトリア・ロス・アンへレス、レナード・ウォーレン以外は初めて聴く歌手ばかりだと思います。スウェーデン出身のビョルリングの美声に惹かれるものがあります。

 

 

旧時代の録音としては音も良く、昔は代表盤だったようです。イギリスプレス、ALP1481でオリジナルです。

 

LPならではの柔らかく透明感のある音、アットホームな親密性によって、過去が現代に蘇ります。昔の歌手は力み過ぎる様子がなく、柔和な表情が目立ちます。上述のカラヤンのボエームはパバロッティが歌っていますが、時折乱暴になるのが気になりますカラヤンのせいかもしれませんが要はカッコつけてるんですね。昔の人たちはそういうことがほとんどないです。

 

カヴァレリアなんかも曲に痺れるような、「南イタリア」の雰囲気があるといいますが、それが良く出ていますオーストリア出身のミラノフはまあまあでしたが、サントゥッツァはどうしてもカラスを思い出すので、ちょっと落ちる気がしました

 

 

 

リーザ・デル・カーザ(1919-2012)の歌う「薔薇の騎士(1966)。SME80935、ドイツプレス。

 

これも上述のビョルリングのレコード同様、美しいレコードで、アンネリーゼ・ローテンベルガー(1924-2010)とデル・カーザのデュエットによる薔薇の騎士の抜粋盤です。正直、ローテンベルガーは意識したことのない歌手で、多分今まで聴いたことはないはずです。リーザ・デル・カーザもE・クライバーの「フィガロ」で伯爵夫人を歌っているのを聴いているぐらいです

 

伴奏はルドルフ・ノイハウスとドレスデン・シュターツカペルレですが、これもかなり美しいルドルフ・ノイハウスなど無名すぎて、ネットで調べてもほとんど出てきませんが。

 

薔薇の騎士の聴きどころといえば第1幕のマルシャリンのモノローグ、第2幕のオクタヴィアンとゾフィーの邂逅と銀の薔薇の献呈、そして第3幕のラストでしょうか。このLPにもその辺りが収められています。

 

モーツアルトの「フィガロ」が純真な天使の色気がきらめく音楽ならば、シュトラウスの「薔薇」は達観した大人の色気が充満する音楽です

 

全曲録音でないせいか、ローテンベルガーとデル・カーザの自然な美しさが良く出ており銀の薔薇献呈シーンのローテンベルガーは格別の美感が出て、感動的です。

 

2人はマルシャリンからオクタヴィアンへと、あるいは、オクタヴィアンからゾフィーへと役柄を変えながら、女性特有の優しさを発揮して歌い合う様子は、幾分かの妖しさを醸し出して聴き手を官能の極致へと誘います。

 

柔らかな、純粋な大人の官能美が聴き手の心をくすぐり続けます。

 

1960年のザルツブルグ音楽祭の映像でシュワルツコップのマルシャリンが残っているせいで薔薇の騎士といえばシュワルツコップとなっていますが実際リーザ・デル・カーザはシュワルツコップ以上の美貌だったといわれています

 

 

映像に残ったのが彼女であったなら、世間の認識もまた変わったのかもしれません