ヒマジンノ国 -18ページ目

 ヒマジンノ国

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カール・ベーム指揮、モーツアルト「魔笛」(1955)。
 
SXL2215ー2217。
 
 
「魔笛」はモーツアルト、晩年のオペラ。
 
モーツアルトは秘密結社フリーメーソンの会員であり(クラシック作曲家がメンバーであることは多い)、晩年、その秘儀をこの「魔笛」というオペラで暴露したといわれています。ここには沢山のメーソン流のシンボリズムがあるといわれており、そのせいでモーツアルトは暗殺されたのだ、ともいわれてきました。
 
現代暗殺説は否定されているようですが、実際は何が本当かは分かりません。
 
王子タミーノは日本の狩衣を着て登場します。それ故この主人公は、日本人ではないかといわれているようです。タミーノは数々の試練をこなして、女王の娘、パミーナを助けますが、そこにはフリーメイソン流の修行が表現されているといわれています。悪役のザラストロが実は善人で、夜の女王が実は悪役だった、というような、善悪が引っ繰り返る話でもあり、火と水の試練を乗り越えるタミーノとパミーナの物語でもあります。
 
日本人が、善悪の引っ繰り返る世界で、数々の試練の乗り越えていくという物語が、フリーメーソンの秘儀になっているという、不思議な事実がここにはあります。
 
 
↑、カール・ベーム(1894-1981)。オーストリアの指揮者。独墺系の伝統を引き継ぐ指揮者で、生前はカラヤンの陰に隠れていた、ともいわれたりしました。死後も、評価はまちまちだという人もいましたが、どうでしょうか。今日、レコード屋にいけば彼のレコードは未だに人気があります。彼だけでなく、R・ケンペ、コンヴィチュニー、あるいはR・クーベリックなどでも良いですが、彼らのレコードは高値で取引されます。聴き方や、フォーマットなどで、どの指揮者も魅力的に蘇る可能性は充分あります。ベームの場合、グラモフォンの録音が多いので、デッカ、EMIのレコードは貴重です。世間一般の評価と価値というのは、多くの場合、誰かによって勝手に(独断で)作られています。受け手側は、慎重な見方がいると思います。まずは自分の耳で確かめなければなりません。
 
カール・ベームの「魔笛」といえば、1964年にベルリン・フィルを使ったものが有名です(演奏だけをとれば、こちらの方が、演奏が素晴らしいのは、これは多分真実です)。しかし、アナログ・レコードとなると、この1955年に録音したウィーン・フィルとの共演盤の方が名盤とされています。
 
確かに、ベルリン・フィル盤はオーケストラがシンフォニックで、聴き応えがあります。それに比べるとウィーン・フィル盤はオーケストラも表現も小粒です。しかし、やはり当時のウィーン・フィルのチャーミングな音色が、デッカのステレオ録音で味わえるというのが大きいです。
 
アナログ・レコードは会社ごとの音の優劣が出やすいこともあって、ドイツ・グラモフォンはUKのEMIとデッカに後塵を拝します。ここがCDなどで聴く録音とは違うところです。
 
植村氏が1956年に訪れたザルツブルグ音楽祭は、モーツアルト誕生200年記念で、例年よりも豪華な演奏者の布陣だったそうです。それと同様に、デッカはモーツアルト生誕200年に向けて、彼の3大オペラの記念碑的な録音を、当時開発したてであったステレオで用意しました。これが今日でもウィーン風のモーツアルト・オペラのスタンダードとして名高い、E・クライバーによる「フィガロ」、J・クリップスによる「ドン・ジョヴァンニ」、そしてこのK・ベームによる「魔笛」です。
 
 
↑、過去記事です。ウィーン風のまろやかな響きのモーツアルトです。
 
ベームの指揮はやや武骨な響きですが、ウィーン・フィルを使うことによって、響きの角が取れ、柔らかいしなやかな雰囲気になっています。
 
 
 
↑、第1幕の最後。パミーナとパパゲーノの優しさ溢れるデュエット。そしてザラストロを讃える合唱。パミーナはヒルデ・ギューデンで、新盤のイヴリン・リア―よりも蠱惑的で素晴らしいです。パパゲーノのヴァルター・ベリーはどうしても新盤の方の、フィッシャー・ディースカウには敵わないですが・・・(^-^;。
 
 
↑、第2幕の有名な「夜の女王のアリア」。魔笛を代表する曲です。ザラストロに復讐を誓う、夜の女王ですが、モーツアルトは復讐心など無関心で、超高音を扱う、コロラトゥーラの、華やかな音楽にしています。
 
「魔笛」はモーツアルト最後のオペラです。ジングシュピール(歌芝居)という形を使って、晩年の苦悩の中(貧困と病)にあったにもかかわらず、彼は作品の中に美しい音楽を散りばめました。「魔笛」は、彼の最高傑作の1つといわれています。
 
いろんな音楽を聴いてきた後に、モーツアルトを聴くと、とても不思議な思いがします。モーツアルトの音楽は初めから誰にでも分かるし、聴きやすい。だからすぐ飽きる気も、初めはします。しかし、ベートーヴェンの様な力強い音楽、ワーグナーの様な破格のスケール、ドビュッシーの様な感覚の洗練された世界、マーラーの様な分裂症の作品など、他の多くの作曲家の音楽を聴いた後、再びモーツアルトに戻ってくると、新しい発見の宝庫となります。
 
モーツアルトの作品こそは、肥大しない音楽であり、無理して洒落ようともしない音楽でもあり、バランスも最高に保たれている。そこに疾走するような、音楽の喜びが絡みます。そういう意味でモーツアルトを知ると、やっと初めて彼の音楽を少し垣間見た気になりますね。
 
完璧なんですよね。
 
しかし、あんまり完璧すぎるものは中々理解されないんだと思いますね。だから、あえていえば、万人には良く分からない音楽なんだと思います。モーツアルトの音楽は1つの神秘なんだと思います。
 
エリザベート・シュワルツコップによる、「ウィーン・オペレッタを歌う」(1957)。
 
SAX2283。
 
 
20世紀の名ソプラノの1人、エリザベート・シュワルツコップによるオペレッタの名曲集です。
 
彼女の夫が旧EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグであったせいか、シュワルツコップは非常にレコードの多い歌手となっています。その中でもこのアルバムは「最後の4つの歌」同様、彼女の代表盤となっているようです。
 
シュワルツコップは独墺系の作品を歌う名歌手で、品の良さ、格調の高さ、声の美しさなどを備え、レコードに残る大指揮者との録音は数知れず、非常に有名な存在です。EMI(HMV,あるいはコロンビア)の録音を聴いている人ならば、否が応でも、どこかの録音で聴いている人だと思います。
 
戦中のナチスとの関わり合いの汚名を除けば、これだけ恵まれている人も中々いないかと思います。歌に宿る、品格と愛らしい雰囲気(ソプラノ・リリコ)、大人の雰囲気がある、理知的な美貌など、オペラ歌手として、とても恵まれていると思います。
 
 
↑、エリザベート・シュワルツコップ(1915-2006)20世紀、ドイツ・リートの第一人者といって良いのかもしれません。またレコード黎明期の名プロデューサー、ウォルター・レッグ(1906-1979)の妻でもありました。
 
オペラが素晴らしいのはもちろんですが(「ばらの騎士」や「フィガロの結婚など」)、オットー・アッカーマンとのコンビで数多くの軽歌劇(オペレッタ)も録音しており、こちらも美しいです。
 
 
↑、青銀(ターコイズブルー・レーベルとも)のレーベルによる、コロンビアのアナログ・オリジナル盤です。このシリーズは透明感と奥ゆかしさを備えた音が出ます。また、音の輪郭も必要ならキリっと際立たたせ、高音部の響きは、脂ののった美しさが出ます。シュワルツコップの、このアルバムは比較的よくレコード店でみます。だからあんまり人気がないのかと思っていましたが、聴いてみると非常に良かったです。とろけるような美しさがあると思います。多分、数多くプレスされたせいで、市場に出回るのも多いのでしょう。歌っているのはホイベルガーのオペレッタからです。これもオペレッタの名手といわれた指揮者、オットー・アッカーマンとのコンビです。
 
 
↑、過去記事です、R・シュトラウスの「最後の4つの歌」、その名盤といわれるシュワルツコップの録音です。ここでも書いていますが、有名なのはステレオのセルとの共演盤ですが、自分は旧盤を推します。ただし、これはアナログ・レコードで聴く、という条件付きですが・・・。
 
 
ヒルデ・ギューデンによる「オペレッタ・リサイタル」(1954)。
 
LXT5033。
 
 
ドイツにはシュワルツコップだけでなく、リーザ・デラ・カーザや、このヒルデ・ギューデンの様な名歌手が沢山いました。ギューデンは生粋のウィーンっ子で、シュワルツコップなどに比べると、気取ったところがなく、心から歌を楽しむ雰囲気があります。彼女もオペラだけでなく、多くのオペレッタを歌いました。
 
(オペレッタはオペラよりも軽いといわれる、歌劇です。レティターボがなく、通常のセリフと楽し気な歌から構成されことが普通です。喜劇が多いのも特徴で、これらが後に米国に渡り、ミュージカルとなりました。)
 
 
 
↑、J・シュトラウスの「ウィーン気質」から。ドイツのオペレッタはワルツが主流で、「ウィーン気質」は名手J・シュトラウスの最後のオペレッタです。本人は完成できずに他界しましたが、後に他の人たちがまとめました。J・シュトラウスの過去の作品(ワルツ)が多く引用されています。ここではちょっと編曲されれたものをギューデンが歌っています。「情熱にあふれるウィーンの血」と歌うワルツと、劇中の伯爵夫人の歌との混合です。ギューデンの歌は明朗で、屈託がないですね。
 
ウィーンの伝統 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
 
↑、過去記事です。レハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」です。あんまり状態の良くないレコードを使っています。ギューデンがハンナ・グラヴァリを歌っています。
 
「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」植村攻著。
 
1950年代といえば、19世紀生まれのクラシック演奏家たちが活躍した最後の年代とでもいうべき時代です。1914年に欧州全体を巻き込む、世界戦争が始まり、後の2度目の世界戦争で、欧州のみならず、地球上の全世界はその風景をまったく変えてしまいました。
 
仮にもし、世界戦争がなく(帝国主義・植民地主義は問題ですが)、1914年までで潰えた、ロマン派やベル・エポック時代の延長線上に我々の世界を築けたのなら、世界は一体どうなっていたのでしょう?文化にしても、文明にしてももっと素晴らしい世界になっていたのでは?(日本はまた、違う歴史を歩んだでしょう。)
 
経済や効率、グローバリズムではなく、芸術や生活、希望が我々の主体になっていたのでは?
 
そして、19世紀生まれ(自分は1914年までと見ています)の演奏家たちの演奏は、そのような幻想を抱かせるのに、充分なものがあります。彼らの時代とその空気は、今の我々の世代よりもずっと希望があり、自由があったように思います。
 
これらの演奏家たちの音楽を聴くことが、多くの、現代クラシック愛好家たちの夢ですし、過去の録音に拘る理由の1つでもあります。また、この時代の生演奏を聴いた日本人は非常に少なく、特に戦後ドイツの音楽祭を聴いた人はほとんどいません。それ故、その記録は非常に貴重です。
 
銀行の外国支店勤務をしていた、植村攻氏(1928-2014)は1956年のザルツブルグ音楽祭、1958年のバイロイト音楽祭を聴き、ロンドンでは復帰後のクレンペラーの生演奏を聴くなど、非常に貴重な体験をしており、その記録をまとめたのが本書になります。
 
非常に面白い本です。とにかく、クラシックファンにしてみると、どんな話であれ、昔の演奏家の話を聞かされるのは非常に面白いものです。
 
「きいているうちに身体中が砂金かなにかで光り出すような感じがしましたね。」とはフルトヴェングラーの実演を聴いた、音楽評論家の遠山一行氏の言葉です。現代でも過去でも、フルトヴェングラーはドイツ最高の指揮者なんでしょうけど、実演を聴いたという日本人はほとんどいません。そして、レコードではどうやっても「身体中で砂金が光り出す」というような体験は再現できません。一体どういうものだったのだろうと思います。
 
植村氏はフルトヴェングラーは聴けなかったといいますが、1958年のバイロイト音楽祭で、ドイツ人でも羨ましがるという、ハンス・クナッパーツブッシュの「ニーベルングの指輪」のチクルスと、「パルシファル」を聴いています。
 
1954年にフルトヴェングラーは他界、しかも晩年のフルトヴェングラーは全盛期を過ぎていたというのが一般論です。片や、ドイツの演奏家に詳しい人たちの間では、当時、クナッパーツブッシュが一番素晴らしいといわれていたそうです。評論家の吉田秀和氏はイギリスで知り合った歌手、ユージニア・ザレスカから次のような言葉を聞いたそうです。「ドイツ・オーストリアに行って絶対にきくべきものは、ブルックナーを指揮するクナッパーツブッシュに止めをさす。フルトヴェングラーに往年の元気がなくなった以上、クナッパーツブッシュこそ、そのためにわざわざウィーンやミュンヘンに出かけていく価値のある唯一最大の指揮者だ。」
 
クナッパーツブッシュはフルトヴェングラー以上にドイツ・ローカルな指揮者で、ほとんど欧州でしか演奏を行わなかったので、録音で知られるまでは知名度が低いままでした。ただ植村氏は吉田氏がクナッパーツブッシュを推薦して居るのを知っており、バイロイトで聴くのが楽しみだったそうです。
 
やはり実際に聴いてみて、植村氏はほとんど圧倒される出来事だったようで、かなりのページをバイロイト音楽祭の記録に割いています。ヴィントガッセン、ホッタ―などの歌手も格別だったそうです。
 
また、自分にとってみると、クナッパーツブッシュ以外では、モーツアルト誕生200年を祝うザルツブルグ音楽祭の記録も、古き良き時代のヨーロッパの雰囲気などが伝わってきて印象に残りました。ブルーノ・ワルターの「レクイエム」、ミトロプーロスの「ドン・ジョヴァンニ」、ベームの「フィガロ」、ショルティの「魔笛」(舞台はココシュカ)などを聴いたといいますから、贅沢という言葉も通り越している気もします。
 
他にもクララ・ハスキル、バックハウス、シュワルツコップやカラスの話など、色々あって面白いです。
 
ハスキルなんかも評論家の宇野功芳ではないですが、録音では中々その良さが分かりにくい気がします。実演で聴くと、そのピアノの音色の美しさが比較を絶していたようですが、録音ではそこまで再現できていないようにも思えます。植村氏の感激した様子を読んでいると、羨ましいと思うばかりです。
 
 
↑、クララ・ハスキル(1895-1960)。修道女がピアニストになったような存在とでもいえば良いのでしょうか。自分は中々内心から良いと思ったことがなくて、悩み中です(^-^;。
 
ハスキルの演奏会にウォルター・レッグ、シュワルツコップ夫妻が来ていた話なんかも面白いです。
 
他にもデイビット・ロックフェラー(!?)宅に自分の聴いた演奏会の話をしに行ったりしたそうなんですが、どうなったらそういうことになるのでしょうか?
 
演奏会以外の話も面白い話が盛りだくさんでした。
 
 
↑、ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)。ワーグナーやブルックナーに特性を示した指揮者で、ベートーヴェンがフルトヴェングラーなら、ワーグナーはクナッパーツブッシュといったところでしょうか。戦後のバイロイト音楽祭の中心的指揮者で、あまりドイツからは出なかったようです。メトロポリタンのルドルフ・ビングが彼の演奏を聴いて、ぜひアメリカに招きたいと思い、白紙の小切手を渡しました。「好きな金額を書いてくれ」ということです。しかし、クナッパーツブッシュはこれに怒り、小切手をびりびりに破いてしまったそうです。お金ではないのですよ。彼は、バイロイトには無給で出演していました。元来、バイロイトはワーグナーの理想では、出演者、観客ともども無償で行いたかったのです。やむを得ず、出演者にも少額の出演料は出ますが、「理想」とか「志」が何かという問題なのです。
 
植村氏が聴いたという、1958年のバイロイトの音源を持っていますが、音が悪いので1951年の物で代用します。
 
 
「ゲッター・デメルング」(神々の黄昏)のラストです。
 
「神々の黄昏」は、R・ワーグナーの「ニーベルングの指輪」4部作(「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」)の最後になる楽劇です。さらにその、「神々の黄昏」の最後なので、「ニーベルングの指輪」のラスト、ということにもなります。
 

 
↑、これは、ブリュンヒルデによる「ニーベルングの指輪」の総括の部分。ジークムント、ジークフリート、共に英雄の生涯を見てきたのは、このブリュンヒルデだけ・・・。彼らが苦しみを元に自らの間違いを知らねばならぬという運命を嘆き、神々に訴えていきます(これは同様に被造物である、我々人類の代弁となっています)。
 
 
↑、「神々の黄昏」のテーマによる最後の盛り上がり。ブリュンヒルデは自らの役割を終えると、愛するジークフリートの亡骸が燃える炎に愛馬グラーネと共に飛び込みます。するとその炎は巨大な炎の柱となって、天の神々のいるワルハラ城を焼き尽くしていきます(作為的な神々の滅亡)。
 
 
↑、今度はライン川の水が溢れてきて、その炎を浄化し、そこへ流星の如く「ジークフリート」のテーマが飛び込んできて粉々に砕け散ります。「火」と「水」は日本でもつなげて「火水」で「神」と呼ぶように、「火」は垂直の力を、「水」は水平の力を表していて、キリスト教では十字架の形になります。
 
火と水の力に清められた、この14時間以上にも及ぶ歌劇のラストです。そしてこの後、新たな人類の始まりがあると、ワーグナーはしました。
 
クナッパーツブッシュは、各々の楽器の音色を生かしながら、独特の陶酔的な美酒の様な音色を創りだし(ゲルマン的な色彩)、同時に圧倒的な大きなを発揮していきます。ロマン派流のワーグナーを演奏した指揮者では、彼が最高峰だと思います。
大きな事件がない限り、しばらくクラシック音楽関係の話を書こうと思っています。
 
 
チェリビダッケのブルックナー交響曲8番の名演、通称「リスボン・ライヴ」のLPを購入しました。アルトゥスのレコードで、以前から発売されていた「海賊版」ではない、今回は「正規版」の位置づけのレコードです。
 
TBRLPー0005~0006
 
 
リスボン盤の海賊版はCDのみ所持。海賊版のLPは大体が4・5・7・8・9番のセットで、非常に高価(自分は7番のみ所持)。たまに単独でも出ますが、非常に入手困難です。今回はそのリスボン8番の正規版ということで、8番単独での登場です。CDでも出ていますが、自分はLPで購入しました。
 
アルトゥスのLPは高価で、音が悪いわけではないですが、多くの場合、音に魅力が不足しており、値段と音が釣り合ってないと思わせます(最近は値崩れして売られています)。ですので今回のLPも少し不安でしたが、これは中々良い出来だと思います。他の会社も含めて、今まで聴いてきたチェリビダッケのアナログ盤では1番良いぐらいだと思いました。
 

チェリビダッケのLP |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。

 

海賊版に比べると、音が繊細になり、緻密になりました。海賊版は全体のまとまりは良く、EMI版よりも音に瑞々しさがあり、決して悪くないのですが、音の輪郭はぼんやりしています。このリスボンの正規盤は、音の解像度が増し、より演奏が美しく聴こえるようになりました。細部の響きも素晴らしいと思います。音の輪郭も良く見えます。正規版にする価値はあったといえるでしょう。聴いていて、久しぶりにチェリビダッケを聴いている感慨が蘇ってきます。

 

EMIやソニーから発売されているブルックナー8番の演奏は、この特異な指揮者の演奏のあり方を存分に伝えています。

 

ですが、これらの録音は聴き手にしてみれば、テンポが遅く、全体に引きずった印象は免れません。しかし、このリスボン盤こそは、ほぼ同じようなテンポ(若干早い)かもしれませんが、全体に漲る高揚感、推進力において、全2者をしのぎ、非常にパワフルな印象を我々に与えます。不思議と引きずるような印象が消えています。

 

リスボン盤はチェリダッケの演奏哲学と、楽団員の意思疎通が見事に敵った、稀な時間の記録といえます。第3楽章のうねる音響、弦楽器の荘麗なまでの高揚する合奏は、他の録音からは聴けぬような、脂ぎった響きを聴かせます。精進料理の様な、EMI版の音とは何という違いでしょうか!

 

強音部の奥行きのある、巨大な音のふくらみなど、音が生み出す音響空間をこれほど味合わせてくれる録音は他にないでしょう。

 

海賊版の方がライヴ感は残っています。正規版は音が繊細になりました。どちらが良いかは判断付きかねます。

 

1994年、ポルトガルの首都リスボンでのライヴ録音です。

 

 
 
↑、第4楽章冒頭、提示部。ブルックナー曰く「私たちの皇帝は、当時オルミュッツでツァーリ(ロシア皇帝)の訪問を受けました。それゆえ弦はコサック兵の騎行を、金管は軍楽を、トランペットは両陛下が会見するときのファンファーレを(描いています)」。この4楽章の第1主題は、コサック兵の行進と軍楽を思わせます。いや、それ以上の高揚する精神の何かでしょうか?
 
 
↑、第4楽章は3つの主題からなり、この第2主題は瞑想的な逍遥を思わせます。第3主題は神秘的で、厳かな日没のようです。
 
 
↑、提示部の最後は各主題の提示の後、第1主題が大音響と共に戻ってきて、この楽章の雄渾な性格を露にします。チェリビダッケは余裕のある響きを目いっぱい響かせて、巨大な音の建造物を築きあげていきます。
 
展開部以降のブルックナーの音楽は実に巨大で、第1主題を基にした迫力ある行進を繰り返すたびに精神が高揚していきます。そしてコーダはこの世のものとも思えぬような、音のパースペクティヴでこの世を俯瞰し、圧倒的なオルガズムを迎えます。

 

ロシアとクリミアを繋ぐ、クリミア大橋が破壊されたそうです。クリミア大橋はプーチンの肝入りで2018年に完成された全長18キロに及ぶ大きな橋で、現在ロシア軍の重要な兵站になっている要所です。

 

ここを破壊された場合、プーチンは核の使用もあるとほのめかしています。片や、ゼレンスキーはNATOに核を使ってほしいというような発言も(クリミア大橋の破壊がウクライナ側によるかはまだ未定、追記:既に橋は修復されたそうです)。

 

他にも・・・。

 

 

中国に進出した日本軍に、当時の中国軍は軍事的に敵わないことを知っており、戦線を泥沼化させて、米英の参戦を待ったといいますが、ウクライナのゼレンスキーも、他国を巻き込んだ戦争にすることを考えているのではないのでしょうか?

 

 

ゼレンスキーをゲッベルスに例えた人がいましたが、本当にその通りかと思います。

 

プーチンもどうするつもりでしょうか?このままでは、欧米の罠にはまったということにもなり得ます。

 

自分も当初はロシアの体制は盤石で、戦況も有利かと思っていましたが、その考えも少し修正していこうかと思っています。見方が甘かったかもしれません。

 

プーチン体制は簡単に崩れない気がしますが、問題は戦争終結の落としどころがないということです。ずるずるやって、戦況を肥大化させるなら、我々にとっても不幸でしかありません。

 

今回も興味ない方はスルーでお願いします。あまり書きたくないことを書きていきます。カルトな内容で、まあ、戯れ人の「たわごと」ということで。

 

昔から「世の中の立て替え」がある、というのもいわれ続けてきましたが、どこか「あるある詐欺」みたいなところがあって、強く書き辛いところがあります。ただ、今後のことを考えると、今のうちに一応書いておいた方が良いと思って、書いていきます。

 

さて、アモラ・クァン・インの著作に、「瞬間カルマの法則」みたいなことが書いてあったと思いますが・・・要は悪いことをした瞬間に、その因果のカルマが現れる・・・というような話です。

 

今後の世の中も、そこまではいかないにしても、それに近い状況に近づいているような気がします。「悪いこと」をした人は心に不安を感じやすくなったり、今までは、ばれなかった悪事もばれるようになる、というようなことですね。また悪さしたもの同士がお互いを罵り合ったり、潰し合ったりするという状況に近づいているように思えます。

 

以下は過去に出た神示から抜粋です。

 

「そなたの体験することは、すべてそなたのしたいようになっているのぞ。そなたがしたいことをすべて体験しているのぞ。そなたができるわけがないと言うとずっとできないのぞ。そなたが外のせいにするのは神の法則違反であるぞ。だから、不都合や不調和を体験しているぞ。そなたがそれを外のせいにする限り、そなたは不調和を創りだそうとしているのと同じであるぞ。そなたは不調和を創って平気な顔をしているぞ。いつまで外のせいにし続けるおつもりか。この先は、神の法則違反をしている者にはビシビシ知らせていくぞ。神の声を生きているものにはお陰をどんどんやるぞ。今までと同じであると思ったら、大きな間違えであるぞ。この方が言ったことはすべてその通りになるぞ。取り返しがつかなくならないうちにこの方の言う通りに生きはじめることぞ。この方はすべて教えているのぞ。知らないとは言わせないぞ。後になって気づいてもこの方はもう知らんぞ。」

 

今回は今後に起こる「難」について少し書いていきます。

 

旧来から終末に起こる内容は、それなりに同じような内容が語られています。その中の一つを下に掲載していきます。

 

今回以下に掲載した内容は、読むと分かりますが・・・結構「怖い内容」です。個人的には「大難」のイメージです。

 

難は「小難」になったといわれています。仮に以下のようなことが起こるとしても、例えば10のスケールで起こることが、せいぜい5とか3のスケールで起こる、とか、あるいは全く起こらないとか、そういうことになるのでしょうか?

 

大体が68年前に書かれたことです。いっていること自体、正しいかどうかも不明ですが、日月神示とか日水伝文とかと同じようなことをいっているのは確かなようです。大本系の予言になります。

 

あくまで真剣になりすぎず、参考程度にお読みください。

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瑞霊神天津日嗣ノ神示ス
-錦之宮三大神書の大要-
末の世の迫り来る時危ふけれ救主を頼みて只祈るのみ

(昭和二十九年頃天水氏が書いたものを後に辻登美古氏筆者)救世主は三ツの御魂の大神である。次の如く常に御神号を奉称すること。口と心と行とを以て真剣に祈れ、救いの綱は必ずかかる。


「三ツの御魂の大神 守り給へ幸へ給へ」
神ながらたまちはへませ。

みろくの神代は近づけり。「誠」こそ無上の宝、人々よ、金ある者、物ある者、地位ある者を羨む勿れ。「誠」以外みろくの神代には持ち行けぬ。

大峠が来る前に
○日本国内に革命、暴動、内乱が起こる。鳩山内閣が出現したらいよいよその時が近づいた時であると、昭和十八年一月に警告されている。未申(昭和五十四、五十五)年となれば大変なことになると昭和二十四年、既に予言されている。未と申が腹を減らして惨たらしい酉あいが始まるという事は、大本神諭に明言されている。世界各国の学者、政治家が平和を叫び、その為の会議や運動を始めた時が日本の一番危険な時であると示されている。一夜にして天地挙げての大騒動が起こると強く予言警告されてあるのだ。日本国内に革命、暴動が起こればその結果はどういう状態になるのか、裏の神示を総合すると大要次のようなことである。


  (欄外=昭和五十八年 亥年の秋ぞ偲ばるる・・・・・・のるかそるかの世の中じゃ/皇紀二千六百四十三年 二六四三総和六/丑 寅/寅の年 白赤の戦い 西暦一九八六総和六/辰巳の年に光出で・・・・・・錦の神救い給う)

二段目の苦行(何人もこの苦行を免れる事はできぬ)
○一夜にして革命、暴動各地に起こり、無政府状態になる。日本人同士が殺し合いを始める。
○交通、通信機関が全部途絶してしまい、身動きできなくなる。
○富も地位も宝も一切が御破算となり、人間は全部裸になる。皆一列平等の丸裸にされ、日干しにして鍛えられるのである。こうした荒行をさせねば無信仰の者を、大峠の際に助ける事が出来ぬのである。これは神の大愛であるが、信仰のない者はそれが判らぬから大変なことになる。
○宗教団体は全部潰れてしまう。神社仏閣も勿論破壊されてしまう。一時は神様のことを口に出す事さえ出来なくなる。神床はもとより取払わねばならぬ。従来の様な信仰の仕方 は全部駄目になる。
○住む家も食うものも衣るものもなくなり、衣食住の争奪戦が起こる。そうなると頼るところは全然なくなって、すべての人間は発狂状態になって、苦悶の末自殺する者が沢山出来て来る。白骨が至る所ゴロゴロする様になる。
○みんな一時はチリヂリバラバラになり、親子、兄弟、夫婦といえども、一所に居ることは出来ない様な状態が起こって来る。
○政治家も役人も宗教家も金持ちも、上に立って威張っている連中は全部投獄され、或いは殺されてしまう。苦しさのあまり獄中で自殺する者もある。金や物や地位がある為にかえって苦しみ、又は命まで捨てねばならぬ事になる。
○学者も商売人も金持ちも物持ちも、宗教家も医者も坊主も全部が一時は労働せねばならなくなる。万人が土の故郷に還るのである。信仰なく体を鍛えていない者はなかなか苦しい行である。
○こうなると学でも智でも見当がとれなくなる。況んや、金や物ではどうにもならなくなる。出てくれば皆分かるのだが、その時では遅い。今言うて聞かしても、そんな馬鹿な事があるかと鼻の先で笑っているが、出て来る時には何故言ってくれなかったかと文句をいう。そういう手合 いは灰になるよりしかたがない。
○今にえたいの知れない病気がはやり出し、この病気は医者でも薬でも癒らない。(梅干しの用意せよ)
○各村各町と各々の居る所で自給自足せねばならなくなる。そうなるとみんな共食いを始める事になる。
○治安が非常に乱れ殺人、強盗が横行する。警察も何もなくなるのだから、自分は自分で護らねばならなくなる。
○このような混乱状態になると、神の容れ物と獣の容れ物とがはっきり立て分けられる。獣の容れ物になっている人間は自らその正体を現し、暴れ出すが、だんだん苦しくなり七転八倒するのである。
○二段目の苦行が終わる頃になると、因縁あり且つ身魂の磨けた者は神が直接守護をなし給い神眼霊耳が許される事になる。こうなると三千世界のことが一時にわかる様になって来る。そこまでの荒行は並大ていではない。頑張らねばならぬ。

三段目の大苦行
○日本国内が右(上記)の様な状態になった時、全世界が束になって一時にどっと日本の国へおしよせてくる。その時大部分の日本人は外国へついてしまう。足腰の立つ者は殆ど兵隊として徴用されることになる。そうして戦闘は益々激しくなり、惨状言語を絶することになる。
○この時日本全土はナマスの如く切り刻まれ、丸潰れの状態になる。神も仏もあるものかと皆が神様をさかうらみする様な状態になる。もうどうなとなれという捨て鉢の気持ちになり、やけくそになって来る。此の時が一番大切な時である。
○この段階になると赤色勢力も白色勢力もへとへとに疲れ、腰が抜けて動きがとれなくなる。青息吐息ということである。悪と悪、鬼と大蛇のたたき合いはこうなる処まで徹底的にやるのである。
○この時分から雨の神、風の神、岩の神、荒れの神の本格的御活動となり、最後に地震の神の御出動となる。即ち九万九億の龍神界の総決起となって、地上物資界は最後の大洗濯をされることになるのである。「一二三四五六七八」と八き盡すのである。天地まぜこぜに練り直されるのである。
○かくの如く生神様の総活動が開始されると共に、人間界に於いては救世使によって言霊神軍が組織され、神人合一の救世神業が救世主神・三ツの御魂の大神の指揮下に展開されるのである。この段階に於いてはじめて「誠の言霊の威力」が万人に分かる様になると同時に、身魂の高下が判然とするのである。
○次に九の段階にある「九」はつくしである。此の世の終わりである「九と十」の間が真の大峠であり、この間には宇宙大変動が起こるのである。人郡物類ことごとく仮死の状態となる。「九」で終わってしまい灰になるか。神人合一して「十」となるか、万事はこの間に於いて決定されるのである。皆共に仮死していたのでは救世の大神業はやれない。仮死しない為には此の大峠が来るまでに神人合一できる迄に身魂を磨き、言霊の神法が活用できる様になっていなければならぬ。したがって普通の人々よりは激しい行をさせられるのである。因縁の身魂は勇猛心を出して進まねばならない。輝かしい弥勒の神代に一切を助け出して導く大使命を果たす為に。

■最後の大審判の実状と救世神軍の実際とは何れ詳細に説く時が来る。今はまだその時ではない。前記の様な段階を経て練り上げた者にのみその事は知らす事になるであろう。御神業は順序がある。順序を無視し、やることをやらず、また単に知識として知りたがる人間がいるがそういう人間は今後は何の役にも立たない。努力なくしては神は宝を授け給わぬ。

瑞霊神示
■宇宙動変の前期的現象
一、宇宙大気の動きの変化を五感が感じる様になる。
二、天地の間に悪鬼邪気ますます充満し、人身に影響が激しくなる。
三、月の周囲の変化が起こる故、よく注意する事。
四、呼吸困難になる様な事が一日に何回もあり出す。
五、太陽の色が種々に変化する故、よく注意する事。
六、動変直前になると東方上空の雲の色、動きに異常が起こるから注意する事。
七、終末近づくに従って智、学ともに働かなくなる。
八、町は火車の如くなり、倒れる物が続出する。
九、土が焼け水の温度が上昇し、非常に苦しくなる。
十、終末近づくに従って従来の学問、知識では判らぬ事が続出する。
十一、訳の判らぬ病気が非常に多くなる。
十二、動植物はこれを早く感知するからよく注意する事。
■動変直前の人心の動き(人間の種々相)
一、人間の心は俄に動揺し、不安の為いらいらしだす。
二、散る花の如く知覚を失うもの、発狂する者が続出する。
三、利口に立ち廻るものがある。
四、ぬらりくらりの者が類をもって集まる。
五、助けてくれとオンオン泣く者がある。
六、口先ばかりで上手に言って真実のない者がある。
七、今まで反対した者、悪口を言った者でも恥を知らず、図々しく頭を下げて頼みに来る者がある。
八、終末が近よっても尚それを冷やかし、からかっている者もある。

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別に怖がらせようと思って載せたわけではありません。先もいいましたが、参考程度でお願いいたします。

 

簡単な私見を書きておきます。細かい内容には触れず、ざっくり書きていきます。

 

日本国内に革命、暴動があると書かれていますが、今のところ、そういう風にはなっていません。ただ現在、例えば「安倍氏」についての議論が国内を2分しているように、あまりそういうことに拘り過ぎると、書かれたようなことはありうるのかもしれません。ここでいう鳩山内閣は、当然鳩山一郎内閣を指しますが、不思議なことに後に鳩山由紀夫内閣ができました。国内民主党内閣は後の、自民党系保守派との分裂を招きました。また鳩山由紀夫氏は「日米合同委員会」の内幕を暴露しています。

 

2段目の行がどのような経緯で起こるか書いていないので、これも良く分かりません。しかしこの内容は何だか、いわゆる「Qアノン」のいっている事とはよく似ているような気がします。政治家などの逮捕は彼らがずっといってきた主張です。そうなると何となくEBSのことをいっているような気もしますが・・・さて?

 

3段目は中々怖い内容です。果たしてこのようなことが本当に起こるのでしょうか?日月神示や火水伝文にも同様の記述があります。しかし、後の大日月地神示では「大難」は「小難」になったとの記述がありますので、ちょっと良く分かりません。

 

一応簡単なコメントだけ書きます。

 

仮にこのような現象が起こるとして、日月神示には、その軍勢を引き連れる、「敵の大将」との記述があります。これが本当に起こるのならば、一体これは何者なのか?偽の救世主なのか?

 

神示のいうところは、「悪を抱き参らせよ」という話です。今の行われている争いは「善」と「悪」の戦いです。つまり今ある「善」が本当の「善」と思い込む者は、偽の救世主に引っかかるのかもしれません。それは例えば、少数派の「善」でもです(多数派であろうと)。どこまでも篩はかけられるということでしょうか。

 

日本を分割統治するという話は以前少し書きましたが、本当にそうなるのは嫌ですね。だから、そうならないことを祈ります。

 

しかし、こういう動きは何だか最近よくいわれる「ホワイトハット」とか「アライランス」の動きのようにも見えます。ただ、こういう存在が「正しい」といえるまでの証拠はまだ何もないようにも見えます。ちょっと良く分からないので、保留事項です。

 

他方、ネサラ・ゲサラ法さえ施行されれば良い、というような意見もあります。しかし元より、どんな良い立法でもそれを支える人間によって、良くも悪くもなります。

 

まずは「人間の質」が問われるのだと考えるべきだと思います。そして、このような「大峠」と呼ばれる舞台がある、というのは、「悪」と「善」を用い、人類への試金石にするため、ということではないでしょうか?

 

人は生まれながらにして「個」として「独立」しています。故に幼いものは「自分のこと」しか考えられません(あくまで例え話として)。「自分のことだけ」しか考えない存在を「ネガティヴな存在」といいます。しかし、どんな存在(神でさえ)でも他者と比較すれば「個」で存在しています。故に完全に「個」(ネガティヴ)の意識は批判しきれないということになります。それは自分自身を批判することになるからです。

 

故にその「個」を全体になじませる行為と考えが必要になります。「自分自身」のことしか考えないのでは、いつまでも経っても大人になれません。

 

しかし多くの場合、難しいことに、現代の「善」(ポジティヴ)は、単に原理原則だけの「善」であり、その中心にある「個」(ネガティヴ)がありません。

 

故に今ある「善」と「悪」はあくまで比較した形の、あるいは分離された形での、「善」と「悪」でしかありません。本当の善は、自身の中に「個」としての自分のあることも、自覚できねばなりません。故に「他者」を断罪するな、ということになるのです。やるにしても「必要悪」と呼ばれる行為となります。

 

それは単に「憎し」、「許せない」という感情だけから来るものではなく、あくまで他者を思いやっての「悪」となります。

 

それをできないものは、いくら正しいことをいっていようが、やっていようが、結果「争い」に巻き込まれるのです。今後は、自身が「争い」に巻き込まれる存在か否か、御自身で良く確かめてみる必要があると思います。それが御自身の内面の回答、ということになっていくと思います。

 

ロシアが予備役を投入するという話(30万人ほどといわれています)。実行支配したウクライナの4州が、住民投票次第でロシア領になる可能性が出てきました。ロシア側はこれを守る必要があるということでしょう。

 

ゼレンスキーは旧ウクライナ領を、全て奪還するまでは戦いを止めないと明言しているので、仮に4州がロシア領となった場合、「ロシア側」からすればこの4州への攻撃はロシア領への攻撃とみなされます。

 

元来この戦いで最大の問題だったのは、西側がウクライナをロシア攻撃の拠点に作り替えてしまったことだと考えます。ジョージ・ソロスやビクトリア・ヌーランド、あるいはクリントン財団など、米国戦争屋の意向に引っ張られ、ウクライナ東方のロシア系住民(ウクライナ国民に対するウクライナ軍の攻撃、この歪んだ行動のために、実行部隊は極右勢力が使われた)への弾圧がまずは問題でした。

 

 

↑、ビクトリア・ヌーランド。ウクライナについては、ヒラリーが国務長官だったときその腹心、ビクトリア・ヌーランド国務次官補が親ロシアのヤヌコビッチ大統領の転覆工作を行い、その結果、米国、NATOの極右傀儡政権が誕生。親ロシアそしてロシア語を母国語としていた住民が亡命したり、ウクライナ東部に移住しています。

 

以前から、プーチンは米国の戦争屋のやり方に強く反発しており、米国戦争屋にとって、このロシア人こそは、この世界での最大の敵の1人とみなされてきたわけです。プーチンは戦争屋たちが望む、世界統一政府の敵の筆頭といえるわけです。だからロシアを潰す口実を、戦争屋たちは探していたということです。これらの勢力にとっては、プーチン政権の排除と、ロシアの分割化が最終的な目標でしょう。ウクライナにおける、ロシア系の自国民への弾圧は、プーチン潰しの布石でした(反グローバリトにとってみると、プーチンは救世主に映る)。

 

当初マスコミはロシアが、かつてのナチスのように、侵略戦争を急に始めたような印象を作り出しましたが、それは明らかな間違いです。軍事作戦の原因は、西側がかなり強硬に、ロシアを戦争に引っ張り出そうとやっきになって、ドンバスやドネツク州への弾圧を強めたからです(この件については、アン=ロール・ボネルなどの取材を探してみてください)。ロシア側はかなり長い間、外向的な解決を試みてきたという話です。しかし限界を迎えたので、軍事行動に出た、という話にはなっているようです。

 

ただ今のウクライナ侵攻以前、ロシア側の行動も必ずしも誇れるものかは疑問もありますが。

 

それに加え、ロシアが戦いを本当に避けられなかったのか?ということは正直、今の自分には良く分かりません。今後精査されるべき問題です。

 

しかし、今後ロシアが隙を見せれば、米国戦争屋は当然NATOを使うでしょう。今回ロシアの予備役導入は、1つ間違えば、ロシア対NATOという戦争になる可能性が出てきました。これはオリバー・ストーンが予見した通りの展開です。

 

当初は幾分ロシア側に「大義」になる部分もあったと思いますが、軍事作戦を、短期間で終わらすことができずに、今後大戦争に発展するとなると、その「大義」も吹っ飛ぶ可能性は大きいです。

 

あくまで私見ですが、誰が救世主だ、みたいな話ではなくて、諸悪の根源であるネオコンの自由を許しているのは結局、それを見抜けない大衆にあるのであって、その大衆の無自覚の願望となって、「敵を作る考え」を産んでいるのだと考えます(潜在意識における選民思想)。だとすればそれが矯正されることが、こういった事件の最大の論点の1つであったはずですが、それができなかった「大衆」、そしてそれを伝えきれなかった「我々」にも責任が出てくるでしょう。

 

ワクチン問題やその他の問題にしても「大衆の無知と無自覚」が最大の問題になってきているように思われます。

 

 

↑、過去の記事でも使わせていただきましたが、Kan Nishidaさんのツイート通りになってきているのが現状だと思います。

 

ロシアも、国内では軍事作戦に反対する者は拘留され、実刑が確定すれば、最大10年出てこれないといわれています。ロシアのやり方も、かなり問題になってきていると思います。

 

台風15号により被害を受けた、静岡県の清水区の断水が、相当にひどいそうです(5万5000世帯)。これをマスコミが全然報道していないようです。その上、知事が自衛隊派遣を要請していないのではないかということ。

 

 

一体どうなっているんでしょうか。本当に最近のマスコミ・政治家は、どういう神経してるか、分かりません。

 

今のところ、SNS市民が情報を広げるしかないようです。


追記:先程自衛隊の出動要請はあったようです。早い復旧を願っていますm(_ _)m。

 

9月24日、セバスティアン・ヴァイグレによる、シェヘラザードを含む、オール・ロシア・プログラムを聴いてきました。オーケストラは読売日本交響楽団。

 

今日も仕事明け、しかも台風の中出かけて行っての鑑賞。仕事明けで頭が回るか疑問なのと、台風が来ると気圧の変化でお腹を壊しがちなので、何だか色々心配しながら聴きに行ってきました(^-^;。プログラムの以下の通り。

 

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ピアノ=パヴェル・コレスニコフ

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」

 

とはいえ、前回同様プログラムの確認はほとんどせず、「パガニーニの主題による狂詩曲」は誰の曲か知らずに聴いていました。

 

演奏はどれも良かったです。ヴァイグレは初めて聴きますが、割と恰幅の良い演奏で、急ぎ過ぎず、ロマンの風味がある演奏でした。

 

ピアノのコレスニコフも初めて聴きます。手足が長い、ひょろっとしたロシア人で、初めはちょっと音が小さいかな(今日は3階席で音がちょっと遠かった)、と思っていましたが音楽が進むにつれ、音も大きくなり、バリバリ弾きこなしていました。音の線はやや細い気もしますが、はっきりくっきりした印象のピアノでした。

 

 

↑、パヴェル・コレス二コフ。

 

恥ずかしながら、「パガニーニの主題による狂詩曲」も初めて聴くんですよね(録音も含めて)。先ほども書きましたが、誰の曲かな、と思って聴いていました(誰の曲かもよく確認してませんでした(^-^;))。聴いていると何だか、旋律の出し入れとか、造形が聴いたことのある感じです。自分の意思とは関係なく、何度かラフマニノフの顔が浮かんだので、後で確かめたらやっぱりラフマニノフの曲でした。濃厚な曲ですね。

 

作曲家の区別がつく様でしたので、前回に比べると、今日は頭は回っているようでした。

 

メインのシェヘラザードは素晴らしかったです。シェヘラザードは「千一夜物語」を題材にした作品です。映画音楽と交響曲を合わせたような内容で、非常に描写性が豊かです。

 

自分はこの曲の良さをアナログ・レコードで知りました。CDだと良く分からなかったです。編成の大きい管弦楽を使いますが、弦楽器群の活躍が多いために、レコードの方が魅力的に響きます。

 

今回実演で聴いて、レコードで聴くよりもさらに素晴らしいと思いました。第1楽章はシンドバットの冒険を描きますが、海洋冒険を表現した弦楽器の合奏など本当に美しかった。当たり前ですが、弦の音色の艶や鮮度がレコードで聴く時を上回り、より豊かに響きます。

 

コンマスによる、独奏ヴァイオリンとハープによる、シェヘラザード王女のテーマも非常にクリアで瑞々しかった。味わい深く響く低音に、豊かな弦楽器群のロマンティックな響きが重なって、夢見心地になりました。

 

第1楽章から第2楽章の途中まで、本当にうっとりするような音楽で、少しばかり涙ぐみました。

 

女王のテーマが繰り返されるたびに、これは物語を描きながらも、その主題は「愛の音楽(残酷な王を王女が慰める)」なのだと実感させられました。リムスキー・コルサコフの描く音楽が、どの場面も非常に的確で、まるで映画でも見ているようです。

 

台風の中の演奏会でしたが、ロマンティックな雰囲気に浸らせてくれたコンサートで、素晴らしかったです。

 

角川書店の会長が、五輪関係の収賄容疑で逮捕とか。

 

その前は元々電通関係なんですかね、高橋治之氏が五輪スポンサー選定における受託収賄容疑で逮捕されたらしいですが。この高橋治之氏については、元安倍総理関係で、以下のような話が、文春からリークされています。

 

 

↑、ツイッターと文春オンラインから。

 

<「最初は五輪招致に関わるつもりはなかった。安倍さんから直接電話を貰って、『中心になってやって欲しい』とお願いされたが、『過去に五輪の招致に関わってきた人は、みんな逮捕されている。私は捕まりたくない』と言って断った。だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります』と約束してくれた。その確約があったから招致に関わるようになったんだ」

 しかし、その五輪招致が実を結び、大会が無事終わった後、約束の主、安倍元首相は凶弾に倒れ、招致のキーマンだった男は司直の手に落ちた。

 東京地検特捜部は8月17日、受託収賄の疑いで東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の元理事、高橋治之容疑者(78)を逮捕した。高橋氏は大会スポンサーだった紳士服大手の「AOKIホールディングス」から総額5100万円の賄賂を受け取っていたとみられている。>(文春オンライン)

 

自分は安倍さんが「素晴らしい人だった」、いや、「ダメな人だった」、という議論に加わりたくないんで、そのことを主眼に書いているわけではありません。

 

しかし、安部氏がいなくなってから、急に捜査が進みだした印象はぬぐえません。

 

この五輪の問題はまだ、氷山の一角だと思います。

 

いつも同じことを書いているんで、一応昔の記事のリンクも付けますが・・・↓。

 

オリンピック |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

「お金」やら、「効率」やら「利権」やら・・・。オリンピックの様な中央がやるイベントにはお金も人も集まるんでしょうけど。ここ数年間、毒(膿)出し的なことが進むのかもしれません。

 

札幌五輪も諦めたほうが良いと思いますけどね。もっとやらなきゃいけないことが国内には一杯あるはずなんです。オリンピックの様な、見栄えの良いイベントばかりでなく、ちゃんとした国内の立て直しを、優先すべきだと思います。