チェリビダッケのLP |  ヒマジンノ国

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チェリビダッケによるブルックナー「交響曲7番」(録音年不明)。

 

HQーAUDー605~606。

 

 

今回はチェリビダッケのレコードについて少しだけ書いていきます。この指揮者のレコード自体、それほど数は出ていません。自分はチェリビダッケが好きなので、いくつかレコードを聴いています。その辺の感想を書いていきます。

 

ベルリン・フィルハーモニーのシェフの地位は、世界最高峰ということで、何時も誰が監督になるか話題になります。チェリビダッケも戦後の短い間、ベルリン・フィルを率いたことがあったというのは、有名な話です。

 

録音嫌いで知られ、一時期、幻の指揮者といわれたセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)。フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの後任に彼を考えていたといわれますが、結局フルトヴェングラー亡き後、ベルリン・フィルはカラヤンを選択・・・。

 

その後チェリビダッケは、色々なオーケストラに客演することによって研鑽を積み、あの特殊な音楽に対する解釈・・・!!(おそらくチェリビダッケの最も嫌う言葉だろうけども)を身に付けていきました。

 

それは従来の指揮者たちとは違う、オーケストラへのアプローチであって、有機的に広がる音響の芸術です。

 

ルーマニア人で、仏教徒。伝統的な解釈は拒否し、自身の哲学的な考えによるオーケストラ美学は現在でも異彩を放ち、聴き手に驚きを与えます。

 

チェリビダッケを聴く。その1 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

チェリビダッケを聴く。その2 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、チェリビダッケに関する過去記事です。旧EMI音源に対する感想です。簡単なブルックナー論も述べています。

 

 

↑、性格は傲慢で色々問題発言の多い指揮者でした。しかし、ドイツやイタリアの伝統からかけ離れたルーマニア人が、東洋の仏教と禅を学び、西洋哲学と融合させて、自分独自の音世界を作り上げたという事実は、彼が一個の天才であったことの証だと思います。

 

彼のいう通り、録音で彼の真価というのは分からないのかもしれません。しかし、現状最早録音でしか彼の音楽を聴くことはできないのですから、これらを聴くしかその理解は進みません。

 

正規盤がないころ、チェリビダッケの音源は米国のAUDITOR、あるいはMETEORという2社(両社ともすでに解散)から沢山出ていました(海賊盤です)。しかも、音質、演奏共に、後に出た正規盤をしのぐものが多く、チェリビダッケの、ブルックナー最高傑作といわれる、リスボン・ライヴ(1994)もAUDITORから出る始末。altus、またはソニーから出ているブルックナーも良いものはありますが、自分はやはり、これら海賊盤の記憶が強く、チェリビダッケの原体験はこれらのCDによります。

 

 

↑、右の緑のジャケットがAUDITOR。左の紫のジャケットがMETEOR。緑のジャケットが、リスボン・ライヴといいわれるものです。両社とも面白い音源を沢山発売していました。自分もベームのブラームスや、クーベリックのチャイコフスキーなどを愛聴していました。

 

今回のLPもすでに解散した、米国の会社AUDITORのものです。AUDITORはチェリビダッケのLPをいくつか発売しています。他に、チェリビダッケのLPは altus、ワーナーがブルックナーのものを正規盤として出しています。ワーナーのLPはつい前日発売されたばかりです。altusについて、自分は2枚組のものを自分は所持していますが、後に3枚組にして販売されたようです(かなり音質が改善されたのこと、自分は未聴)。

 

 

↑、ワーナーから出たブルックナー交響曲4番。残っている音源を全てLP化してくれるとありがたいです。

 

チェリビダッケの音源は、LPにするのは中々難しいように思います。特有の面で広がるようなオーケストラの響きが、LPでは出にくいように思います。CDよりLPの方が音の線は太いとはいわれます。しかし、LPは旋律が線として表現されやすく(その分、弦などには向く)、面として響きづらいように感じています。先日書いたバーンスタインの演奏などもそうでしたが、面で響く様子はCDの方が自然に聴こえるように感じています(個人的な見解です)。

 

 

↑、altusのLP。ワーナーのものもそうですが、チェリビダッケの演奏としては線が細く聴こえます(これはこれで面白いです)。

 

ワーナーから発売されたブルックナー4番のLPは音は非常にクリアで、旋律が聴こえやすく、爽やかに聴こえます。CDで聴いてきた時とは全く違う印象で、一瞬別物かと思いました。こういうのも悪くないですが、今まで聴いてきた、チェリビダッケとは随分印象が変わってしまいました。altusの2枚組のLP(ブルックナー5番と8番)も、ワーナーのLPと似たようなところがあり、音の線がチェリビダッケとしては細いように聴こえました。多分、後に3枚組にして再発売したのは、そういう部分を修正したかったからではないでしょうか?

 

このAUDITORのLPは、2枚組ながら、そんなチェリビダッケのものとしてはかなり満足のいくものだと思います。ワーナーのLPに比べると、音はややクリアさが落ちますが、リアルな雰囲気や音の太さ、深みなどかなり良く出ていると思います。音が分離しすぎていないのが、良いのかもしれません。

 

 
 
 
↑、ブルックナー交響曲7番冒頭。4番と共にブルックナーを代表する名曲。ブルックナーの「最も優美な言葉」ともいわれる曲で、滑らかな初めの2つの楽章が美しいです。チェリビダッケによって、空間的な、深々とした響きが出ています。こういう意味深い響きが、晩年のチェリビダッケの特徴だと思います。チェリビダッケのブルックナーだと9番、7番あたりが、彼の至芸が堪能できる名演かと思います(リスボンの8番はまた別格でしょうけど)。彼は、指揮者とオーケストラの共鳴が生まれると、響きがよりパワフルになるといっています。
 
ブルックナーという作曲家が持つ、作為的ではない音楽(パレストリーナとワーグナーの融合)という特質が、チェリビダッケの唱える、禅と現象学を主体とした、音楽哲学に適合します。個人的にはブルックナーの正当な解釈者はオイゲン・ヨッフムとギュンター・ヴァントあたりだと思いますが、チェリビダッケは異質です。
 
元々チェリビダッケの演奏は感情を排した、即物的なところがあり、ドイツ人がドイツ音楽に込めるような、情念の世界がありません。チェリビダッケの場合、生成する「音」の有機的なつながりと、響きを、特に注視するものであって、人間の生の感情とは切り離されています。しかし、その徹底ぶりによって、指揮者が創り出す新しい音の世界を世間に知らしめました。
 
元来、指揮者は作曲家と聴衆の中間的な位置にいて、作曲家のいいたいことを聴き手に伝える役割だったように思います(音楽を、人間の感情として伝える役目、響きそのものの芸術ではなく)。それ故、それぞれの作曲家のいいたいことを、伝えられる素質の指揮者こそが、名演奏家でした(楽譜に忠実という、現代的な意味合いとは異なります)。ところが聴衆の求めるような作曲家がいなくなり、指揮者が媒介者としての必要性を必ずしも必要としなくなった時、指揮者は己の望むような音の世界を作り出すことを、許されたのです。これは晩年のカラヤンも同様だと思います。
 
当然楽譜は大事ですが、既に過去の指揮者たちによって、それぞれの曲については、一定の「解説」がなされ、現代の聴衆はそれを聴いてきており、理解は進んでいます。
 
このような傾向の中から、オーケストラの実験者とでもいうべき、チェリビダッケのような指揮者が現れてきました。指揮者という存在が、新たな「指揮芸術」とでもいうべきことを、試行錯誤しながら、行ったわけです。あの融通無碍なフルトヴェングラーでさえ、作曲家のいいたいことからは離れようとしませんでしたが、チェリビダッケやカラヤンは、必要なら、作曲家のいうことも無視します(ここでは先に書いたことと同様、楽譜に忠実、ということとは違う意味で書いています)。そしてチェリビダッケはそれに成功したように思います。
 
彼の場合、譜読みが深い、というよりも、オーケストラの響かせ方に特殊な深みがあります。
 
そのチェリビダッケの追求したスタイルと、ブルックナーは非常に相性がいいわけです。有機的に広がる、壮大な音の世界が楽しめます。テンポがものすごく遅いので慣れる必要はあるのですが。
 
しかし、この指揮者が創り出す豊饒な響きというのは、オーケストラの音として相当に程度の高いものだと思います。この指揮者を嫌いな人も多いですが、楽しむつもりがあるのなら、あの超スローテンポに、とにかく慣れるしかない、ということですね。