ヒマジンノ国 -10ページ目

 ヒマジンノ国

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最近の演奏家は皆真面目ですね。

 

先日のブレハッチのコンサートを聴いて、そう感じました。1音ずつ微妙なニュアンスを付けているのを聴くと、これは推測ですが、相当に全体の解釈を固めてから演奏しにきているな、と感じました。あれぐらい詩情が出るということは、当然即興の要素もあるとは思うんです。しかし、演奏が全く崩れないし、どの部分も良く聴こえてきます。かなり確信がないと、ああいう表現はできないんじゃないかと、勝手に思っています。

 

以下はあくまで個人的な意見ということで、ご了承ください。

 

 

ちゃんと全体が聴こえてくるというのは、最近の教育とか、コンクールのせいなんでしょうか。コンクールを出ていない、H・J・リムのベートーヴェンなんかを録音で聴いていても、音が団子になって聴こえてきたりします(・・・まあ、最近は、コンクールを出ていてもバリバリ系は多いのかな(^-^;?分からないことも多いですが・・・)。リムにとっては、曲そのものが追及の対象なんですね。コンクールを出ている、ブレハッチには、聴衆が審査員みたいな感じなんでしょうか。

 

単純に個性なのかもしれませんが、ブレハッチには、弾き手側にも、どう聴かせているかという、絶妙な客観性もあるという印象を持ちました。

 

5月にヒラリー・ハーン、4月にトリフォノフが来日するんですが、これは予定があわず、断念しました。ハーンはブラームスのソナタをやるらしい。割としつこい、ハーンのヴァイオリンの音色はブラームスと相性がよさそうで、実演で聴きたかったです。トリフォノフも、あの密度の濃い情熱を、生で体験したいと思っているんですが、今年も予定が合わずです。

 

カミーユ・トマも聴きたかったんですが、これも予定は合いませんでした。ドヴォルザークをやったそうで、一般の、聴いた方の論評なんか読んでいました。前の来日時もドヴォコンでしたよね。世間の意見は、好意的半分、批判半分でしょうか。自分は聴いてないので、どんな具合かは良く分かりません。

 

トマを録音で聴くと、サン・サーンスのサムソンとデリラ(「あなたの心に声は届く」チェロ編曲版)、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」、ラヴェルの「カディッシュ」とか、お国モノが良いと思うんですね。ファジル・サイのコンチェルトもかなり面白いです。

 

どうでしょう?ドヴォルザークでは実力は計りがたい気がします。最近の聴衆も、批評がまるで、コンクールの審査員みたいな方も多いですからね。そういうのも大事だと思いますが、そういう批評では分からないことも実際は多いのではないでしょうか。ジャック・ティボーなんか、ブラームスのコンチェルトをやると、無茶苦茶だったそうですが・・・。最近の演奏家は、技術的には、そこまでではないとしても、聴き手側も「どういう部分」を評価するかで、演奏家の成長の伸びしろも違うんじゃないかと考えています。

 

技術的な間違いは指摘しやすい。しかし、そこから外れた芸術性は数値化できないので、評価されにくい。トマも、独特の優しさと爽やかさを持つ音色で、嵌まると、はかないファンタジーの雰囲気を作り出します。その辺が個人的には好きですが、まあ、どんな塩梅かは、1度実演を聴いてみないと分かりませんかね。

 

 

 

↑、カミーユ・トマのLP。レーベルスタンパーには、文字が鳥の形に配置されています。なんだろうと思っていたのですが、多分これはファジル・サイの作曲した、チェロ・コンチェルトを暗示していると思われます。「Song of Hope」(これはコロナ後の世界を表していると思います)と名付けらた、第3楽章では、何の楽器なんでしょう?細かく鳴る音がまるで小鳥のさえずりのように聴こえます。アラビア風の音楽に乗って、市場でも散策しているような、不思議な音楽です。アルバム全体の内容としては、上述のファジル・サイの新曲や、ジョン・ウィリアムズの曲を含んでいて、最近のグラモフォンらしい、チャレンジングな内容かと思います。

 

トマについては、批判派がかなり具体的な批判を行っていたのに対し、肯定派は曖昧に書ていたのはその辺に原因があると思います。曖昧にしか書きづらい、というか。

 

最初に最近の演奏家は真面目だな、と書きましたが、過当競争が激しいのが原因かなと思ったりします。演奏で食べていく人たちにしてみると、コンクールみたいな、公の評価を得られる状況はできる限りモノにしたい、とかね。毎年音楽家の卵は排出されるわけで、狭き門だと思います。コンクールはやはり技術優先だと感じますし。変な厳しさみたいなのが蔓延していないかな、と感じる時があります。完成度が高くないと、中々認められない世の中ですね。

 

ブレハッチの演奏を聴いていると、曲に対する解釈の密度の高さとか、漂ってくるポーランドのそのものの雰囲気とか、貴重な体験だったと思います。そしてこれは、ブレハッチに対する批判とかと別の話なんですが、とにかく完成度が高いとか、ミスが許されないとか、そういう雰囲気が最近のコンサートにはあるような気がしています。楽しんで聴いているかい?みたいな疑問はありますね。

 

まじめさとか真剣さは必要ですので、特段文句をいっているのとは違いますが、もうちょっと別の感じが欲しい時もあります。

 

 

33CX1701。

 

 

ホセ・イトゥルビの「ショパン・リサイタル」(1959)を聴きます。

 

これは聴いていると、とても優雅なんですね。音色もカラッとしていて、しつこくいないです。しかし不思議と深みもあると思います。

 

演奏者の肩の力が抜けていて、弾いている方も楽しんでいるのではないかと思わせます。時代のせいもありますが、最近の演奏家に、根っこから優雅さを感じさせる演奏は無理かなと感じますね。気軽さがないんですよね。

 

 

↑、ホセ・イトゥルビ(1895-1980)。ラローチャ以前の、スペインの国際的なピアニスト。日本で聴いている人はほとんどいないと思います。レコード収集している人はかろうじて知っている、というところでしょう。米国で活躍して、ハリウッドでは俳優としても活動しています(「錨を上げて」などに出演)。自分は好きなピアニストで、余裕のある、色彩感な演奏をします。アルベニスなんかが有名だと思います。ここに聴くショパンも彼の芸風にふさわしい、ワルツを含めた暗くない曲が多く、気軽に聴けて、なおかつ、うっとりさせる優雅さがあると思います。

 

こういう演奏は、今後の演奏家には、もう期待できないかな、という気はしています。

 

2005年ショパン・コンクールの勝者、ラファウ・ブレハッチのコンサートを所沢で鑑賞しました。

 

ブレハッチが良いという人は多いようですが、録音を含め、自分は1度も聴いたことがなくて、今回が初めてです。

 

前半がショパン5曲、後半がドビュッシー、モーツアルト、シマノフスキというプログラム。どれも名演だったと思います。今どきのバリバリ弾くタイプと違って、しっとりと響かせながら、曲の表情や内面を解きほぐしていくタイプです。最近では珍しく、貴重な存在かもと思いました。それでも現代風ではあるとは思いますけども。

 

個人的には技巧的にバリバリ弾いていくタイプより、こういう方が聴きやすいです。何を表現したいか、直接伝わってきます。

 

ただ、音には割と厚みがあって、決してはかない感じでもなかったです。曲にも厚みは出ていました。ポーランドの先輩、ツィメルマンに幾分かは似ていますね。

 

以下は個人的な演奏の感想です。

 

1曲目、ショパンのノクターンはぎこちなくて、ちょっと技術に難ありなのか、とか思ったりもしましたが、そんなことはなくどんどん調子を上げていきました。1曲目は、緊張してあがっていたんでしょう。前半のショパン5曲はどれも過不足ない演奏ばかりで、強音や弱音を繊細に使い分けて、色んなニュアンスを出します。まさにショパンという感じでした。調子が出てきてからは、詩情を湛えながら、安定感もあり、レベルの高さを感じました。ポロネーズ4番では悲劇的で、ロマンティックな英雄像をいかんなく発揮して、好きな演奏でした。

 

そして、さらに後半の方が調子が上がってきたと思います。

 

ドビュッシーのベルガマスク組曲は、あの詩情で悪かろうはずもなく、月の光は印象に残ります。月の光なんかは、誰が演奏しても似た感じなのかもしれませんが、ブレハッチみたいな詩情のあるピアニストの方が、より良く響くと思います。

 

モーツアルトは1番拍手が大きかった演奏です。K331なので、知っている人が多かったということがあるのかもしれません。

 

モーツアルトの演奏で多いのは、芯はあるが、珠のように、角のないピアノの音で、コロコロ転がしていくような演奏という感じでしょうか?グルダとか、ギーゼキングでモーツアルトを聴くと、弾力ある美しい音色を思い出します。ウィーン風のヘブラーなんかはもっとまろやかですが、やはり音に芯があります。

 

ブレハッチのピアノの音は聴いていると、そんな芯のある感じではなく、弾いていく流れのフレージングで表情付けされる、という感じがしました。響きだけ聴いていると、少しとらえどころのない印象でした。

 

多分そう感じるのは、自分が固定観念を持っているからだと思います。自分はこの演奏は、どういう種類のものなのだろうと、過去の演奏家の記憶などをたどって考えてしまいました。

 

やはりショパンぽいというか。時々ですが、音が転がるという感じではなく、少しばかり、ショパン張りのブリリアントな輝きがあるような気がしました。

 

ですが、この人は曲の表情をつかむのが上手く、正確なのだと思います。曲の内容重視なんですね。響きだけ聴いていると、捉えどころもない気もするんですが、曲の表現されている内容そのものにフォーカスすると、モーツアルトそのものだと伝わってきました。

 

それにやはり演奏そのものが安定しており、表現も自在だったと思います。自分の気持ちに沿って、テンポを動かしたりしました。

 

・・・とまあ、演奏を聴きながらこんなくだらないことを、グダグダ考えるのは、僕の悪い癖なのかもしれません。大分前から曲を純粋に楽しめなくなっている気はしてますが・・・。

 

聴衆の反応を見る限り、普通の名演だったようです(^-^;。

 

シマノフスキも面白かったです。前近代的で知性的な悩みというか、現代曲に比べれば全くロマンティックなんですが、感傷的になりすぎない音楽です。シマノフスキのアルバムを出している、ツィメルマンに比べるとずっと感情を表に出した演奏で、ヴィヴィッドに伝わってくるものがありました(演奏された曲はツィメルマンのアルバムにはありません)。

 

ツィメルマンも詩情があるんですが、彼はなんでもくっきりはっきり弾き切るので、完璧な音の鳴るパースペクティヴな冷たい空間に、放り出されたみたいな気分になります。

 

ブレハッチはもっと気持ち優先で、聴きやすかったですね。人間の感情として伝わってきました。

 

今回聴いてみて、個人的にブレハッチが素晴らしいと思えた瞬間は、ショパンのポロネーズ4番とか、あるいはシマノフスキの時に見せる、思いの外深い、悲劇的な感情というか。臆することなく、悲劇性を力ある表現で弾いて、堂々と進軍していく感じがあります。そこにロマンティックな感情も混じりあうので、抗しがたいものがありました。カッコいいなって思います。

 

今回は情報量が多い演奏会で、ちゃんと聴けばもっと色んな発見がありそうでした。しかし1回だけ聴くのでは全部は聴き切れないですね。全体に演奏のレベルも高く、知的な刺激があったコンサートでした。

 

スタンディング・オベーションありで、アンコールも2曲やりました。サイン会には長蛇の列ができて、盛況だったように思います。

 

指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

東アジア初のクラシック音楽界の国際的スターですね。自分はあまり聴いてきた方ではないので大きなことはいえませんが、後のアジアの音楽家たちの先鞭となったのは確かだと思います。

 

1973年から29年間ボストン響の音楽監督だったというのが、1番大きかったのではないのでしょうか。クーセヴィツキ―やミンシュが監督だった米国の名門オーケストラです。

 

2009年にウィーンの国立歌劇場の監督になった時は、本当にびっくりしました。欧州のクラシック音楽の中心の1つとなるポジションです。

 

 

↑、ボストン響の追悼です。監督として、29年は長いですね。それぐらい人気があったということだと思います。

 

 

 

↑、現ボストン響監督、アンドリス・ネルソンスの追悼。

 

 

↑、世界最高のオーケストラ、ベルリン・フィルの追悼。名誉団員という位置づけ。

 

 

↑、ウィーン・フィルの追悼。ベルリン・フィルとウィーン・フィルが演奏できるというだけでも、本来なら偉業なんですよね。

 

 

↑、プラシド・ドミンゴの追悼。写真の「ホフマン物語」の録音は名盤といわれます。自分も所有しています。

 

 

↑、英国の名門、デッカ・レコードの追悼。

 

 

↑、アンジェラ・ゲオルギューの追悼。

 

 

↑、カミーユ・トマの追悼。トマはオザワ・アカデミーに参加したことがあるとか。

 

音楽界の大物とか、有名なオーケストラや、レーベルから、惜しまれるような日本の人物は、中々いないと思います。

 

お疲れ様ででございました🙇

 

興味ない方はスルーでお願いします。変わった話なんでね。

 

新しい神示が出たとかでちょっと読みました。新しい時代に生まれ変わる基準というのは、靈と交信できる人になれるかどうかという話らしい。悪靈でない方の良い靈ですけど。

 

それが基準になるだろうことは、古い神示を読んでいても、分かる話ではあります。

 

ですのでちょっと前から、そういう能力のことは、何となく考えてはいたんですが・・・個人的にはそんな能力出るかどうかなんかは、分からんなあ、という感じもしてます。自分にはそんな様子はありません(^-^;、まあ一般にはそれが普通なんでしょうね。

 

占うと、導かれているが、数年かかるとか出る。どうなんだろう?

 

そういうのがミロクの民かね。

 

もう30年以上前ですが、河合塾に通っていたことがあって、そこで変わった先生がいました。

 

ある日突然「死ぬ」みたいな感覚を味わって、全身力を張ってそれに耐えると、今度は聞いたこともないような言語が聞こえてくるようになったとか。

 

そういう話を講義の途中にする方で、今でいう「日月神示」と同じような話もしていましたね。

 

漫画家の美内すずえさんも、他存在の声を聞けるという話を、聞いたことがありますが・・・。酷い肩こりの後に聞こえるようになったとか?

 

悪い因縁と癖がなくなり、周りの人と協調して問題なく生きられる人からなるとか聞いています。

 

コンサート評は備忘録として書いていきたいと思います。

 

今日は下野竜也氏の指揮、東京都交響楽団で、ブルックナーの交響曲1番を鑑賞しました。しかもウィーン稿です。

 

コンサートが始まる前に、能登半島地震の被害者に捧げる、バッハのアリアを演奏。その後しばし、指揮者とオーケストラは、被災地に黙祷をささげました。

 

前半はモーツアルトのピアノ協奏曲24番。モーツアルトは破綻のない、常識的な解釈。ピアノは津田裕也氏で、しっとりとした表現だったように思います。

 

ブルックナーの交響曲1番、ウィーン稿は、いわゆる初期のリンツ稿を後期様式に沿って改訂したものです。8番(1890年稿)の後に改定したもので、人によっては初期稿に厚化粧を施したもの、という意見もあります。元来ウィーン稿が初めの発売だったといわれているようですが、1935年にリンツ稿をハースが発表し、今日ウィーン稿を演奏する人はほとんどいなくなりました。有名どころでは、クラウディオ・アバドかG・ヴァントでしょうか。

 

ヴァントは基本的にブルックナーが、最終的に手を入れたものを決定稿にすべきという立場です。個人的にもこれが良いとは思いますが、ウィーン稿をやる人は少なくなっています。両者、全体的に曲想は同じですが、改訂稿の方が構造的な安定さを増しており、特に4楽章のコーダはリンツ稿のように、メインの旋律が息長く吠えるよりは、立体的で俯瞰的な構造に変化しています。

 

今日の、都響の演奏は良かったと思います。どの楽器も良く鳴り、ブラスも良く揃っていました。充実感がありました。自分はこれぐらいやってくれれば満足です。

 

どの楽章もムラのない出来で、楽しかったです。

 

今回改めて思ったのは、ブルックナーのスケルツォは、かなりの迫力がいるんだということを実感しました。2年前インバルで4番・初稿を聴いたときも、スケルツオからフィナーレの導入部の勢いというものが、曲の魅力につながっていると感じましたが、今回もそうでした。

 

迫力あるスケルツオが終わり、火の玉が飛んでくるような4楽章の初めの主題が始まるとワクワクします。

 

4楽章も良い出来でしたが、個人的な要求をいえば、コーダはもっと粘って欲しかったです。まあ、やってくれる人はほとんどいないでしょうけど。

 

昔、評論家の宇野功芳氏が、朝比奈の演奏したブルックナー3番をべた褒めしてましたけど、その理由が、初期の曲を、後期のようなゆっくりしたテンポで演奏したからでした。

 

実はこの4楽章のコーダには、その朝比奈の演奏と同じようなことがいえて、初期の交響曲として流してしまうのではなく、粘って壮大にやると、この作曲家の意図した、後期への改訂への意味がはっきりします。

 

今回はまあまあ粘ったような気もしましたが、でもやっぱりちょっとコーダは取ってつけたような感じには思えました。粘りが足りないんじゃないかね?

 

シャイ―の録音がそこはうまくやっているんですね。評論家の金子建志さんがそのシャイーのライナーノートで熱っぽく語ってますけど。

 

まあ、しかし今回これだけのものが聴ければ正直かなり満足でした。文句をいうべきでもないかなと思います。

 

色々いいましたが、結局4楽章のコーダも大変な迫力があって、オーケストラ全員が、体がひっくり返るぐらい必死に弾いているのが、良く分かりました。それだけでも落涙ものですけどね。

 

年始から「おめでとう」といって良いのか、分からないような事件ばかりです。

 

国内では、1日の能登沖の地震の後、2日は羽田空港で航空機の事故、3日は北九州での火災と、秋葉原での刺傷事がありました。海外でも1日はニューヨークで謎の爆発音があり、2日は韓国で野党の代表が、映像で撮られている前で、首を刺されて病院に搬送されています。

 

さらに3日には米国でジェフリー・エプスタインのロリータ・エクスプレスの名簿が公表され始め、大騒ぎに。これで先ずは米国元大統領、ビル・クリントン氏が関与していた可能性が非常に高まりました。

 

 

以前も書きましたが、かつて、エプスタイン島と呼ばれる島には世界中からさらってきた幼児たちがおり、彼らを凌辱し、挙句の果ては、殺し、食べてしまうという、猟奇的な犯罪が行われてきたといわれてきました。白人セレブ達の成れの果てです。

 

さらに問題なのは、この事件に関与していた人たちで、政財界の大物、ハリウッドの有名スターたちであったという話です。

 

ハリウッドスターで、関与が問われている人たちも相当に多く、アンジェリーナ・ジョリーなどは米国脱出を図っているなどという報道もあります。名簿には日本人の名前もあり、今後さらに公開が進むことによって、世界中が大騒ぎになる可能性があります。日本では相変わらず報道しませんけどね。この辺の情報は知っておかないと、どんどん取り残されるだけですね。

 

日本で起きた能登地震や航空機事故も、色々疑念がささやかれているようです。真偽は中々分かりませんが、詳細に見ると怪しい部分があるようには見えます(何らかの人為的な介入があった?)。

 

1日の地震の時、自分はX(旧ツイッター)を見ていましたが、リアルタイムで、生き埋めになっているから、助けてほしいとか、自分の家族が建物の下敷きになっているので、助けてほしい、というつぶやきが流れてきます。

 

拡散するぐらいしかやることがないのですが、これは本当に心痛でした。

 

その後、自分は助かったとか、あるいは、家族はダメだったという話も流れてきましたが、やり切れません。被害者の無事をお祈りするばかりですm(_ _)m。

 

波乱の幕開けの24年度です。この先どうなるのか?というところです。

 

さて、個人的には、今年こそはブログの回数を減らし、必要な時だけ書くという感じに戻したいと考えています。

 

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

年の暮れになって、政治家、特に清和会の問題が出てきました。日本の政治は明治維新以降、薩長の政治家たちと米国や、そこに含まれる国際金融資本に支配されてきました。

 

今回はその中でも、統一教会を含む安倍派などの崩壊が始まっているようです。これは日本を動かしてきた非常に力ある権力基盤の1つでした。多分それを行っているのが、米国のシンクタンク、CSIS寄りの政治家たちであるということでしょう。

 

次期総理候補として、河野太郎氏、小泉進次郎氏、石破茂氏などが挙がっていると、マスコミが散々宣伝するようになってきています。彼らはこの米国のシンクタンクの息がかかっている、ということなのだと思います。

 

 

彼らが政権をとっても我々には良いことなどありませんが、見方によれば、今までの権力組織の内紛とも見ることができ、このような権力基盤の崩壊が始まっているとも見えます。

 

 

↑、今後数年かけてこの手の権力機構が崩壊してくのかもしれません(CSISのメンバーもダメになって行くんじゃないかと考えています)。

 

多くの人々が、明治維新以来の日本が真の日本の姿だと考えているのかもしれませんが、どうなんでしょうか?神示には「王統を消す」とも書かれています。今まで信じていたものが崩壊するとき、人々は何を信じるのでしょうか?本当の意味で、「自分を信じる」ことができるのでしょうか?

 

芸能界の闇なんかもかなり出てきていますね。

 

あくまで私見ですが、嘘が通じない世の中に変わりつつあるということだと思います。「思う」、「言う」、「行う」、という3つを一致させよ、といいますよね。これができない人、していない人はどんどん「嘘」がばれていくという話です。

 

あんまり理解されないでしょうけど、神示の述べているような、「神の法(神則)」といえばいいのですかね、これが表に現れてきた、とうことでしょうか。加速度を増しているようにも見えます。

 

それぞれ、自分の言動には気をつけていかなければいけない、ということだと思います。

 

今年はこれでブログを終えます。今年も読んでいただきありがとうございました。年始のブログはしばらく休もうかと考えています。

 

昨日はサントリーホールで、BCJのメサイアを鑑賞。2001年から続く、クリスマスの定例コンサートですが、自分は初めて鑑賞しました。自分は3ヶ月先の仕事の予定が立たないので、中々チケットが取れなかったのですが、今年は日曜でやっと鑑賞できました。

 

指揮の鈴木雅明氏が体調不良で、息子の優人氏の演奏でした。

 

古楽器の演奏で、合唱も20人の規模です。古楽器の演奏を嫌う人もいますが、自分はバロックに関しては古楽器の演奏は好きです。この日も味の濃い楽器の音色と、少人数の研ぎ澄まされた響きが美しかったです。

 

古楽器の演奏は音の角が立ちやすいですが、今回はそんなことがなく、角のない、比較的柔らかい音色で通しました。ハレルヤや、アーメンコーラスも、清澄でうるさすぎない、品の良い演奏でした。やはり合唱が美しい曲なんですね。健康的で爽やか、なおかつ滑らかなヘンデル特有の感情が素晴らしいです。

 

バロック音楽のシャイトのアンコールで、自分の知らない曲もやりました。ア・カペラの美しい曲でした。メサイアとアンコール含め、全体で3時間の長丁場でした。

 

幸福感を感じられるコンサートで良かったと思います。

 

今年はこれでコンサート通いは終わりです。今年も8回通ったみたいです。何万円もする、有名海外オーケストラは、自分の仕事の予定では買うのが怖く、1回も行きませんでした。自分が行ったのはほとんどが1万円以下の、安いものばかりで、大体が駆け出しの演奏家ばかりでした。

 

E・グランディ、カーチェン・ウォン、アクセルロッドなど皆良かったです。コンサートは一期一会なので、録音で楽しむような、自分好みの名演を聴くというわけにはいきません。

 

基本はその日それなりに楽しめれば良いと思って、通っています。

 

1番印象に残っているのは、オペラパレスの「サロメ」です。毎回通っている人にはいつも同じ演出で飽きているらしいですが、自分は初めてだったので、楽しめました。苦手だった、R・シュトラウスの音楽だったのですが、初めて理解した気になりました。

 

後はブルックナーが2回。ミンコフスキとヴェンツァーゴの指揮でした。両方ともかなり印象に残っています。面白い演奏で良かったと思います。ただ、ブルックナーは変化球でなく、正調なのを、できれば1度で良いから、聴いてみたいと気づかされた演奏でもありました。

 

ブログにも書きませんでしたが、3月の都響の大野和士の「海」も聴いたんですが、全く印象に残らなくて、申し訳ないですが、このコンサート以外、どれも楽しかったですね。

 

 

1週間程度だけ?劇場でやるというので、鑑賞してきました。米国の名指揮者、レナード・バーンスタインの生涯を振り返る作品で「マエストロ、その愛と音楽と」というタイトルです。

 

やっている映画館が少ないんですね。加えて上映回数も少ないです。自分は吉祥寺のミニシアターで鑑賞。1日1回だけの上映です。興味がある人が少ないんでしょうけど。映画館で観たいなら急ぐ必要があります。

 

12月20日以降は、ネットフリックスで配信される模様。その後も劇場でやるかは不明です。

 

以下感想を書きますが、ネタバレあります。

 

結構良かったですかね。自分はバーンスタインは伝記を読んだことがなくて、しかし、前知識も全くないわけでもない。自分の浅い知識だと、バーンスタインは、バイセクシャルで、自分のやりたいことをしないと気が済まない性格の人物という印象。周りの人たちが大変だった、という話は聞いたことがあります。

 

映画の内容自体、大体これぐらいの感じかな、と思っていたような内容で、非常に腑に落ちた内容でした。確かに、映画内で描かれるバーンスタイン夫婦の復縁の様子など、ちょっと描写不足といわれても仕方ない気もしますが、そういうことを狙った映画でもなさそうです。個人的には、これ以上あの夫婦の話を続けられても、そこまで興味ないかな。

 

主題はバーンスタイン夫婦の描写を中心に構成されていて、妻のフェリシアが夫レナードの男色を含む、強烈な個性に悩まされるという展開・・・。

 

映像自体は、この2人が若いころはモノクロで始まり、後半はカラーになるという、彼らの時代を意識した映像の色調で描かれます。

 

使われる音楽は主にバーンスタインの作品と、マーラーの作品です。

 

自分はバーンスタインの作曲した音楽自体は、そんなに好きではないです。キャンディードとか、ウエストサイド物語の文句をいっても、今更評価は定まっているので仕方ないですが、この映画内で使われている「ミサ曲」とか、自分は評価に戸惑う作品です。映画の中ではそのミサ曲からも、美しい部分が使われています。

 

ただバーンスタインの作品はそんなに知らないので、何の曲か分からない場面も多数ありました。

 

個人的に1番印象に残るシーンは、英国の教会(エリー大聖堂かは不明)で、ブラッドリー・クーパー自身が指揮する、マーラーの交響曲「復活」の最終場面です。

 

マーラーは指揮者バーンスタインが得意にした作曲家です。バーンスタイン存命時は彼がマーラー演奏の第1人者でした。

 

 

ブラッドリー・クーパーはバーンスタインそっくりに演奏して、中々迫力ある復活を指揮します。彼は、他の場面でも角度によっては、まるでバーンスタイン本人にしか見えないような場面も多々あって、面白かったです。

 

 

 

↑、左がバーンスタイン、右がブラッドリー・クーパー。

 

この教会の場面では、バーンスタイン夫婦の味わった苦しみと、ヨーロッパの古い教会の中で、演奏される、マーラーの音楽というのが、相まって、中々感動的でした。実際の映像で残っている、多分1974年の演奏を再現しているのでしょう。ミニシアターといっても映画館ですから、それなりの音量でやってくれます。交響曲「復活」の最後は良いですよね、やっぱり。ちょっと涙ぐんでしまいました。

 

こういう場面を見ていると、普段、本当に我々は、ヨーロッパの歴史の「良いところ」だけを見たり聴いたりさせてもらっているだけなのか、という気にさせられました。

 

色々な歴史の積み重ね、あるいは携わった人々の血のにじむような努力がなければ、こういう瞬間はないんだろうな、と思えるシーンです。

 

作曲家マーラーの音楽の力というものも、改めて感じずにはいられませんでした。マーラーも亡くなって100年以上ですが、未だに人々を感動させる力のある音楽を書いたわけです。そしてそれを指揮する指揮者の苦悩とか、我々は日々感じもしませんけど、その苦労は大変なものがあるのでしょう。ヨーロッパの文化の、遠い奥行きを感じさせました。

 

バーンスタインが立派な人物だったかどうかは、評価などできませんが、映画内では特別偉大な存在とも描いてなくて、これぐらいの人物なんじゃない?みたいな雰囲気でした。大指揮者といっても、周りの人々は大変ですね。そういう犠牲の上に、色んな名演が成り立っているのかと思うと、興味深いです。

 

音楽家の伝記映画としてはまあまあだと思います。

 

この映画のサントラもグラモフォンがアルバムにして、販売しているようです。

 

デュア・リパの「FUTURE NOSTALGIA」。レコードです。

 

このデュア・リパのアルバムなんですが、以前自分は生意気にも次のように書いていました。

 

Bebe |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、「FUTURE NOSTALGIA」は、デュア・リパの2枚目のアルバムなんですが、ここで自分はかなり酷いことを書きています(-_-;)。恥ずかしい。

 

ビービー・レクサのアルバムを聴いてから、聴くアルバムがなくて、このディア・リパのアルバムを繰り返し聴いていたんですが(CD)、かなり良いと思うようになりました。スイマセン(-_-;)。

 

意見を変えます。これも良いアルバムだと思います。今さらなんですけど。

 

 

Dua Lipa - Levitating (Official Animated Music Video) - YouTube

 

↑、ということでリンクです。彼女は日本のアニメが好きで、日本人アーティストによる動画制作となりました。1980年代ぽいですね、ミンキーモモとかの感じでしょうか。

 

 

ディア・リパは宮崎アニメなんかも良く観ているようで、昔はインスタグラムに観ている様子なんかをアップしていましたが、今はもう削除されているようです。

 

 

ドイツ・グラモフォンによる、久石譲のアルバム、「A  symphonic   celebration」。

 

旧EMIの流れを汲む、クラシック音楽の老舗レーベル、ドイツ・グラモフォンが日本の作曲家久石譲と契約して作った、本格的な映画音楽のアルバムです。グラモフォンは少し前に、ジョン・ウィリアムズのアルバムも制作しています。

 

本来ならクラシック音楽の話題にすべきですが、色々今後書いていきたいこともあるので、試しに、ここに書いていきます。

 

これらの論題になるのは、まずジョン・マウチェリによる「20世紀の音楽を取り戻す」という著作によります。詳しい話はまた別にするつもりですが、今日のクラシック音楽の衰退を止めるために、如何にしたらよいかという問いになります。

 

興味のある方は1度この本を読んでみることをお薦めます。マウチェリは映画「TAR」の音楽アドバイザーを務めており、最近のドイツ・グラモフォンの方向性についてもアドバイスを与えているのではなかと想像されます。

 

TAR |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、映画「TAR」を初見した時の感想です。「TAR」に対する意見も、自分は変えようかと考えています。なぜラストがああだったのか?その疑問の答えがこの本の中にあります。

 

 

↑、ジョン・マウチェリ著「20世紀の音楽を取り戻す」。松村哲也訳。

 

手前味噌でなんですが、他のSNSで自分は、簡単に本の内容をまとめたのですが、以下のようです。

 

<ジョン・マウチェリ20世紀のクラシック音楽を取り戻す、を読みました。1930年から既に1世紀近く、クラシック音楽の巨匠(作曲家)が現れていない理由を探ります。

世界戦争と冷戦によって、音楽は極度に政治化されました。ナチスはユダヤ人や新鋭の音楽を退廃芸術として追い出しました。ソヴィエト共産党は古典的な芸術観に囚われます。そして、ナチス亡き後西側は、ナチスやファッショに関係した音楽を全て追い出します。ヨーロッパではナチス前までの音楽は認めましたが、戦後はそういった旧態の雰囲気を残す音楽を全く認めなくなりました。前衛のブーレーズらの登場です。

ブーレーズは果たして巨匠なのでしょうか?レポンは優れた音楽なのでしょうか?彼らは昔の巨匠のように大衆に認められなくとも、学者として生きていけました。生活に困らない音楽家の登場です。そういう人が戦後、学者や批評家を率いて次々と旧態の音楽を批判していきます。そうなればもう、誰も育ちません。

ショスタコーヴィチに対するソヴィエト共産党の仕打ちは有名ですが、実は西側も同じことをさらに狡猾にやっていたのではないか?という疑念を抱かせる内容です。そして、それが多分現今、いわゆる巨匠がいない理由かと思います。

最近ドイツグラモフォンなどが変わったアルバムを制作していますが、何故なのか?その理由がここに書かれていると思います。新しい動きは始まっているように感じました。>

 

もうすでに1世紀、大衆を代表するような作曲家が生まれていないんです。こんなことが今まであったでしょうか?いくらなんでも長すぎるのでは?こうした現象の原因が、実は人材の枯渇によっていたのではなく、人為的な行いによって生まれた空白、であった可能性が指摘されています(洗脳の一種であった可能性があります)。

 

演奏家にしてみても、同時代の音楽がないことが、どれほど彼らの能力を生かし切れていないか、という疑問を持ってもおかしくありません。ベートーヴェンの演奏については、指揮者たちは未来永劫、フルトヴェングラーやトスカニーニと比べられるでしょう。

 

しかし、例えば、旧ソヴィエトの指揮者たち、ムラヴィンスキーやコンドラシンなどは、同時代にショスタコーヴィッチという天才作曲家がいたことの強み、これは紛れもないように思えます。彼らはどうしようもなく、自分たちが表現しなければならない心の声と、それを表現した作品を持っていました。

 

ところが、第2次世界大戦以降、西側諸国の私たちには同時代の肉声を伝える作曲家が全くいなくなってしまいました。

 

マウチェリはこの方向性に対して、新しく「クラシック音楽」というものを再考すべく各種の提案を行っています。その1つが映画音楽によるコンサートです(ここには大量のストックがあります)。ハンス・ジマーなども独自にコンサートを開催しています。

 

世界大戦によって、大量の音楽家の移動が起こり、ヨーロッパで高度な教育を受けた多くの音楽家が米国に渡り、クラシック音楽の語法をハリウッド式の映画音楽の中に落とし込んでいきました(ワーグナー風ランゲージが生き残った道)。他方、ヨーロッパは歴史の連続性を認めづらい状況となり、歴史そのものを失っていきます(過去のヨーロッパの歴史は悪と思わせられた、日本と同様です)。

 

従来から映画音楽はクラシック音楽よりも、下に見られる傾向があり、マウチェリ自身、自分が開催する映画音楽のコンサートに対して、クラシック音楽の指揮者から心無い言葉を受けたことを告白しています。

 

<しかしながら、ロサンゼルスで育った指揮者たちの場合、映画音楽で働いたことのある指揮者(アンドレ・プレヴィン)、自分の家庭がスタジオ・オーケストラで演奏していた指揮者(レナード・スラットキン)、さらに、ズービン・メータやローレンス・フォスター、マイケル・ティルソン・トーマスなどを見ても、自分の育った音楽を擁護しようという者はほとんど見当たらない(プレヴィンの場合、コルンゴルトだけは例外なようだが、4つのアカデミー賞を手にハリウッドを後にしたのち、映画音楽とかかわる気がなかったのは明らかだ)。1990年代にロサンゼルスで出た記事には、映画音楽を復元し演奏しようとする私の仕事について、「キャリアを棒に振る行為」と書かれていた。

 

古典名作音楽の音楽監督だったネーメ・ヤルヴィから、「今度戻ってきたら、次は本当の音楽を指揮しなくちゃね」と言われた。私がニューヨーク・フィルにデビューしたすぐあと、ニューヨークのレストランで出会った音楽監督のクルト・マズアはしばし考えてから「えーと、君は映画音楽の指揮者だったな」と声をかけてきた。>

 

当然映画音楽が、どの程度のものかはまだこれから議論があると思います。オペラやバレエの伴奏は映画音楽にも近いですが(「標題音楽」であるという事実)、しかしこれらの音楽は映画音楽に比べれば、より「音楽寄り」かもしれません。

 

映画音楽は「音楽」が主体になることがほとんどないからです。つまりかなりの程度まで、「映像」側に、あるいは「物語」側に、依存しているように思えます。

 

オペラやバレエ音楽が「音楽寄り」ということは、映画音楽に比べれば、「絶対音楽」に近いともいえるかもしれません。

 

となってくると「絶対音楽」とは何か?、という再定義が必要になってくると思わせます。また何を「クラシック音楽」と呼ぶのか?という、難しい定義付けの問題が出てきます。

 

何でも他業種の音楽を「クラシック音楽」と認めてよいのかは疑問でしょう。やはり音楽に「啓蒙的」、「教示的」要素はどうしても必要になってくる気がします。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、音楽上の啓蒙があったということは論を待たないでしょう。

 

映画音楽だけではなく、ゲーム音楽なども最近は流行しており、日本ではドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどの音楽の、オーケストラ版による演奏会も、定期的に行われており、お客を集めています。ゲーム音楽の特異性もマウチェリは指摘しています。これらは、少なくとも「現代音楽」よりも人気があり、これらのオーケストラ作品は、はたして「クラシック音楽」なのかどうかという疑問が提出されます。

 

物事がすぐに、ショスタコーヴィチとムラヴィンスキーとの関係、のような、いかにも「クラシック音楽」的な感じになるとも思えませんが、最近のドイツ・グラモフォンの活動などから見ても、新しい「クラシック音楽」の道を切り開こうとする努力を見て取ることができます。

 

その中で日本の久石譲の作品が取り上げられたことは、非常に面白いと思います。元来、彼は音楽的にミニマリストですが、映画音楽を書くことによって、大変に感動的なものを作り上げることに成功したと思えます。

 

このアルバムは、米国のビルボードでも1位を獲得しており、これは確かに宮崎アニメの認知度のせいもあるのかもしれませんが、この売れ行きも異例でしょう。

 

これらの音楽を聴くには1度原作映画を観たほうが良いに決まっていますが、それでも確かな感動がこのアルバムにはあると思います。従来のヨーロッパ風の「クラシック音楽」とは違う何かですが、感動の質は決して低くないと思います。

 

[Highlight Medley] 히사이시 조 - 지브리 애니메이션 음악 │ Hisaishi Joe - A Symphonic Celebration (youtube.com)