ヒマジンノ国 -10ページ目

 ヒマジンノ国

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今日はサントリー・ホールでジョナサン・ノットによる、東京都交響楽団の演奏を鑑賞してきました。曲目は武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」、アルバン・ベルクのアリア「ぶどう酒」、そしてメインがグスタフ・マーラーの「大地の歌」です。

 

前半の武満とベルグだと、ベルクの方が聴きやすく、マーラーと時代、国も近いので、親和性があると思いました。独特の退廃性を感じます。武満は、まあ、どうでしょう?こういう音楽は自分には合いませんね。マーラーとかブルックナーをやると、前座に現代音楽を入れたりすることが多いです。コンサート・プログラムの穴埋めになるんでしょうが、無理に聴きたい曲でもありません。しかし、思ったより褒めている人もいますね。

 

とはいえ、今回はやはり「大地の歌」を聴きに来た人が多いのではないかと思います。これは大変な名演でした。

 

ジョナサン・ノットの作る、音質はクリアで精緻ですが、独特の弾力を感じさせます。またノットは曲想の意味をちゃんと追うので、しっかりと音楽における前後のつながりがあります。聴き手も同様に音楽の意味を追いますから、緊張感が途切れません。今回は一瞬も飽きずに聴いていられました。

 

歌手の2人も見事でした。テノールのベンヤミン・ブルースの方が声に輝きがあり、声量も大きく、良く抜けました。特に第5楽章「春に酔った者たち」など、オーケストラの明るい迫力と相まって、エネルギーの塊のような響きとなりました。

 

メゾ・ソプラノのドロティア・ラングは出始めこそ、やや地味でしたが、第6楽章の「告別」では存在感を発揮します。

 

ただそれは多分、ノットのせいでもあるんだと思います。綿密に音楽の意味を拾いつつ、つなげて来たフィナーレ。諸行無常の鐘の音と相まって、厭世と慰めに満ちた音楽が展開されます。「大地の歌」は全編に中国の古代詩人の「詩」を元にした「歌」が付きますが、フィナーレの中間部では「歌手」が一旦退き、曲の持つ厭世的な雰囲気を、オーケストラだけで切々と訴えていく部分があります。

 

ノットの作り出す音楽は、この時点で非常に切実な雰囲気を醸しだしていました。この世のわびしさとか寂しさとか、胸に迫るような演奏でした。そして最後にもう1度、ドロティア・ラングが戻ってきて、この世に対し、惜別の念を歌い上げますが、その切実な雰囲気の中、彼女の姿と歌いぶりは非常に感動的でした。神々しささえ感じました。

 

中々こんな風には聴けないな、と感じた瞬間です。

 

 

 

自分は非常な名演だったと思いますね。ちゃんとマーラーを聴いた、という気持ちが強く、とても満足できました。


カーテンコールで聴衆の熱狂を見て、ラングの表情がみるみる自信に満ちたものになっていくのが、非常に印象的でした。その後も心から喜びを伝えるように、胸に手を当てて頭を下げていました。ああいうのは演奏者と、聴き手が一体になる瞬間で、素晴らしいな、て思います。

 

↑、深谷駅は煉瓦が名産だったということで、駅舎が煉瓦作りになっていました。

 

埼玉県の深谷駅周辺で、5月3日から3泊ほどしてきました。3、4、5日と非常に天気も良く、久しぶりにちゃんと旅行した気になりました。3日は移動と、深谷駅、熊谷駅周辺を散策、4日は栃木の足利まで足を延ばし、5日は今年7月から新1万円札の肖像画になる、渋沢栄一の生家を訪ねます。

 

 

栃木県の足利市は、足利氏の発祥の地で、その関係のお寺などを回りました。

 
 
日本最古の学校という、足利学校なども見て回りました。

 

 

↑、足利学校。

 

この日の午前中は足利フラワーパークにいたんですが、中国人の多いこと。正直、勘弁してほしいです。入場料も高くて、なんか妙な気分です。それに比べると、足利市内は日本人ばかりで、非常に落ち着いていました。

 

足利市とか観光地としてあんまり有名ではないんでしょう。大変な田舎でしたが、古い町並みの残っている地域があって、かなり美しかったと思います。ゴールデンウィーク、どこも人がごった返す中、うるさくなくて良かったです。

 

 

↑、フラワーパーク内。藤が少し見ごろすぎですが、沢山咲いていて綺麗でした。しかし、無理やり観光客を詰め込んでいる感ありありで、身動きが取れないところ多数でした。

 

 

↑、藤は良かったです。

 

 

翌日の、子供の日の午前中は、渋沢栄一の生家などがある、論語の里を訪ねました。渋沢栄一は江戸末期から、明治時代にかけて実業家として、500以上の企業の設立にかかわったそうです。世界遺産になっている富岡製糸場、他にも王子製紙、りそな銀行などの設立(第一国立銀行)などに関わったそうです。そのため、近代日本経済の父とか呼ばれているそうです。今年から発行される、新紙幣の1万円札の肖像画になっています。

 

ちなみに自分は大河ドラマは観ていません。

 

 

↑、渋沢栄一の生家。論語の里という、緑豊かな場所に立っていました。

 

 

↑、論語の里。

 

午後は難攻不落といわれた、忍城跡地に。秀吉の命令で、三成に水攻めにされたお城です。

 

 

↑、鉄筋で復刻された忍城です。

 

多くの資料が飾ってあって面白かったです。他にも行きたいところがありましたが、ここ3日歩き続けて、寝不足プラス、疲れがピークで諦めました。

 

しかし今回の旅行、良く晴れて、緑の多い場所を旅できて非常に良かったです。

 

真田広之の主演する、ハリウッドの大型時代劇「SHŌGUN」全10話を観終わりました。

 

原作はジェームス・グラベルのベストセラー小説で、過去にも映像化されたことがあるそうです。自分は両方とも知りません。今回このドラマが初見になります。

 

ディズニープラスの配信なので、日本では中々観ている方がいませんが、米国では大ヒットしたそうです。自分は初め、あまり期待していなかったのですが、面白く観終わることができました。

 

何でも主演の真田広之氏がプロデューサーも務めているそうで、旧来の外国映画の描く、「トンデモ日本観」を払拭したいという意図があるそうです。それができなければ、プロディースはしない方針だったそうです。日本から所作などの専門家を呼び、演技に取り入れるなど真田氏の力の入った作品です。ハリウッドに進出した、真田氏の総決算といえる作品ではないでしょうか?

 

真田広之氏はかねてから、ハリウッドの作る時代劇などに口出しをしていたそうで、現地ではうるさい人ともとられていたという話も出ています。そんな彼が、遂に自分のやりたいようなものを、米国で作る機会が訪れました。役者は日本人で固め、セリフも日本語で喋らせています。英語圏の人たちは字幕で日本語のシーンを観ることになります。

 

そのせいもあってか、確かに時代劇として、我々日本人が観ていてもそれほど違和感がない作品に仕上がっていると思います。

 

また真田氏は他の番組でも、日本の時代劇が頭打ちになっている理由を述べており、その改善も図ったように思われます。明言はしていませんでしたが、日本国内のいわゆる「チャンバラ時代劇」に対する批判なのかと思います。「水戸黄門」やら「暴れん坊将軍」などの、予定調和で、リアリティの低い作品では、世界では理解されないということでしょう。世界的に有名な黒澤明監督の「七人の侍」などは、まるで記録映像を観ているようなリアリティがありましたが、そういうものでないと世界では通用しないということがいいたいようにも見えました。

 

 

↑、虎永を演じる真田広之氏。役だけでなく、他の役者の演技指導などもしていたそうで、中々できることではないと思います。正直、たった1人、ハリウッドでここまで日本文化の本来の価値を示そうとして、20年以上努力を続けてきた、彼の姿には頭が下がります。

 

この作品は、西暦1600年の日本が舞台です。そう聞くと我々日本人は、やはり関ヶ原の合戦などを思い出します。しかし登場する人物は「虎永」という武将だったり、「石堂」という聞いたことのない人物ばかりです。しかし良く観ていると、大阪城で、大公が死に、虎永を含む5大老が国政を決めていくという話になっています。朝鮮出兵の話などもしているので、どうもこの作品は史実を基に、脚色された日本史の話だということがうっすらと分かりました。

 

要は「虎永」が「徳川家康」であり、「石堂」が「石田三成」、「落葉の方」が「淀君」で、「戸田鞠子」が「細川ガラシャ」であるということが観ているうちに分かってきました。豊臣秀吉の死が、徳川家康と石田三成の戦いになって行く過程が、ベースになっているようです。

 

 

↑、戸田鞠子を演じるアンナ・サワイ。モデルが細川ガラシャで、特に印象的なキャラクターだったと思います。他にも藪重を演じる浅野忠信の演技も面白かったです。

 

そしてこの歴史の成り行きを、「ジョン・ブラックソーン」という英国人の視点を加えて描かれています。これは「ウィリアム・アダムス」という実在の人物で、日本では三浦按針(みうらあんじん)といい、外国人初の侍だったそうです。この作品内でも「按針」と呼ばれています。彼の視点が、英語圏の人々にとって理解の手助けになるという構図です。

 

とはいえ、物語自体の作りは米国のドラマのスタイルで、日本人にはなじみにくい感じもあるのかもしれません。シークエンスは、主要な見せ場ごとにつながれており、少し説明不足のようにも見えます。物語が連続的に展開するので、おかしいと感じる暇もそんなにありませんが、個人的には切腹などのシーンも、若干唐突に感じる時もありました。

 

そのために、日本文化を幾分カリカチュアして表現しているように見える瞬間も多々あり、この辺は議論を呼ぶところだと思います。しかし10話で終わる物語なので、あんまり丁寧に書くのも難しいともいえるのではないでしょうか。ただ細かいところまで観ていると、前後で何かしら伏線のようなことが描かれているのも確かで、それを自分でつなぎ合わせれば、全体像はつかめる部分もあると思います。こういう作り方は日本のドラマではやらないなあ、という感じがしますね。

 

物語はエピソード8・9ぐらいがクライマックスで、ユーチューブで視聴配信をしている外国人も、物語の展開に心底驚いているのが、印象的でした。ドラマの展開のさせ方は米国式だと思うんですが、それでもやはり物語の内容そのものは、英語圏の人たちが考えるものとは、根本的に違うのだと思います。

 

記憶が少し曖昧なんですが、日本のアニメ、機動戦士ガンダムが外国で放映された時、味方の仲間たちが次々と死んでいくのが、諸外国の人々にとって、驚きだったといいます。それと全く同じではないですが、似たような雰囲気がこの「SHŌGUN」にもあるのかな、という感じがしました。

 

こういう生死感は日本人独特なのではないでしょうか?自分は観ていて展開にそれほど驚きはしなかったので、やはり英語圏の人たちとは、認識が違うんだと感じました。「死ぬ」ことによって、「責任を取る」あるいは「抗議する」という行為は、第2次世界大戦ごろの日本にはまだ残っていたように思います。今日でも、それが日本の文化の一部であるという考えがあるのは、確かだと思いますが、他方でそれは人間の命を粗末にしかねない行為でもあります。

 

そういう部分に嫌悪感を感じる視聴者もいるようです。日本はかつて人命を消耗品としてとらえていたこともあり、その反省から戦後の日本は「人命優先」という方向に進んだのかと思います。

 

観ていると色々考えさせられる作品です。日本人と英語圏の人々では捉え方がかなり違うと思います。特に日本史の知識のない人々から見ると、全くまっさらな物語であり、真新しい作品に見えると思います。しかし日本人から見ると、鏡に映された我々の姿を見る如く、何かしら客観的な気分になる人も多いかと思います。

 

だから「SHŌGUN」を観ていると、ちょっと不思議な気分にはなりました。日本人として同調する部分と、過ぎ去った時代の残酷さについていけない部分とが共存しており、複雑な気分です。

 

しかし日本人は1度観たほうが良いドラマじゃないかな、という気はしますね。

 

作品としては充分面白いと思います。特に戸田鞠子を演じる、アンナ・サワイ、そして戸田広松を演じる西岡徳馬氏は一世一代の名演技だったと思います。

 

 

↑、戸田広松を演じる西岡徳馬氏。これ以上の檜舞台もないと思えるような環境での、名演技だったのではないでしょうか?

 

全10話でグラベルの小説部分は終了しているそうで、第2シーズンを作るかは未定だといわれています。結局、程度の高い原作を元にしないと、第2シーズンは作れないだろうということで、「SHŌGUN」はこれで終了だという意見が多い気がしています。

 

今日は、サントリーホールで、下野竜也指揮、日フィルで、シューベルトとブルックナーの交響曲3番を鑑賞してきました。ブルックナーの3番は第2稿で、初めて聴きます。エーザー版と似たようなものかと考えていたんですが、かなり違っていたように思います。

 

下野さんはブルックナーを良く演奏しているそうで、自分は今年2回目になります。前回はブルックナーの1番でした。前回は結構良かったんですけど、今回はそれほど感動はしませんでした。

 

ブルックナーについては、多分この3番の方が下野さんの本質を表した演奏なのかと感じました。急がない指揮で、丁寧で爽やかな響きでした。これはこれでそんなに悪くないのかもしれません。響きで聴かせるスタンスなんですね。一応正攻法の演奏を目指しているようにも聴こえます。

 

しかし、自分にはもう1つ何か足りない気がしました。全体に弛緩している気もして、やや「ただ演奏しているだけ」、という風にも聴こえます。優等生的で、ドライな演奏でした。

 

これはあくまで個人的な意見ですが、やはりブルックナーのスペシャリストなら、曲の持つ抽象概念をちゃんと理解して、曲の意味から導き出された抑揚をもっと付けて良いと思います。ツッコミがもっと欲しいというか。

 

以前も書きましたけど、ただ正確に音にして出しているだけでいい、という演奏がコンサートに行っても多い気がします。自分はそれだけだと飽きてしまう方です。また日本人の演奏家に多いスタンスだとも感じています。

 

来日する外国の演奏家は、良くも悪くも個性が強くて面白いことが多いですね。日本の演奏家は可もなく不可もなくという感じになる印象が、あくまで個人の意見ですが、強い気がします。

 

生意気なことを書いてスイマセン、お許しください。多くの方は、今回の下野さんのブルックナーには肯定的な意見のようです。

 

自分にとってみると、前座のシューベルトの方がソリッドに良くまとまって、美しかったです。

 

蛇足ですが、今回、自分の隣に座った年配の人物が、何と楽譜を開きながら鑑賞を始めました。当然楽譜をめくるたびに、頁をめくる音がします。初めは我慢しようかと思いましたが、さすがにあり得ないと思って注意して止めさせました。

 

実は最近のコンサートは出かけると、マナーを守らない人が多くて困っています。去年のメサイアでは、中国人が聴きに来ていて、アーメン・コーラスの直前まで周りに人に聞こえるような声で、喋っていました。ブレハッチのコンサートでは、英語を喋るアジア系の人らが、子供を連れてきていて、子供が退屈して、持ってきていたペットボトルのお茶を手で回したりしています。また、ブレハッチのアンコール中には、目の前の年配の方が、自分のカバンのジッパーを音を立てて閉めたりして、演奏をマスキングします。

 

聴きに来てはいけないような人たちが聴きに来ているんですよね。本当に弱ります。今日も自分は、隣の人を注意したせいで、ブルックナーは、第1楽章後半から、第2楽章全体まで、集中力が切れて、ちゃんと聴けませんでした。

 

他にも色々あると思うんですが、聴衆のマナー問題はあると思います。何とかなりませんかね。結構つらいですよね。

 

 

3月18日、デューンのパート2を鑑賞。

 

映画版デューン |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、パート1の時の記事。偉そうなことを書いてますが、原作は20年以上前に読んだきりで、かなり忘れています(^-^;。他に、手前勝手な政治的意見は、ご愛嬌ということでお許しください。

 

パート1は、94回のアカデミー賞で6部門受賞したとかで、好評だったようです。おかげで続編の製作が決定。パート1、パート2で、一応原作の第1部の完結に至りました(多分)。

 

D・リンチ版、ドラマ版、ホドロフスキー版ときて、4度目の正直というところで、やっと決定版の登場となったと思います。

 

このドラマの映像化が難しいのは、スケールの大きさと同時に、特殊な世界観の創出、単調なドラマの劇的演出などだと思います。CG技術によって、スケールの大きさをクリア、デザインも現代的な雰囲気を合わせつつ、原作のイメージを美しく再現しており、個人的に、一部気になったりするものもあったんですが、多くの人が満足できるものだったと思います。

 

後はドラマです。純粋に娯楽映画としてみると、物語の展開自体、独自の世界観の演出が多いだけで、劇的効果自体は弱く、単調にみえます。この難しい問題に対し、監督は、長回しの美しい陶酔的な映像と、没入感の多い音楽の効果で対応。

 

以前書きましたけど、デューンはやはり「準世界(パラレルワールド)」の創出があってこそ、成り立つものがあると思います。小説を読んでいても、1ページごとに、アラキスの砂漠の熱風が差し込んでくるごとき感触があり、読み手には、その場にいるような没入感があったわけです。

 

こういう部分を映画という別ジャンルを用いて、成功させたと思います。最近の音響効果の優れた映画館で観ると、大変な臨場感があります。ハンス・ジマーの音楽の素晴らしさは、まさに映画にしか使えないような音楽ですが、出色です。2時間40分の間、しばし鑑賞者は宇宙の彼方の砂の惑星の、大気を吸っている気になれます。

 

この作品を映画で初めて触れたという人の多くは、多分その単調なドラマ性だけを追って、面白くない、とか、無駄に長いと感じるのが普通でしょう。欧米の芸術に多くあることですが、原作を知っていないと意味が分からない(音楽における交響詩など)というものが、普通に存在しているのが事実で、今回映画を観た限り、このデューンのその部類に入るかなと感じました。この辺の事実は、我々東洋人には悲劇ですね(^-^;。

 

相性が良ければ原作を知らなくても、理解できると思います。しかしそれでも、物語が古い、とか、物語の投げかける意味が分からないとか、感じるのはありうる話だと思います。

 

自分としてはシェークスピアと同じなんですよね。この映画の原作は「古典」なんです。

 

ポールが皇帝ムアドディブになって、人類の先行きの危機を悟り、やがてその危機の解決を、レトとガニマに委ねるとき、その解決法は今の時代にはそぐわないと思います。しかし、時代にそぐわないといっても、この小説が与えた各界への影響力を考えると、その価値はもう中々否定できないでしょう。

 

この作品は既に、欧米の文学作品の歴史の、1部になっているのだということです。

 

「古典」を理想的な映像として見せるという、映画の持っている1つの使命、そういうことをやりたい人は大勢いるのだと思います。「デューン」はその中でも、最も難易度の高いものの1つではなったのではないでしょうか?だから成功させた監督は名前が残りますね。

 

「指輪物語」も「デューン」も、映像化に半世紀かそれ以上かかった、ということになると思います。オペラだったら、作曲家と台本作家という関係で、同時代に生きていますが、映画は作家と映画監督が別の時代に生きて創作するというのが、興味深いです。そう考えると、この手の作品はまさに時代を股にかけた、大作です。

 

個人的にはかなりレベルの高い映画だと思います。

 

 

原作で描かれている、ハーバート自身の考えによる、紛争の解決法などは好きにはなりませんが、1960年代におけるその試みと、ドラッグ・カルチャーとエコロジーを合成した特殊な雰囲気の怪しさなどは、映像でも伝わってくるものがあるんじゃないでしょうか。

 

前作でフレーメンの描き方なども、ちょっとポリコレの感じなどがあるのかと思っていたのですが、今回は全く気になりませんでした。やはりフレーメンの習慣などがちゃんと描かれることによって、鑑賞者は、アラキスに滞在する没入感を得られるのだと思います。

 

映画なので、ラストの戦闘シーンは引き延ばすかと思っていたのですが、比較的小説の通りであっさりと終わりました。逆に闘技場のシーンなどが引き延ばされて描かれています。闘技場の場面はこんな場面あったかな?と思って観ていました。他にも原作にない部分や、削られた部分もあるそうです。自分には全部は分かりません。

 

また、続編があるような終わり方で、どういう感じで続編を作るのか、不明な感じの終わり方でした。

 

小説における、「砂漠の救世主」につながる結末なのか、あるいは、小説にない、ポールと大領連合のとの争いを描くのかは、分かりませんね。

 

今日も池袋のマチネに行ってきました。

 

実演を聴きに行くと、大体初物が多いですが、今回は女性指揮者を初めて聴きました。最近は、世界的に、女性指揮者が増えてきたようです。20世紀だと考えられなかった光景です。自分は録音でも、女性の指揮者の演奏は聴いたことがなかったので、今回が初めてになります。

 

 

ジャコはフランスの指揮者で、現在、欧州で注目されているという解説を読みました。今回は、読売交響楽団との演奏で、演目はブラームスの交響曲4番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番。ピアニストはアレクサンドル・メルニコフ。

 

メルニコフの実演を聴くのは2度目になります。ピアノを弾く子供がそのままおじさんになったような、飾り気のない風体で入場。ナイーヴな感じと同時に、ざっくばらんな弾きぶりは前回と同様。伴奏のジャコは出だしから、良くまとまっていて、滑らかな指揮ぶりで、メル二コフと対照的でした。

 

メルニコフの演奏は少しですが、ブラボーも飛んでいました。ただ、これも前回と同様、自分はそこまで感動はしませんでした。自分とはあんまり相性が良くないのかも、とか思います。ピアノの音は瑞々しく、繊細だと思います。弱音部はテンポを落として、詩情を出します。強音部も立派。

 

でも何だろうか、弾いているとちょいちょい思考が詰まるというか?(違うかな?)。少し頭の中がまとまってないのかな、と思う時があります。自分はその辺で気がそれますかね。

 

後半はジャコのブラームス4番。SNSではメルニコフを褒める声の方が多いような気がしますが、自分はジャコの方が良かったです。

 

ジャコは統率力あがり、自分のやりたいことがはっきりしていました。リズムに乗って体も良く動きます。旋律は滑らかに響くし、エレガントになる部分もありで、魅力的でした。

 

各セクションごとに音を良くそろえ、リズミカルに響かせます。複数のセクションが重なると、読響ではないような豊麗な響きが出るところも多数ありで、豊かな音楽だったと思います。

 

第1楽章後半や、第3楽章など、リズミックな部分に来ると、推進力が出て、オーケストラというより、なんだか「楽隊」みたいな感じで、音楽を交錯させました。多分彼女の中に音楽を、体感として持っているのだと思います。文学的というよりも、動的な感じで、音楽の筋を一本通していきます。特に第3楽章などカッコよかったなと思います。

 

4楽章はテンポを落としつつも、内声は充実させたまま、最後まで輝かしい音楽を作っていました。

 

ということで、欧州で人気が出てきているというのを、納得して帰路についたのでした。ジャコには、かなり満足しました。

 

 

飲料メーカーのキリンが、自社製品の氷結無糖の広告に、言論人(経済学者の肩書)の成田悠輔氏を起用して、大ブーイングに。キリンはあっという間に広告を取り下げました。高齢者の集団自決を促す発言をしていたことが、命取りになりました。元々海外で話題になっていたのが、時間がたつにつれ、本邦でも知られていたということでしょう。

 

各種の意見 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。

 

正直何で起用したかさえ良く分かりませんが、普通に危ない人だと思います。ひろ〇き氏とか、ホ〇エモンみたいな危険人物にしか自分には見えません。この辺の人らは皆、やたらヘラヘラしていて苦手です。冷笑主義だよね。自分たちは賢いと思っているみたいですが、どうなの?

 

集団自決の話が批判されたとき、彼は「メタファー」(比喩的表現だということ)だといって、いい訳をしていました。しかし本心はどうなんでしょう?何だかどちらでも取れるようないい訳をしています。

 

以下の文書ではメタファーだといったり、メタファーでないといったり。ひどいものです。

 

 

普通に狂ったことをいっていると思うんですが、こんな人間が知識人とか、きついです。個人的にはかなり嫌いです(^-^;。いっていることは2流か3流の内容で、精神年齢は高校生ぐらいな感じがしてしまいます。持ち上げちゃいけないタイプだと思うんですが、マスコミがやたら持ち上げるんですね。

 

良く分からないうちに、急に世の中に出てきた人ですね。普通に考えれば、どっかから何らかの指示でも出ていないと、こうはいかないはずです。

 

他には、学歴も詐称しているのではないかという嫌疑も、かけられています。

 

 

この成田氏を擁護していたのが、友人の箕輪氏です。彼も結構ひどいですね。成田氏同様、笑えない感じです。

 

 

この後箕輪氏はツイッター上では、世間に謝罪しましたが、過去にはこんなことも書いています。

 

 

全然面白くありませんよね。自分たちの狭い世界でしか通用しない冗談です。冗談かも怪しいですが。そういうことを感じとれない人たちだと、見えてしまいますね。自分たちはカッコいいとさえ思っていそうですが・・・。歳いくつやねん。

 

箕輪氏が「キャンセル・カルチャー」について触れていますが、結局キャンセル・カルチャーがいけない、という認識も違うと思います。

 

どうしようもないんですよ。「悪いことをすれば、ばれる」、というだけのことでね。

 

昔は何か1個優れた能力を持っていれば、他のことは大目に見ていた時代もありました。政治家であれば、政治的手腕さえあれば、多少お金に汚くても・・・みたいな話とか。最近では、お笑い芸人であれば、とにかく面白ければ、多少プライベートの問題があっても大目に見るとか・・・。

 

しかし、もうそういう時代ではないんですね。彼らは時代に乗り遅れているんですね。

 

自分たちが何をいっているか、よく考えてほしいと思いますね。

最近の演奏家は皆真面目ですね。

 

先日のブレハッチのコンサートを聴いて、そう感じました。1音ずつ微妙なニュアンスを付けているのを聴くと、これは推測ですが、相当に全体の解釈を固めてから演奏しにきているな、と感じました。あれぐらい詩情が出るということは、当然即興の要素もあるとは思うんです。しかし、演奏が全く崩れないし、どの部分も良く聴こえてきます。かなり確信がないと、ああいう表現はできないんじゃないかと、勝手に思っています。

 

以下はあくまで個人的な意見ということで、ご了承ください。

 

 

ちゃんと全体が聴こえてくるというのは、最近の教育とか、コンクールのせいなんでしょうか。コンクールを出ていない、H・J・リムのベートーヴェンなんかを録音で聴いていても、音が団子になって聴こえてきたりします(・・・まあ、最近は、コンクールを出ていてもバリバリ系は多いのかな(^-^;?分からないことも多いですが・・・)。リムにとっては、曲そのものが追及の対象なんですね。コンクールを出ている、ブレハッチには、聴衆が審査員みたいな感じなんでしょうか。

 

単純に個性なのかもしれませんが、ブレハッチには、弾き手側にも、どう聴かせているかという、絶妙な客観性もあるという印象を持ちました。

 

5月にヒラリー・ハーン、4月にトリフォノフが来日するんですが、これは予定があわず、断念しました。ハーンはブラームスのソナタをやるらしい。割としつこい、ハーンのヴァイオリンの音色はブラームスと相性がよさそうで、実演で聴きたかったです。トリフォノフも、あの密度の濃い情熱を、生で体験したいと思っているんですが、今年も予定が合わずです。

 

カミーユ・トマも聴きたかったんですが、これも予定は合いませんでした。ドヴォルザークをやったそうで、一般の、聴いた方の論評なんか読んでいました。前の来日時もドヴォコンでしたよね。世間の意見は、好意的半分、批判半分でしょうか。自分は聴いてないので、どんな具合かは良く分かりません。

 

トマを録音で聴くと、サン・サーンスのサムソンとデリラ(「あなたの心に声は届く」チェロ編曲版)、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」、ラヴェルの「カディッシュ」とか、お国モノが良いと思うんですね。ファジル・サイのコンチェルトもかなり面白いです。

 

どうでしょう?ドヴォルザークでは実力は計りがたい気がします。最近の聴衆も、批評がまるで、コンクールの審査員みたいな方も多いですからね。そういうのも大事だと思いますが、そういう批評では分からないことも実際は多いのではないでしょうか。ジャック・ティボーなんか、ブラームスのコンチェルトをやると、無茶苦茶だったそうですが・・・。最近の演奏家は、技術的には、そこまでではないとしても、聴き手側も「どういう部分」を評価するかで、演奏家の成長の伸びしろも違うんじゃないかと考えています。

 

技術的な間違いは指摘しやすい。しかし、そこから外れた芸術性は数値化できないので、評価されにくい。トマも、独特の優しさと爽やかさを持つ音色で、嵌まると、はかないファンタジーの雰囲気を作り出します。その辺が個人的には好きですが、まあ、どんな塩梅かは、1度実演を聴いてみないと分かりませんかね。

 

 

 

↑、カミーユ・トマのLP。レーベルスタンパーには、文字が鳥の形に配置されています。なんだろうと思っていたのですが、多分これはファジル・サイの作曲した、チェロ・コンチェルトを暗示していると思われます。「Song of Hope」(これはコロナ後の世界を表していると思います)と名付けらた、第3楽章では、何の楽器なんでしょう?細かく鳴る音がまるで小鳥のさえずりのように聴こえます。アラビア風の音楽に乗って、市場でも散策しているような、不思議な音楽です。アルバム全体の内容としては、上述のファジル・サイの新曲や、ジョン・ウィリアムズの曲を含んでいて、最近のグラモフォンらしい、チャレンジングな内容かと思います。

 

トマについては、批判派がかなり具体的な批判を行っていたのに対し、肯定派は曖昧に書ていたのはその辺に原因があると思います。曖昧にしか書きづらい、というか。

 

最初に最近の演奏家は真面目だな、と書きましたが、過当競争が激しいのが原因かなと思ったりします。演奏で食べていく人たちにしてみると、コンクールみたいな、公の評価を得られる状況はできる限りモノにしたい、とかね。毎年音楽家の卵は排出されるわけで、狭き門だと思います。コンクールはやはり技術優先だと感じますし。変な厳しさみたいなのが蔓延していないかな、と感じる時があります。完成度が高くないと、中々認められない世の中ですね。

 

ブレハッチの演奏を聴いていると、曲に対する解釈の密度の高さとか、漂ってくるポーランドのそのものの雰囲気とか、貴重な体験だったと思います。そしてこれは、ブレハッチに対する批判とかと別の話なんですが、とにかく完成度が高いとか、ミスが許されないとか、そういう雰囲気が最近のコンサートにはあるような気がしています。楽しんで聴いているかい?みたいな疑問はありますね。

 

まじめさとか真剣さは必要ですので、特段文句をいっているのとは違いますが、もうちょっと別の感じが欲しい時もあります。

 

 

33CX1701。

 

 

ホセ・イトゥルビの「ショパン・リサイタル」(1959)を聴きます。

 

これは聴いていると、とても優雅なんですね。音色もカラッとしていて、しつこくいないです。しかし不思議と深みもあると思います。

 

演奏者の肩の力が抜けていて、弾いている方も楽しんでいるのではないかと思わせます。時代のせいもありますが、最近の演奏家に、根っこから優雅さを感じさせる演奏は無理かなと感じますね。気軽さがないんですよね。

 

 

↑、ホセ・イトゥルビ(1895-1980)。ラローチャ以前の、スペインの国際的なピアニスト。日本で聴いている人はほとんどいないと思います。レコード収集している人はかろうじて知っている、というところでしょう。米国で活躍して、ハリウッドでは俳優としても活動しています(「錨を上げて」などに出演)。自分は好きなピアニストで、余裕のある、色彩感な演奏をします。アルベニスなんかが有名だと思います。ここに聴くショパンも彼の芸風にふさわしい、ワルツを含めた暗くない曲が多く、気軽に聴けて、なおかつ、うっとりさせる優雅さがあると思います。

 

こういう演奏は、今後の演奏家には、もう期待できないかな、という気はしています。

 

2005年ショパン・コンクールの勝者、ラファウ・ブレハッチのコンサートを所沢で鑑賞しました。

 

ブレハッチが良いという人は多いようですが、録音を含め、自分は1度も聴いたことがなくて、今回が初めてです。

 

前半がショパン5曲、後半がドビュッシー、モーツアルト、シマノフスキというプログラム。どれも名演だったと思います。今どきのバリバリ弾くタイプと違って、しっとりと響かせながら、曲の表情や内面を解きほぐしていくタイプです。最近では珍しく、貴重な存在かもと思いました。それでも現代風ではあるとは思いますけども。

 

個人的には技巧的にバリバリ弾いていくタイプより、こういう方が聴きやすいです。何を表現したいか、直接伝わってきます。

 

ただ、音には割と厚みがあって、決してはかない感じでもなかったです。曲にも厚みは出ていました。ポーランドの先輩、ツィメルマンに幾分かは似ていますね。

 

以下は個人的な演奏の感想です。

 

1曲目、ショパンのノクターンはぎこちなくて、ちょっと技術に難ありなのか、とか思ったりもしましたが、そんなことはなくどんどん調子を上げていきました。1曲目は、緊張してあがっていたんでしょう。前半のショパン5曲はどれも過不足ない演奏ばかりで、強音や弱音を繊細に使い分けて、色んなニュアンスを出します。まさにショパンという感じでした。調子が出てきてからは、詩情を湛えながら、安定感もあり、レベルの高さを感じました。ポロネーズ4番では悲劇的で、ロマンティックな英雄像をいかんなく発揮して、好きな演奏でした。

 

そして、さらに後半の方が調子が上がってきたと思います。

 

ドビュッシーのベルガマスク組曲は、あの詩情で悪かろうはずもなく、月の光は印象に残ります。月の光なんかは、誰が演奏しても似た感じなのかもしれませんが、ブレハッチみたいな詩情のあるピアニストの方が、より良く響くと思います。

 

モーツアルトは1番拍手が大きかった演奏です。K331なので、知っている人が多かったということがあるのかもしれません。

 

モーツアルトの演奏で多いのは、芯はあるが、珠のように、角のないピアノの音で、コロコロ転がしていくような演奏という感じでしょうか?グルダとか、ギーゼキングでモーツアルトを聴くと、弾力ある美しい音色を思い出します。ウィーン風のヘブラーなんかはもっとまろやかですが、やはり音に芯があります。

 

ブレハッチのピアノの音は聴いていると、そんな芯のある感じではなく、弾いていく流れのフレージングで表情付けされる、という感じがしました。響きだけ聴いていると、少しとらえどころのない印象でした。

 

多分そう感じるのは、自分が固定観念を持っているからだと思います。自分はこの演奏は、どういう種類のものなのだろうと、過去の演奏家の記憶などをたどって考えてしまいました。

 

やはりショパンぽいというか。時々ですが、音が転がるという感じではなく、少しばかり、ショパン張りのブリリアントな輝きがあるような気がしました。

 

ですが、この人は曲の表情をつかむのが上手く、正確なのだと思います。曲の内容重視なんですね。響きだけ聴いていると、捉えどころもない気もするんですが、曲の表現されている内容そのものにフォーカスすると、モーツアルトそのものだと伝わってきました。

 

それにやはり演奏そのものが安定しており、表現も自在だったと思います。自分の気持ちに沿って、テンポを動かしたりしました。

 

・・・とまあ、演奏を聴きながらこんなくだらないことを、グダグダ考えるのは、僕の悪い癖なのかもしれません。大分前から曲を純粋に楽しめなくなっている気はしてますが・・・。

 

聴衆の反応を見る限り、普通の名演だったようです(^-^;。

 

シマノフスキも面白かったです。前近代的で知性的な悩みというか、現代曲に比べれば全くロマンティックなんですが、感傷的になりすぎない音楽です。シマノフスキのアルバムを出している、ツィメルマンに比べるとずっと感情を表に出した演奏で、ヴィヴィッドに伝わってくるものがありました(演奏された曲はツィメルマンのアルバムにはありません)。

 

ツィメルマンも詩情があるんですが、彼はなんでもくっきりはっきり弾き切るので、完璧な音の鳴るパースペクティヴな冷たい空間に、放り出されたみたいな気分になります。

 

ブレハッチはもっと気持ち優先で、聴きやすかったですね。人間の感情として伝わってきました。

 

今回聴いてみて、個人的にブレハッチが素晴らしいと思えた瞬間は、ショパンのポロネーズ4番とか、あるいはシマノフスキの時に見せる、思いの外深い、悲劇的な感情というか。臆することなく、悲劇性を力ある表現で弾いて、堂々と進軍していく感じがあります。そこにロマンティックな感情も混じりあうので、抗しがたいものがありました。カッコいいなって思います。

 

今回は情報量が多い演奏会で、ちゃんと聴けばもっと色んな発見がありそうでした。しかし1回だけ聴くのでは全部は聴き切れないですね。全体に演奏のレベルも高く、知的な刺激があったコンサートでした。

 

スタンディング・オベーションありで、アンコールも2曲やりました。サイン会には長蛇の列ができて、盛況だったように思います。

 

指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

東アジア初のクラシック音楽界の国際的スターですね。自分はあまり聴いてきた方ではないので大きなことはいえませんが、後のアジアの音楽家たちの先鞭となったのは確かだと思います。

 

1973年から29年間ボストン響の音楽監督だったというのが、1番大きかったのではないのでしょうか。クーセヴィツキ―やミンシュが監督だった米国の名門オーケストラです。

 

2009年にウィーンの国立歌劇場の監督になった時は、本当にびっくりしました。欧州のクラシック音楽の中心の1つとなるポジションです。

 

 

↑、ボストン響の追悼です。監督として、29年は長いですね。それぐらい人気があったということだと思います。

 

 

 

↑、現ボストン響監督、アンドリス・ネルソンスの追悼。

 

 

↑、世界最高のオーケストラ、ベルリン・フィルの追悼。名誉団員という位置づけ。

 

 

↑、ウィーン・フィルの追悼。ベルリン・フィルとウィーン・フィルが演奏できるというだけでも、本来なら偉業なんですよね。

 

 

↑、プラシド・ドミンゴの追悼。写真の「ホフマン物語」の録音は名盤といわれます。自分も所有しています。

 

 

↑、英国の名門、デッカ・レコードの追悼。

 

 

↑、アンジェラ・ゲオルギューの追悼。

 

 

↑、カミーユ・トマの追悼。トマはオザワ・アカデミーに参加したことがあるとか。

 

音楽界の大物とか、有名なオーケストラや、レーベルから、惜しまれるような日本の人物は、中々いないと思います。

 

お疲れ様ででございました🙇