ヒマジンノ国 -11ページ目

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

 

興味ない方はスルーでお願いします。変わった話なんでね。

 

新しい神示が出たとかでちょっと読みました。新しい時代に生まれ変わる基準というのは、靈と交信できる人になれるかどうかという話らしい。悪靈でない方の良い靈ですけど。

 

それが基準になるだろうことは、古い神示を読んでいても、分かる話ではあります。

 

ですのでちょっと前から、そういう能力のことは、何となく考えてはいたんですが・・・個人的にはそんな能力出るかどうかなんかは、分からんなあ、という感じもしてます。自分にはそんな様子はありません(^-^;、まあ一般にはそれが普通なんでしょうね。

 

占うと、導かれているが、数年かかるとか出る。どうなんだろう?

 

そういうのがミロクの民かね。

 

もう30年以上前ですが、河合塾に通っていたことがあって、そこで変わった先生がいました。

 

ある日突然「死ぬ」みたいな感覚を味わって、全身力を張ってそれに耐えると、今度は聞いたこともないような言語が聞こえてくるようになったとか。

 

そういう話を講義の途中にする方で、今でいう「日月神示」と同じような話もしていましたね。

 

漫画家の美内すずえさんも、他存在の声を聞けるという話を、聞いたことがありますが・・・。酷い肩こりの後に聞こえるようになったとか?

 

悪い因縁と癖がなくなり、周りの人と協調して問題なく生きられる人からなるとか聞いています。

 

コンサート評は備忘録として書いていきたいと思います。

 

今日は下野竜也氏の指揮、東京都交響楽団で、ブルックナーの交響曲1番を鑑賞しました。しかもウィーン稿です。

 

コンサートが始まる前に、能登半島地震の被害者に捧げる、バッハのアリアを演奏。その後しばし、指揮者とオーケストラは、被災地に黙祷をささげました。

 

前半はモーツアルトのピアノ協奏曲24番。モーツアルトは破綻のない、常識的な解釈。ピアノは津田裕也氏で、しっとりとした表現だったように思います。

 

ブルックナーの交響曲1番、ウィーン稿は、いわゆる初期のリンツ稿を後期様式に沿って改訂したものです。8番(1890年稿)の後に改定したもので、人によっては初期稿に厚化粧を施したもの、という意見もあります。元来ウィーン稿が初めの発売だったといわれているようですが、1935年にリンツ稿をハースが発表し、今日ウィーン稿を演奏する人はほとんどいなくなりました。有名どころでは、クラウディオ・アバドかG・ヴァントでしょうか。

 

ヴァントは基本的にブルックナーが、最終的に手を入れたものを決定稿にすべきという立場です。個人的にもこれが良いとは思いますが、ウィーン稿をやる人は少なくなっています。両者、全体的に曲想は同じですが、改訂稿の方が構造的な安定さを増しており、特に4楽章のコーダはリンツ稿のように、メインの旋律が息長く吠えるよりは、立体的で俯瞰的な構造に変化しています。

 

今日の、都響の演奏は良かったと思います。どの楽器も良く鳴り、ブラスも良く揃っていました。充実感がありました。自分はこれぐらいやってくれれば満足です。

 

どの楽章もムラのない出来で、楽しかったです。

 

今回改めて思ったのは、ブルックナーのスケルツォは、かなりの迫力がいるんだということを実感しました。2年前インバルで4番・初稿を聴いたときも、スケルツオからフィナーレの導入部の勢いというものが、曲の魅力につながっていると感じましたが、今回もそうでした。

 

迫力あるスケルツオが終わり、火の玉が飛んでくるような4楽章の初めの主題が始まるとワクワクします。

 

4楽章も良い出来でしたが、個人的な要求をいえば、コーダはもっと粘って欲しかったです。まあ、やってくれる人はほとんどいないでしょうけど。

 

昔、評論家の宇野功芳氏が、朝比奈の演奏したブルックナー3番をべた褒めしてましたけど、その理由が、初期の曲を、後期のようなゆっくりしたテンポで演奏したからでした。

 

実はこの4楽章のコーダには、その朝比奈の演奏と同じようなことがいえて、初期の交響曲として流してしまうのではなく、粘って壮大にやると、この作曲家の意図した、後期への改訂への意味がはっきりします。

 

今回はまあまあ粘ったような気もしましたが、でもやっぱりちょっとコーダは取ってつけたような感じには思えました。粘りが足りないんじゃないかね?

 

シャイ―の録音がそこはうまくやっているんですね。評論家の金子建志さんがそのシャイーのライナーノートで熱っぽく語ってますけど。

 

まあ、しかし今回これだけのものが聴ければ正直かなり満足でした。文句をいうべきでもないかなと思います。

 

色々いいましたが、結局4楽章のコーダも大変な迫力があって、オーケストラ全員が、体がひっくり返るぐらい必死に弾いているのが、良く分かりました。それだけでも落涙ものですけどね。

 

年始から「おめでとう」といって良いのか、分からないような事件ばかりです。

 

国内では、1日の能登沖の地震の後、2日は羽田空港で航空機の事故、3日は北九州での火災と、秋葉原での刺傷事がありました。海外でも1日はニューヨークで謎の爆発音があり、2日は韓国で野党の代表が、映像で撮られている前で、首を刺されて病院に搬送されています。

 

さらに3日には米国でジェフリー・エプスタインのロリータ・エクスプレスの名簿が公表され始め、大騒ぎに。これで先ずは米国元大統領、ビル・クリントン氏が関与していた可能性が非常に高まりました。

 

 

以前も書きましたが、かつて、エプスタイン島と呼ばれる島には世界中からさらってきた幼児たちがおり、彼らを凌辱し、挙句の果ては、殺し、食べてしまうという、猟奇的な犯罪が行われてきたといわれてきました。白人セレブ達の成れの果てです。

 

さらに問題なのは、この事件に関与していた人たちで、政財界の大物、ハリウッドの有名スターたちであったという話です。

 

ハリウッドスターで、関与が問われている人たちも相当に多く、アンジェリーナ・ジョリーなどは米国脱出を図っているなどという報道もあります。名簿には日本人の名前もあり、今後さらに公開が進むことによって、世界中が大騒ぎになる可能性があります。日本では相変わらず報道しませんけどね。この辺の情報は知っておかないと、どんどん取り残されるだけですね。

 

日本で起きた能登地震や航空機事故も、色々疑念がささやかれているようです。真偽は中々分かりませんが、詳細に見ると怪しい部分があるようには見えます(何らかの人為的な介入があった?)。

 

1日の地震の時、自分はX(旧ツイッター)を見ていましたが、リアルタイムで、生き埋めになっているから、助けてほしいとか、自分の家族が建物の下敷きになっているので、助けてほしい、というつぶやきが流れてきます。

 

拡散するぐらいしかやることがないのですが、これは本当に心痛でした。

 

その後、自分は助かったとか、あるいは、家族はダメだったという話も流れてきましたが、やり切れません。被害者の無事をお祈りするばかりですm(_ _)m。

 

波乱の幕開けの24年度です。この先どうなるのか?というところです。

 

さて、個人的には、今年こそはブログの回数を減らし、必要な時だけ書くという感じに戻したいと考えています。

 

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

年の暮れになって、政治家、特に清和会の問題が出てきました。日本の政治は明治維新以降、薩長の政治家たちと米国や、そこに含まれる国際金融資本に支配されてきました。

 

今回はその中でも、統一教会を含む安倍派などの崩壊が始まっているようです。これは日本を動かしてきた非常に力ある権力基盤の1つでした。多分それを行っているのが、米国のシンクタンク、CSIS寄りの政治家たちであるということでしょう。

 

次期総理候補として、河野太郎氏、小泉進次郎氏、石破茂氏などが挙がっていると、マスコミが散々宣伝するようになってきています。彼らはこの米国のシンクタンクの息がかかっている、ということなのだと思います。

 

 

彼らが政権をとっても我々には良いことなどありませんが、見方によれば、今までの権力組織の内紛とも見ることができ、このような権力基盤の崩壊が始まっているとも見えます。

 

 

↑、今後数年かけてこの手の権力機構が崩壊してくのかもしれません(CSISのメンバーもダメになって行くんじゃないかと考えています)。

 

多くの人々が、明治維新以来の日本が真の日本の姿だと考えているのかもしれませんが、どうなんでしょうか?神示には「王統を消す」とも書かれています。今まで信じていたものが崩壊するとき、人々は何を信じるのでしょうか?本当の意味で、「自分を信じる」ことができるのでしょうか?

 

芸能界の闇なんかもかなり出てきていますね。

 

あくまで私見ですが、嘘が通じない世の中に変わりつつあるということだと思います。「思う」、「言う」、「行う」、という3つを一致させよ、といいますよね。これができない人、していない人はどんどん「嘘」がばれていくという話です。

 

あんまり理解されないでしょうけど、神示の述べているような、「神の法(神則)」といえばいいのですかね、これが表に現れてきた、とうことでしょうか。加速度を増しているようにも見えます。

 

それぞれ、自分の言動には気をつけていかなければいけない、ということだと思います。

 

今年はこれでブログを終えます。今年も読んでいただきありがとうございました。年始のブログはしばらく休もうかと考えています。

 

昨日はサントリーホールで、BCJのメサイアを鑑賞。2001年から続く、クリスマスの定例コンサートですが、自分は初めて鑑賞しました。自分は3ヶ月先の仕事の予定が立たないので、中々チケットが取れなかったのですが、今年は日曜でやっと鑑賞できました。

 

指揮の鈴木雅明氏が体調不良で、息子の優人氏の演奏でした。

 

古楽器の演奏で、合唱も20人の規模です。古楽器の演奏を嫌う人もいますが、自分はバロックに関しては古楽器の演奏は好きです。この日も味の濃い楽器の音色と、少人数の研ぎ澄まされた響きが美しかったです。

 

古楽器の演奏は音の角が立ちやすいですが、今回はそんなことがなく、角のない、比較的柔らかい音色で通しました。ハレルヤや、アーメンコーラスも、清澄でうるさすぎない、品の良い演奏でした。やはり合唱が美しい曲なんですね。健康的で爽やか、なおかつ滑らかなヘンデル特有の感情が素晴らしいです。

 

バロック音楽のシャイトのアンコールで、自分の知らない曲もやりました。ア・カペラの美しい曲でした。メサイアとアンコール含め、全体で3時間の長丁場でした。

 

幸福感を感じられるコンサートで良かったと思います。

 

今年はこれでコンサート通いは終わりです。今年も8回通ったみたいです。何万円もする、有名海外オーケストラは、自分の仕事の予定では買うのが怖く、1回も行きませんでした。自分が行ったのはほとんどが1万円以下の、安いものばかりで、大体が駆け出しの演奏家ばかりでした。

 

E・グランディ、カーチェン・ウォン、アクセルロッドなど皆良かったです。コンサートは一期一会なので、録音で楽しむような、自分好みの名演を聴くというわけにはいきません。

 

基本はその日それなりに楽しめれば良いと思って、通っています。

 

1番印象に残っているのは、オペラパレスの「サロメ」です。毎回通っている人にはいつも同じ演出で飽きているらしいですが、自分は初めてだったので、楽しめました。苦手だった、R・シュトラウスの音楽だったのですが、初めて理解した気になりました。

 

後はブルックナーが2回。ミンコフスキとヴェンツァーゴの指揮でした。両方ともかなり印象に残っています。面白い演奏で良かったと思います。ただ、ブルックナーは変化球でなく、正調なのを、できれば1度で良いから、聴いてみたいと気づかされた演奏でもありました。

 

ブログにも書きませんでしたが、3月の都響の大野和士の「海」も聴いたんですが、全く印象に残らなくて、申し訳ないですが、このコンサート以外、どれも楽しかったですね。

 

 

1週間程度だけ?劇場でやるというので、鑑賞してきました。米国の名指揮者、レナード・バーンスタインの生涯を振り返る作品で「マエストロ、その愛と音楽と」というタイトルです。

 

やっている映画館が少ないんですね。加えて上映回数も少ないです。自分は吉祥寺のミニシアターで鑑賞。1日1回だけの上映です。興味がある人が少ないんでしょうけど。映画館で観たいなら急ぐ必要があります。

 

12月20日以降は、ネットフリックスで配信される模様。その後も劇場でやるかは不明です。

 

以下感想を書きますが、ネタバレあります。

 

結構良かったですかね。自分はバーンスタインは伝記を読んだことがなくて、しかし、前知識も全くないわけでもない。自分の浅い知識だと、バーンスタインは、バイセクシャルで、自分のやりたいことをしないと気が済まない性格の人物という印象。周りの人たちが大変だった、という話は聞いたことがあります。

 

映画の内容自体、大体これぐらいの感じかな、と思っていたような内容で、非常に腑に落ちた内容でした。確かに、映画内で描かれるバーンスタイン夫婦の復縁の様子など、ちょっと描写不足といわれても仕方ない気もしますが、そういうことを狙った映画でもなさそうです。個人的には、これ以上あの夫婦の話を続けられても、そこまで興味ないかな。

 

主題はバーンスタイン夫婦の描写を中心に構成されていて、妻のフェリシアが夫レナードの男色を含む、強烈な個性に悩まされるという展開・・・。

 

映像自体は、この2人が若いころはモノクロで始まり、後半はカラーになるという、彼らの時代を意識した映像の色調で描かれます。

 

使われる音楽は主にバーンスタインの作品と、マーラーの作品です。

 

自分はバーンスタインの作曲した音楽自体は、そんなに好きではないです。キャンディードとか、ウエストサイド物語の文句をいっても、今更評価は定まっているので仕方ないですが、この映画内で使われている「ミサ曲」とか、自分は評価に戸惑う作品です。映画の中ではそのミサ曲からも、美しい部分が使われています。

 

ただバーンスタインの作品はそんなに知らないので、何の曲か分からない場面も多数ありました。

 

個人的に1番印象に残るシーンは、英国の教会(エリー大聖堂かは不明)で、ブラッドリー・クーパー自身が指揮する、マーラーの交響曲「復活」の最終場面です。

 

マーラーは指揮者バーンスタインが得意にした作曲家です。バーンスタイン存命時は彼がマーラー演奏の第1人者でした。

 

 

ブラッドリー・クーパーはバーンスタインそっくりに演奏して、中々迫力ある復活を指揮します。彼は、他の場面でも角度によっては、まるでバーンスタイン本人にしか見えないような場面も多々あって、面白かったです。

 

 

 

↑、左がバーンスタイン、右がブラッドリー・クーパー。

 

この教会の場面では、バーンスタイン夫婦の味わった苦しみと、ヨーロッパの古い教会の中で、演奏される、マーラーの音楽というのが、相まって、中々感動的でした。実際の映像で残っている、多分1974年の演奏を再現しているのでしょう。ミニシアターといっても映画館ですから、それなりの音量でやってくれます。交響曲「復活」の最後は良いですよね、やっぱり。ちょっと涙ぐんでしまいました。

 

こういう場面を見ていると、普段、本当に我々は、ヨーロッパの歴史の「良いところ」だけを見たり聴いたりさせてもらっているだけなのか、という気にさせられました。

 

色々な歴史の積み重ね、あるいは携わった人々の血のにじむような努力がなければ、こういう瞬間はないんだろうな、と思えるシーンです。

 

作曲家マーラーの音楽の力というものも、改めて感じずにはいられませんでした。マーラーも亡くなって100年以上ですが、未だに人々を感動させる力のある音楽を書いたわけです。そしてそれを指揮する指揮者の苦悩とか、我々は日々感じもしませんけど、その苦労は大変なものがあるのでしょう。ヨーロッパの文化の、遠い奥行きを感じさせました。

 

バーンスタインが立派な人物だったかどうかは、評価などできませんが、映画内では特別偉大な存在とも描いてなくて、これぐらいの人物なんじゃない?みたいな雰囲気でした。大指揮者といっても、周りの人々は大変ですね。そういう犠牲の上に、色んな名演が成り立っているのかと思うと、興味深いです。

 

音楽家の伝記映画としてはまあまあだと思います。

 

この映画のサントラもグラモフォンがアルバムにして、販売しているようです。

 

デュア・リパの「FUTURE NOSTALGIA」。レコードです。

 

このデュア・リパのアルバムなんですが、以前自分は生意気にも次のように書いていました。

 

Bebe |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、「FUTURE NOSTALGIA」は、デュア・リパの2枚目のアルバムなんですが、ここで自分はかなり酷いことを書きています(-_-;)。恥ずかしい。

 

ビービー・レクサのアルバムを聴いてから、聴くアルバムがなくて、このディア・リパのアルバムを繰り返し聴いていたんですが(CD)、かなり良いと思うようになりました。スイマセン(-_-;)。

 

意見を変えます。これも良いアルバムだと思います。今さらなんですけど。

 

 

Dua Lipa - Levitating (Official Animated Music Video) - YouTube

 

↑、ということでリンクです。彼女は日本のアニメが好きで、日本人アーティストによる動画制作となりました。1980年代ぽいですね、ミンキーモモとかの感じでしょうか。

 

 

ディア・リパは宮崎アニメなんかも良く観ているようで、昔はインスタグラムに観ている様子なんかをアップしていましたが、今はもう削除されているようです。

 

 

ドイツ・グラモフォンによる、久石譲のアルバム、「A  symphonic   celebration」。

 

旧EMIの流れを汲む、クラシック音楽の老舗レーベル、ドイツ・グラモフォンが日本の作曲家久石譲と契約して作った、本格的な映画音楽のアルバムです。グラモフォンは少し前に、ジョン・ウィリアムズのアルバムも制作しています。

 

本来ならクラシック音楽の話題にすべきですが、色々今後書いていきたいこともあるので、試しに、ここに書いていきます。

 

これらの論題になるのは、まずジョン・マウチェリによる「20世紀の音楽を取り戻す」という著作によります。詳しい話はまた別にするつもりですが、今日のクラシック音楽の衰退を止めるために、如何にしたらよいかという問いになります。

 

興味のある方は1度この本を読んでみることをお薦めます。マウチェリは映画「TAR」の音楽アドバイザーを務めており、最近のドイツ・グラモフォンの方向性についてもアドバイスを与えているのではなかと想像されます。

 

TAR |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、映画「TAR」を初見した時の感想です。「TAR」に対する意見も、自分は変えようかと考えています。なぜラストがああだったのか?その疑問の答えがこの本の中にあります。

 

 

↑、ジョン・マウチェリ著「20世紀の音楽を取り戻す」。松村哲也訳。

 

手前味噌でなんですが、他のSNSで自分は、簡単に本の内容をまとめたのですが、以下のようです。

 

<ジョン・マウチェリ20世紀のクラシック音楽を取り戻す、を読みました。1930年から既に1世紀近く、クラシック音楽の巨匠(作曲家)が現れていない理由を探ります。

世界戦争と冷戦によって、音楽は極度に政治化されました。ナチスはユダヤ人や新鋭の音楽を退廃芸術として追い出しました。ソヴィエト共産党は古典的な芸術観に囚われます。そして、ナチス亡き後西側は、ナチスやファッショに関係した音楽を全て追い出します。ヨーロッパではナチス前までの音楽は認めましたが、戦後はそういった旧態の雰囲気を残す音楽を全く認めなくなりました。前衛のブーレーズらの登場です。

ブーレーズは果たして巨匠なのでしょうか?レポンは優れた音楽なのでしょうか?彼らは昔の巨匠のように大衆に認められなくとも、学者として生きていけました。生活に困らない音楽家の登場です。そういう人が戦後、学者や批評家を率いて次々と旧態の音楽を批判していきます。そうなればもう、誰も育ちません。

ショスタコーヴィチに対するソヴィエト共産党の仕打ちは有名ですが、実は西側も同じことをさらに狡猾にやっていたのではないか?という疑念を抱かせる内容です。そして、それが多分現今、いわゆる巨匠がいない理由かと思います。

最近ドイツグラモフォンなどが変わったアルバムを制作していますが、何故なのか?その理由がここに書かれていると思います。新しい動きは始まっているように感じました。>

 

もうすでに1世紀、大衆を代表するような作曲家が生まれていないんです。こんなことが今まであったでしょうか?いくらなんでも長すぎるのでは?こうした現象の原因が、実は人材の枯渇によっていたのではなく、人為的な行いによって生まれた空白、であった可能性が指摘されています(洗脳の一種であった可能性があります)。

 

演奏家にしてみても、同時代の音楽がないことが、どれほど彼らの能力を生かし切れていないか、という疑問を持ってもおかしくありません。ベートーヴェンの演奏については、指揮者たちは未来永劫、フルトヴェングラーやトスカニーニと比べられるでしょう。

 

しかし、例えば、旧ソヴィエトの指揮者たち、ムラヴィンスキーやコンドラシンなどは、同時代にショスタコーヴィッチという天才作曲家がいたことの強み、これは紛れもないように思えます。彼らはどうしようもなく、自分たちが表現しなければならない心の声と、それを表現した作品を持っていました。

 

ところが、第2次世界大戦以降、西側諸国の私たちには同時代の肉声を伝える作曲家が全くいなくなってしまいました。

 

マウチェリはこの方向性に対して、新しく「クラシック音楽」というものを再考すべく各種の提案を行っています。その1つが映画音楽によるコンサートです(ここには大量のストックがあります)。ハンス・ジマーなども独自にコンサートを開催しています。

 

世界大戦によって、大量の音楽家の移動が起こり、ヨーロッパで高度な教育を受けた多くの音楽家が米国に渡り、クラシック音楽の語法をハリウッド式の映画音楽の中に落とし込んでいきました(ワーグナー風ランゲージが生き残った道)。他方、ヨーロッパは歴史の連続性を認めづらい状況となり、歴史そのものを失っていきます(過去のヨーロッパの歴史は悪と思わせられた、日本と同様です)。

 

従来から映画音楽はクラシック音楽よりも、下に見られる傾向があり、マウチェリ自身、自分が開催する映画音楽のコンサートに対して、クラシック音楽の指揮者から心無い言葉を受けたことを告白しています。

 

<しかしながら、ロサンゼルスで育った指揮者たちの場合、映画音楽で働いたことのある指揮者(アンドレ・プレヴィン)、自分の家庭がスタジオ・オーケストラで演奏していた指揮者(レナード・スラットキン)、さらに、ズービン・メータやローレンス・フォスター、マイケル・ティルソン・トーマスなどを見ても、自分の育った音楽を擁護しようという者はほとんど見当たらない(プレヴィンの場合、コルンゴルトだけは例外なようだが、4つのアカデミー賞を手にハリウッドを後にしたのち、映画音楽とかかわる気がなかったのは明らかだ)。1990年代にロサンゼルスで出た記事には、映画音楽を復元し演奏しようとする私の仕事について、「キャリアを棒に振る行為」と書かれていた。

 

古典名作音楽の音楽監督だったネーメ・ヤルヴィから、「今度戻ってきたら、次は本当の音楽を指揮しなくちゃね」と言われた。私がニューヨーク・フィルにデビューしたすぐあと、ニューヨークのレストランで出会った音楽監督のクルト・マズアはしばし考えてから「えーと、君は映画音楽の指揮者だったな」と声をかけてきた。>

 

当然映画音楽が、どの程度のものかはまだこれから議論があると思います。オペラやバレエの伴奏は映画音楽にも近いですが(「標題音楽」であるという事実)、しかしこれらの音楽は映画音楽に比べれば、より「音楽寄り」かもしれません。

 

映画音楽は「音楽」が主体になることがほとんどないからです。つまりかなりの程度まで、「映像」側に、あるいは「物語」側に、依存しているように思えます。

 

オペラやバレエ音楽が「音楽寄り」ということは、映画音楽に比べれば、「絶対音楽」に近いともいえるかもしれません。

 

となってくると「絶対音楽」とは何か?、という再定義が必要になってくると思わせます。また何を「クラシック音楽」と呼ぶのか?という、難しい定義付けの問題が出てきます。

 

何でも他業種の音楽を「クラシック音楽」と認めてよいのかは疑問でしょう。やはり音楽に「啓蒙的」、「教示的」要素はどうしても必要になってくる気がします。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、音楽上の啓蒙があったということは論を待たないでしょう。

 

映画音楽だけではなく、ゲーム音楽なども最近は流行しており、日本ではドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどの音楽の、オーケストラ版による演奏会も、定期的に行われており、お客を集めています。ゲーム音楽の特異性もマウチェリは指摘しています。これらは、少なくとも「現代音楽」よりも人気があり、これらのオーケストラ作品は、はたして「クラシック音楽」なのかどうかという疑問が提出されます。

 

物事がすぐに、ショスタコーヴィチとムラヴィンスキーとの関係、のような、いかにも「クラシック音楽」的な感じになるとも思えませんが、最近のドイツ・グラモフォンの活動などから見ても、新しい「クラシック音楽」の道を切り開こうとする努力を見て取ることができます。

 

その中で日本の久石譲の作品が取り上げられたことは、非常に面白いと思います。元来、彼は音楽的にミニマリストですが、映画音楽を書くことによって、大変に感動的なものを作り上げることに成功したと思えます。

 

このアルバムは、米国のビルボードでも1位を獲得しており、これは確かに宮崎アニメの認知度のせいもあるのかもしれませんが、この売れ行きも異例でしょう。

 

これらの音楽を聴くには1度原作映画を観たほうが良いに決まっていますが、それでも確かな感動がこのアルバムにはあると思います。従来のヨーロッパ風の「クラシック音楽」とは違う何かですが、感動の質は決して低くないと思います。

 

[Highlight Medley] 히사이시 조 - 지브리 애니메이션 음악 │ Hisaishi Joe - A Symphonic Celebration (youtube.com)

今年もあとひと月となりました。総括じゃないですが、もうコロナワクチンの結果も出たと思います。

 

 

やはり、ワクチンを打つほど感染者が増える、ということだったと思います。しかも日本は、2023年世界1ワクチンを打ち、感染者も世界1になりました。

 

感染者が増えたから、ワクチンを打った、ということではなく、ワクチンを打ったから、感染者が増えた、ということです。

 

 

しかも1年間での死者数が、ウクライナよりも多い、ていうんだから馬鹿らしい。この表だと世界1死者が多い、ということになります。やっぱり異常でしょう。

 

 

正直結果は出た、と思いますけどね。打てば打つほど感染者は増え、死者も増える。これだけですよ。

 

今インフルエンザワクチンもmRNAワクチンにするっていってますが、自分は断言します。絶対打たない方が良いです。

 

そりゃ政府はワクチン被害なんか簡単には認めませんよ。なんせ、自分たちで推奨したんだから。下手したら刑事事件で、牢屋行きです。ただ国民側は「おかしい」といい出している人たちが、非常に増えてきてますね。

 

身内が死んだ、病気になった、とかね。他にも色々です。しかもテレビなんかはワクチン後遺症を、コロナ後遺症といい換えています。わざとやっているんだね。

 

アメブロもいまだにコロナ関係、ウクライナ関係に関して、注意書きが出ますけど、大丈夫なんですか?自分らで全く判断しよらん。

 

恥ずかしくないんですかね。周りがそういっているから、そうだ、とか。政府がそういっているから、そうだ、とか。

 

いつまでやるんですか、こんなこと。他人が死んでも問題ないってか。

 

 

ファイザーは世界中で訴訟が始まっていますね。当たり前ですよね。

 

 

そのうち、ウクライナのことも出てくるんじゃないの?これもちょっと考えれば分かりそうなもんだよ。

 

ジャニーズの問題がばれたように、いずれ嘘はばれますよ。

 

嘘つきは泥棒の始まりじゃ。

 

2連チャンで邦画を映画館で鑑賞してきました。今回は北野武監督の新作、「首」です。公開前は、「ゴジラー1・0」より、こちらを観たいと思っていました。

 

しかし「ゴジラー1・0」の方が面白かったですかね。こちらはまあまあ、という感じです。

 

感想を書きますが、以下ネタバレあります。

 

北野作品は好きですが、映画館でどうしても観たいような作りでもないか、と長らく思っていたのですが、今回はスケールの大きい作品らしいので、映画館で鑑賞してきました。なんでも15億かかったとか。

 

本能寺の変を独自解釈して、話が作ってあります。北野作品らしいバイオレンス要素と、生々しい人間描写で見せます。戦国武将たちの男色の様子も描いて、時代劇としては新機軸なんでしょう。しかし今回は思ったよりもコメディー要素が多く、好みは分かれそうです。自分はコメディー要素はいらないかな、というふうに思った方です。

 

普段英雄のように描かれる戦国武将ですが、ここでは人間の本性に根差した、厭らしさを熱烈に表現しています。とにかく役者陣の演技が素晴らしく、そこはまさに見どころだと思いました。

 

「ゴジラー1.0」の役者たちはなんだか役を演じている、という感じに見えましたが、この「首」では、役者の地の部分と、彼らの演じる武将たちとの境目が見えないことが多く、良かったです。

 

明智光秀の西島秀俊なんかはもちろん上手いですが、荒木村重の遠藤憲一など本人の地のままという感じがして面白いです。その中でもやはり光っていたのが、織田信長役の加瀬亮です。

 

岐阜弁丸出しで、始終狂っている織田信長は強烈でした。彼が主人公でも良いかも、と思ったりしました。

 

 

実在の信長がここまでひどかったかは分かりませんが、彼の性格の一面は出ていますよね。

 

あとは中村獅童演じる、難波茂助という百姓ですかね。ラストで、明智光秀が逃走して、1人森の中、手負いのまま、木の根元に座しています。そこへ、自分の出世を求めて、友人の百姓を殺し、また他の仲間を捨ててまで、追いすがる難波茂吉。

 

明智の首を持ちかえれるチャンスです。

 

見ず知らずの茂吉の姿を見た明智は、覚悟を決めて「首をくれてやる」といいながら自分の刀で、自ら首を切っていきます。その明智の、武士の覚悟みたいなのを見て、一瞬たじろぐ茂吉。しかし出世欲に負けた彼は、叫び声をあげながら、明智の首を切り落とすために、襲い掛かっていきます。

 

このシーンが今回映画の中で1番良かったです。ここで、中村獅童はどこの百姓かもしれないような人物を、リアルに演じています。ただこの後、彼は直ぐに殺されてしまうんですね。正直、彼は殺す必要がなかったんじゃないかな?と思いました。その方がこの映画の狂気が、ちゃんと残ったのではないか?と思います。

 

茂吉は、北野監督の描く、戦国時代の人間性の原型みたいなキャラクターで、戦国武将たちも根は同じと思わせる役柄でした。

 

 

しかし、肝心の物語全体としては、ちょっとダルさがあるかもしれないですね。

 

やはりコメディー部分が邪魔かな、と思いますね。そのせいで間延びしていると思いましたけどね。

 

北野作品ということで、役者たちが見せる演技の本気度具合と、戦国武将たちがまるで近所にでもいるような、そこら辺のアンちゃんぽい感じが面白かったです。

 

自分の近場にも、こんな奴おるわ、と思わせます。

 

ゴジラ-1・0を観てきました。しかし、邦画の実写を観るのは何年ぶりでしょうか?

 

基本洋画が好みで、良く劇場には足を運びます。しかし、邦画は中々劇場で観る価値を見出しにくく、ほとんど観に行っていません。

 

過去、国産のアニメ映画は観に行くこともありました。多分アニメ映画「君の名は」が最後に劇場で観た邦画だった気がします。多分実写だと1984年の「ゴジラ」が最後だったと思いますね。もう40年前?びっくりです。

 

しかし、ゴジラ-1・0は、非常に面白い映画でした。不思議と観る前から、不安要素も全くなく、期待通りでした。面白いというよりも、感動させられるものがありました。

 

古典的な怖いゴジラに戻っていますが、色々技術が進化した結果、日本映画では革新的といえるほどリアルな描写の映画で、ここまでのものが描けるのは、ハリウッドの次ぐらいに数えられるのでは?と思えるほどの、緻密な作品です。

 

やはりCG技術の長日の進歩があったから、これまでの表現ができたのだと思います。エンドロールで、ゲーム会社の「スクエアエニックス」のクレジットがありましたが、日本のゲーム会社のレベルも高いので、やはりこういう民間の技術の素晴らしさなども、映画に結びついていたのではないでしょうか。多分予算でいえばハリウッドの10分の1以下だと思いますが、ビルが破壊される時の描写の細かさや、海の波の動きの自然さ、戦艦の表現などの違和感が、全くありませんでした。

 

そこに加えて、山崎貴監督の描く、日本の、太平洋戦争後の時代の描写のリアルさ、そして懐かしさが混じりあって、我々日本人が、忘れてしまった時代の記憶を呼び覚まします。

 

我々がそこに観るのは、過去の戦争の幻影をまだ乗り越えていないと思える、日本人の精神性と、それを乗り越えるためにゴジラに向かっていく人々の姿です。

 

これらの内容は、どうしようもなく、私たちの時代の日本の世相とリンクします。何事があっても動こうとしない日本政府、そしてその何ともいえない愚鈍な現今の国内の雰囲気。しかし、そこを変えていこうという気概が、今の日本人にはありません。

 

しかし映画の中で描かれる人々は、時に自分の命を危険にさらしても守るべき人々を守ろうとします。

 

そしてそれを過去の戦争の反省を含めて、もっと建設的に乗り越えて行こうとする、民間の人々の姿が描かれます。それによってはじめて戦後を乗り越えることができるという思いをもって、人々は行動します。これは現代人に対する、山崎監督の明確なメッセージだと思います。

 

本当に今の我々にとって、現実のゴジラは何なんだろうと、思える作品です。

 

大衆娯楽映画には変わりないんですが、ここには今の日本人にないもの、あるいは今必要とされているものがあるんじゃないでしょうか?

 

結末も途中で分かってしまいますが、キャラクターたちが必要な場所にちゃんと収まっていきます。大道というべきか、小細工しないので充分面白いと思いました。

 

また、ゴジラの吐く放射能が今回はまさに「核兵器」のようにも描かれていて、強く印象に残ります。

 

 

非常に、メッセージ性の強いゴジラで、感動しました。