ヒマジンノ国 -12ページ目

 ヒマジンノ国

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最近はニュースなんか観ていると、気が滅入ることが多くて、弱りますね。たまには気をそらさないと、気持ちが持たないかと思って、外へ出かけたりします。

 

自分は実家に戻って、墓参りをしたり、国内で、軽く出かけたりしているのが最近の環境です。コロナ後は海外旅行には行かなくなりました。国内旅行もちゃんとしたものは行っていないです。

 

しかし、時間がある時は、日帰りでも良いので、自然のある所に出かけていくのが楽しみです。

 

この前は初めて河口湖にいってきました。丁度涼しくなり始めた時期で、爽やかな1日でした。

 

 

ただ何というか、思いの外、現地はリゾート地になっていて、とにかく外国人が多かったです。電車などは白人がほとんどで、座れないほど込み合っていて、スペイン語やら、フランス語やらが色んなところから聞こえてきました。

 

富士山は人気があるようですね。

 

しかし正直、ちょっとオーバーツーリズムじゃないかって、思うことがありますね。

 

河口湖沿いは中々綺麗でした。富士山をバックに、花が植えられたりしていて、写真映えするところも多かったように思います。

 

 

軽く昼食を取りました。フルーツの酸味が効いたソースの、魚料理を食べました。

 

そろそろ秋だと思うんですが、紅葉は一切なかったですね。今後でしょうかね。

 

 

現地には4時間ぐらいいただけです。都内から、現地に着くために電車を乗り継ぐのが大変で、宿泊しないなら無理していくところでもなさそうですね。

 

美しい景観など、心に残りました。

ちょっと古い話ですが、立憲民主党の原口一博議員が、ウクライナ政府をネオナチ呼ばわりしたことによって、ウクライナ大使館から抗議を受けました。確かにこの政治家は発言がアジテーションぽいところが見受けられるので、難しいところです。

 

現状のウクライナ政府がネオナチかは不明です。この件について、元々問題だったのが、アゾフ連隊とか大隊と呼ばれる組織でした。

 

しかし有名な研究家はアゾフは決してネオナチでないと、否定しているようです。

 

 

 

しかしながら、このような専門家でさえ、2014年にはアゾフが危ない組織であったと認めています。そして黒井文太郎氏は2014年か2015年ぐらいにはアゾフは正規軍に編入されたから安全、みたいなことをいっていたようです(もうちょっと深堀したかったのですが、情報は見つけられず)。

 

 

ただ自分はあまり信じられないです。

 

とりあえず2015年ぐらいの情報を見てみます。以下は産経新聞の記事です。ウクライナ義勇軍がナチスの紋章を使用しているといっています。

 

 

↑、ナチスの侵攻が、ウクライナにとって、旧ソヴィエトからの解放者だったという認識は、「ウクライナ・オン・ファイア」という映画の解説と同じです(その後、ナチスが劣勢になったのちは、ウクライナの民族主義者はナチスとも戦ったという話です。ただ、ウクライナの民族主義者としての自覚が、ナチスとのソヴィエト共産党への「共闘」という形で目覚めた可能性が、指摘されています)。

 

 

↑、1度2015年には、米国もウクライナへの支援を止めています。

 

以下はユニセフの情報です。

 

 

↑、ユニセフもまた、2015年ごろ、難民への迫害があったのではないかという疑念を表明しています。これがどういう人々であったかは書いていませんが、それが少なくとも2019年まで続いていたことが暗示されます。誰がどういう人々に対して、難民となるようなことをしていたのか?前後の情報を比べると、ウクライナに住んでいたロシア系住民と考えるのが妥当ではないでしょうか?(アゾフがやったとは明確にしていませんが。)ウクライナは、ロシアのクリミア併合を受け、2014年から内戦状態になりました(マイダン革命のせい、ともいえますでしょうか)。ロシアよりのウクライナ2州が自治権を求めていたようです。

 

大手の機関やメディアでさえ、紛争が始まる前は上のような情報も流していました。興味ある方は他のジャーナリストなどの情報も探ってみてほしいと思います。やはりロシアだけが一方的に「悪」という話には無理があります。

 

その後本当にアゾフは変容したのでしょうか?どう変容したか書いてあるとことがほとんどなく、今のところいわれているのは、紛争後の情報ばかりで、ロシア侵攻から国を守る英雄とかいう話になっているようですが・・・。

 

 

↑、削除される前の日本の公安のネット情報です。ウクライナ東部でロシア派の勢力がいたことも指摘しています。アゾフ大隊の結成は、マイダン革命の影響があると考えられます。ゼレンスキーが大統領になったのが2019年。しかしウクライナ東部対ウクライナという構図が2014には始まり、その当時からロシア軍の一部は既にウクライナに侵入していました。ウクライナ擁護派はゼレンスキーは最大限外交努力をしたといいます。ロシア擁護派も、ロシアは外交努力を最大限した、と同じことをいいます。まあ、水掛け論です。

 

今のウクライナ政府がネオナチかどうかは問題ではなくて、2014年以降、東部でロシア系住民が弾圧されていたかどうかが、この紛争の原因になってくるので、そこが本当になかったかどうかを問題にすべきなんでしょうね。「ない」ってのはちょっと無理があるんじゃないのでしょうか。 

 

確かにヤヌコビッチ政権から考えると、ロシアの陰謀だったという話も出てきますが、それと同程度にNATOと米国の陰謀だったという意見が対立しますね。これも簡単に結論が出せるような話ではないと思います。

 

民族問題込みのこの紛争、簡単にどちらかに肩入れできることなんでしょうか?どんな専門家にしろ、当事者でない者に一体どれぐらいのことが理解できるのか、甚だ疑問です。   

 

仮に今の東部からロシア軍が撤退したとしても、ウクライナ対ウクライナ東部という構図は残る可能性があり、結局双方何らかの譲歩をしなければ、紛争は収まらないと思います。 

 

個人的にはそう感じますけどね。

 

最近の日本人の感想も変わってきているようですけどね。岸田政権がウクライナ政府にどんどん資金提供するものですから、さすがにちょっとおかしいのではないかという話です。日本も余裕があるわけではないので、税金は国内に使えということです。

 

そんな中、作家の百田尚樹氏らによって、日本保守党なるものができたといいます。ツイッター上で、自民党のフォロワー数を抜いたとかで、話題になっていました。

 

今の自民党はLGBT、SDGS、移民などの推進の政策をとり、保守層から嫌われています。このような状況を打開すべく、新たな政党を立ち上げたといいます。ですので、反LGBT、反SDGS、反移民などの政策を掲げると思います。

 

しかしここで問題になるのが、ウクライナ政策で、百田氏はロシアが一方的に侵攻を開始したと主張。ここは自民党と一緒です。

 

こうなってくると自分は微妙な政党かな、という感じになります。

 

 

↑、この界隈の方々も、KCIA辺りと関係ある方などもおり、どうでしょうね。

 

先日ワイドスクランブルという番組で、来年秋の米国大統領選挙の話をやっていました。その中で民主党候補になるかも知れない、ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏を変わった人と揶揄して紹介していました。彼はコロナワクチン政策を批判し、ウクライナ情勢もウクライナを一方的に応援していません。

 

 

↑、以前にも載せた画像です。原口議員はこのケネディ・ジュニアと話などをしているそうです。原口氏は米国の保守よりの発言が多いといえます。

 

本当は、ケネディ・ジュニア氏が変わった人間とかでもなく、このようなウクライナに対する態度が、一般に、米国では保守系といわれており、トランプ支持者を始めとして、マイダン革命に対する米国の関与をある程度認めているといって良いのかもしれません。ウクライナが米国の代理、つまり、バイデンが率いている現職の政権(これは米国では極左勢力と見られている)の代理で戦っているという見方です。米国の保守層はこれにうんざりしているわけです。

 

やはりこの辺りに日本の保守層と、米国の保守層との「ねじれ」があるように思います。

 

日本の保守層は、「違う」というんでしょうが、結局今まで、日本の軍事化を求めるために、過去の戦争での旧ソヴィエトや、中国への憎悪を利用してきました。今さらロシアにも「一定の理があるのでは?」とはいえないのでしょう。

 

今の自民党の岸田政権はまさに、バイデン率いる「極左政策」の追随を続けており、このままでは日本が「主権そのもの」を失ってしまうのではないか?という恐れを生じさせているのだと思います。百田新党にしても、ウクライナ政策を今のまま引き継ぐと、後々遺恨を残すことが考えられます。

 

しかしなぜ、西側諸国の政権が次々とバイデン政権のミニチュアと化し、その権力体の上位に、むしろ、世界的なコングロマリットや、ある種の財団などがくるのか?

 

イベルメクチン |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。ビル・ゲイツという人物は何者なのか?このような大富豪たちは、なぜ1国の首相を上回る力があるのか?

 

よろしければ、以下の動画を時間がある時にご覧いただきたいと思います。1時間ほどの動画ですが、頭の整理には便利だと思います。

 

MONOPOLY - 世界は誰のもの?(日本語字幕 v1.3) (rumble.com)

コンサートに行ってきたので感想を書きます。

 

 

9月12日、サントリーホールで読売交響楽団と、マリオ・ヴェンツァーゴによるブルックナー交響曲4番を鑑賞。前半は、かつての名指揮者、スクロヴァチェフスキの交響曲。

 

スクロヴァチェフスキの交響曲は、日本初演ということらしいです。

 

一応現代曲らしい感じです。しかし、個人的には全く面白くなくて、何となく、予想通りの曲でした。現代風だけど、聴きやすい感じもあるのかな?という印象です。

 

全体が細切れで、各所に面白い響きを作り、色々聴かせますが、散漫で結局いいたいことがちゃんと伝わってない音楽だと思います。

 

ブルックナーやら、ラヴェル、ショスタコーヴィッチやらの影響があるとかないとか。あれだけ不協和音が多くてもショスタコーヴィッチの4番など、全体でいいたいことが分かるものですが、スクロヴァチェフスキみたいな書き方だと、無駄が多く、全体が統合されてない印象ばかり残りますね。専門の作曲家の音楽でない作品だという感じがして、仕方なかったです。明らかに眠っている人が多数いました。

 

好き嫌いが分かれる曲でしょうか。

 

 

ブルックナー4番の演奏は賛否ありの演奏で、新しいブルックナー像だという人が多数。しかし、個人的にはいうほど変わってないという印象でした。

 

今回もミンコフスキの時同様、テンポの速い演奏でしたが、ミンコフスキが圧縮と力技の演奏なら、こちらは、全体を良く歌わせて、響きの溶け合う美しさなどが印象的でした。

 

弦の合奏には瑞々しい歌があり、ホルンの出どころでは、柔らかい響きを漂うようにして、ブルックナーの法悦ある響きを作ります。1番変わっているのは1楽章や4楽章など、強音部になると、全体の速いテンポの中、さらにテンポアップして、響きを広げようとしないことでした。他の指揮者なら、聴かせどころで、もっと粘るんでしょうけど。強音部を粘れば、ブルックナー特有のゴツゴツした偉容が出るんですが、テンポアップすることによって、主題の性格が弱まり、可視的になります。要は流れが滑らかになって、全体に流線的になります。

 

わざとやってるな、と思いました。確信犯ですよね。他の部分も場面ごとの表情をはっきりさせていて、自分はこう読むという姿勢が良く伝わってきました。

 

ミンコフスキが圧縮的でちょっとベートーヴェンを想起させる演奏なら、ヴェンツァーゴはシューベルトを思わせる、滑らかで歌のある演奏でした。

 

ただブルックナーの特徴である、響きの雄大さがないので、ブルックナーではないという人も多数いたようです。しかし個人的には、溶け合う響きと音色の感じはブルックナーらしい美しさがあって、そこまでの違和感もありませんでした。

 

個人的には楽しめて満足でした。

 

 

演奏後は皆さん拍手喝采で、盛り上がりました。聴衆の拍手に応える、指揮者の明るい性格が出ていて、楽しげな終演となりました。

 

 

1月遅れのお盆休み(?)を取ろうと思います。今週末はブログを休みますね。

ジャニーズ事務所が、国際的にも問題視されている、性加害の会見を開いて、社長の交代と、事務所の名前の変更を行わないと明言しました。

 

個人的には、事務所の名前の変更をしないとか、さすがに無理があると思えるような内容で、驚きです。新社長の東山氏は、天中殺でいうと、午未空亡なので、このままだと、この事務所の幕引きにつながる可能性があると思います。新しい出発にするのなら、子丑空亡の人物にすべきだったでしょうね。

 

戦後自民党、15代目の最後の首相も、午未空亡の海部俊樹氏でした。午未空亡の人物は物事のケツ持ちの暗示があります。

 

他にも、会見は倫理的に問題があったようです。東山氏自体にパワハラ(セクハラ)の疑惑があり、BBCなども疑義を呈しているそうです。

 

 

↑、なぜ事務所の名前を変えないのか、ちょっと意味が分かりませんけどね。「ジャニーズ」の名前を聞けば、どうやっても、最大の加害者「ジャニー喜多川」のことを連想するに決まっていると思うんですけど。やっていることがおかしすぎませんかね。反省していないといわれても仕方ないでしょう。

 

しかしこの問題の大きな問題点の1つが、マスコミを始め、日本のメディアのあり方だと思います。ジャニーズ事務所の性加害を知っていて黙認してきた、現場とそれを支える大手メディアの倫理性の無さは、本来もっと弾劾されるべきです。彼らもまた、おいしい汁を吸ってきたわけです。例えば、ジャニーズ事務所の会見を地上波が放映するなら、まずは番組冒頭でいいから、地上波の関係者がこの件に関して、頭を下げても良いぐらいだと思います。このような大きな問題を、死んでしまったジャニー喜多川氏にだけ罪をかぶせてしまって、自分たちは関係ない、という態度はもう通用しないでしょう?地上波のチャンネルを付ければ、グルメ番組やお笑い番組ばかりやっていますが、彼らにそれを放映する権利などあるのでしょうか。非常に白々しいと思います。他人の人生を踏みにじっておいて、自分らは関係ないなどというのはおかしいと思います。

 

そしてこの裏でひっそりと会見を開いていたのが、「ワクチン問題研究会」です。

 

 

京都大学の名誉教授福島氏を始めとした、有志の会で、ここまでのコロナとワクチン研究により、現状起こっている悲劇と、このワクチンについて、今までになく切り込んでいます。

 

速報)ワクチン問題研究会発足会見 2023/09/07 14時からの録画 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 

↑、会見の全容です。

 

福島氏は今回このワクチンが「生物兵器」であると、はっきり述べていらっしゃいます。

 

獣医学博士の宮沢孝幸氏が、このコロナウィルスを研究したところ、どう考えても自然発生というのはおかしいということに気づいたそうです。

 

 

そしてこのコロナワクチンについても、各種有志達がいうところ、「ワクチン」としては作られていないのではないか、という結論に達したということです。

 

 

↑、すでに福島教授のことを「トンデモ」扱いしてる人もいますが、エイズを発見した、ノーベル賞のモンタニエ博士や、上の宮沢博士などはウィルスが研究所で作られた可能性がある、といっているわけです(当然、ウィルスとワクチンは同時に開発されていた可能性も提起されます)。

 

これまでの経緯を見る限り、コロナワクチンは遅延性の毒であり、ロットの内容にもよりますが、心臓疾患や、脳内出血、あるいは、悪性の腫瘍などを引き起こす可能性があるようです(全員がそうなるというような話ではないようですが、ロット番号などにもよるそうです、全体から見れば、ワクチンによる死者などの数は多くないという人もいますが、詭弁ではないでしょうか?ワクチンとしては異常事態だと思います)。

 

従来いわれてきた、「人口削減説」は本当に陰謀論で済ませてしまって良いのでしょうか?

 

この問題についてもやはり、メディアの問題が大きいと思います。マスコミが、メディアが真実を大衆に伝えないから、問題が大きくなるわけです。マスコミの意味は今後大きく問われる時が来ると思います。

何だかね、ちょっときな臭い感じにはなってきてますね。

 

前提としていっておきますが、一部の人たちがいっているように「台湾有事」など起こって欲しくありませんし、肯定する気はありません。ただ、現状を見ながら、今後どう流れていくか、という自分の考えを書いていきます。

 

以下はあくまで個人的意見ということでお願いします。

 

今回の福島の処理水放水で、日本と中国との国民的感情が本格的に悪化するなら、これはこれで問題になりそうです。お互いがお互いを「敵だ」という風になりかねませんが。

 

また、処理水が安全かどうかは、調べてみても良く分かりませんね。結局時間が証明するしかないと思います。

 

 

 

トリチウムが、数年後に大型捕食魚に濃縮される可能性は、あるのかもしれません。トリチウムが生物濃縮しないというのは一般論としてあるようですが、数年ごとに、繰り返し確認するしかないのでしょうね。今後30年かけて放出するといっているのですから。

 

 

お金に拘らなければ以下のような論点も公開されています。ちょっと長いですが、引用します。

 

 

この辺りの情報も真偽はまだ良く分からないです。一応チェックしていくつもりです。

 

そして、この処理水放出については、やはり、在日米国大使のエマニュエル・ラーム氏が反応しだしていますね。かなり怪しいと思います。今の日本の政権の指示系統は、エマニュエル・ラーム駐日米国大使、木原誠二官房副長官、岸田総理、という順だという予想を、自分はしています。つまり、駐日米国大使から木原誠二氏に出た指示を、岸田総理が演じるというだけの話ではないか?ということ(少し極端に書いてますが)。

 

結局、木原氏の疑惑は一切大手メディアはやりませんでした。圧力らしいものがあった、というようなツイッター上の話も見かけましたが、どうなっているんでしょうか。

 

 

↑、あんまりはっきりいい過ぎるのも、問題なのかもしれませんが、個人的にはこういう人物が、中国以上に問題なのでは?と、どうしても感じてしまいますけどね。中国に対峙するなら、こういう人たちの必要以上の影響も、なくすべきでは?それをやらないから、中国か米国を選べ、みたいな話になって、国内がまとまらないのでは?

 

もし上の記述通り、本当に地上で汚染水を破棄できるなら、中国とはこの件でもめる必要はないわけですけども。

 

今回は当然中国も良くないので、これも問題ですが。ただ一歩置いて客観的に見てみると、日本国内で、エマニュエル・ラームを始め、やはり「意図的に」戦争をさせようという方向に動いている人たちは、いると思いますね。バイデン政権の人々には中国から多額の援助を受けている者もいることは、要注意かと思います。

 

 

↑、一意見として、こういう見方もできますね。

 

結局ここまで来るのに、各自国民の判断によって細かく積み重ねてきたものがありますから、それもかかわっているんですね。改憲の話もまた煽ってくるでしょう。

 

そういう人たちは不安を煽ることで、日本人を戦争に巻き込みたいのでは?何十年も前から、東海地震が来るのは確実だ、というような話でね。

 

 

ある程度の防衛力など必要だと思いますし、やって良いとは思うんですが、ここ最近の、この手の煽りのムードには、自分は全く乗る気はないです。

 

どうなんでしょうね。以下のようなことも考えられると思いますね。

 

 

↑、このジョセフ・ナイのレポートのように、現状の日本がなってきていることに、注目すべきではないでしょうか(2008年ごろのレポートだといわれている)。ここ最近の日本の現状は、果たして「自然と」こうなったのでしょうか?それとも・・・?改憲論議は上述の6にあたります。正直改憲といっても、今の自民党案以外に、もっとちゃんとしたものがあれば賛成もしますが、自民党案は上述のレポートに沿ったものだとしか思えません。そういうものを、日本会議や、統一教会を使って、作ってきたのではないでしょうか?

 

ジョセフ・ナイのような発言を外した、国内の改憲論(自民党や維新の案でないもの)なども、例えば次期米国大統領にD・トランプが返り咲けば、できると思うんです。新しい国は作れると思うんですけど。

 

じゃあ、台湾有事がないかといわれれば、逆にそれを望む人が多かったり、その思いが強かったりすれば、起こりうるな、と思うんですよね(だから、確かに希望論以外に実際に有事が起こったらどうなるか、という話はいりますが)。そういう意味で自民党案に誘導したい勢力はうるさくいうでしょう。しかし、国内の市民生活のことを考えると、今の自民党案は、有事に対応できるが米国の奴隷になる(つまり米国ネオコンに支配された、日本政府に、日本市民が、新憲法で縛られる)、という究極の選択の意味しかないでしょう?米国からも、中国からも、独立性を保つことが必要なんだと思いますけどね。もっとちゃんとしたもの(改憲案)は、時間があったからできたはずなんですが。なので、自分は煽りには乗る気はないですね。

 

参議院選挙の公示 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。

 

 

↑、こういう結果になったら日本は最悪ですよね。米国は軍需産業で食べている人たちがいますからね。食わすためにも、定期的に戦争をやるんですね。だから我々は、相手が憎いとか、嫌いとか、そういう感情論の前に、もっと頭を使って対策考えないといけないと思うんです。

 

ちょっとした独り言 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、以前の記事も参考にしてください。

最近も色んなニュースが多くて、我ながら、理解が追い付いていきません。

 

今回は簡単にそれらのニュースを眺めていきたいと思います。

 

まずは、ワグネルグループの創始者、プリゴジン氏が死亡したというニュース。これまでの前科を考えると、プーチンが殺したみたいな解釈が成り立つかと思います。

 

プーチンに反抗した人物は多くの場合、毒殺されています。しかし、プーチン擁護派はプリゴジンを殺す必然性がないといいます。いわれればそうかな、という感じですけど。

 

自分は正直何が本当かは分かりません。

 

 

個人的には誰の味方か敵か、みたいな話は好きじゃないです。悪を払うなら、善も払え、といいますが、基本はまず当事者らの問題かと思いますね。

 

次は、福島の処理水放水の話。中国の反発が思いの他強力で、嫌な感じですね。まずは中国が日本を批判する権利は無いとは思います。中国の方が濃度の濃い処理水など放出していますしね。それにしても、中国からの日本国内への、大量の嫌がらせ電話とか、ちょっと常軌は逸しています。

 

 

まあ、しかし、何だろう。処理水放出も科学的に大丈夫とはいうんですが、本当かな、というのも気にはなりますね。

 

これで中国と日本の、お互いのイメージが悪くなっているのも事実ですね。

 

この辺は政治ですよね。政治家がしっかりすべきなんでしょうが、ダメな人ばっかりで。

 

先日、コロナワクチン薬害の方が、加藤厚労相に直接直談判したんですが、梨の礫で、激塩対応です。全く人間味がなくてちょっと怖いぐらいです。

 

 

今の政治家は冷酷な人ばっかりですよ、顔はにやにやするんですが。なんでしょうね。全然国内問題にコミットしない人ばっかりです。

 

ワクチンで人が大量に亡くなっている可能性はあるんですよね。全然調査しません。

 

国内で災害にあっている人がいても、ちゃんと助けませんしね。そのくせ外国にはやたら補助金だしたりしてます。狂ってるよ~。

 

 

川口市ではクルド人が群れになって暴れているらしいのですが、誰も対処していません。移民政策の問題らしいですが、政治家は動くべきですよね。

 

 

自分は保守とかじゃないんですが、何でこんなことを書かなきゃならんのでしょうか。今の政治家は日本を壊そうとしているようにしか見えません。

 

ウーン、弱ったものです。

 

まずはマウイ島、ラハイナ地区の火災についてです。

 

昨日日本の地上波を観ていたら、ハワイのオアフ島での火災の原因を山火事だとやっていました。しかし、当初から現地などで情報を提供をしている方たちは、はっきりと「山火事」でないと仰っています。

 

 

当日山火事があったのは確かなようですが、40キロ以上離れたところでした。番組内では「山火事」といいつつ、火災の原因は電線が切れたからだ、といい、「地球温暖化」も原因の1つだとか。地球の気候が変化しているのは間違いないと思いますが、最近の報告だと、北極の氷も、白熊の数も増えているそうです。ツバルなど水没するといわれていた島国も水没していません。昔から、酸性雨、オゾンホールの破壊など色々いわれてきましたが、それによって本当の意味での環境破壊があったことはありません(一部環境が破壊されたという話です)。少なくとも今回のラハイナの火災は全く関係ないでしょう?

 

結局番組内でもどこで「山火事」があったかは一切言及せず。

 

同じことがないか日本も心配せよ、という内容です。酷いですよね。原因も分からないといっているのに。どう心配せよと?某タレントやコメンテーターがそろって色々いうんですが、全く説得力がなく、まるで幼稚園です。本当に酷い番組でした。

 

 

現地では、海岸線沿いの道路まで火の手が回っており、犬が原型のまま炭化して死亡、また道路上の車が完全に破壊されています。ちょっと山火事とは思えない被害状況です。

 

自然火災でここまでのことが起こるか、非常に疑問です。そのくせ富裕層の邸宅は一切燃えていません。そこだけきれいに切り取ったように、残っているんですね。

 

 

火災のあったマウイのラハイナ地区は、ハワイ原住民の古い土地で、そこを買い占めようとする金持ちたちとの軋轢があったそうです。原住民は土地を売りたくないんです。しかし、火災後すでに被害にあった者たちには、土地の買取りの電話などがかかってきているそうです。

 

正直何らかの形で放火のようなことをしたとしか思えません。

 

 

そしてその後、米国本土やカナダなどで次々と火の手が上がっており、不自然としかいえません。これも現地では「地球温暖化」のせいだとやっているそうです。数度気温が上がったからって、そんな山火事ばかり発生するのはおかしいです。

 

 

・・・少し話はずれるのですが、数年前から、営理目的での火災について、日本国内でいわれているのは家畜舎の火災ですね。

 

 

これも原因が分からないんですよね。これだけの数の家畜舎が燃えているのが、自然火災だけとはいえないと思います。これも放火して回っているものがいてもおかしくありません。捜査している者たちも、ちゃんと捜査しているか疑問です。

自分は少数派だと思いますが、一応今後の経過と、正誤の判断をしていくために書き残しておきたいと思うことを、書いておきます。

 

先週書いた宇露の紛争の件を少し調べていたんですが、やはり、繰り返しになりますが、個人的な意見では映画、「乗っ取られたウクライナ」ぐらいの意見が1番真実に近いという気がします。

 

ゼレンスキーの外交的失敗は、むしろロシア側の、つまりプーチン側の意向とは違うが故に、失敗したのだ、という話もありますが、どうでしょうか。ドイツのメルケルが暴露していましたが、結局ミンスク合意はウクライナの軍事化の、時間稼ぎだったという話も含めると、何処に真実があるかは中々分かりませんね。

 

 

↑、この辺の意見もあると思います。完全にロシアが正しいという意見も、どこか無理があるとは思います。個人的には、やはり殺し合いは殺し合いだという認識です。

 

さて、急にプーチンが何事か、「思いたったように侵略を始めた」、という話は当初からいわれていますが、さすがにその意見は「知性に問題あり」というところではないでしょうか。

 

何事も原因となることがあって、初めて結果として表れてきます。

 

個人的には、何か狂ったようにロシアが侵攻を始めた、という話はおかしい、ということです。この辺は断言してよいでしょう。

 

また、日本の専門家の一部はドンバスの虐殺はなかったともいっています。でもこれも多分間違っています。日本の専門家は「良い子ちゃん」ばっかりで、国連がどうのとか、そういう肩書ばかりが付いた情報ばかり集めますよね。だからどうやっても国際世論をはみ出た話にはなりません。

 

ドンバスの虐殺については、国際機関が報告しなかった、としても色んなジャーナリストが調べていて、追っていくと、何かしらの残酷な行為が行われていたことを示している、としか自分には感じられませんでした。

 

元々アゾフ大隊など各国のマスコミは、危険な組織として報道していたようなんです。日本でも紛争が始まってしばらくの間、公安は危険なテロ組織としてネット上に公開していました。その後に削除されています。何らかの圧力があったのは間違いないでしょう。

 

 

ドンバスの虐殺について、逆にあったという主張をする側は、多分ウクライナ東方で、ロシア系住民1万4千人程度は亡くなっているのではないか、と推測しています。ただこれは2014年に亡くなった人が1番多く、その後徐々に減っていっています。ポロシェンコのころに比べれば、ゼレンスキーの時は、まだましだったという認識は可能です。

 

ただやはり今となっては、ゼレンスキーの弁護は自分には無理ですね。多分今回の紛争での、1番悪い人のうちの1人ではないでしょうか(個人的な見解です)。

 

 

ですが、今現実に起きていることと、その前提となる知識なりを比較すると、どうでしょう。「主張していることが現実に起きている」、ということが、仮に情報の正確性を担保するとなると、自分にはオリバー・ストーンなどが主張していることの方が、情報に正確性があると思えます。米国ではバイデン息子のラップトップの問題など出ていますしね。やはり、というところです。結局ゼレンスキーは米国の傀儡にならざるを得なかった、というところでしょうか。

 

 

↑、次回の米国大統領選に出馬するかもしれないといわれている、ロバート・ケネディJRの意見です。おそらくD・トランプも出馬するでしょうが、似たようなことはいうと思います。

 

自分がいいたいのは、日本では情報が偏り過ぎているという話です。多分西側諸国はどこもそうでしょうけども。

 

これは一種の全体主義なんですね。ロシア側がそうだというように、相手にやっていることと同じことを反対側自身も始めている、ともとれます。

 

西側諸国対中国・ロシアという構図を一部の人たちが作りたがっているように、思えます。安倍晋三氏が亡くなってから、米国のヌーランドとブリンケンが来日しています。まあ、ブリンケンは安倍氏追悼のため来日でしたが。

 

邪魔者が消えてから、という感じがしていますね。最近も鈴木宗男議員の発言が糾弾されていますが、故安倍晋三氏ならある程度は理解を示したと思います。

 

およそ全体としては「世論」を誘導したい側に沿って動いているようです。情報操作が多く、全体としてある方向に向かうようにされています。ツイッターも一時自由になっていましたが、「X」になってから、また情報の操作が行われ出しました。特にコロナや、コロナワクチンについてはしつこいぐらいに情報の訂正を迫っているようです。

 

世界情勢については、先日、今度はフランスのマクロンが日和だして、戦争屋の色々な思惑も頓挫した部分も多く、まだどうなるかは分かりません。

 

本来なら戦争屋の思惑を外した形で一度世界情勢を見てみる必要があると思われます。中露に必要以上の敵対心を煽るのが、戦争屋かと思います。日本では中国、ヨーロッパではロシアなんでしょうが、これらの国に対峙することが無批判に正義とされます。しかし戦争屋の煽りがなければ、一体どの程度が本来の脅威かは分からないわけです。

 

そしてそのまま戦争屋の脅威論に乗り続ければ、我々はより戦争屋へ依存を深めさせられます。さらにひどくなれば、戦争の矢面に立たされ、今のウクライナのように国の存続さえ危ぶまれるわけです。

 

それだからこそ、マクロンは中国にいったとき、自分は米国の代理戦争はするのは嫌だと、NATOの首脳としては、珍しくはっきり述べたと思われます。しかし、マクロン、最近また変わってきてますけどね。

 

日本でNATO連絡事務所を置くという話も、そのマクロンのおかげで立ち消えになりました。NATOは全会一致の原則があるそうで、フランスが反対したおかげです。ヌーランド辺りは、日本やオーストラリアも中露包囲網に押し込みたかったのでしょうか、抜け道ができました。

 

 

↑、日本でも怒っていた人はいますね。自分も中国が正しいとかいう気はないんですが、しかし、こういう話はもっと複雑なんじゃないでしょうか。結局、中国問題を詰めれば、国内の米国依存が高まり、他方、米国の属国性をとがめれば、中国寄りにも聞こえるという話。マイナンバーカードの問題とか、改憲の問題とか、これはもっと複雑なんですけどね。そういう風に考える人が少ないんです。だから各自が一元的になって、右派左派に別れてもめ続けるんですね。

 

しかしマクロンが日和だしてから、フランスでは過激なデモが起こり、マクロン政権もどうなるか、分からないという話になっているようです。この辺の話も不思議だなと思っています。あの暴動では爆発物なんかが使われていて、どうも一般市民だけではない、プロの何者かが扇動していた可能性も否めないようです。

 

 

↑、フランスの暴動の裏には誰かいるんじゃないの?という人もいます。

 

いずれにせよNATOも足並みの乱れはありますね。

 

宇露紛争については、今年の秋にも停戦の動きがある、という方もいますが、こういうのはちょっと分かりません。この状況で停戦になればウクライナは東方の領土をあきらめざるを得ません。当然ゼレンスキーの失策として世界は認識します。何か落としどころがあるのでしょうか?

 

そうでない場合は、やはり来年ですかね。米国の大統領選があるので、それで色んなことが決まると思います。

 

以前と同じことを書きますが、多分バイデン対トランプになるんでしょう。民主党が先のロバート・ケネディJR、あるいは、共和党がデサンティス氏になるという可能性もあるようです。バイデンは政治家として非常に危ない人物だと思います。片や、トランプ氏も最近は批判が多くなりました。

 

しかし現状の趨勢を見ている限り、やはりバイデン対トランプというのが、一番可能性が高いと思います。

 

トランプ氏が返り咲けばウクライナ紛争は終わるでしょう。というか、トランプ氏でなければ、今後何年も紛争は続く可能性もあるのでは?日本や諸外国の戦争屋も一旦は梯子を外されていくと思われます。特に日本は、問題が多すぎて、トランプ氏が大統領になれば、価値観の逆転が起きてもおかしくありません。自民党は来年、改憲の発議を行いたい構えです。本当に弱ったものですけど。改憲しなければ中国が利する、ですが、改憲したら一体どこが利するんです?そしてこのような二元的な発想自体も一体正しいのかどうか、よく考えてみるべきです。

 

まあ、改憲の話はさておき、今の自民党の政策はD・トランプ氏の政策と逆にいっている部分が多いと思います。

 

ただD・トランプ氏自身、その本性は未だ良く分からないところがあります。彼はイスラエル寄りの人物で、自身もユダヤ教に改宗しています。ウーン、一体どういうことのなのか?

 

しかし、最悪なのはバイデン政権が続く場合です。世界はもっとボロボロになるのが目に見えています。世界大戦の目さえ出てくるかもしれないですね。

 

やはりターンニング・ポイントになるのは2024年ですかね。色んな事が矛盾するまま進んで、状況によっては多数派が間違っているということも起こりうる、ということになりかねないと思いますね。何事につけ、ある程度の結論は出さざるを得ない状況が来そうです。

地上波はビッグモーターの話ばかりやっていますね。最近では日大の麻薬の話ですか。

 

すすきののホテルで首無し死体が見つかるという、猟奇事件がありました。地上波では事件があったという話はしますが、何があったかは話をしませんね。

 

当然殺人事件を起こすのは良くないので、そこは前提ですが、加害者も実は被害にあっていたのでは?という話が出ていますね。

 

 

加害者も実は強姦にあっていたのでは?という話です。しかも相手は女装癖のある人物で、周辺からは危ない人物とかいわれていたとか。この辺もちゃんと報道してくれないと、本当に何が起こっていたのかは分かりませんね。

 

殺された人物が女装癖の持ち主だったというのが何か問題になるんですかね。LGBTの問題がここにも影を投げかけている気がします。本当のことならちゃんと報道すべきだと思いますね。

 

 

政治の話では、松川るい議員率いる、自民党系議員38人女性局のフランス視察が炎上、という話はやっていました。ただ地上波があまりやりたがらないのが、内閣官房副長官木原誠二氏の、殺人事件介入疑惑です。

 

木原官房副長官が警察に圧力をかけて、事件をもみ消したのではないかという疑惑です。しかもその殺人事件の容疑者になりうる可能性のある人物というのが、この木原氏の妻だというのです。

 

 

この妻の元夫が自殺した、ということになっているらしいのですが、実は他殺事件で、犯人は・・・?という話。物的証拠がないらしいのですが、元刑事の証言などが生々しいとかで。何が本当かは分かりませんが、もうちょっと報道すべき案件のような気がします。

 

官房副長官の妻が容疑者になるようなことになれば、岸田内閣も終わりでしょう。権力者が権力で、殺人事件に介入、となれば大問題です。

 

ジャニーズの性的搾取問題が、国連の人権理事会で取り上げられ、会見がありました。被害者は数百人に及び、「日本のメディアは数十年にもわたりこの不祥事のもみ消しに加担したと伝えられている」と報道機関の責任にも言及。「政府や被害者たちと関係した企業が対策を講じる気配がなかったことは、日本政府が主体となって透明な捜査を確保し、謝罪であれ金銭的な補償であれ被害者の実効的救済を確保する必要性を物語っている」とまで指摘。

 

マスコミなんてのは司法・行政・立法に続く、第4の権力なんて呼ばれています。勝手に国民に何を伝えるか、自分たちで選ぶようになってしまってはおしまいですね。余程のモラルや、平等性が求められるはずなんですが、自分たちの利益に対して甘すぎるんじゃないかと思います。

 

 

ウクライナの反転攻勢の話もほとんど出てこなくなりました。ウクライナにしてみると、上の赤い部分を真中辺りで2分して、その部分のどちらかに攻撃を集中させて、奪還したかったようです。しかし、部分的に取り戻した地域はあるようですが、全体的な視点からいえば、今のところ成功はしていないようです。

 

 

日本人は認知バイアスに弱いので、上のような意見の人も多いように思います。ロシア憎しの言論も多いと思います。自分は前からいっていますが、日本は中立にすべきという立場なので。逆に、ロシアが正しいという話も必要以上にするのもおかしい気もします。

 

ただ戦況とか、やはりウクライナが勝つ、とかいう話はさすがにあり得ないとは考えていますが・・・。バフムトの戦い以前、NATOの機密文章が流出、という話がありましたよね。その際NATO側の文章によれば、ウクライナ兵の死者数は7万人ほど。その直近に出ていたワシントン・ポストのウクライナ軍の死傷者数がおよそ12万人という数で、比較的整合性が取れる数字かと思います。片やその文章にのっていたロシア軍の死者数が、16000人とか17000人とか。ウクライナ軍の被害の方が4倍ぐらい多いわけです。

 

元々ウクライナ軍は25万人程度の規模だったらしいですが(日本の自衛隊員も同程度の数です)、機密文章流出の時点で、半壊に近い状態だった可能性があります。その後、プリゴジンのワグネルとバフムトでの戦いがあったので、被害はもっと多いと思います。

 

普通に考えれば、ウクライナ軍は兵隊が足りないはずなんですね。ロシアは予備役含めれば150万人はいます。一体、どうやって勝つのか良く分かりませんが、これ以上外野が戦闘を煽ってどうするの?とか思いますけどね。

 

最近の地上波に出ている専門家もひどいです。

 

オリバー・ストーンが出演している「乗っ取られたウクライナ(邦題)」という映画がありましたよね。あの映画の中(前作の「ウクライナ・オン・ファイア」も観る必要があります)で、紛争が始まる2022年以前から、ウクライナとロシアが戦いを始める可能性があることを、はっきりと述べています。そしてそれが世界戦争になっても、おかしくないということも暗示しています。

 

「乗っ取られたウクライナ」は2019年の作品なんですね。この戦争が起こる前に、今起きているこの状況をマザマザといい当てているんです。そしてなぜ戦争になるのかという話もしています。ロシアが好き勝手に攻め込んでいるんではないんですよ。国際情勢と我々の知らないような、民族の問題が絡んでいます。

 

それに比べて、今の日本の専門家のいうことが、本当の意味で当たったことがありますか?細かい話はともかくとしても、全体を俯瞰する話になると、予想は外れてばかりです(ロシアが当初考えていたよりも、苦戦している、という話はある程度まで当たっているとは思いますが、他方で、西側の疲弊の仕方を見れば、途中から、わざとロシアが時間をかけている可能性もあります)。

 

確かに每日ウクライナの市民が亡くなっているので、心理的なこともあります。今後も一般人の感情はもつれ、2分化するでしょう。ただ、本当のことを元に先行きを決めて行かないと、我々自身がこの先路頭に迷います。                  


何で専門家のプライドを満たすための意見に、我々が付き合わないといけないのか?

 

こういう既に世に出ている情報を当たるだけでも、誰が本当のことをいっているのか、良く分かると思います(「乗っ取られたウクライナ」は以前YOUTUBEで観れたんですが、都合が悪いのか、既に削除されているようです)。

 

しかしやはり簡単に戦争は終わりそうにないですね。

すでに1ヵ月ぐらい前になりつつありますが、ミンコフスキ―のブルックナー交響曲5番の演奏の感想をまとめ直しながら、この交響曲のことを書いていきたいと思います。
 
直ぐに意見を書かなかったのは、色んな人と意見がバッティングするのが嫌だったからです。
 
さて、ブルックナーの曲は世界的に見て、人気があるといい切れるかは微妙かもしれません。米国ではどうでしょうかね?しかし、日本や本国のドイツでは人気があります。
 
 
↑、アントン・ブルックナー(1824-1896)。オーストリアの作曲家。マーラー同様10曲近い交響曲を作曲し、それらが有名です。
 
初めてクラシック音楽を聴く人が、あえてブルックナーを聴くと、なんだか曖昧に鳴る、ボワーンとした響きばかりで、いいたいことが良く分からないということがほとんどのようです。ただこれは、例えば日本人が、初めて「マーラー」を聴いても、あるいは「ワーグナー」を聴いても、似たようなことになるのかもしれません。
 
実際に学生時代、自分が人生で初めてマーラーの交響曲1番「巨人」(ハイティンクの録音)を聴いたとき、旋律が無駄に長く、捉えどころがないので、何をいっているのかさっぱり分かりませんでした。
 
今聴けば、第1楽章は朝霧に満ちた森の中、カッコーが鳴き、幾分かの神秘感が感じられます。そして楽章中間部、深い森の中で、耳を澄ますと、遠くからドーン、ドーンと聴こえてくる、何者かの巨大な足音・・・。そのような一種の物語性というか、絵画性のようなものを感じ取ることになります(あくまで個人的な感想です)。
 
そのように聴こえるのは、この交響曲に「巨人(TITAN)」という表題がついているからに他なりません(初版の後、マーラーはこの表題を取り下げている、だから実際はこの標題は無理されるべきかもしれません)。
 
ところが、先にも書いた、「特有の曖昧さ」のように、この「音楽の描写性(標題性)」は我々に難題をふりかけます。はたして音楽から感じ取る描写性は一体正しいのか否か?
 
米国の評論家ハロルド・ショーンバーグの言葉を引用します。
 
<どんな人でも自己流に音楽を聴く。あまり音楽に詳しくない人は一種の補助手段を必要とし、どんな音楽にも絵を「見る」傾向がある。プロは異なった聴き方をして、形式、(譜表の五線の)線、発展の仕方に神経を集中し、どんな音楽でも標題を完全に無視することが多い(アーノルド・シェーンベルグは、本質的に標題音楽であるシューベルトの歌曲を、長年にわたり歌詞をまったく無視して聴き、愛していたと告白した)。いずれにせよ、どんな音楽でも特に何者かを叙述することはできない。文学的内容を知らないまま、初めて「幻想交響曲」を聴く人は(リストの「前奏曲」、シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ドビュッシーの「海」でも同じだが)、その標題を推定することができないだろう。せいぜいのところ、音楽はムードと感情しか表現できない。「幻想」の第3楽章がワルツであることを認識できないのは鈍い人であり、最終楽章が何者かを表現した、凶暴な喚き声であることがわからない人も同様である。>「大作曲家の生涯」から。邦訳、亀井旭、玉木裕)
 
ベルリオーズの「幻想交響曲」は、初版では各楽章に文学的な解説がついていました。それが取り除かれた今日でも、各楽章に一言「標題」がついています。この音楽はこのような「標題」がなければ、理解できぬ音楽であり、時にひどく絵画的でさえあります(マーラーやベルリオーズは1部に間違いなく、絵画的な思考で音楽を表現しているとしか思えない部分がある)。
 
本質的に、ショーンバーグのいうように、「せいぜいのところ、音楽はムードと感情しか表現できない」という事実は、半ば冗談でいえば、エマニュエル・カントのいうところの、「ア・プリオリ」であり、本来人間に備わっている「根本的な音楽的な衝動」こそが、あるべき音楽の定位置のように思えます。音楽が標題無しで理解されるには、このような人間本来に備わっている、「音楽的な衝動」のみで表現されなければなりません。
 
だからベルリオーズのように、「言葉」による「標題」が必要な音楽は、この「ア・プリオリ」から離れ、音楽の絶対性から離れるようには思われます。ところがこれは難しい問題で、そう簡単に結論を出せるものか否かは、微妙なところです。
 
「根源的な音楽的衝動」、はたして、音楽は元からこれだけが効果なのでしょうか?
 
元来音楽には「歌」の性質があり、時に「伴奏」になり得ます。
 
大作曲家のR・ワーグナーは自身を「詩人」と明言して、恥じることがありませんでした。彼は、歌劇は「台本」がメインであり、音楽が「サブ」であるという認識を持っていました。多分このような認識は、他のオペラでも同様に感得される得るものですが、結局、音楽にとってみると、「オペラ」ほど「標題性」がしっかりしたものは無いわけです。
 
 
↑、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)。巨大な歌劇の作曲家。19世紀前半の西洋音楽界の頂点がベートーヴェンだとしたら、後半はワーグナーだったといわれます。メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスがベートーヴェンの古典的書法をまねたのなら、ブルックナー、マーラー、R・シュトラウスはワーグナーの後期ロマン派の書法をまねまた、といえます。
 
ブルックナーはワーグナーを尊敬し、そこに自らの音楽を近づけようとしていました。故に、彼の音響のスタイルはワーグナーの音の響きに近づいていきます。
 
ワーグナーの歌劇を「セリフ」なしで、伴奏の音楽のみで聴いていても、その筋立ては理解できないでしょう。例えば、歌劇「ラインの黄金」において、川底で輝くラインの黄金は、まさしく「音楽によって光輝いている」ようにしか聴こえませんが、しかしそれはラインの乙女たちのセリフがあるからこそです。
 
ブルックナーの音楽は一面、そのようなワーグナーの音楽の音体験を「セリフ」無しで表現しており(音楽的な構造として)、その曖昧さが時に人に無理解を強いるのです。
 
従来の「ソナタ」形式の音楽による「主体的な感情の表現」がそこに行われているのではなく、ワーグナーの劇の背景になるような音楽で、いわば幾分かの客観性を持って、交響曲が描かれているということになります。
 
日本でブルックナー人気を広めた評論家の宇野功芳氏は、次のように述べています。
 
<ヨーロッパでも、フルトヴェングラーのワーグナーは神格化されているようだが、僕には少なからぬ疑問がある。それは彼のブルックナーを高く評価し得ないのと同じ理由によるものだ。クナッパーツブッシュにしても、マタチッチにしても、朝比奈隆にしても、ブルックナーをすばらしく演奏できる指揮者は、ワーグナーもまた見事である。ブルックナーとワーグナーでは一見何の共通点もないようだが、造形感覚と客観的で透明なひびきが似ているのであろう。ワーグナーにおいても、その造形はソナタ形式的ではなく、細部をじっくりと積み重ねてゆくやり方で進めるべきだし、色彩感はブルックナーよりもずっと官能的ではあるが、どこまでも透明感を失ってはならない。つまり人間味が出すぎてひびきを濁らせてはならないのである。
 
ブルックナーの場合と同様に、クナッパーッツブッシュのワーグナーを最高のものと考える僕にとって、フルトヴェングラーの演奏はあまりにもソナタ形式的であり、意志的、主観的、人間的でありすぎ、つけ加えられたドラマがありすぎる。したがって音楽自体が自然に息づかず、ワーグナーを聴くよりはフルトヴェングラーの音楽を聴く感じが強い。彼のブルックナーほどの抵抗はないしても、僕はもっと雄大なワーグナーの世界に浸りたいのである。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)
 
 
↑、上の記述は宇野功芳氏の書籍から、ワーグナーを演奏する際の、フルトヴェングラー論です。論述は演奏論の本質を突いていると思います。しかし、この評論家で問題になるのはこうした論理を、自分が好む演奏家とそうでない演奏家について、あてはめたり、あてはめなかったりで、恣意的にすぎるところかと思います。また、フルトヴェングラーの演奏した、ワーグナー、ブルックナーが名演か否かは、もっと多角的な議論が必要でしょう。ただ、情報量が多くなりすぎるので、ここでは止めます。一応、日本でブルックナーを薦めた、「張本人」という位置づけで、宇野氏の意見にある程度即して、ここでは進めています。
 
ワーグナーの場合、人間の情念は劇で表現されるために、背景の音楽は各部の情景や状況などの表現に使えるわけです。しかしブルックナーの音楽については、セリフや劇の進行があるわけではないので、ワーグナー流の描写性で描ける、自然の情景や、この世の崇高さの表現に特化していきました。しかも、彼の音楽は「標題音楽」ではなく、「絶対音楽」として認識されています。
 
マーラーとブルックナーにおいては、その音楽の本質が中々解明されませんでした。よくいわれるように1960年代以降、その解明が進められてきたわけです。その際、ブルックナーの音楽の本質を知る場合、上のような宇野功芳氏の意見は非常に有益で、ブルックナーにおいては、ドイツの指揮者ギュンター・ヴァントが現れるぐらいまで、その理想形を、繰り返し追及されてきたように思います(ヴァントは当然宇野氏の論理などは知りませんが、彼らがブルックナーに抱いていた理想形はよく似ていた、と考えられます)。しかし、ヴァントのような高度な表現で追及されてしまうと、他の指揮者たちはもっと別の道筋を探そうとするのは、故無き事でもないと思います。
 
 
↑、ギュンター・ヴァントの演奏したブルックナー5番(1996)。近代的な精緻さと、古い時代の理想を融合した演奏で、ベルリン・フィルを使い、20世紀のブルックナー演奏のクライマックスともいえる素晴らしい演奏だと思います。
 
また、これも複雑な話になっていきますが、宇野功芳氏のような論述にある指揮者というのは、実は各自の生理的な嗜好がどうしても加味されてきます。フルトヴェングラーにクナッパーツブッシュのような指揮をしろといっても無理な話で、その逆も然りです。
 
そういう理屈でいえば、どうも生まれつきの資質によって、指揮者は或る程度「向き不向き」の作曲家があると思え、そうなってくると、演奏できる作曲家も限られてくることになります。こうなってくるといわゆる「クラッシック原理主義」とでもいえる状況になり、あの指揮者があの作曲家の演奏をするのはおかしいということにもなります。
 
そこに真っ向から対立するのが「楽譜を正確に演奏する」という考え方です。楽譜は専門を教育を受けた人物なら誰でも読めるわけで、誰かが勝手に占有できるものではないという考え方です。いくら大層なことをいっても、演奏できるならしてしまって何が文句がある、ということです。
 
「スコアがすべて」という意見をいったのは名指揮者のトスカニーニです。彼にいわせれば、上述のような演奏論など御託にすぎず、うんちくなど不要ということになります。
 
理屈で演奏を縛るとはどういうことか?ということになりますね。
 
ただ、そのような演奏論の対立を超えて、中々評価されてこなかった、「ブルックナー」や「マーラー」のような作曲家は、1度はどうしてもその作曲家や演奏家の内面的な演奏論などを利用して、理想的な演奏というものが行われないと、人々の理解は難しかったということになると思います。その点において、宇野氏の論理は擁護されうる部分があると思われます。
 
さて、前置きと能書きが長くなりすぎましたが、ミンコフスキのブルックナーの演奏は、非常に変わった、個性的で、新しい演奏であると思います。このような演奏ができるのも、今日ブルックナーのいい分を伝えようとしてきた過去の演奏家たちのお陰であり、市民権を得たからこそできる演奏だったように思います。
 
ミンコフスキは過去の演奏家の作ってきたブルックナー像に頓着することなく、独自の感性で演奏を繰り広げました。旧来の理想からいえば、そうではない、という演奏になると思います。
 
 
↑、過去記事です。実はこの日は片頭痛がひどく、体調が完全ではありませんでした。前から4列目で聴いていたせいもあって、大きな音に途中から耳も痛くなりました。体調万全だったら、また感想は違ったかもと思います。
 
ツイッター上からいくつか意見を拝借します。
 
 
↑、旧来の原理的なブルックナー演奏からは離れた演奏だったことを、物語っています。それができたのも多くの人が、ブルックナーを理解できるようになったからです。ですので市民権を得てきている、という話になるのだと思います。今後も変わった演奏は増えるかもしれません。
 
 
↑、オールド・スタイルにブルックナーの理想を求めている人には、満足のいく出来ではなかったということになります。
 
 
↑、やはりバロック風というか。しつこくなく、重量級の演奏でしたが、躍動感はまさにロマン派以前の感じがしました。そのような性格を示しながらも、第1楽章から第3楽章までは平均的な演奏だったと思います。
 
 
↑、ブルックナーの第5のフィナーレは3つの主題からなり、フーガ形式の第1主題と爆発的な第3主題は強烈な威力を示します。それ故、本来その音の造形は主題の性格によって、巨大に揺れて、壮大な迫力を生みます。しかし、ミンコフスキはそんな「本来あるべき」みたいな考えを捨てて、異常な速さでフィナーレを演奏しました。そのせいで、音楽はひどく直線的になり、各主題もその流れの中に埋没してきます。そのあり方は、まさにベートヴェンの音楽のようです。特にフィナーレはベートーヴェンの第9のように、1楽章と2楽章の主題の回想から入ります。この辺を聴いていると、自分も同じようにベートーヴェンのことを思い出しました。
 
つまりミンコフスキはロマン派のブルックナー像を捨てて、非常に古典的な造形の中に、無理やりブルックナーの造形を解かし込んだ形になりました。
 
そしてフィナーレであれだけの効果をあげると、これはそれなりの評価が出て当然ですし、成功したといって良いと思います。
 
ただこの演奏が録音されて、歴史的な他の録音と比較されれば、まさに「異端」と感じられるのも事実ではないかと思いますね。
 
 
↑、ゲオルク・ティントナーとスクロヴァチェフスキによる全集。ブルックナーの演奏はカラヤンやアバドというような中央楽団の指揮者の演奏よりも、地方の、頑固な職人指揮者の方が、その本質を露にすることが多かったと思います。
 
ブルックナー交響曲5番。改訂癖のブルックナーにとっては、ほとんど改訂を施していない曲の1つです。後期の7・8・9番に匹敵するスケール感があり、後期程の流れの良さはないものの、力強さはこれらをしのぎます。
 
ブルックナーの曲に感じられる、自然崇拝とはやや異なった印象を見せる曲でもあり、第1楽章の導入部の鋭い音の柱の羅列は、彼の信じた神への、憧れと、絶対的信仰、そして帰依を思わせるものがあります。  
 
ブルックナーの頑固な人柄を思わせるような、ゴツゴツした威容を持つ曲ですが、ラストのこの世への賛歌は、聴き手に圧倒的な感動を呼びます。シベリウスが涙を流すほど感動したのも頷けます。
 
 
フランツ・コンヴィチュニーによる「ブルックナー5番」(1961)。
 
825275ー825276。旧東ドイツ、エテルナのレコード。
 
 

そこまで「原理的」なブルックナーとはいえませんが、オールド・スタイルの、中々に充実した演奏だと思います。特にライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の熟した音の魅力などは素晴らしいです。

 
コンヴィチュニーの演奏は土台がしっかりと安定し、豊かな音楽性で、よどみない演奏を繰り広げます。
 
 
↑、第1楽章の初めのみ、音を入れます。ブルックナーはこの交響曲で、初めて導入部を選択しました。おずおずと何者かに近づくと、そこには巨大な音の柱がそそり立ちます。文学的な見方をすれば、そこには1種の神秘主義か、幻想的なイメージが湧くとさえいえます。
 
 
↑、壮大な音の柱が繰り返しそそり立った後、初めて第1主題に入ります。ワーグナーの音楽も突如として、強音部になることがありますが、ブルックナーの方がやや突飛な感じが多いように思います。ワーグナーは巨音部になる前に、段取りを踏むことが多いですね。角が立つ音楽が多いこと、この辺はブルックナーらしい音楽かと思います。
 
 
↑、第1主題の終わりまで。