最近、「X」(旧ツイッター)のトレンドで「ブルックナー」の文字が良く上がってきます。何でだろうかと思っていたら、来年はアントン・ブルックナー生誕200年で、ブルックナー・イヤーだそうです。ちょっと前夜祭っぽい雰囲気なのでしょうか?
しかし、クラシック音楽を知らない人にはマイナーな作曲家なので、前夜祭といわれても、一般の人にしてみると、何のことだか・・・?ということでしょう。
おそらく騒いでいるのは自分を含め、いわゆるブルヲタばかりなんだと思います。
ただ、最近ブルックナーを、自分もコンサートで聴きますが、新譜などは求めなくなりました。若い時は大好きで良く聴いていましたが、聴きすぎて、ちょっと飽きております。
上のように、SNSで話題に出たりするので、何となく昔聴いてきたときの感じなどを思い出したりします。先日も河口湖に行きましたが、あのような景色を見ると、自然とブルックナーのことを思い出したりもします。
↑、最近は巨匠扱いのダニエル・バレンボイム。
しかし、指揮者ダニエル・バレンボイムは日本人にはブルックナーは理解できない、とかいったとか。しかしバレンボイムもどうなの?という疑問はありますけど(色々な意味合いで)。
現地の音楽の本質は、現地の人しか分からない、という感じでしょうかね。
ブルックナーではないですが、「ドイツ人の音楽家にいわせると、ブラームスを正統に演奏できるのはドイツ人だけなのだそうである。ヨーロッパの他の国はもとより、日本人は決してブラームスの様式を理解できないーーー彼らは口を揃えてそう言うのだが、なるほど、その通りかもしれない。」(大作曲家たちの履歴書、三枝成彰著から)
こういうことをいわれると、我々にはもうどうしようもありません。日本の「能」を外国人にやらせても、その神髄は表現できない・・・みたいな話でしょうか。
しかし最近では「ブルヲタ」(ブルックナー・オタク)なる言葉まで日本ではでき、理解できないまでも、好きな人はいるということで、まあ、好きなら好なりの理解があるということで、少し話を書こうということです。
今回は特にブルックナーの音楽の「自然性」について、考えたいと思っています。
結局のところ後期ロマン派の音楽は、その描写性の高さから、音楽以外の要素に依存することも多く、絶対音楽といわれるブルックナーの音楽でさえ、その影響は免れないと、自分は考えています。
ワーグナーやベートーヴェンの影響が大きい彼の作品ですが、その性質と気質、内容はよほど、北欧フィンランドの作曲家、ヤン・シベリウスの音楽と近いところがあり、自然描写については、かなりの程度まで似通っているとさえ思います。
ところが旧来から音楽学者や評論家は「音楽の描写性」を嫌い、辛辣な意見を述べます(特に自然描写を思わせる部分など)。自分が良く引用する、H・ショーンバーグはシベリウスを嫌い、せいぜい2流の作曲家といい、次のように述べます。
<例の辛辣な調子でトムソンは、世界に心からシベリウスを愛好する人たちがいるのは知っているが、「教養ある職業的音楽家で、シベリウスを愛好する人間に出会ったことはない、と私は告白する」と書いた。
トムソンは、多くの音楽家が思っていたことを代弁しただけであった。彼らにとり、シベリウスは後期ロマン派の時代遅れの遺物同然だった。
・・・(中略)・・・
最後の4つの交響曲は、格別に民族主義的でさえない。ただ解説者たちは、その中から氷に閉ざされた北国の樹木、雪、山を読み取ろうと懸命になるが。>(「大作曲家の生涯」から。邦訳、亀井旭、玉木裕)
まるで、シベリウスの描写性を否定するような発言でさえあります。以前も引用しましたが、彼は以下のような発言をしています。つまり、プロの音楽家は「描写性」の強いのもには惹かれず、標題も無視するべきである、というような内容です。しかし逆に考えれば、そこを見落とすからこそ、シベリウスやブルックナーの良さを見逃している、ともいえるのではないでしょうか?(ハンスリックやアドルノを経て、20世紀の主要な音楽思想となった、「無機的な音楽原理主義」ともいえるものを、評論家や学者は恐れていた。だから彼らはそういった主張に逆らうことなく追随した。それは音楽家も同様だった。)
<どんな人でも自己流に音楽を聴く。あまり音楽に詳しくない人は一種の補助手段を必要とし、どんな音楽にも絵を「見る」傾向がある。プロは異なった聴き方をして、形式、(譜表の五線の)線、発展の仕方に神経を集中し、どんな音楽でも標題を完全に無視することが多い。>
これは以前の記事で引用した、ショーンバーグの意見です。
↑、過去記事です。
↑、過去記事です。
上の記事の中でも書いていますが、日本の音楽評論家、吉田秀和氏も、北欧の作曲家グリーグについて、次のように語っています。繰り返しになりますが、引用します。
<(グリーグは)シューマンの流れをくむ抒情作曲家で、ロマン派和声のおもしろいところもあるが、かなりに甘ったるいサロン向きのマンネリズムが鼻につく。私たちはもう彼の『ピアノ協奏曲』も、卒業してよいころではないか?これはシューマンのそれにならったもので、別にわるい作品とはいわないが、いかにも亜流だ。>
個人的にはこの辺の意見は、一体「どっちが鼻につくのか?」というような意見でもあります。
書式が同じだからといって、愛好家はおそらく、シューマンとグリーグのピアノコンチェルトを同じ音楽とは思わないでしょう。グリーグのコンチェルトには、ショーンバーグが、いみじくも、シベリウスで否定したような、北欧特有の描写性があり、そこを楽しみに曲を聴いている人も少なくないと思います。この作品に比べると、シューマンの曲は、人間感情としてのロマンティックな思いが描かれ、その発露に目的があって、書き方が同じであっても、そこから出てくる「曲の内容」は全く別物であるといえます(グリーグに感情表現がない、といっているのではありません。日本人にとってみれば、グリーグの音楽がもつエキゾチズムは魅力だし、音楽を聴くという行為は、そういった内容を聴く、という意味合いも含んでいると、自分はいいたいわけです)。
こういうことを「学者」たちは否定しがちだと思うし、「人間の感性」に関することを否定する運動は、のちの「無調音楽」によって頂点を極めたともいえます。
そしてこのような、内容の描き方の違い、を読み取ることは「後期ロマン派」の音楽を聴く側にとっては、必須のことではないでしょうか?
ブルックナーにしても同様で、その自然を思わせる描写性は、否定しがたいと自分は考えています。難しいのは他の標題音楽にある、「標題」がないことで、それを各自で補って聴かねばなりません。
始めから、ドビュッシーのようにこれは「海」を描いたものである、といってくれれば良いものを、ブルックナーやシベリウスは黙っています。しかし彼らの音楽を好む者たちは、そこに自然描写があるというわけです。しかし音楽で描いたものをそこまではっきりいい切れる根拠は何なのか、ということになるのだと思います。
各自が描いている、イマジネーションの問題を的確に表現するのは難しいでしょう。しかし多くの人がドビュッシーの音楽の内容に文句をいうでしょうか?ショーンバーグの、以下の文章を再録します。
<文学的内容を知らないまま、初めて「幻想交響曲」を聴く人は(リストの「前奏曲」、シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ドビュッシーの「海」でも同じだが)、その標題を推定することができないだろう。>
確かに初出で表題のないドビュッシーの「海」を聴いても理解はできないと思います。しかし今や、何十年も演奏されているシベリウスやブルックナーにも同じことがいえるでしょうか?
シベリウスやブルックナー愛好家が、そこに自然描写があるという時、それは本当に音楽の主題を理解してないといい切れるのでしょうか?個人的にはシベリウスやブルックナーにおける、美しい自然の描写性は認められて良いと考えています。
<当のマーラーは、ドイツの作曲家で音楽評論家のマックス・カルベックに宛てて、「ベートーヴェン以降、標題音楽を内に秘めていない現代音楽は存在しない」と述べている。20世紀に聞くこの言葉はなんともアイロニカルに響く。>(「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」、ジョン・マチュウリ、松村哲也訳)
ギュンター・ヴァント指揮、「ブルックナー交響曲8番」(1993)。
自分は、ギュンター・ヴァントの演奏した、ブルックナー交響曲8番の演奏を複数持っていますが、これが1番好きです。名演といわれるベルリン・フィルや、ミュンヘン・フィルの演奏と比べても、この北ドイツ放響との演奏を好みます。ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルの演奏は力強く、確信に満ちています。これ以上ないほど迫力があります。しかし、おかげで、この曲が持つ、ナイーヴな感触、青白い感情などが吹っ飛んでいます。しかしこの演奏は、そういったナイーヴな感触を残しつつ、非常に静けさに満ちた演奏になっており、この曲のイメージそのものを表現していると、個人的には感じるところです。
ブルックナーの交響曲第8番のアダージョは、彼の傑作のひとつで、大きな音楽的空間の中に、神秘的なアルプスの自然描写が音楽的に閉じ込められています。
25分程度かかる巨大な楽章で、壮大な広がり、多彩な曲想、どれをとっても一流作曲家のものだと思います。
特にこのアダージョは、ブルックナーの最高傑作といわれる、交響曲8番の核心部分といえます。
第1主題はゆらめくヴァイオリンの伴奏の上に、ファーストヴァイオリンが瞑想的で清澄な思いをのせていきます。そしてそれがハープの音色を伴って抜けていきます。その様子はまるで、透き通った、静けさに満ちた湖面を思わせます。
同じ音形が繰り返され、時間をかけることによって、空間的な雰囲気を醸し出します。
チェロが導く第2主題は優しさに溢れ、森の奥へと導く様な、親密な感情に満ちており、この楽章の持つ奥深い導入部となっていきます。
神秘的な森の中を進むように流れる音楽は、静かに高揚する心を表現し、徐々に入ってくるホルンの音色は、遠くに見える山脈の、稜線を表すように響きます。
↑、ツイッター上で、ブルックナーの音楽から受けるイメージをのせてる人がいましたが、自分は、まさにイメージとして共有できるものだと思います。豊かに鳴るホルンが、まるでアルプスの険しい山並みのように響くさまは、ワーグナー、パルシファルの「信仰の主題」を思い出させます。
主題が絡みながら、徐々に高揚するパッセージは、金管楽器の描く雄渾な山並みの雰囲気に支えられて、聴き手にこれ以上ない安心感を与えつつ、この世への信頼と信仰を力強く描いていきます。
↑、豊かに広がる山並みを思わせます。
そしてクライマックスで、高揚の頂点を迎えると、音楽は静かな第1主題を呼び戻し、この世への浄福感を極めます。
ウィーンの評論家、エドアルド・ハンスリックは、音楽で感情は表現できないし、その論理はあくまで形式でなければならいと考え、ブラームスの音楽の擁護者でした。
<ハンスリックは1854年に『音楽美論』を出版し、以後音楽界の大物として1904年に亡くなるまで50年にわたり、ウィーンに君臨し、批評を続けた。ワーグナーを痛烈に批判する立場を取り、ワーグナー陣営から保守的とみなされていたハンスリックは、好き嫌いにかかわらず音楽は普遍的な美であると主張した。音楽に感情が入り込む余地はなく、ある種の感覚を呼び覚ますことはあっても音楽が感情を表現することはないと主張した。そして音楽は音と運動であり、音楽の美は形式に、形式にのみ根差すと考えた。音楽が何かを描写すると考えるのは論外だった。>(「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」、ジョン・マチュウリ著、松村哲也訳)
1部真実ですが、極めて狭量な論理を持つ彼は、この第8交響曲の初演を聴き、不満を覚え、これ見よがしに第3楽章が終わった時点で、席を立ったといいます。彼が新聞に寄せた批評には次のようにあったといいます。
<この作品の特色は、一言でいえば、ワーグナーの劇的様式を交響曲に移しかえたものである。>(ブルックナー、根岸一美著)
ハンスリックにしてみれば、彼の信奉する絶対音楽が、彼の提唱する美学だけでなく、ワーグナーらが追及した、劇的な様式と、描写音楽でも表現できることが証明されてしまったわけです。
しかし、20世紀の潮流はハンスリックの美学の影響を受けて、極めて無機的なものと変容していきます。
<多くの人の信じたところによれば、マーラーの永久の探求心、世間と妥協できない性質、罪悪コンプレックス、疑惑と不安―――これらすべての要素によって、マーラーは同じように疑惑と不安にさいなまれている時代の予言者となったのだ。昔はすくなくとも、ちゃんとした宗教を信じていれば安心していられた。ところがカトリック教に改宗したユダヤ人のマーラーは、ユダヤ教もカトリック教も信仰せず、人生の回答を1つも見出すことができなった。彼と同時代のほとんどの人びとは、自身と宇宙の間に一種の平安状態を作り出すことができた。マーラーにはそれができなった。そして今日、そうできる人々は、ますます減少している。>(「大作曲家の生涯」から。邦訳、亀井旭、玉木裕)
ブルックナーの音楽にはまさに「自身と宇宙との平安状態」が存在しています。ブルックナー8番の第3楽章、アダージョを聴けば、極めて安心感に満ちた雰囲気の中、深い自然の情景の懐に抱かれるような感触を味わうことができます。
そしてその表現の深みは決して、ベートーヴェンやブラームスの音楽に比べても、劣るものでないことは愛好家であれば実感しうるところでしょう。
↑、チェリビダッケの演奏で、フィナーレの初めのみ、音を入れています。





