ブルックナー1番・ウィーン稿 |  ヒマジンノ国

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コンサート評は備忘録として書いていきたいと思います。

 

今日は下野竜也氏の指揮、東京都交響楽団で、ブルックナーの交響曲1番を鑑賞しました。しかもウィーン稿です。

 

コンサートが始まる前に、能登半島地震の被害者に捧げる、バッハのアリアを演奏。その後しばし、指揮者とオーケストラは、被災地に黙祷をささげました。

 

前半はモーツアルトのピアノ協奏曲24番。モーツアルトは破綻のない、常識的な解釈。ピアノは津田裕也氏で、しっとりとした表現だったように思います。

 

ブルックナーの交響曲1番、ウィーン稿は、いわゆる初期のリンツ稿を後期様式に沿って改訂したものです。8番(1890年稿)の後に改定したもので、人によっては初期稿に厚化粧を施したもの、という意見もあります。元来ウィーン稿が初めの発売だったといわれているようですが、1935年にリンツ稿をハースが発表し、今日ウィーン稿を演奏する人はほとんどいなくなりました。有名どころでは、クラウディオ・アバドかG・ヴァントでしょうか。

 

ヴァントは基本的にブルックナーが、最終的に手を入れたものを決定稿にすべきという立場です。個人的にもこれが良いとは思いますが、ウィーン稿をやる人は少なくなっています。両者、全体的に曲想は同じですが、改訂稿の方が構造的な安定さを増しており、特に4楽章のコーダはリンツ稿のように、メインの旋律が息長く吠えるよりは、立体的で俯瞰的な構造に変化しています。

 

今日の、都響の演奏は良かったと思います。どの楽器も良く鳴り、ブラスも良く揃っていました。充実感がありました。自分はこれぐらいやってくれれば満足です。

 

どの楽章もムラのない出来で、楽しかったです。

 

今回改めて思ったのは、ブルックナーのスケルツォは、かなりの迫力がいるんだということを実感しました。2年前インバルで4番・初稿を聴いたときも、スケルツオからフィナーレの導入部の勢いというものが、曲の魅力につながっていると感じましたが、今回もそうでした。

 

迫力あるスケルツオが終わり、火の玉が飛んでくるような4楽章の初めの主題が始まるとワクワクします。

 

4楽章も良い出来でしたが、個人的な要求をいえば、コーダはもっと粘って欲しかったです。まあ、やってくれる人はほとんどいないでしょうけど。

 

昔、評論家の宇野功芳氏が、朝比奈の演奏したブルックナー3番をべた褒めしてましたけど、その理由が、初期の曲を、後期のようなゆっくりしたテンポで演奏したからでした。

 

実はこの4楽章のコーダには、その朝比奈の演奏と同じようなことがいえて、初期の交響曲として流してしまうのではなく、粘って壮大にやると、この作曲家の意図した、後期への改訂への意味がはっきりします。

 

今回はまあまあ粘ったような気もしましたが、でもやっぱりちょっとコーダは取ってつけたような感じには思えました。粘りが足りないんじゃないかね?

 

シャイ―の録音がそこはうまくやっているんですね。評論家の金子建志さんがそのシャイーのライナーノートで熱っぽく語ってますけど。

 

まあ、しかし今回これだけのものが聴ければ正直かなり満足でした。文句をいうべきでもないかなと思います。

 

色々いいましたが、結局4楽章のコーダも大変な迫力があって、オーケストラ全員が、体がひっくり返るぐらい必死に弾いているのが、良く分かりました。それだけでも落涙ものですけどね。