ジョナサン・ノットによる大地の歌 |  ヒマジンノ国

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今日はサントリー・ホールでジョナサン・ノットによる、東京都交響楽団の演奏を鑑賞してきました。曲目は武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」、アルバン・ベルクのアリア「ぶどう酒」、そしてメインがグスタフ・マーラーの「大地の歌」です。

 

前半の武満とベルグだと、ベルクの方が聴きやすく、マーラーと時代、国も近いので、親和性があると思いました。独特の退廃性を感じます。武満は、まあ、どうでしょう?こういう音楽は自分には合いませんね。マーラーとかブルックナーをやると、前座に現代音楽を入れたりすることが多いです。コンサート・プログラムの穴埋めになるんでしょうが、無理に聴きたい曲でもありません。しかし、思ったより褒めている人もいますね。

 

とはいえ、今回はやはり「大地の歌」を聴きに来た人が多いのではないかと思います。これは大変な名演でした。

 

ジョナサン・ノットの作る、音質はクリアで精緻ですが、独特の弾力を感じさせます。またノットは曲想の意味をちゃんと追うので、しっかりと音楽における前後のつながりがあります。聴き手も同様に音楽の意味を追いますから、緊張感が途切れません。今回は一瞬も飽きずに聴いていられました。

 

歌手の2人も見事でした。テノールのベンヤミン・ブルースの方が声に輝きがあり、声量も大きく、良く抜けました。特に第5楽章「春に酔った者たち」など、オーケストラの明るい迫力と相まって、エネルギーの塊のような響きとなりました。

 

メゾ・ソプラノのドロティア・ラングは出始めこそ、やや地味でしたが、第6楽章の「告別」では存在感を発揮します。

 

ただそれは多分、ノットのせいでもあるんだと思います。綿密に音楽の意味を拾いつつ、つなげて来たフィナーレ。諸行無常の鐘の音と相まって、厭世と慰めに満ちた音楽が展開されます。「大地の歌」は全編に中国の古代詩人の「詩」を元にした「歌」が付きますが、フィナーレの中間部では「歌手」が一旦退き、曲の持つ厭世的な雰囲気を、オーケストラだけで切々と訴えていく部分があります。

 

ノットの作り出す音楽は、この時点で非常に切実な雰囲気を醸しだしていました。この世のわびしさとか寂しさとか、胸に迫るような演奏でした。そして最後にもう1度、ドロティア・ラングが戻ってきて、この世に対し、惜別の念を歌い上げますが、その切実な雰囲気の中、彼女の姿と歌いぶりは非常に感動的でした。神々しささえ感じました。

 

中々こんな風には聴けないな、と感じた瞬間です。

 

 

 

自分は非常な名演だったと思いますね。ちゃんとマーラーを聴いた、という気持ちが強く、とても満足できました。


カーテンコールで聴衆の熱狂を見て、ラングの表情がみるみる自信に満ちたものになっていくのが、非常に印象的でした。その後も心から喜びを伝えるように、胸に手を当てて頭を下げていました。ああいうのは演奏者と、聴き手が一体になる瞬間で、素晴らしいな、て思います。