ヒマジンノ国

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米国のトランプ大統領がベネズエラのマドゥロ大統領を、軍事力を行使して、拘束し、米国で裁判にかけるとか。ベネズエラは麻薬の大量供給国で、マドゥロは独裁体制をひいてその利益にあずかっていたともいいます。ベネズエラ国内でも不人気で、色々いわれていたそうです。

 

トランプ大統領のやり方が国際法に違反する、という話はとりあえず置いておいて、D・トランプ氏は米国を含む、アメリカ大陸を他の地域からの影響から切り離す、いわゆるモンロー主義に近づけたいようです。

 

19世紀の南北米大陸が、旧宗主国である英国やスペインから独立し、その影響を排除したいという旨を、米国のモンロー大統領が宣言しました(モンロー主義)。日本が真珠湾を攻撃したことによって、そのモンロー主義は終わりをつげ、米国は超大国となり、世界に覇権を及ぼしました。しかし今日D・トランプは再びアメリカ大陸を、他国の影響から独立させたいようです。その念頭にあるのが、今回はヨーロッパ大陸と同時に、中国になるのだと思います。

 

ベネズエラの石油利権は中国やロシアと関係があるとされていたので、この軍事行動はその一環だと思います。グリーンランドの領有権にしてもあそこはデンマーク領なんですね。まずは欧州の影響力の排除があり、次にそのデンマークから手を伸ばしかねない、中国などからも切り離したい意向があるようです。

 

トランプが狙っているのは、世界中が地域ごとにまとまり、コミュニティーを作ることのように見えます。覇権主義で世界の警察を演じるアメリカではなく、地域の1つとしての米国を目指しているようです。

 

台湾有事についても、D・トランプ氏の米国は、その米国の地域的独立を脅かすのなら、手を出してくるという塩梅ではないかと思います。中国が力を持ちすぎれば覇権行為に出ますので、それができない程度には行動を起こすのかと考えています。

 

トランプ氏 |  ヒマジンノ国

 

ウクライナ・ロシア紛争もワンチャン、解決の可能性があるのかもしれません。上の記事の中で自分はこう書きました。

 

「ゼレンスキー対ヴァンスの口論の直前、米国はゼレンスキーの代わりになる人物を欧州で探していたといいます。これはうまくいかなかったようですが、最近では米国の調査団がウクライナ入りし、米国の寄付金が何に使われているか調査をするという話も聞いています。」

 

その後、この米国の調査団せいかどうかは分かりませんが、ゼレンスキー政権の汚職が発覚。

 

 

去年の中頃はウクライナ・ロシア紛争の停戦の失敗や、エプスタイン・ファイルの公開も渋っていたトランプ氏ですが、ここにきて時間はかかっていますが、一応公約通り、エプスタイン・ファイルの公開に踏み切ったようですし、ウクライナ・ロシア紛争も粘り強く終戦に向けて交渉しているように見えます。

 

ついにあのファイルが!ビルゲイツ、ケビンスペイシー、ミックジャガー、マイケルジャクソンやビルクリントンの写真続々と!米司法省エプスタインファイルを公開!

 

↑、ユーチューブの「プク太の世界時事ニュース」チャンネルで、エプスタイン・リストの公開第一段時の様子を簡単に紹介しています。

 

ウクライナはロシアと西側に挟まれて、歴史的に、政治的な安定性が生まれにくい場所だったそうです。そのため政治の腐敗も大きく、賄賂などが横行していた、というのは割と有名な話。各国からの寄付金も何に使われていたかは分からない、というのが事実です。

 

個人的な見解ですが、ゼレンスキーはロシアのプーチン以上に問題のある人物だと思っていて、彼がしっかりしていれば今回の悲劇は起きなかったと思います。

 

ポロシェンコ、ゼレンスキーという2代に渡る腐った政治家のせいで、ウクライナは存続の危機にあるのは自明、当然プーチンがいけないという話も分かりますが、ゼレンスキーが居座ると和平も中々進まないのでしょう。

 

プーチンを排除しようと思うと、それこそ第3次世界大戦に近いことをしないと無理です。それを西側のエリートや政治家たちがウクライナを使って狙ってきたわけです。元々ウクライナ内の内戦を止めさせることを前提に、大統領に選ばれたのがゼレンスキーだったんですよね。そういう意味ではウクライナの国民は間違った選択をしたわけではないと思います。

 

ところが国内をまとめ切れなかったゼレンスキーは西側のパペットとなり、急先鋒となりました。国内問題をロシアの介入を許すことによって、国際問題化した。これって世界中の物価高の一因になってもいます。

 

そこに投入した支援金も何に使われているか分からないという現状です。ゼレンスキーも自分が何をやってきたか知らないはずもなく、色々はっきりすれば自分の身も危ないのは分かっていたと思います。当然簡単には折れません。

 

しかしここにきて、政権の汚職が暴露されたことによって、やっと和平の兆しも出てきたように思います。

 

昨日は、去年の年末からバレエや第9など、複数の演目を日本で公演している、ウクライナ国立劇場の公演の1つを聴きに行ってきました。東京文化会館です。

 

演目は歌劇の「トゥーランドット」です。中国の冷酷な姫、トゥーランドットとその愛を求める、ダッタン人の王子カラフの物語です。

 

ウクライナ国立劇場の演目、歌劇に関しては、ヴェルディのアイーダとプッチーニのトゥーランドットの2演目。自分は最近プッチーニが多かったのでアイーダにしたかったのですが、良い席がなく、空いているトゥーランドットを聴くことになりました。

 

この公演は、値段が新国立劇場より安い。海外オペラとしてはずいぶん安く、何でだろうと思っていたんですが、幕が開くとオーケストラは小編成、合唱団も比較的少人数で、コンパクトな演奏となりました。本国が戦時下である影響なのかもしれません。

 

小編成ながら透明感がなく、やや泥臭い感じのするオーケストラは、さすが東欧のサウンドといったところで、独特のローカル色があると思います。

 

1幕目は、悪くないですが、やはり全体に浅めの響きであり、密度不足を感じさせました。歌手もまだ調子を発揮していない様子。幕間に「この程度なのかな」と思いました。

 

しかし2幕以降は持ち直したようで、少人数ながらコーラスは太い声でパワーがあり、オーケストラも小編成とも思えないような迫力を出しました。この日はこの第2幕が1番美しかったように思います。第3幕も安定した出来栄えで、最終的に納得した観劇になりました。

 

歌手はリュー役のグレヴツォヴァを筆頭に、ティムールのコヴニール、カラフのズラコマンなど中々魅力的な歌唱を聴かせました。ただ全員役にこなれているせいか、少し新鮮味に乏しくありましたが、逆をいえばそれなりの完成度にあると感じます。

 

 

↑、タイトルロールのヴィクトリア・チェンスカは主役級の中では1番落ちたかもしれないです。しかし外見がトゥーランドットそのものに見えますね。

 

細かい傷があるのかもしれませんが、全体を通すとそれなりの感動を与える公演だったと思います。

 

しかし余談ですが、個人的にこの歌劇、第3幕は脚本に問題ありだと思います。奴隷の女性リューの自害で、トゥーランドットの氷のように冷たい心も融け、カラフへの愛を発見するという筋なんでしょうが、説得力が弱いですよね。

 

リューはカラフを愛していて、そのせいでカラフのために死ぬんですが、リューが死んだ後のカラフの対応が結構冷たい。若干リューの死を嘆くものの、そのまますぐにトゥーランドット姫を口説きにかかります。

 

おいおい、リューはお前のために死んだんだぞ、もう少しなんかあるんじゃないのか?とは思いますよね。「そこに愛はあるのか」と問わずにはいられません。トゥーランドットも心変わりが早すぎる。

 

カラフは劇全般を通して、ほとんど問題がない人物として描かれているのですが、この重要な瞬間にカラフは人の気持ちが分からないサイコパスに見えるといっても過言ではないのでは?

 

確かにリューの自殺に焦点を当てても、劇内容にずれが出るので、リューが自分勝手に死んだといった方が良いんでしょう。まあ、この辺、現実世界でプッチーニのメイドが「勝手に」自殺した、という話とリンクする部分なのかもしれませんが。

 

歴史的な評価が定まった作品にこれ以上いっても仕方ないので、これぐらいにしておきます。

 

とういうことで個人的にこの歌劇に完全に没入できない自分がいます。トゥーランドットは派手目なオーケストラを豪華絢爛な感じで楽しみたい作品でしょうか。

 

そういう意味では次回はフルオーケストラで楽しみたいですね。

 

ウクライナ国立歌劇場の演奏に関しては、あの編成で中々聴かせる演奏に仕上げていると思いました。そういう意味では完成度は高かったと思います。

 


 

国内のどの劇場もカーテンコールの写真撮らせてくれませんが、何故なんでしょうかね。今回も歌劇団と聴衆の結びつきなどが感じられて、カーテンコールも良かったと思います。

 

明けましておめでとうございます。2026年の幕開けです。

 

2010年にブログを始めたので、今年でアメブロ16年目になるようです。しかし記事の数は950件程度で、まだ1000件に及んでいないようです(^-^;。超スローペースです。しかし、2026年内には1000件になるのかも。

 

読んで下さっている方も決して多くはありません。それでも続けているのは、自分自身、多分書くこと自体が、嫌いでは無いからだと思います。

 

それにしても、いつもこのブログを訪れてくれる方には、御礼を申し上げます。ありがとうございます。

 

クラシック記事に特化とか、政治記事に特化した方が良いんでしょうけど、自分はブログを使って、頭の中の考えをまとめていることが多いので、この体裁は仕方ないかな、というところです。

 

去年末は、政治の話のまとめも書きたかったのですが、時間がなくて断念しました。今年の初めはその辺を書きたいですが、時間があるのかどうか分かりません。また音楽の話では、1月に歌劇を2つ聴く予定ですので、その辺も書くつもりです。

 

年始の挨拶はこのぐらいにいたします。時間がある時にまた、ブログを書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

一応今年いったコンサートを振りかえって、年内のブログを終了いたします。今年は14回通ったようです。個人的にはよく頑張ったな、と思っています。月1ぐらい通えれば良いかなと考えていたので、満足しています。しかし、評判になったコンサートにはあまり行っていないので、結局立場はオルタナティブな感じのままです。マイナーなコンサートの感想が多いですかね。

 

以下今年通った各コンサートに、簡単な寸評から反省点などを拾い出して、終了したいと思います(以下の写真は全て借り物で、当日の演奏とは異なるものも多いです)。記事の1と2は連続して、下に続きます。

 

新国・さまよえるオランダ人 |  ヒマジンノ国

 

 

まずは2月1日の新国立劇場のオペラ「さまよえるオランダ人」。生での、ワーグナー初観劇だったのですが、オランダ人役のエフゲニー・ニキティン氏が体調不良で、1度の公演しか登場せず、他の日は代役の日本人がオランダ人を担当しました。自分は代役の日に鑑賞。

 

あまり書きたくないですが、この代役のオランダ人役の方があまりにひどく、ちょっとびっくりしました。劇が始まる冒頭で、支配人らしき人物が謝罪をしていましたが、現場の人間も状況を分かっていたということでしょう。国内にはワーグナーを歌える人がほとんどいないのではないでしょうか。

 

あれぐらい声が出ないと、オペラは画面が引っ込んで見えるんですね。良くないパターンを体験できたというのは、貴重といえば貴重でしょうか。「さまよえるオランダ人」なのに、オランダ人不在という感が強い公演となりました。

 

冒頭での、マルク・アルブレヒトの指揮ぶりも、くすんだ響きでパッとしません。一応後半主演者全員で盛り上げようという意図は感じました。それなりに感動したので、これはこれで勉強になりました。

 

ヤノフスキによるミサ・ソレムニス |  ヒマジンノ国

 

 

3月の終わりに聴いた、ヤノフスキによるパルシファルは途中離脱したので、除外します。

 

ヤノフスキによるベートーヴェンのミサ・ソレムニスを4月4日に鑑賞。東京文化会館での公演ですが、この時期の文化会館周辺は人だかりがすごく、あまり好きになれません。文化会館には始まるまでの待合がなく、周辺地域のカフェなども人ばかりで、席が取れません。コンサートが始まるまでに疲れてしまいます。

 

さて、肝心のコンサートですが、ミサ・ソレムニスは4月4日と6日、2回やりました。自分が聴いたのは初日。前半コーラスが、少しですが、揺れる場面があり、どうもN響含め、出演者は少し疲れているように見えました。おそらく少し前にやった、パルシファルのせいでしょう。2日とも聴いた人のコメントを見ると、後日は復調していたそうです。

 

この日の演奏で1番気になったのは「クレド」の解釈でしょう。フーガなど異常な速さで演奏し、重さのない演奏でした。この解釈が今もって、自分には不明です。従来の演奏だと「クレド」はベートーヴェンの力強い信仰告白であるはずで、力感ある力強さを求めるのが賢明のような気がします。あの演奏はあくまで「ミサ」としての主体を離れ、音楽的に処理した結果だったのでしょうか?

 

「クレド」は前述のような後半のフーガと、前半の受胎告知を示すオラトリオ風の場面からなります。これがいつものベートーヴェンと違うのは、主題動機の展開からなる、交響的なアプローチではなく、「ミサ」の典礼文の内容にそって、別種の音楽の書法が並べられている点にあります。要は「ミサ」の内容を標題とした、標題音楽ともとれます。つまり音楽は、典礼文の内容に肉薄していますが、それでもなお伴奏にすぎないのです。自分もブログの中で、この曲を勝手に彼の「第10交響曲」といっているので、問題ありですが、この曲は「ミサ」の内容を無視して音楽的な処理に終始してしまうと、「内容的な中抜け」を起こすように思えます。

 

ですのでこの「クレド」を軽くやると、後半の楽章の感動が薄れてしまいます。内容の繋がりが薄くなるからです。

 

正直、自分はあまり沢山コンサートに行く機会がないので、できるだけ「先入観無し」で、コンサートを聴きたいとは思っています。ミサ・ソレムニスも繰り返し演奏されてきた曲なので、今までにない新しい解釈があって良いと思います。しかしこの日はヤノフスキの解釈には、必然性を感じませんでした。

 

ただ、ミサ・ソレムニスを聴く機会が少ないのも事実なので、この日は実演を聴けたことを喜びたいと思います。

 

パーヴォ・ヤルヴィ N響 |  ヒマジンノ国

 

 

4月13日、NHKホールでヤルヴィ指揮のN響を鑑賞。曲目はベルリオーズ「イタリアのハロルド」とプロコフィエフの交響曲4番という渋いプログラム。

 

両曲名演だったと思いますが、プロコフィエフの交響曲は理解が難しいという印象です。個人的には精神的な糧になるかといわれれば、微妙な感じのする曲でした。

 

ベルリオーズは美しい瞬間が何度もある名演だったと思います。

 

オクサーナ・リーニフ、ヤメン・サーディ、ショスタコーヴィチ |  ヒマジンノ国

 

 

4月21日、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴きに、サントリーホールに出かけました。

 

この日も名演で、感じの良い演奏会でした。後に調べてみると、ボーダナ・フロリャックはウクライナの女性作曲家で、息子が前線で戦っているとのこと。

 

リーニフの演奏はどの曲も引き締まっており、バルトークの「中国の不思議な役人」組曲は多分十八番なんだと思います。深みはないですが、確信に満ちた演奏で、満足そうでした。

 

ルイージのブラームス |  ヒマジンノ国

 

 

5月5日、所沢ミューズでルイージの指揮するN響を聴きました。ルイージの実演を聴くのは2度目になります。1度目は池袋の芸術劇場でした。

 

1度目はあまり感銘を受けず、イタリアの普通の指揮者という印象でした。しかしこの日の演奏は大変美しく、感銘を受けました。何で、前回とはこんなに印象が違うのか?と思えるほど良かったです。日本のオーケストラでもこんなにコクのある、美しい音がするのかと驚きます。ヨーロッパのオケじゃないかと感じるぐらいでした。全任者のヤルヴィとか、デュトワのせいなのかもしれません。また、大きすぎないホールのせいかもしれないと推測しますが、今のところ推測にすぎません。

 

しかし、1度目と2度目の鑑賞経験を比べてみると、芸劇ではホールが大きくて音が散っていたように思えます。反対に所沢ミューズは、音が散らずに、音色の魅力が伝わってきました。ホールの影響は大きかったと感じています。

 

所沢の時は、自分は割とオーケストラに近い席で聴いていたので、ルイージの様子も良く分かりました。彼は肩の力を抜いて、緊張感があるものの、流れの良い音楽を作り出していました。この日のプログラムはN響のヨーロッパ公演の一部になっていたものです。

 

その後、ヨーロッパ公演の批評を確認してみました。

 

現地の批評に次のように出ていました(ブラームスとベルグのプログラム)。

 

「大音量の時代において、このパフォーマンスは、音楽が良いものになるために大音量である必要はないことを思い出させてくれました。また、指揮者は自分が望む音を得るためにアクロバットをする必要もありません。文化やジャンルを超えて、控えめな専門知識、細部への細心の注意、熟練度の高い演奏がうまくいきます。」(翻訳ソフトによる)

 

また別の批評では。

 

「柔らかく輝く音色と指揮者との絶妙な一体感が聴く者の心を捉えた(中略)。ヨハネス・ブラームスの《交響曲第4番》を聴いていると、まるでヨーロッパの名門オーケストラの演奏を聴いているかのような印象を受けた。指揮者と演奏者たちは、その曲の持つ歌謡性と情熱を余すところなく引き出していた。」

 

実際このような批評がかなり正しいというのが、この日の所沢のコンサートを聴いた、自分の意見です。

 

少し話はずれますが、日本が国際的に成功した種目に「野球」があります。ここ何年も国際的ランキングでは日本が第1位を獲得しています。その日本の「野球」の特徴といえば、パワーを生かしたものではなく、走塁や野球技術を生かした「スモール・ベースボール」です。日本のホームランバッターがメジャーリーグに行っても大体が中距離ヒッターになるように(大谷翔平の様な突然変異は除く)、パワーでは白人や黒人などには敵いません。

 

日本のオーケストラについても似たようなことを思う時があります。音は大きくないが、内向きの技術の高さを利用した演奏といいますか。この日はその良さが出ていた演奏だと思います。日本のオーケストラの良さを生かした名演だと感じました。ホルンやフルートなど、緻密に瑞々しく鳴っていました。室内楽風といって良いのか、大味感は一切ありませんでした。

 

大音量のモダン・オーケストラとは違う方向性の名演だと思います。

 

多分欧州でも、N響とルイージのブラームス辺りについては、そのような感想を持った人もいるのではないかと思います(マーラーについては良く分かりません)。米国の音楽批評家が日本のオーケストラを聴いて、欧米のオーケストラを「ノイジ―」だといっていたのを読んだことがあります。

 

何が良くて悪いかは中々難しい問題です。条件次第(TPO)で人は聴き方が変わるので、はっきりしたことはいえませんが、N響とルイージのコンビはいろんな条件次第で、かなり美しく聴こえるんじゃないのかとこの日感じました。

 

ただこの人、同じ曲目をサントリーホールや、NHKホールでやって、自分が聴こえた様に聴こえるかは何ともいえません。音が散ってしまって、散漫に聴こえる可能性もあると思います。

 

また、ルイージのこの日の指揮ぶりから見ても日本のオーケストラの緻密さを好んでいるんじゃないかという気がしましたね。ヤルヴィなんかも同じなんじゃないのかと思います。

 

そういう意味では、ルイージの芸風で、大きな劇場で彼らがどれぐらい実力を発揮できているかは分かりませんし、また、そういった大劇場で実力発揮できなのなら、実力不足という話もあるかと思います。特に、ルイージについては、NHKホールでの演奏は、かなり損をしている可能性はあるのかもしれません。

エリーナ・ガランチャ |  ヒマジンノ国

 

 

6月17日、世界的なメゾソプラノ、エリーナ・ガランチャによるコンサートを聴きました。ただ曲目に慣れないものが多く、対訳などが欲しいコンサートでした。ブラームスとラフマニノフの歌曲辺りは、対訳を、コンサートを開催する側が準備しても良いとは思います。

 

オペラとか、合唱曲の演奏でもないので、ガランチャは終始リラックスしていたように見えました。彼女の声についてはたっぷり聴けて、満足できました。

 

ただオペラの本番そのものを聴かないと、分からないことも多いとは感じます。

 

カネラキス、アリス=紗良・オット |  ヒマジンノ国

 

 

7月5日、カリーナ・カネラキスとアリス=紗良・オットのコンサート。美女2人の主演で、華やかな感じといっても良いのかと思います。カネラキスのマーラーは「男性の演奏」とは違う、という感じです。マーラー特有のエキセントリックさが少ない演奏で、独特の優しさを感じました。性差によって、交響曲の印象が変わることもあるのか、と感じましたね。

 

ソフトな印象のあるマーラーで興味深かったです。

 

アラン・ギルバートのブラームス |  ヒマジンノ国

 

 

7月18日、アラン・ギルバートによる、ブラームスの交響曲1番、2番のコンサート。このコンサートは、鑑賞後色々考えてしまった演奏会です。今回は当日書いたブログとは、少し意見を変えて書きます。

 

アラン・ギルバートの音作りは、いわゆる「日本の指揮者」とは違う、オーケストラの鳴らし方のように聴こえました。充実した、腹に響く様な低音部、旋律は水平方向に流れ、味わい深い響き。音が外側に放出されるような感じです。外国で活躍してきた指揮者だという印象を覚える、職人的ともいえるような響きでした。

 

そんな彼が演奏するブラームス1番を聴き終わったとき、充実した響きで「これで熱のある拍手が無かったら、おかしいよな」、と思ったのを覚えています。実際熱烈な拍手がありました。そのように自分もこれは多分「名演」だろうと、感じはしたのですが、実際は心ではほとんど何も感じておらず、何でだろうと思った次第です。

 

その後理由を確かめるために、複数のブラームスの1番の録音を聴き直しました。過去の名指揮者たち、クレンペラー、シャイー、フルトヴェングラーなども聴きました。でも何かちょっと違うと感じます。結局カラヤンの1977年盤を聴いて、ああこれかなと、やっと腑に落ちる録音に巡り合います。

 

特に第1楽章ですが、カラヤンの演奏は冒頭からブラームスの鬱々とした内面に広がる情熱が、もうもうと沸き立ってきます。第1の、初めの楽章における、熱烈なピストン運動が、ちゃんと縦の線を揃えて演奏されると、このような「もうもう」とした情熱が湧きたって聴こえるんですね。

 

アラン・ギルバートをはじめ、フルトヴェングラーでさえ、水平方向に音楽が流れ、この情熱が湧きたってきません。このようなスタイルなら、ザンデルリングが緻密な音楽を聴かせています。

 

多分自分は知らないうちにこのような、カラヤン型の演奏を勝手に求めていたのでした(他は有名なミンシュ盤などが同様の効果を上げていると思います)。

 

さて、その上でアラン・ギルバートの演奏をどう考えるか、です。自分はヤノフスキのミサ・ソレムニスの感想で、できるだけ「先入観なし」で聴きたいと書きましたが、この日は上にも書いたように明らかな自分の好みを持ちこんでいるのだと気づきます。誰しも「好み」はあるし、偏見を免れることは出来ません。また「好み」があるからこそ、判断の基準が生まれるわけです。しかし、「好み」を持ち出すことで、その日の演奏の良さを聴き逃してしまうこともあるかと思います。

 

この日は多分に後者の感じがあったかな、と自分は思っていて、事前にアラン・ギルバートの演奏がこれぐらいになる、と分かっていればもう少し理解もできたかなと思っています。

 

アラン・ギルバートの演奏は全体に抑制をかけた指揮ぶりで、第1楽章の頂点でも8割5分ぐらいの力の入れ方でした。全体に曖昧さがなく、緻密な音楽を聴かせました。カラヤンのような効果をあげられる指揮者は少ないので、多くの指揮者がやるような解釈です。こうした演奏自体、「王道」という方も多く、そういう意味では現代的に磨き抜かれた、大人のブラームスだといえると思います。

 

後はブラームスの交響曲について(特に第1についてですが)、自分が思っていたよりも、思い入れがあったのかと気づいたコンサートになりました。

 

アダム・ヒコックスによるショスタコーヴィチ |  ヒマジンノ国

 

 

ショスタコーヴィチ・イヤーということで、割とショスタコの演奏が多かった年のように思います。交響曲については11番と15番の演奏が多かったようです。しかし、自分は11番も15番も聴くことができませんでした。

 

8月23日、サントリーホールでまだ20台という若さのアダム・ヒコックスの指揮でショスタコーヴィチ交響曲10番を聴きました。しかし、20代とも思えぬような、音量とか、技術に頼らぬような指揮ぶりで、充実した演奏を聴かせました。ちょっとびっくりです。

 

10番の録音も久しく聴いていませんでしたが、このコンサートの後、若い時に聴いていた感動が蘇ってきて、色々聴き比べをしました。

 

ヒコックスについては、今後どんな指揮者になっていくのか興味があります。

 

新国・ボエーム |  ヒマジンノ国

 

 

10月2日、今年2度目のオペラパレスで、歌劇を鑑賞。年初めの「さまよえるオランダ人」がかなり酷かったので、心配でしたがこの日の「ラ・ボエーム」は素晴らしかったと思います。

 

新国初期の頃は有名な歌手も多く招いていたとも聞きますが、自分が新国に行くようになってからはせいぜい5年程度です。ですので、詳しいことは良く分かりません。しかし、自分が通うようになってから、それほど有名な歌手は登場しないことが多いと思います。その中でもこの日は、歌手が有名かどうかは別にして、自分が過去に体験した新国の演奏でも、1番良かったぐらいかと思います。

 

一応、新国も招聘したメンバーが抜けなければ、主催者が考える「こうしたい」、というような感じは出るのかと思います。

 

ちゃんと歌える歌手、それをパオロ・オルミの幅のある指揮でサポートすることによって、歌の饗宴と思える瞬間が何度かありました。やはり、ルチアーノ・ガンチの滑らかで回転の良いテノールが、いかにもロドルフォに聴こえ、素晴らしかったように思います。

 

終演後も白人の老夫婦がパンフレットを買い求める様子もあり、それなり印象を残したコンサートだったのではないでしょうか。オペラも何曲か生で聴いてきて、色々思うことが出てきました。やはりインストゥルメンタルなコンサートとは違う感動があります。また時間がある時にそのことは、まとめてみようかと考えています。

 

ヴァイグレによる悲愴 |  ヒマジンノ国

 

 

10月14日、サントリーホール。セバスティアン・ヴァイグレによる、ロシア系プログラムの渋いコンサートでした。

 

個人的に、モロソフはたまには良いかな、と思える程度の内容の曲かと思います。チャイコフスキーの交響曲が始まると、やはりモロソフとは作曲家の能力の違いを感じざるを得ませんでした。

 

ヴァイグレのチャイコフスキーは中々筋肉質な演奏。平均的なコンサートという感じの内容だったでしょうか。

 

ビシュコフ・チャイコフスキー |  ヒマジンノ国

 

 

11月に、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウが来日。どれか1つ聴きたいと考えていましたが、スケジュールの都合で、どれも聴くことができませんでした。

 

代案でチェコ・フィルを聴くことを考えていました。ぎりぎり取れそうだったので、前日にチケットを買い出かけてきました。

 

10月23日、サントリーホールで、ドヴォルザークのチェロ・コンチェルトとチャイコフスキーの交響曲5番という定番曲のコンサートでした。演奏まあまあといった印象。個人的には、聴いていて1番気になったのがオーケストラの音色です。

 

昔本で読んだ、ヴァイオリニストの天満敦子さんの話が蘇ってきました。

 

人種の差と演奏1 |  ヒマジンノ国

 

↑、以前の記事で触れたことがあるのですが、人種と演奏から出る音の違いの話です。

 

再び日本のヴァイオリニスト、天満敦子さんの言葉を引用します。

 

「それこそ音程の話ではないですけど、A(イ音)というこの音に幅があるとすれば、その下澄みをとるんです。日本人は上澄みをとるんです。ヨーロッパ人はすべてをとっている。ユダヤ人は下をとる。

 

・・・(中略)・・・

 

私たち、演奏会のときピアノでAの音をもらいますでしょう。「ターン」とピアノが音を出す、「ター」と音を出したとき、――これもいろいろありますが、「ターン」と弾いて、しばらく聴いてから合わせると上澄みになるんです。

 

ピアノの音というのは時間がたつと余韻が少し上がるんです。Aの音を弾いて伸ばしていると高くなる。叩いた瞬間にパッと感知してヒュッとやると下になる。それはその人の性格好みです。それで下をとりなさいって言われても、自分の耳がカーンと鳴っていたら音程は上がってしまいます。

 

・・・(中略)・・・

 

そう。目立ちたいときは上をとりなさいとか言うことがあるんですよ。でも、それはその人の感覚です。ただ、ある人からおもしろいことを言われたのは、日本人は特に高目をとる。それは、そいういう知識があるからなんです。高目をとれば人より目立つという、そしてまた、すぐそれを鵜呑みにするでしょう。」

 

当日の感想にも書きましたが、日本のオケは高音部が綺麗に響くように思えることが多いです。スピーカーなんかでも小さめのスピーカーは、音は小さいですが、高音部は綺麗に出ます。そして曲の輪郭がはっきりしやすい。逆に大きなスピーカーは充実した低音部が出るようになりますが、高音部はややぼやけます。

 

こういう例え方はちょっとおかしいかもしれませんが、チェコ・フィルは日本のオケに比べると、大型のスピーカーのよう、ともいえるのかもしれません。ただ思ったより音質はざらざらしています。高音部をあまり意識しないからかもしれません。その辺が雑味になって、あの独特の音になっているのかもと感じます。

 

チャイコフスキーはそんな厚めの響きのオーケストラで、やや魁夷な表現でした。自分はチャイコフスキーの演奏には、ブラームスの時と違って、あまりこだわりがないので楽しめました。チャイコフスキーについては割と雑駁です。とにかく迫力があって面白かったです。

 

ジャニーヌ・ヤンセンのリサイタル |  ヒマジンノ国

 

 

11月はジャニーヌ・ヤンセンとデニス・コジュヒンのコンサートに行ってきました。

 

このコンサートは大変よく、感動したコンサートでした。やはり主役はヤンセンかなと思います。ヴァイオリニストはコンチェルトで聴くことが多かったのですが、こういったリサイタルで聴くと、ソリストが本来の地の能力を生かした演奏をするので、面白いなと思います。11月13日のオペラパレスです。

 

この日1番素晴らしかったのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の演奏でしょう。明らかに力が入った演奏で、非常に彫りの深いブラームスでした。

 

あれぐらい彫りが深いというのは、楽譜を細部まで読みこんでいて、何処にどういった表情を付けるのか?と、考え抜いた結果だからだと思います。ちょっとしたフレーズに、不気味な雰囲気が宿ったり、あるいは攻撃的な熱を持ったり、かなりこだわった表現だったかと思います。非常に印象に残りました。

 

こういう演奏を聴くと、ヤンセンは日々、相当ヴァイオリンに人生をかけて練習しているのかな、と思わせるものがありました。

 

マキシム・パスカルの第9 |  ヒマジンノ国

 

 

12月23日のサントリーホールで、年末の第9を鑑賞。

 

マキシム・パスカルの第9を聴いて少し時間が経ちました。もう1度思い起こすと、新時代の第9という感じがしますね。

 

ちょっと前にトスカニーニの第9のレコードを聴いていました。テンポ感だけいえば、パスカルの第9も似たようなものでした。トスカニーニの演奏は、音楽をコンポジションと捉え、音符の動きを人間の活動的な側面として表現していきます。リズミックな部分の進行など、演奏者の内部にある音楽的素養によって、演奏者と音楽が一体になっているかのような感じです。

 

パスカルにも似たような部分はありました。リズムに乗った心地よさとか、そういう部分も出ていました。しかし少し違うのは、音楽から現れてくる、表面的な美感や効果にも時折、気を割いていたことです。

 

音楽を完全にコンポジションとして捉えず、部分ごとに、劇的な伴奏のような表現としても、第9を演奏していたように見えました。このような2重のスタンスをうまく繋ぎ合わせ、ベートーヴェンのイメージを壊さない程度にまとめ上げているようでした。

 

特にフィナーレは管弦楽部分が早く、声楽の部分は割と粘って演奏させているようで、歌劇的な傾向は強かったように思います。

 

トスカニーニのように音楽を「構成」として捉え、そこを突き通していくと、一本のそそり立つ槍のような雄渾さが出ますが、パスカルの場合、テンポは良く似ているものの、時折歌劇的な表現なども顔を出し、聴きようによっては一貫性に欠ける、と聴こえた人もいるのかもしれません。

 

深みを感じないのは、そういった折衷的な表現になっていたせいかもしれません。

 

〈まとめ〉

 

今年1番心に残っているのは「ラ・ボエーム」です。新国の演奏がどうのこうのという話はありますが、そういう問題とは別に、再現された歌劇の良さを実感しました。

 

次点はルイージのブラームス、ヒコックスのショスタコーヴィチ、ヤンセンのリサイタルです。この辺りのコンサートはどれも美しかったと思います。

 

昨日はサントリー・ホールで、マキシム・パスカル指揮、読売交響楽団を鑑賞。年末恒例のベートーヴェン第9交響曲の演奏会です。


流石に寒くなってきた中、溜池まで出かけてきました。

 

演奏自体は、まあまあという感じでしょうか。聴いているときは結構面白いと感じていましたが、聴き終わってみるとそこまで心に残っていないかな、とも感じました。

 

テンポは速く、同時に割と分かり易く、場面の描き分けがありました。指揮ぶりは情熱的で、ティンパニの強打を多用した鋭い叩きつけや、表情付けありで、聴いているとそれなりに興奮はしました。

 

歌劇的な解釈と、純音楽的な解釈が混じりあっている雰囲気です。旋律やテンポの取り方は、ドイツ的でもイタリア的でもなく、フランス的とでもいうべきでしょうか。メロディーの歌わせ方の抑揚に、そういったテイストが垣間見えます。

 

だからといって、異質なベートーヴェンでもありません。この辺は情報が先行する、現代の指揮者という感じ。ちゃんと調整していると思わせます。

 

フィナーレが1番盛り上がったと思います。人の声が入ってからの方が、パスカルは生き生きしていたように見えました。以前第9を生で聴いたのはコロナ明けの時です。密状態を避けてのコーラスで、人数が少ない形でした。しかし、ノットの指揮で、少数ながら、研ぎ澄まされたコーラスを披露したのを覚えています。あれはれで面白いなと思いました。

 

昨日は厚みのあるコーラスで、大変な迫力がありました。新国の合唱団は元々緻密な響きなんでしょうが、この日は荒ぶるような感じさえありました。指揮者の指示で、全力で歌わせているように見えました。

 

立派な演奏で、それなりの形に仕上げているという感じです。

 

 

しかしそれほど心に残らなかったのは、深みが足りないからなんでしょう。その辺は難しいですけどね。オーケストラの響かせ方なんかは面白いという感じでしょうか。


とはいえ、東京に居ながら、色んな国の指揮者の演奏を聴けるというのは、恵まれているのかなと思います。これで年内のコンサート鑑賞は終了です。

 

年始にエプスタインリストが公開されると思っていたのですが、公開されず、先ごろやっと公開が決まったとか。公開されてから、洋楽の音楽ネタを書こうとか思っていたんですが、結局年末になってしまいました。

 

 

↑、ゴタゴタしましたが、一応エプスタインリスト公開にD・トランプ氏も許可を出したとか。しかし、リストの公開だけで世の中が変わるのか?といえば、まだまだ疑問ですね。

 

しかし、このまま待っていてもらちがあきそうにありません。色々問題あるかもしれませんが、今年自分が聴いた洋楽について、また、自分のまとめのためにも書いておこうかと思います。

 

あくまで自分の好みに沿ったことしか書いていません。また2025年のアルバムだけでなく、2024年のアルバムなども含んでいます。

 

 

2025年発売のアルバムで良く聴いたのが、ザ・ウィークエンドの「ハリー・アップ・トゥモロー」です。ウィークエンドも、イルミナティに属しているとかいわれているようで、他にも、ちょっともやもやする部分は多いです。ただ自分は、彼の作る音楽は素晴らしいと思っていて、今年も良く聴きました。

 

3部作のラストにあたるアルバムで、CD2枚に22曲も収録されています。継ぎ目なく音楽が流れていき、一編の音楽詩のようです。

 

ただ内容はどこか自堕落(ジャンキー風の雰囲気)で、人生への悟りも薄い。彼は、自分の人生の成功を実感しつつも、自分自身を信じ切れない、というような告白が多く、内容は厭世的(特に前半)とも取れます。「ハリー・アップ・トゥモロー」のタイトル通り、この歌手の、生き急ぐ人生観を感じさせる内容です。

 

ただ先も書きましたが、音楽は素晴らしいと思います。色んな種類の音楽を重ね合わせて、アンダ―グラウンドで、甘美な、しかしリアリティのある音楽に仕上げています。

 

なんというか、「音楽」と彼の「人生そのもの」がとても近いという印象。この人は、音楽創作無しでは生きられない人だと、感じさせます。歌詞は色々問題あるのかもしれませんが、音楽そのものに嘘はない印象です。

 

アニッタのどこか猥褻な歌詞から始まる、「サンパウロ」、そして、いかにもジャンキーな雰囲気の「バプタイズド・イン・フィアー」を経て、かつての恋に思いを寄せる、「オープン・ハーツ」への、音楽の流れは心を締め付けるものがあります。

 

The Weeknd - Open Hearts (Official Video)

 

男性ヴォーカルのアルバムを聴いたのは、このウィークエンドぐらいです。以下は女性ヴォーカルばかりです。

 

 

ウィークエンドと同じくらい良く聴いたのが、シーアの「リーズナブル・ウーマン」。2024年のアルバムです。

 

個人的にアルバム中間部に数曲、面白くない曲もあると思いましたが、良い曲も多くて、彼女の人生経験を感じさせる曲が多いです。スケールの大きい歌唱と、女性ながらタフな雰囲気のある、恋の曲が沢山含まれています。

 

特に「アイ・フォーギブ・ユー」はとても素晴らしい曲で、挫折を知り、それを乗り越えた人物にしか歌えないような深い歌声が、底無しの愛を感じさせます。歌詞は抽象化されていて、人々の心を鼓舞する力のある曲ではないでしょうか。

 

Sia - I Forgive You

 

 

次はマイリー・サイラスの「サムシング・ビューティフル」。マイリー・サイラスこそエプスタイン・リストに載っていそうですが(というか、載っている訳ですが)、今回はとりあえず無視して書きます。

 

マイリー・サイラスのアルバムは以前1度買ったことがあります。しかし、あまり面白くなったとしか覚えておらず、ほとんど記憶にもありません。今回は店頭で試聴して良さそうだったので、購入。この判断は成功でした。

 

70年代のアルバムに触発された内容だそうですが、自分はその辺りの事情は、良く分からないです。ただ、複数のジャンルの音楽が混じって、独特の雰囲気が出来上がっているのは分かります。音楽的な想像力のある内容ではないでしょうか。

 

歌の入る曲の合間に、何度か音だけの曲が収録されており、幾分闘争的とも思える、インストゥルメンタルな部分が、良い効果を上げていると思います。

 

彼女を気位の高さが出ている「イージー・ラヴァー」とか、自分の成功を隠そうともしない「ウォーク・オブ・フェイム」とかが好みの楽曲です。特に「ウォーク・オブ・フェイム」は、自分の成功と、その喪失を恐れて、うじうじと考えるウィークエンドとは好対照で、いかにもスターな私、という感じです。滑らかな音楽に乗って、恥じらいもなく、庶民の間を通り抜けていくスターの私、みたいな曲。よくそんな自意識の高い曲を書くな、と思いますが、その心持は一般人の我々には知る由もありません。しかし、これぐらい振り切れていると、聴いていて、気持ちが良いです。

 

Miley Cyrus - Walk of Fame (Official Video) ft. Brittany Howard

 

 

デュア・リパの「ラディカル・オプティミズム」。

 

現代のポップ・アイコンとなっているディア・リパの3作目のアルバムです。2024年の作品。

 

前作のレトロ・ポップ調に振れた内容より、1作目の南国のビーチっぽい雰囲気が戻って来たように思います。曲も凝っていて、色々聴かせる感じがします。

 

ただこのアルバム、自分は初め中々良さが分からなくて、何度か聴き直してみて、好きになりました。どの曲も良いと思うんですが、ディア・リパの声が、彼女の体のスタイルよろしく、スキニーで、楽曲の迫力そのものに、声がついてきていないと感じる場面も、個人的にはありました。まあでも、彼女のポップ・アイコンの地位は、簡単には揺るがないでしょう。上記3枚に比べると、聴いた回数は少なかったように思います。

 

Dua Lipa - Houdini (Official Music Video)

 

↑、2億回以上の再生だそうです。

 

 

残り2枚。1枚はベッキー・ヒルの「ビリーヴ・ミー・ナウ」です。ダンスミュージックを基調した、熱い芸風は前作の1枚目のアルバムと同じです。パワフルな歌声は健在で、自分にはとても聴きやすいです。

 

Becky Hill - Swim (Live From YouTube Music Night)

 

 

もう1枚がザ・ウォーニングの「キープ・ミー・フェッド」。ウォーニングはメキシコ出身の3姉妹による、ハードロック・バンドです。来日もしていた気もします。まだ若い姉妹ですが、音楽の完成度は高いと思います。良い曲が何曲かありました。これも今年繰り返し聴いたアルバムです。2枚とも2024年のアルバム。

 

The Warning - "Hell You Call A Dream" (Live from Pepsi Center CDMX)

 

他にも聴いたアルバムはあるんですが、今回はこれで止めます。初めの3枚のアルバムが、今年聴いたベスト3ですね。

 

フランソワ=グザヴィエ・ロト&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、によるブルックナーを最近は聴いていました(CD)。

 

現在発売されているのは、交響曲1・2・3・4・7・9番の6曲です。7番は持っていませんが、7番はいらないかなと考えています。

 

ロトの指揮ぶりは、繊細で緻密、現代のブルックナー指揮者の1人という感じがします。ただ、伝統的なブルックナー演奏者かといわれれば、全く違うように思います。

 

まるで古楽器のような、オーケストラの繊細な響き、粘らない旋律。本来ロマン派の時代に生まれた、ブルックナーという作曲家ですが、ロトはそのような「ロマン派」的な、音の引き延ばしを止めてしまっています(しかし、力こぶは良く入っている)。さらに、後に書きますが、交響曲3・4番に関しては、楽章ごとのトータル的な解釈を止めてしまったように見えます。

 

確かにこの緻密な響きで形作られたブルックナーは、ガラス細工のように美しく、新時代のブルックナー像ともいえるのかもしれません。そしてそのようなロトのブルックナーですが、目玉になっているのが、現在、4番と3番の第1稿の演奏でしょう。8番はまだ録音していません。8番も多分初稿で入れるのだと思います。1度聴いてみたいとは思っています。

 

近ごろはこの第1稿をやる指揮者が増えました。ブルックナーの交響曲において、第3、第4、第8の第1稿は、最終稿と全く内容が違うので有名です。

 

昔は、エリアフ・インバルや、ゲオルク・ティントナーが指揮した第1稿の録音が有名でした。しかしこれらは「ロマン派」的解釈の延長線上にある第1稿の演奏で、古いスタイルかと思います(さらに先代の指揮者たちに比べれば、彼らさえ、近代的ではあります。ここでは、あくまで比較論として書いています)。

 

 

↑、エリアフ・インバルと、ゲオルク・ティントナーのブルックナー。彼らも初稿を演奏していますが、中々良さが分かりにくいと思います。これらに比べると、個人的に、ロトの方が比較的聴きやすいかという印象です。

 

ロトは無理して音を粘らず、人間的な運動性に従って演奏しているように思います。その場その場の対応によって生まれる音楽を主体にしているかのようです。これは幾分か「ロマン派」の解釈を離れている演奏かと思います。

 

あくまで「音楽は音楽」、という考え方なんでしょう。昔書いた自分のブログ記事から引用します。

 

<本質的に、ショーンバーグのいうように、「せいぜいのところ、音楽はムードと感情しか表現できない」という事実は、半ば冗談でいえば、エマニュエル・カントのいうところの、「ア・プリオリ」であり、本来人間に備わっている「根本的な音楽的な衝動」こそが、あるべき音楽の定位置のように思えます。音楽が標題無しで理解されるには、このような人間本来に備わっている、「音楽的な衝動」のみで表現されなければなりません。>

 

つまり「音楽」はあくまで「音楽」であり、文学や絵画とは違うわけです。

 

ところがロマン派は、「音楽」は「音楽」という考え方とは違い、音楽と他概念、あるいは、抽象概念との結びつきが密なので、そこも押さえないとやれないと思います。音楽に厳格な一貫性をもたらす、というのは幾らかベートーヴェン以降の、ロマン派の発想ということでしょう。うるさいことをいえば、一貫性を持たせようとする、その時点で、音楽以外の観念が入ってきているということになります。それを詰めて行くと、音楽以外の他概念と関わりが生まれ易い。そうなってくると、音楽家は音楽以外の勉強もいりますしね。

20世紀後半から、ロマン派の解釈を嫌う人が増えた印象です。

 

ベートーヴェンを聴こう。 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。自分はここでベートーヴェンの、第9交響曲の解釈を、第1楽章を「闘争」、第2楽章を「逃避」、第3楽章を「安息」と捉えていますが、このような捉え方自体、「ロマン派」に限りなく近づく考え方です。本質的にベートーヴェンの音楽は「絶対音楽」であり、標題的な「ロマン派」的な解釈で聴くものではない、というのが建前だと思います。しかし、「田園」交響曲のような、非常に絵画的な表現、また第9交響曲のような、高度な哲学的表現を聴くと、既に「音楽は音楽」という範疇から一歩抜け出しているようにも思います。

 

第2次世界大戦時、現代アートを「退廃芸術」として避けたナチス。また社会主義的リアリズムを芸術に強制したソヴィエトなど、芸術と音楽は、昔から、政治に結び付けられ、歪まされてきました。現代のハリウッドなども、リベラル思想が強くなり、以前に比べると力がありません。

 

音楽において、第2次世界大戦後、ロマン派的な傾向は、ナチス(ドイツ)や、ファッショ(イタリア)と結びついて考えられるようになり、意識的に避けられるようになったと思います。そしてそこに現れたのが、無調などを基礎に置いた「現代音楽」です。これらは西側世界に「音楽」は「音楽」である、という強い意識を植え付けてきたように思います。

 

その教育のせいか現代は、ロトのような、あくまで「音楽」を「音楽」で、解釈する演奏家が増えてきたと思います。日本にいる、ジョナサン・ノットやファビオ・ルイージなんかも、そんな感じに見える時があります(日本にはこの手の指揮者が集まりやすいのかもしれません)。

 

ロトのブルックナーを聴いてみると、第4、第3交響曲の演奏とも、そのような純音楽的な解釈が効いており、従来の指揮者の第1稿の解釈よりもずっと聴きやすいと思いました。

 

第4交響曲の第1楽章など、その場その場で対応して聴けば、新鮮な旋律が次々と現れてかなり面白いと思います。従来のロマン派的な聴き方ではなく、ベートーヴェン以前の、バロックを含めた時代のような音楽だと思って聴くと、それなりの効果が出ていると思います。

 

第3交響曲の第1稿の方が、そのような聴き方で聴くと、比較的違和感なく聴き通すことができました。

 

ただ第4交響曲のフィナーレのようになってくると、錯綜の度合いが大きすぎて、ついていくのが大変です。さすがに音楽自体に、無理があるかなと感じます。改訂稿を聴くと、一貫して音楽が聴けるように、修正されているのが分かります。また実演でインバルの演奏した、第4交響曲の1稿を聴いたことがあるのですが、スケルツォに、この曲全体の頂点とも思える盛り場があり、そこだけ聴いていると大変興奮しますが、曲全体として見てみるとバランスは壊しているように思えます。改訂稿はその辺の不自然さも改修していますね。要は、改訂稿は、3・4・8番交響曲共に、ロマン派の時代に合うように改修されている、ということなのでしょう。

 

ブルックナーの交響曲は、最終稿が最適解だと思います。そのサブで、こういったロトの演奏など聴くと面白いと思います。

 

しかし余談ですが、来年、ミンコフスキやインバルが第8交響曲の初稿を、実演でやるらしいのですが、ちょっと本邦で初稿をやる人が多すぎる気がしています。今年、ノットやルイージもやりましたよね?個人的には普通に聴きたいです。

 

初稿をやること自体悪いとは思いませんが、少し頻度が多いように思います。多分ここが日本だという事実と関係ある気もしていますが、もうちょっと伝統をおもんばかったことも、やってほしいかと思います。

 

高市首相が、中国の台湾侵攻問題に関して、「存立危機事態」だと答弁。自衛隊の派遣を匂わせてから、中国の高市内閣への脅しが続いています。

 

「存立危機事態」宣言自体、個人的に正しかったかどうかは分かりません。曖昧のままにしていても良かったという意見もあります。

 

同じようなことを以前も書きましたが、高市首相の発言は、これが米国のカラマ・ハリス政権の時だったら、怖い発言だな、と思いますが、現在トランプ政権なのである程度まで、あの発言は仕方なかったのかなという感じがします。

 

バイデンやハリスなどの、軍産複合体と密な関係の政権だと、中国の台湾侵攻になれば、当初米国は参戦しますが、途中から距離を取ってオブザーバーとなり、日本主体で事にあたらせるつもりだったと思います。紛争の長期化を狙って、軍需産業が儲かるためです(ジョセフ・ナイのレポートなどによる)。いわゆる、第2のウクライナになるという予想です。

 

しかし、トランプ氏も軍需産業と関係がありますが、民主党時代ほどひどくないようには見えます。また、ハリスやバイデンはあからさまなパペット政治家でしたが、トランプ氏は自分で物事を判断しているように思えます。ですので、高市内閣の発言も、意味合いがかなり変わってきているとも見えます。

 

政局 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事。

 

だからといって、日本が完全に大丈夫かは、不透明です。対応を間違えると、どうなるかは分かりません。

 

中国のレポートによれば、ここ10年で台湾侵攻ができなければ、その後はほぼ侵攻不可能になるだろうという予測があるそうです。そうなると今出回っている情報を元に考えるならば、2027年から2035年間のおよそ8年ほどの間、中国軍を抑え込めれば、中国は身動きが取れなくなる可能性があるということだと思います。他方、彼らが動くならその8年の間しかないということになります。

 

田母神氏によると、陸の軍隊が他国に攻め入るには、敵側の、およそ2倍の軍事力が必要とのこと。これが海を挟むと5倍の兵力が必要だといいます。台湾侵攻には、軍事力が整った上で、更に最低でも半年の準備が必要で、これは衛星などを使って分かるといっていました。

 

四中全会が終了 |  ヒマジンノ国

 

↑、中国国内も内政は不安定で、特に軍隊を始め、どうなるかは分からないと思います。

 

中国にも、米国だけなら何とかなるかも知れないという目論見はあったそうですが、日本が関わるかどうかで、その成功率が全く変わってくるとのこと。ですので今回高市内閣の発言はある意味、中国の急所を突いていたわけです。

 

おかげで、といっては何ですが、中国は本性むき出しとなり、沖縄は日本ではない、とか、尖閣諸島も中国のものだ、とかいいだしました。流石に酷いと思いますね。獣同然のものいいだと思います。

 

ですが現状の中国に何かできるかといえば、ほとんど何もできないはずなので、あんまり相手にしない方がよさそうです。

 

いってきているのは、パンダを貸さない、とか、中国の観光客を引き上げるとかで、使ってきている脅しの言葉の割にはどうでも良いことばかり、制裁のつもりでやって来ているように見えます。台湾なんかはずっと中国の脅しにあってきているそうですが、結局何もしてきてないそうです。

 

やはり当面は前にも書きましたが、超限戦に対する対策の方が重要かなと思いますね。

 

11月は外国の有名オーケストラが多数訪日して話題ですが、自分は全て乗り遅れで、チケット全滅でした。それでも直近で行けそうなコンサートを探して、昨日はオペラパレスまで行ってきました。

 

ヴァイオリニストのジャニーヌ・ヤンセンと ピアニストのデニス・コジュヒンのリサイタルです。

 

 

自分はヤンセンのアルバムは1枚だけ持っています。

 

パーヴォ・ヤルヴィ指揮で入れた、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のアルバムです。しかしこれはあんまり感心しないアルバムで、ヤルヴィの解釈に歌がなさ過ぎて、管弦楽は成功していないと、個人的には思います。他方でヤンセンのヴァイオリンは引き締まっており、クリスタルな音色で、古楽器のように聴こえて面白いなと思っていました。

 

そのヤンセンが9年ぶりの来日だそうで、席も少し空いていたのでチケットを得ました。

 

 

この日のプログラムはシューマンのソナタ1番、ブラームスのソナタ2・3番、クララ・シューマンの小品3曲でした。

 

ヤンセンはオレンジ色のドレスで登場。コジュヒンはチラシの写真だと、茶髪のオールバックに見えますが、舞台にはブロンドのロン毛で登場し、写真とは別人にしか見えません。髪が長いと、少し若くも見えるんですね。

 

(写真は借り物です)

 

シューマンのソナタが始まって、ヤンセンのヴァイオリンの音色がややくすんで聴こえてくるので、少しびっくりしました。多分録音と違う感じの音色でしたので、そう思ったのでしょう。しばらくして慣れます。

 

シューマンのソナタ1番は聴きやすい曲で、第1楽章ではランドマーク的なフレーズあり、第3楽章はシューマン特有の焦りにも似た追い込みのある曲で、お客さんも盛り上がりやすいと思います。

 

ここで思ったのは、ヤンセンのヴァイオリンが、録音で聴いたようなクリスタルな感じではなく、味わいのある豊かな響きだということでした。録音の方はヤルヴィの解釈に合わせているのかもしれません。

 

明るいが、底辺には焦燥感もあるシューマンのソナタの後は、非常に落ち着いた雰囲気のブラームスのソナタです。出だしのコジュヒンのピアノから、大人の感じがあります。

 

ヤンセンのヴァイオリンは、ブラームスのソナタ2番の方が、その味わいが生きたように思います。2番は牧歌的で、陰影もありますが、まろやかな音楽です。ヤンセンの音色は淡い秋晴れの雰囲気を保ち、心に染みるものがありました。ただどこか爽やかさもあり、根っからのブラームス党にはどう聴こえるかは、自分には分かりません。個人的には美しい表現だと思います。コジュヒンのピアノも水晶のように響き、安定感もあり、安心して聴いていられるものでした。

 

クララ・シューマンの小品を挟んで、ラストはブラームスのソナタ3番です。

 

自分はヌブーのレコードを持っていて、たまにこのソナタ3番を聴きます。ヌブーの演奏は弦に弓が吸い付いたように、1音ずつ慈しむように弾いています。これぞブラームスという感じでしょうか。

 

今回は予習も兼ねて、ヌブーの演奏を聴き直してから出かけました。

 

ジネット・ヌヴーの演奏 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。

 

ところがヤンセンは、ヌブーと異なって、この曲を颯爽と弾き始め、この日一番の熱量で演奏し始めました。決して作品の雰囲気を崩すほどではないですが、この曲に、こんなに攻撃的な部分あったかな、と思うところもあり、驚きます。その様子は、高身長である彼女が、ヴァイオリンを弾いている、戦乙女のワルキューレのようにも見えます。

 

力が入りだしてから、より響きに味わいが増し、弦の音色の密度が増しました。ぎゅう、と絞り出すような音色が美しいです。特にこの3番の第2楽章はヴァイオリンの音色を誇示する場面がありますが、その場面も豊かで美しい響きで、素晴らしかったです。特に心に残りました。

 

正直、生で聴くとこんなにヴァイオリンの音色の味わいが濃いのかと、とても驚きました。秋晴れの香りがするリサイタルでした。

 

アンコールのドヴォルザークも美演でした。

 

やはりこういうのを聴くと、プロの演奏は凄いんだなと思います。独自の美の世界があるなと思います。