エリーナ・ガランチャ | ヒマジンノ国

6月17日、世界的なメゾソプラノ、エリーナ・ガランチャによるコンサートを聴きました。ただ曲目に慣れないものが多く、対訳などが欲しいコンサートでした。ブラームスとラフマニノフの歌曲辺りは、対訳を、コンサートを開催する側が準備しても良いとは思います。
オペラとか、合唱曲の演奏でもないので、ガランチャは終始リラックスしていたように見えました。彼女の声についてはたっぷり聴けて、満足できました。
ただオペラの本番そのものを聴かないと、分からないことも多いとは感じます。
カネラキス、アリス=紗良・オット | ヒマジンノ国

7月5日、カリーナ・カネラキスとアリス=紗良・オットのコンサート。美女2人の主演で、華やかな感じといっても良いのかと思います。カネラキスのマーラーは「男性の演奏」とは違う、という感じです。マーラー特有のエキセントリックさが少ない演奏で、独特の優しさを感じました。性差によって、交響曲の印象が変わることもあるのか、と感じましたね。
ソフトな印象のあるマーラーで興味深かったです。
アラン・ギルバートのブラームス | ヒマジンノ国

7月18日、アラン・ギルバートによる、ブラームスの交響曲1番、2番のコンサート。このコンサートは、鑑賞後色々考えてしまった演奏会です。今回は当日書いたブログとは、少し意見を変えて書きます。
アラン・ギルバートの音作りは、いわゆる「日本の指揮者」とは違う、オーケストラの鳴らし方のように聴こえました。充実した、腹に響く様な低音部、旋律は水平方向に流れ、味わい深い響き。音が外側に放出されるような感じです。外国で活躍してきた指揮者だという印象を覚える、職人的ともいえるような響きでした。
そんな彼が演奏するブラームス1番を聴き終わったとき、充実した響きで「これで熱のある拍手が無かったら、おかしいよな」、と思ったのを覚えています。実際熱烈な拍手がありました。そのように自分もこれは多分「名演」だろうと、感じはしたのですが、実際は心ではほとんど何も感じておらず、何でだろうと思った次第です。
その後理由を確かめるために、複数のブラームスの1番の録音を聴き直しました。過去の名指揮者たち、クレンペラー、シャイー、フルトヴェングラーなども聴きました。でも何かちょっと違うと感じます。結局カラヤンの1977年盤を聴いて、ああこれかなと、やっと腑に落ちる録音に巡り合います。
特に第1楽章ですが、カラヤンの演奏は冒頭からブラームスの鬱々とした内面に広がる情熱が、もうもうと沸き立ってきます。第1の、初めの楽章における、熱烈なピストン運動が、ちゃんと縦の線を揃えて演奏されると、このような「もうもう」とした情熱が湧きたって聴こえるんですね。
アラン・ギルバートをはじめ、フルトヴェングラーでさえ、水平方向に音楽が流れ、この情熱が湧きたってきません。このようなスタイルなら、ザンデルリングが緻密な音楽を聴かせています。
多分自分は知らないうちにこのような、カラヤン型の演奏を勝手に求めていたのでした(他は有名なミンシュ盤などが同様の効果を上げていると思います)。
さて、その上でアラン・ギルバートの演奏をどう考えるか、です。自分はヤノフスキのミサ・ソレムニスの感想で、できるだけ「先入観なし」で聴きたいと書きましたが、この日は上にも書いたように明らかな自分の好みを持ちこんでいるのだと気づきます。誰しも「好み」はあるし、偏見を免れることは出来ません。また「好み」があるからこそ、判断の基準が生まれるわけです。しかし、「好み」を持ち出すことで、その日の演奏の良さを聴き逃してしまうこともあるかと思います。
この日は多分に後者の感じがあったかな、と自分は思っていて、事前にアラン・ギルバートの演奏がこれぐらいになる、と分かっていればもう少し理解もできたかなと思っています。
アラン・ギルバートの演奏は全体に抑制をかけた指揮ぶりで、第1楽章の頂点でも8割5分ぐらいの力の入れ方でした。全体に曖昧さがなく、緻密な音楽を聴かせました。カラヤンのような効果をあげられる指揮者は少ないので、多くの指揮者がやるような解釈です。こうした演奏自体、「王道」という方も多く、そういう意味では現代的に磨き抜かれた、大人のブラームスだといえると思います。
後はブラームスの交響曲について(特に第1についてですが)、自分が思っていたよりも、思い入れがあったのかと気づいたコンサートになりました。
アダム・ヒコックスによるショスタコーヴィチ | ヒマジンノ国

ショスタコーヴィチ・イヤーということで、割とショスタコの演奏が多かった年のように思います。交響曲については11番と15番の演奏が多かったようです。しかし、自分は11番も15番も聴くことができませんでした。
8月23日、サントリーホールでまだ20台という若さのアダム・ヒコックスの指揮でショスタコーヴィチ交響曲10番を聴きました。しかし、20代とも思えぬような、音量とか、技術に頼らぬような指揮ぶりで、充実した演奏を聴かせました。ちょっとびっくりです。
10番の録音も久しく聴いていませんでしたが、このコンサートの後、若い時に聴いていた感動が蘇ってきて、色々聴き比べをしました。
ヒコックスについては、今後どんな指揮者になっていくのか興味があります。
新国・ボエーム | ヒマジンノ国

10月2日、今年2度目のオペラパレスで、歌劇を鑑賞。年初めの「さまよえるオランダ人」がかなり酷かったので、心配でしたがこの日の「ラ・ボエーム」は素晴らしかったと思います。
新国初期の頃は有名な歌手も多く招いていたとも聞きますが、自分が新国に行くようになってからはせいぜい5年程度です。ですので、詳しいことは良く分かりません。しかし、自分が通うようになってから、それほど有名な歌手は登場しないことが多いと思います。その中でもこの日は、歌手が有名かどうかは別にして、自分が過去に体験した新国の演奏でも、1番良かったぐらいかと思います。
一応、新国も招聘したメンバーが抜けなければ、主催者が考える「こうしたい」、というような感じは出るのかと思います。
ちゃんと歌える歌手、それをパオロ・オルミの幅のある指揮でサポートすることによって、歌の饗宴と思える瞬間が何度かありました。やはり、ルチアーノ・ガンチの滑らかで回転の良いテノールが、いかにもロドルフォに聴こえ、素晴らしかったように思います。
終演後も白人の老夫婦がパンフレットを買い求める様子もあり、それなり印象を残したコンサートだったのではないでしょうか。オペラも何曲か生で聴いてきて、色々思うことが出てきました。やはりインストゥルメンタルなコンサートとは違う感動があります。また時間がある時にそのことは、まとめてみようかと考えています。
ヴァイグレによる悲愴 | ヒマジンノ国

10月14日、サントリーホール。セバスティアン・ヴァイグレによる、ロシア系プログラムの渋いコンサートでした。
個人的に、モロソフはたまには良いかな、と思える程度の内容の曲かと思います。チャイコフスキーの交響曲が始まると、やはりモロソフとは作曲家の能力の違いを感じざるを得ませんでした。
ヴァイグレのチャイコフスキーは中々筋肉質な演奏。平均的なコンサートという感じの内容だったでしょうか。
ビシュコフ・チャイコフスキー | ヒマジンノ国

11月に、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウが来日。どれか1つ聴きたいと考えていましたが、スケジュールの都合で、どれも聴くことができませんでした。
代案でチェコ・フィルを聴くことを考えていました。ぎりぎり取れそうだったので、前日にチケットを買い出かけてきました。
10月23日、サントリーホールで、ドヴォルザークのチェロ・コンチェルトとチャイコフスキーの交響曲5番という定番曲のコンサートでした。演奏まあまあといった印象。個人的には、聴いていて1番気になったのがオーケストラの音色です。
昔本で読んだ、ヴァイオリニストの天満敦子さんの話が蘇ってきました。
人種の差と演奏1 | ヒマジンノ国
↑、以前の記事で触れたことがあるのですが、人種と演奏から出る音の違いの話です。
再び日本のヴァイオリニスト、天満敦子さんの言葉を引用します。
「それこそ音程の話ではないですけど、A(イ音)というこの音に幅があるとすれば、その下澄みをとるんです。日本人は上澄みをとるんです。ヨーロッパ人はすべてをとっている。ユダヤ人は下をとる。
・・・(中略)・・・
私たち、演奏会のときピアノでAの音をもらいますでしょう。「ターン」とピアノが音を出す、「ター」と音を出したとき、――これもいろいろありますが、「ターン」と弾いて、しばらく聴いてから合わせると上澄みになるんです。
ピアノの音というのは時間がたつと余韻が少し上がるんです。Aの音を弾いて伸ばしていると高くなる。叩いた瞬間にパッと感知してヒュッとやると下になる。それはその人の性格好みです。それで下をとりなさいって言われても、自分の耳がカーンと鳴っていたら音程は上がってしまいます。
・・・(中略)・・・
そう。目立ちたいときは上をとりなさいとか言うことがあるんですよ。でも、それはその人の感覚です。ただ、ある人からおもしろいことを言われたのは、日本人は特に高目をとる。それは、そいういう知識があるからなんです。高目をとれば人より目立つという、そしてまた、すぐそれを鵜呑みにするでしょう。」
当日の感想にも書きましたが、日本のオケは高音部が綺麗に響くように思えることが多いです。スピーカーなんかでも小さめのスピーカーは、音は小さいですが、高音部は綺麗に出ます。そして曲の輪郭がはっきりしやすい。逆に大きなスピーカーは充実した低音部が出るようになりますが、高音部はややぼやけます。
こういう例え方はちょっとおかしいかもしれませんが、チェコ・フィルは日本のオケに比べると、大型のスピーカーのよう、ともいえるのかもしれません。ただ思ったより音質はざらざらしています。高音部をあまり意識しないからかもしれません。その辺が雑味になって、あの独特の音になっているのかもと感じます。
チャイコフスキーはそんな厚めの響きのオーケストラで、やや魁夷な表現でした。自分はチャイコフスキーの演奏には、ブラームスの時と違って、あまりこだわりがないので楽しめました。チャイコフスキーについては割と雑駁です。とにかく迫力があって面白かったです。
ジャニーヌ・ヤンセンのリサイタル | ヒマジンノ国

11月はジャニーヌ・ヤンセンとデニス・コジュヒンのコンサートに行ってきました。
このコンサートは大変よく、感動したコンサートでした。やはり主役はヤンセンかなと思います。ヴァイオリニストはコンチェルトで聴くことが多かったのですが、こういったリサイタルで聴くと、ソリストが本来の地の能力を生かした演奏をするので、面白いなと思います。11月13日のオペラパレスです。
この日1番素晴らしかったのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の演奏でしょう。明らかに力が入った演奏で、非常に彫りの深いブラームスでした。
あれぐらい彫りが深いというのは、楽譜を細部まで読みこんでいて、何処にどういった表情を付けるのか?と、考え抜いた結果だからだと思います。ちょっとしたフレーズに、不気味な雰囲気が宿ったり、あるいは攻撃的な熱を持ったり、かなりこだわった表現だったかと思います。非常に印象に残りました。
こういう演奏を聴くと、ヤンセンは日々、相当ヴァイオリンに人生をかけて練習しているのかな、と思わせるものがありました。
マキシム・パスカルの第9 | ヒマジンノ国

12月23日のサントリーホールで、年末の第9を鑑賞。
マキシム・パスカルの第9を聴いて少し時間が経ちました。もう1度思い起こすと、新時代の第9という感じがしますね。
ちょっと前にトスカニーニの第9のレコードを聴いていました。テンポ感だけいえば、パスカルの第9も似たようなものでした。トスカニーニの演奏は、音楽をコンポジションと捉え、音符の動きを人間の活動的な側面として表現していきます。リズミックな部分の進行など、演奏者の内部にある音楽的素養によって、演奏者と音楽が一体になっているかのような感じです。
パスカルにも似たような部分はありました。リズムに乗った心地よさとか、そういう部分も出ていました。しかし少し違うのは、音楽から現れてくる、表面的な美感や効果にも時折、気を割いていたことです。
音楽を完全にコンポジションとして捉えず、部分ごとに、劇的な伴奏のような表現としても、第9を演奏していたように見えました。このような2重のスタンスをうまく繋ぎ合わせ、ベートーヴェンのイメージを壊さない程度にまとめ上げているようでした。
特にフィナーレは管弦楽部分が早く、声楽の部分は割と粘って演奏させているようで、歌劇的な傾向は強かったように思います。
トスカニーニのように音楽を「構成」として捉え、そこを突き通していくと、一本のそそり立つ槍のような雄渾さが出ますが、パスカルの場合、テンポは良く似ているものの、時折歌劇的な表現なども顔を出し、聴きようによっては一貫性に欠ける、と聴こえた人もいるのかもしれません。
深みを感じないのは、そういった折衷的な表現になっていたせいかもしれません。
〈まとめ〉
今年1番心に残っているのは「ラ・ボエーム」です。新国の演奏がどうのこうのという話はありますが、そういう問題とは別に、再現された歌劇の良さを実感しました。
次点はルイージのブラームス、ヒコックスのショスタコーヴィチ、ヤンセンのリサイタルです。この辺りのコンサートはどれも美しかったと思います。