タルコフスキーとSFというジャンル
タルコフスキーに関して、ちょっと意外なこと。
タルコフスキーの名を世界に知らしめた代表作『惑星ソラリス』(1972年)も、「タルコフスキー自身が認めた最良の映画」(西周成著『タルコフスキーとその時代』による)だという『ストーカー』(1979年)も、どちらもSFなんですよね・・・これ、改めて眺めてみると不思議な気がしませんか?
水や自然を誰よりも美しく撮った映像詩人・タルコフスキーに、人工的でメタリックな世界観のSF映画は結びつきません。実際、SFに不可欠な未来的なビジョンに関しては、緻密なタルコフスキーらしからぬ大味な描写も目立ちます。その好例が『惑星ソラリス』の劇中、数少ない未来社会の映像として映し出される日本の首都高! 日本語の看板もしっかり映り込んでいます。
特撮シーンも最小限。
『ストーカー』に至っては、原作がSF小説というだけで、SF的な場面はほぼ皆無です。
じゃあタルコフスキーはSFには不向きなのか?というと・・・或る意味では非常にSF向きの映画作家なんですよね。
特にSF好きじゃないなりにこれまで観賞を重ねた結果、気づいたことが1つ。
SFって、宇宙という未知で無限の世界を目指しながら、突き詰めれば人間の存在意義や自分自身の内面への問いに行きつくということ。『2001年宇宙の旅』にしても、結局は人類の原点を問う話。成功しませんでしたが、リドリー・スコットも『プロメテウス』以降のエイリアン・シリーズで人間の原点を描こうとしています。最近ではブラピが『アド・アストラ』で主人公がトラウマだった父との関係を太陽系の果てで克服する物語を作りましたね。
宇宙という無限空間に繰り出す旅を描こうとする者の関心は、同時に人間の内面に向かう。逆説的ですが、マクロコスモスへの探求心はミクロコスモスへのそれへと収束していくもののようです。
SFのミクロコスモスへ向かう側面は、映画制作を重ねるにつれて自分自身の内面と向き合い、人間の存在意義を問う志向を強めたタルコフスキーにお誂え向きのジャンル。
『惑星ソラリス』の場合にはさらに、タルコフスキーが全ての作品を通じてこだわり続けた「水」が大きく関わってくる物語だということも、彼を惹きつけた要因だったんじゃないでしょうか。
その海はすべてを見透かしている(ネタバレあらすじ)
未来。
人類が探査中の惑星ソラリスで、基地のクルーたちが何らかの異常な現象に見舞われてパニックを起こし、地球にSOSを求めてきます。現地の状況を把握するために派遣されたのは、心理学者のクリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)。
ケルヴィンが到着してみると、基地は荒れ果て、3人のクルーのうちの1人・ギバリャンはすでに自殺。残るスナウトも何かに怯えている様子、サナトリウスは研究室にこもりきり。その上、そこにいるはずのない人影が・・・基地内には異様さが充満しています。
しかし、11年前に自殺した妻ハリー(ナタリヤ・ボンダルチュク)が目の前に現れた時、ケルヴィンはここで起きている出来事を理解します。この星の海は知的生命体。その海にX線を照射して調査しようとしたところ、クルーの1人1人に「客」が来始めた。ソラリスの海は人間が心に抱えるトラウマを見抜き、それを物質化する能力を持っているようです。
初めは偽ハリーを容赦なく基地から放り出したケルヴィンですが、二度目に彼女が現れ、次第に人間的な行動や感情を覚えていくにしたがって、彼女を愛するようになっていきます。
これは海の攻撃なのか、それとも海は人間とコミュニケーションしようとしているのか? 送り込まれてきた、人間の姿をした人間ならぬ「客」にどう対処したらいいのか・・・クルーたちの心は崩壊の瀬戸際にまで追い込まれます。
やがて「客」と対峙する日々に疲れ果てたクルーたちは、「客」を消去する方法を発見しますが、ケルヴィンはハリーを消去することを拒否。しかし「ハリー」は、自分はケルヴィンが愛した本当のハリーではないと悟り、苦しんだ末に、自ら消去されることを選びます。
原作はポーランドのSF小説家スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』。(その後『ソラリス』に邦題変更。ロシア語版から翻訳されたため削除された箇所がある旧版に対して、現在はポーランド語から直接訳した完訳版↓が出版されています。)
記憶の中の人間が再生されて姿を現したとしたら、それはかつてのその人間自身なのか?それとも別の人格なのか? ソラリスの海が作り出した彼らを人ではないと切り捨てるべきなのか? 人間として愛するべきなのか・・・本作は宇宙の果てで実存についての問いを突き付け、人間の良心をも問いただします。
未知との遭遇をこういう本源的な問いという形で描いたSF小説がこれ以前にあったでしょうか?そしてこれ以降も、この種の恐怖と混乱を描き切った作品があったでしょうか?
この原作は凄い。科学の万能ではなく人間そのものを描いているから、SFでありながら古びることもありません。
原作者レムはタルコフスキーの『惑星ソラリス』も、その後スティーヴン・ソダーバーグがリメイクした『ソラリス』も気に入らなかったようですが、個人的にはやはり圧倒的に『惑星ソラリス』!
今回観直して、タルコフスキーが見せようとしたイメージがやっと掴めてきた気がします。
脱げないドレスが醸し出す恐怖
ハリーが初めてケルヴィンの前に現れるシーンは、好きなシーンの1つです。
自ら命を絶った妻が目の前にいる。それも、ケルヴィンが持参した古い写真の中の彼女と同じ服装で。
これが皆をパニックに陥れた現象なのだということをケルヴィンはすぐに理解します。出来立てでβ版とも言える「ハリー」はまだ不完全。ケルヴィンへの愛情をインプットされているにもかかわらず、自分の顔も知らない。そして、彼女を基地から追い出すために宇宙服に着替えさせようとしたケルヴィンは、彼女の背中を見てぎょっとします。
彼女の服は背中の紐をゆるめて脱ぎ着する構造になっているんですが、紐は飾りで機能しておらず、緩めても服は脱げない。ケルヴィンの記憶の中で彼女が着ていたドレスを見た目だけコピーしたことが一目瞭然です。
ハリーはこの服をどうやって着たのか・・・
スクリーンからじわじわと恐怖が立ち上ってくるようです。
それにつけてもこの場面のハリーの美しさ! 大人の女性でありながら自分自身のことを何も知らない彼女のイノセンス、無邪気にケルヴィンに甘えてくるしぐさに、庇護欲をそそられます。
偽りの存在だけが持つ哀愁も、彼女の美しさを一層引き立ててるのかもしれません。
蝋燭の灯りに照らされた図書室は「聖堂」
しかし、本作のハイライトは何と言っても図書室の空中浮遊シーンでしょう。
ケルヴィンとハリー、そしてスナウトとサルトリウスが初めて一堂に会し、今後の方針について話し合う場として選ばれたのが図書室。
この図書室というのがなんとも不可思議な部屋なんですよね。
蝋燭の灯りがともされた美しい燭台、繊細なガラスで作られたシャンデリア、そして壁にはブリューゲルの『雪中の狩人』や『バベルの塔』が意味ありげに飾られています。完膚なきまでに宇宙基地のリアリティを度外視した部屋。しかし、リアリティがないからこそ、そこにタルコフスキーの意図が浮かび上がってくるというものです。
この場面で、ケルヴィンとハリーは「人間とは何か?「お客」は人間ではないのか?」という実存に関わる問いに関してスナウト・サルトリウスと決裂することになります。
初めはただケルヴィンに寄り添い、黙って議論を聞いていたハリーが、
「あなた方は私たちを「客」と呼びましたよね。私たちを何か外部の邪魔者のように考えているんです。でも、「客」はあなた方の良心なんですよ。」
と怒りに声を震わせながら抗議する一言は、この場面の核心。そのハリーにサルトリウスは、
「君は女でも人間でもない。ハリーのコピーに過ぎない」
と残酷に言い放ちますが、ハリーは深く傷つきつつも、気丈に、
「そうかもしれない、でも、私は人間になります。感情だって、あなた方に少しも劣ってはいません。」
と言い切ります。そしてこの言葉が、その後の彼女の行動、つまりハリーへの愛のための自己犠牲につながっていくのです。
サルトリウスたちが去った後、無重力状態になった図書室で、ケルヴィンとハリーが宙を漂いながら無言で過ごす、かの有名な場面へと続きます。
一体何故ここだけ無重力状態が描かれるのか?他の場面では一切無重力状態は描かれていないにもかかわらず・・・
今回再見して漸く分かったのは、タルコフスキーはこの図書室を、ケルヴィンたちが自分自身の生き方と向き合う「聖堂」として描いているということ。リアリティーに反する蝋燭の灯りが煌めく室内、壁のステンドグラス、そしてシンセサイザーによるバッハのオルガン小曲・・・教会を思わせる演出がそれを暗示しています。
だとしたら、ここで起きる無重力状態は、それまで依りどころにしていた人類中心の価値観を見失い、自分自身の良心と向き合わされるケルヴィンの、寄る辺ない心理を表しているのではないでしょうか。
この場面でブリューゲルの名画『雪中の狩人』がアップでじっくりと映し出されますが、「狩り」という行為が宇宙開発と重なるにせよ、個人的にはこの絵の横にある同じブリューゲルの『バベルの塔』のほうがストレートに劇中の状況を象徴していると思っています。
人間の傲慢さがもたらした悲劇。
人間という存在そのものと向き合う物語としての『惑星ソラリス』は、この図書室の映像に凝縮されている気がします。
人は海に神を見る
ソラリスの海は知的生命体であるという時点で、地球の海とは違います。知性を持ち、しかも何を考えているのか全く読めない。コミュニケーションの方法も分からない。人間の内面を見透かし、或る意味で肉体よりも脆弱な精神を攻めてくる海の不気味さ・得体の知れない恐ろしさ。
それは宇宙の未知そのものです。
ただ、私たちがこの作品の海のえもいわれぬ不気味さに深く惹き込まれるのは、それが完全なる未知の領域だからという理由ではない気がします。
地球の海は、恵みの海。人類の故郷でもある。しかし、海は人間に優しいばかりの存在ではありません。時として強固な意思で人間を滅ぼそうとするかのように、人を呑み込み、文明を破壊することがある。人間には抗うことができない存在であるがゆえに、あらゆる文明において海は神の領域と見做されてきました。
そう言う意味では、ソラリスの海のイメージは、かすかではあれど確実に、いまだ人類にとって未知である地球の海のイメージ、ひいては神のイメージにつながっている気がします。
本作を通じて使われているバッハの教会音楽や、ケルヴィンが偽ハリーや偽の父の前に(偽者と知りながら)ひざまずく場面は、タルコフスキーが本作の中で神という存在、神の前の人間の無力さを意識していたことの証しでもあるのではないでしょうか?
タルコフスキーにまつわるエピソードには、高額の製作費や高級ホテルでの滞在を要求したとか、「ソ連だけでなく世界の映画の水準は低いので、それを超えることは簡単だ」と言ったとか、傲慢な芸術家であったことを伝える話が多々残されていますが、そういう一面はあったにせよ、彼は半面ではとても繊細で内省的な人間であり、人間の弱さを描こうとしていた作家なのではないか?という気がしてなりません。
そこが、人間賛歌で終わるソダーバーグ版『ソラリス』との大きな違いのように思えます。