『君たちはどう生きるか』 この汚れたいとおしき世界に生きる | シネマの万華鏡

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解釈は観た人の数だけ

またまたまたまたご無沙汰しました。

7月はひさしぶりに週6日も働く羽目に陥って・・・ま、言い訳はともかく。

この映画、最初7月に観ました。冒頭のシリアスな雰囲気は大好きで、凛とした佇まいのアオサギが見せるミステリアスな行動にグイグイ惹きこまれました。

ところが、どっぷり物語の世界に浸りきっていたところで、序盤後半、アオサギの「中の人」が顔を覗かせ始めた途端、作品が一気に子供向け冒険ファンタジー・モードへと転調していくんですねえ。too muchなアニメ展開にむせ返るようで、後半は胃部膨満感がせり上がってくるばかり。

戸惑いに押し流されて終了・・・というのが1度目の正直な感想でした(汗)

ただ、自分の心情を言葉では語ろうとしない真人と、その彼の内面の絵解き物語のような異世界のカオスには、何か後ろ髪を引かれる魅力があって。

今回は一切宣伝はしないという方針だそうで、映画宣伝あるあるの、小出しにばら撒かれる解説やトリビアもなし。商業主義に抗った(裏をかいたとも言う?)戦略の潔さもさることながら、何よりも、「全部自分の解釈で観てOK!」という大盤振る舞いが嬉しくて、今月に入って2回、計3回鑑賞してしまいました。

2度目以降は、ファンタジー展開にも慣れちゃいましたね。自分なりに解釈していいのであれば、とてもわかりやすい作品なのだということも確信できました(100%自分の解釈でOKなんですからそれって当然な気もしますがw)。

 

『君たちはどう生きるか』を読んだ少年が「新たな視点で見た世界」を異世界冒険に転換された物語

 

軽くあらすじを。

「戦争の3年目」に、主人公の少年・真人は、母親を火事で失います。太平洋戦争ですから、1943年の冬頃でしょうか。

その後真人と父親は、母親の実家がある町へ疎開。山間の町の丘の上に建つ広大な屋敷で真人を待っていたのは、新しい母親・夏子。亡き母の妹である夏子のお腹にはすでに新しい命が宿っていて、父親と継母の仲睦まじい様子を、真人は距離を感じながら眺めます。

そして学校では、都会から来た裕福な転校生の宿命で、地元の子供たちからイジメに遭う羽目に・・・家でも学校でも孤独感を味わう真人。

何故、母親を救えなかったのか。何故、イジメっ子に立ち向かえないのか。真人は誰にも言えずに、ひとり苦しみます。

そんなある日、屋敷の森にある不思議な塔に棲みついているアオサギが、真人に「母親は生きている」と告げ、塔へ、そこからつながる異世界(下の世界)へと彼を招き入れ--

 

タイトルの『君たちはどう生きるか』は、吉野源三郎(と山本有三)の小説から取られたもの。原作という位置づけではありませんが、作品の中で真人が亡き母の遺したこの本を読む場面があります。(実はこの本、私も中学時代に図書館で借りて読みました。)

作品の中に登場するコペル君というあだ名の少年(コペル君というのは、私の記憶が正しければ、既成概念にとらわれずに真実を探求していくコペルニクスのような視座を持ってほしいという願いをこめて、彼の叔父さんが名付けたあだ名だったかと)は、15歳。精神的にも肉体的にも子供から大人へと脱皮していく時期、自分と世界との関わりにも目覚める年頃の子供に向けて書かれた本です。

社会に対するさまざまな疑問にぶつかりながら日々成長していくコペル君に向けて、叔父さんが彼の疑問により広い視点を加えて答えていく内容。子供向けの哲学書とも言えるかもしれません。

多感な年ごろを不穏な戦争の時代に過ごし、心の支柱だったはずの母親をも失ってしまった真人にとって、この本は、生きていく上での新たな決意をくれた一冊だったのでは? 彼は涙を流しながら、この本を読みます。

弱肉強食、人の欲望うずまく、ままならない世界と、どう向き合い、どう生きるか。世界のために、自分は何をすべきか。

映画『君たちはどう生きるか』では、真人がこの本を読み終わった後、物語が大きく転回します。作品の中ではこの本と真人が体験した異世界の冒険とは直接関連していませんが、真人が継母を救うべく向かった異世界での出来事は、彼が『君たちはどう生きるか』を読んで得た「今までとは違う角度からの見方」「世界のさまざまな側面を知った上で、どう生きるべきか」についてのひとつの確信を、ビジュアルな形に転換して描いたものではないか?と私は感じました。

 

灰色の戦争の時代の中に、ひときわ鮮やかな色彩で描かれた継母

 

米津玄師のエンディングテーマ『地球儀』が話題の本作。が、個人的に沁みたのは久石譲の劇伴のほうでした。

一貫して宮崎作品の音楽をてがけた人だけあって、映像と音楽とが深く響き合う。躍動感あふれる宮崎アニメが、その一方で独特の静けさをも併せ持っているのは、久石譲の音楽のなせる業だったということ、今更ながらに気づかされます。

この映画も、戦時中の火事という不穏な場面から始まりながら、心が研ぎ澄まされていくような静寂感を湛えて始まります。

暗い戦争の時代。灰色の町、出征兵士を見送る人々。戦車パレード・・・そうした不穏で、本来異様な高揚感に包まれているはずの光景が、澄みわたった静けさの中で描かれていく。

そんな中で、真人親子を田舎町の駅に出迎えに来た継母の夏子だけが、美しい日傘をさし、ひときわ鮮やかな色彩にいろどられて登場します。人力車から降り立つ足元さえ、つややかで眩しい。

彼女が町の旧家の令嬢だからというだけでなく、その色彩の鮮やかさには、彼女を見る真人の心理が投影されているのかもしれません。

母親ととてもよく似ている夏子の中に、「父親の女」を見た戸惑いと嫌悪。彼女は「女性」ではあっても、けして母親じゃない。

「立派におなりですね」と夏子に褒められ、少し肩をすぼめながら黙って帽子を目深にかぶりなおす真人のしぐさにも、真人のかたくなに閉ざした心が滲み出ています。

このあたり、言葉少なな真人の心情が、しぐさや目線に巧みに引き出されている。日本のアニメーションを牽引してきた宮崎駿の矜持を感じます。

 

夏子と真人の関係に関しては、はじめ、何故継母を母親の妹という設定にしたのか不思議に思いました。

「家」という概念が生きていた当時の社会では、配偶者が亡くなった時に義理の兄弟姉妹と再婚する、ということはよくあったのでしょうが、親の再婚相手を迎える子供にとっても、赤の他人が家に入ってくるよりは、身内のほうがずっと受け入れやすかったはず。その意味で、真人はむしろ恵まれている、と私は感じたし、他人を母親として迎える設定のほうが真人の戸惑い、居場所のなさが際立ったのではないか?と思ったんです。

ただ、アオサギが真人に「母親は生きている」と言い(これは、真人が心に秘めていた願いそのものですよね。アオサギは狡く弱く嘘つきな真人自身の分身)、彼の前に母親の姿を作り出して見せるシーンで、何故「母親の妹で母親にそっくりな継母」という設定にしたのかが、理解できたような気がしました。

夏子は、真人にとって「ニセモノの母親」だった。

「ニセモノ」は、本物とよく似ていることで、より一層ニセモノであることが際立つ。

逆に、本物の母親とそっくりなのに、一体何が母親とは違うのか?という本質的な疑問も際立つ。

中盤以降の冒険活劇的な展開に押し流されて、あまり夏子に対する真人の心情の変化がストーリーに落とし込まれることなく終わってしまった感がありますが、ばあやのキリコが真人に、

「坊ちゃんは本当は夏子お嬢様がいないほうがいいと思ってる。それなのに夏子様を救いに行くなんて、おかしいですよ」

と鋭く切り込んだあの疑問の答えが、この物語が冒険活劇に転調する理由の全てではないでしょうか?

母親を救えなかった無力感に苛まれていた真人がその無力感を克服して成長していく方法・・・それは、新しい母親・夏子を救うことしかない。

その手助けをしてくれるのが、少女だった頃の本当の母親だなんて(たぶん彼女が子供の頃に神隠しにあったのは、未来の自分の息子を救うためだったのでは?)。これは、母親が真人の救いとなる本を遺してくれていたことともつながっていて、実はこの作品全体が、母の愛という1本の線で結ばれているのだということを感じさせる構成になっています。

 

現実世界の鏡としての、黄泉の世界。そこで真人は何を学んだのか?

「異世界に消えた夏子をこの世に連れ戻す」という目的のため、真人がアオサギにいざなわれて迷い込んだ「下の世界」は、死者たちが旅立ち、新しい生命が生まれ出る生と死の世界。

しかしそこには、真人と同じ年頃の少女だった母や、今の煙草をねだるだけの小狡いキリコ婆とはまるで別人のような活力にあふれた若きキリコもいる。そして、アオサギが棲みついている屋敷の森の不思議な塔も遠くに見えている。

一見黄泉の国のようでありながら、実はこの世の鏡のような世界でもあるんですね。

この世の生と死という側面が凝縮された世界、そして1人の人間の別の側面を見せられるパラレルワールド。真人が『君たちはどう生きるか』を読み、これまでとは別の視点で眺めた世界の光景が、「下の世界」には投影されているのだと、私は感じました。

新しい視点でこの世を眺めること。これが、母の死を乗り越えるということと並ぶ、もう1つの本作のテーマです。

食は生きるための営み。弱者を食う側にも言い分がある。弱きワラワラの生命を守るためにヒミ(少女時代の真人の母親)が放った火が、ワラワラを食って生きている老いたペリカンを殺す。そのペリカンの死を憐れんで、真人はペリカンを弔ってやります。

正義と悪とを峻別することへの疑問も、真人が「下の世界」で学んだことです。(「正義の戦争」をしている「上の世界」の学校では決して教わらないことですね)

 

ところで、「下の世界」で気になったことが1つ。それは、真人の父親が「下の世界」には登場しないことです。

母親も継母の夏子も、ばあやも登場するのに・・・何故こんなに父親の存在感が薄い作品なのか、それがとても不思議で。

そもそも真人の父親は、作品内でいろんな違和感をふりまく存在なんですよね。

金を見せつけて人を従えようとするようなところがある。敢えて太平洋戦争の時代を時代背景に選びながら、戦争をほとんど描かない本作の中でわずかに戦争の話題が登場するのが、父親がサイパン玉砕を話題にする場面なんですが、それも、

「おかげで工場は大忙しだ」

と、むしろ商売繁盛を喜んでいるかのような口調。彼は飛行機の部品を作る工場の経営者で、戦争を商売にしているんです。

確信犯的ジャブ。こんなセリフを仕込んでおきながら、それを回収しないのも不自然に感じました。ストーリーの大半が「下の世界」で展開する本作で、「下の世界」に登場しない父親まわりの伏線は、回収されないで終わってしまったような・・・

 

しかし、2回目にこの映画を観た時に、ふと、「下の世界」に父親は登場していなくても、彼に対応する人物はいるのではないか?と思ったんです。そして、戦争も、非常に抽象的にではあれ、「下の世界」のシーンの中で描かれているのではないかと。

「下の世界」の住人として異彩を放っていた種族の1つに、鍛冶屋に棲みついていたインコの一群がいます。

鍛冶屋は『もののけ姫』にも登場しましたね。森の木を伐り、蹈鞴製鉄で鉄砲を作り出す、鉄砲鍛冶。インコたちは鉄砲ではなく人間を料理する包丁を持っていましたが、彼らのマッチョな体型・規律正しい集団生活(マチズモな空気ガムンムン!!)や刀剣を携えたインコ大王の姿から見ても、彼らが軍人に擬制されていることはたしかなんじゃないでしょうか。

そして、刀と言えば、塔に消えてしまった真人たちを探しに行く時に、真人の父親も日本刀を携えていくんですね。彼は武人ではありませんが、力(武力・権力)を肯定する人間です。

下の世界が鏡にうつった上の世界だとしたら、下の世界で真人の父親の位置にいるのはインコ大王なのではないか?と思ったわけです。

 

「下の世界」には、インコ大王のような武人に加えて、真人の母親の大叔父(彼をインコ大王は「閣下」と呼んでいますね)のような文人も存在します。

文人である大叔父は、悪意のない純粋な石を集めて、その石でもって世界の均衡を作り出そうとする。

しかし、インコ大王はそんな大叔父のやり方に苛立ち、刀を振り回して、積上げた石の均衡を力づくで壊してしまいます。

人間の悪意を排除して純粋な理想だけで世界のバランスを保とうとしても、あるいは力で世界をねじ伏せようとしても、世界は壊れてしまう--それもまた、11歳の真人が「下の世界」で見た真実の1つです。

世界は汚れと悪意と理不尽に満ちている。それを均衡させることの難しさ・・・簡単に答えなど出せない、大きな大きな人類の課題です。

だから本作にも、答えはない。

ただ、この場面、悪意のない世界があると信じて石を積む大叔父も、武力で世界をねじ伏せようとするインコ大王も、どこかやさしい、慈愛の眼差しで描かれています。

インコ大王が、大叔父に詰め寄る場面の音楽がいい。愚かな彼の姿に重ねられた、哀しみと情感。

自分の弱さ・狡さを知り、自らの悪意とも向き合っていこうとしている真人の目線を通して眺めた光景だからこそでしょうか。

インコ大王の振り下ろした刀によって崩壊を始めた「下の世界」。すべてが崩れ落ち、宇宙の闇に消えていく光景までもが、スローモーション映像でこの上なく美しく描かれているように見えるのも、古い世界の崩壊の先に、真人たち新しい世代が作り出す未来があることを、感じさせてくれる作品だからこそなのでしょう。

 

反戦映画にしてアンチ反戦映画

宮崎駿の父親は、本作の主人公・真人と同じく同族経営の航空機製造メーカーの重役だったんだそうですね。戦争中はいわゆる軍需産業の一端として、戦闘機(の部品?)も作っていたのかもしれません。

引退作だった『風立ちぬ』(実際は引退作にはならなかったわけですが)でも、宮崎駿は零戦の開発者・堀越二郎を主人公に据えています。それだけ飛行機には思い入れがあった。たとえそれが戦闘機だったとしても・・・勿論物議を醸すことは覚悟の上でしょう。

戦争を時代背景にした映画が多くの人に受け入れられるためには、わかりやすく反戦を掲げなければならないという不文律があります。ところが、『風立ちぬ』にしろ、今作にしろ、宮崎駿は反戦を前に出していません。

もっとも、彼の生い立ち、飛行機への強い強い思い入れを考えれば、そんな彼が反戦映画を作るのはご都合主義であり、そんな自分の捻じ曲げ方はしたくないという宮崎駿の思いが理解できるような気がします。

その点、『火垂るの墓』で、戦争の悲惨さをこれでもかというほど冷徹に描き切った高畑勲とは対照的。『火垂るの墓』は時代を超えて語り継がれるアニメになったけれど、『風立ちぬ』も『君たちはどう生きるか』も、「分かりにくい作品」という評価になった。やっぱり、「戦争」→「反戦」というベクトルを強く植え付けられている戦後育ちの人間には、わかりやすく反戦を描いてくれない戦時中の映画には戸惑いを与えてしまうんじゃないでしょうか。

 

ただ、上にも書いたように、この映画では「武力でも理想主義だけでも、世界の均衡を保つことはできない」「正義とは相対的なもの」という真実を掲げて見せることで、武力解決を否定しています。そういう意味では、これは反戦の映画でもあるのです。

その辺は、子供向け映画として観ると分かりにくいけれど、自分を中心に世界を見るのではなく世界を相対的に見ることを教えてくれる『君たちはどう生きるか』を読んだ人、あるいは生きる経験を通じてそれを知った大人には分かるはず。

本作のまわりくどさの向こうには、そんな宮崎駿の思いが込められているのかな、と私は感じました。

観る人の数だけ解釈がある本作、よく味わってみればいい作品でしたね。