今年の超話題作!楽しみにしていたので公開直後に観たのですが・・・いやいや、時の経つのは早いことで(苦笑)
是枝作品は『幻の光』や『ワンダフル・ライフ』のような初期の静的な作品が大好きなんですが、今作は最近の作品の中でもダントツに私好みの作品でした。個人的には『万引き家族』超え!
是枝監督がかねてからリスペクトされていたというだけあって、坂元さんの脚本と映像の共鳴感が凄い。
映画に答えなど不要、解説も不要。映像から溢れ出すエモーションこそが映画本来の魅力なのではないか?
そんな思いにさせてくれる、満喫感たっぷりの映画でした。
怪物だぁれだ?
夜の闇を照らして燃え盛るビル火災--なすすべもなく地上から見上げる人々を嘲笑うかのように高々と噴き上がる火焔を背景に、タイトルの2文字が浮かび上がる。
スクリーンいっぱいに不穏さをみなぎらせた、印象的なオープニング。この瞬間から、作品世界に「怪物」の気配がともります。
その火事を自宅のベランダから見物する母子(本作の主人公の小学生・麦野湊(黒川想矢)と母親(安藤さくら))の姿がある。この家に父親はいない。けれど、母1人子1人、おだやかな日常そのものの中に暮らしている・・・はずなのですが、湊役の黒川想矢の鋭角的な顔立ちが宿すかすかな翳にタイトルバックの火焔の残像が重なって、2人の日常が不穏なものに侵されていく予兆がすでに始まっているかに見えます。
案の定、その予兆は急速に露わになって、母親の不安を駆り立てる。
湊の様子がどこかおかしい。急にふさぎこんだり、何か隠しているように見えたり、奇行に走ったり。
学校でいじめられているのか?
問い詰めると、新任の担任教師・保利(永山瑛太)に叩かれたと言う。
「おまえの脳はブタの脳だ」
と教師に言われたのだとも・・・
人格の全否定。教師の言葉とは到底思えない。
だが、保利はもとより評判の悪い教師。キャバクラ好きというウワサもある。母親は息子の言葉を信じた。
ところが、母親が学校に抗議しに行くと、校長はじめ教師たちはなんとも歯切れの悪い反応。
当の保利も当事者意識のカケラもなく、まるで他人事のような態度。子供の問題に母親が過剰反応してモンスター化するのは母子家庭にはよくあることだ、などと、湊の母親の神経を逆撫でするような発言ばかり。
挙句、イジメをやっているのは湊のほう、湊は星川依里(柊木陽太)という生徒をいじめているのだ、と言い出して・・・
湊は、本当はイジメをやっている側なのに被害者のふりをしているモンスター小学生?
それとも、保利のほうが生徒を陥れるモンスター教師なのか?
事実を確かめようと、母親は星川依里の家に向かう。依里は湊の母親が訪ねてきたことにおびえるかと思いきや、逆に不可解なほど平然とした態度。その落ち着きぶりはまるでラスボス級。
怪物は、教師曰く湊にいじめられていることになっている依里のほうなのか?
このあたりまでは、学校でのイジメをめぐるモンスター探しのサスペンスドラマの体でストーリーが展開します。
トレイラーに使われている、
「怪物だぁれだ?」
という謎かけめいた子供の声。事前にトレイラーを観た人なら、あの耳に残るひとことにいざなわれて、気が付けば「怪物探し」目線でこの映画を観ているんじゃないでしょうか。
いやぁ、計算しつくされた知能犯的な仕掛け。
勿論、怪物探しという目線で本作を捉えても、それはあながち間違いではありません。
でも、私は敢えてその見方を否定したいと思います。この映画は犯人捜しのサスペンス映画の向こう側の、もっと高みに手を伸ばした野心作だから。
この後、「怪物探し」にとらわれていた観客の足元を掬うかのように、ガラリと視点が変わります。
湊の母親の視点から、教師の保利の視点へ。そしてさらに、湊と依里の視点へ。
同じ時系列が、視点を変えて3度繰り返されます。
かつてヴェネツィア国際映画祭で世界を瞠目させた黒澤明の『羅生門』のスタイルで、1つの事象を複数の人間の視点から眺めなおしていくわけです。
そうすることによって、「事実」とはいかに多面的なものか、現実にはいかに死角が多いか、を暴いていく。
本作がカンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞したことは周知の事実なのでネタバレにはならないと思いますが、本作にはLGBT問題が織り込まれています。それは主人公・湊の通う小学校で起きたイジメ問題の大きなカギになっている。ただ、それもまた現実の中の1つの様相に過ぎない、と言えるくらいに、「事実」の多面性をしっかりと見据えた作品だと思うんです。
「事実」とは個人の認識にすぎず、人の数だけ「事実」がある。そしてそこにはさまざまな要素が、人の数だけの含有比で、認識に絡み合ってくる。そういう、現実世界の複雑さを写し取ろうとした映画。
こういう作品、たまりません。
信州諏訪の澄んだ空気感と坂本龍一
子供を主人公に据えた映画は、是枝監督の真骨頂。今作も、大人には決して本心を語らない湊と依里の心の叫びが、派手な演出も直截的なセリフも排した中、映像に鮮やかに引き出されています。
信州諏訪という舞台も効いている。諏訪の澄みわたった空気、諏訪湖の透明感が、湊たちの純粋な思いをいっそう磨き上げて、輝かせているようで。
坂本龍一のピアノ曲の透明な音色は、信州の空気の質感そのもの。彼の音楽ほど信州の空気感に共鳴する曲はないのでは?
実は大昔に安曇野舞台の小説を、坂本龍一の『ウラBTTB』をひたすら聴きながら書いた経験がある私(とんだ駄作で完成もしなかったのですが・・・お恥ずかしい)としては、大好きな是枝監督が私と同じく信州と坂本龍一の曲に親和性を感じていたらしいことも、嬉しかったですね(作った作品のレベルは天と地の差があるにせよw)。
本作が坂本龍一の遺作になってしまいましたが、最後に良い作品を残してくれたことに感謝したい気持ちです。
永山瑛太のつかみどころのなさがひときわ輝いた
それにしても、湊と依里2人の本当の思いに気づいたのが、息子を愛し、寄り添っていたはずの母親でもなく、あたたかく接してくれた前任の担任教師でもなく、本や雑誌の誤字・脱字を見つけては出版社に指摘するのがシュミという、そこだけ取り上げればか~なりゆがんだ人間に思えてしまう、あの保利だったということ・・・
母の愛が子供を救うとはかぎらない。世間が烙印を押す男が、誰も救わないとは限らない。
本作に限っては、これ、単なるサスペンス映画あるあるなフェイントとは思えません。
一面的価値観、一面的な見方の否定。それが、LGBTというテーマとも、少し遠くで焦点を結んでいく仕掛けなんじゃないでしょうか。
保利役の永山瑛太、昔から好きな俳優ですが、人間の多面性という切り口を持った本作では、彼の個性がひときわ光を放っていましたね。
保利という人間のふがいなさ、やさしさ、弱さが、全て等身大の永山瑛太のままのたたずまいから立ちのぼってくる。引き出しが多い俳優というよりは、ブレの大きい人物像に憑依できる俳優。数々のスキャンダルやバッシングをものともせず、どこ吹く風の瑛太、俳優としてはますます面白くなってきました。
死角はあくまでも死角のまま、深い余韻へ
一連の事象を3つの視点から眺め終えてみると、少なくとも、何が問題をこじらせたのか、1つの要因がわかります。それこそ、一面的な物の見方、一面的な価値観が、問題の根っこにある。
ただ、最後までわかりにくい人物がいます。
田中裕子演じる校長。何を言ってものれんに腕押し、逃げ腰で、マニュアル通りの対応しかしない、「生徒いじめの張本人」の保利以上に、湊の母親を苛立たせる人物・・・校長は物語のメインストリームには絡まないものの、冒頭の不審火同様、本作の不穏さを掻き立てる存在です。
それでいながら、事実を紐解いていく3つの視点の中に、校長の視点は含まれていない。部分的に彼女の「人に言えない事情」は明かされるものの、消化不良な情報量。そのせいで、彼女の周囲にだけは最後まで何か割り切れない空気がまとわりついたまま、物語は終わります。
たぶん、そういう形になったのも、いろんな理由があるんでしょう。校長の行動の背景には、プライベートな事情以外にも、日本の教育現場の闇が絡み合っている。ただ、LGBT問題という大きなテーマをブレない形で見せるために、敢えて校長の目線での一連の出来事の眺めなおしは加えなかったのかもしれません。当然のことながら、時間の制約もあるわけで。
とはいえ、彼女の視点が敢えてはずされ、物語に死角が残ることで、作品の余韻はいっそう深くなった気がします。これも、もしかすると狙いすました確信犯的シナリオ?
時折りアルカイックスマイルにも見える田中裕子の無表情さが、ある時は世の中の理不尽そのもののようにも見え、ある時は理不尽な世間に対する怒りに耐えているようにも見えて、永山瑛太同様に田中裕子の存在感も、本作に必要不可欠なケレン味になっている気がしました。
もっとも、欠けているのは校長の視点だけじゃない。実は、湊の母親の視点だって、すべて解きほぐされているわけではありません。
彼女の夫、つまり湊の父親は、不倫旅行で事故に遭って死んだ。それなのに彼女は、夫に対して何のわだかまりもないかのように、湊に「家庭を持ってしあわせになれ」などと言っているんです。
何故、彼女は夫に裏切られながら、子供に「家庭を持つことこそ幸せ」などと言い切れるのか・・・実は作品を観終わった後、考えれば考えるほど、死角は随所に残されていたことに気づかされます。
私たちが生きている現実社会は、死角だらけ。その死角の中に、知られざる価値観、生き方のさまざまな可能性が秘められているのかもしれません。
湊と依里が諏訪の光あふれる風景の中を駆け抜けていくラストシーンは、現実なのか、彼らの心象風景なのか? 心象風景だとしたら、彼らは今、どこにいるのか--
答えは不要なのだと思います。
2人の笑顔の中に、未来も可能性も描かれている。
私はそう受け止めました。