『福田村事件』 「善良な人々」が善良な人々を殺す時 | シネマの万華鏡

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こんにちは!やっと寒くなってきましたね。寒いのは苦手なZELDAですが、11月に入っても汗ばむ💦日が続くとさすがに心配になり始めていたので、正直ほっ。おニュー(死語?)の秋色ロングカーディガンを着て、落ち葉をサクサク踏みながら銀杏並木を散歩したい気分の今日この頃です。

 

今月はTAMA CINEMA FORUM(多摩映画祭)も覗いてきましたよ。アメブロのお友達で映画監督のhaienaさん率いるJ&H filmsの映画が、2年前の『LUGINSKY』に続いて二作目の映画賞入選!「ある視点」部門で上映されたんです。

 

 

今作のタイトルは『ORLIK』。『LUGINSKY』に続いて今回も東欧の香りがあって、それだけですでにミステリアス! いつもながらネーミング・センス抜群ですね。

応援しているけど遠くて観に行けなかった~という皆さんのために感想をアップしよう♪と思ってたんですが・・・ごめんなさい、大事なところを見逃したので、配信・一般上映の機会を待って、もう一度観てからにします。

今敢えて一言でこの映画を表現するとしたら、

ノスタルジーと狂気の迷宮、ときどき無重力。

ポリコレ全開の世の中で、型にはまらない映画を渇望している方、いずれ近いうちに上映・配信されると思うので、ぜひご覧になってみてくださいね。

 

関東大震災にまつわる最大のタブー

さてさて、やっと本題です。前回の記事に書いたとおり、当初は『福田村事件』と『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』をがっつり比較するつもりだったのですが・・・ニワトリ脳の悲しさで時間が経つと細部が書けなくなりまして、あっさり方針転換! 『福田村事件』のレビュー+αにすることにして、『福田村事件』2回目を観てきました。

 

『福田村事件』、今年さまざまな邦画が公開された中でも、もうこの事件をテーマにしただけで他の追随を許さない。圧倒的と言い切れます。

なにしろ日本史の恥部をスクリーンに曝け出したわけですから、相当軋轢もあったと思います。誹謗中傷も受けたでしょう。脅迫もあったかもしれない・・・それを押してこの映画を製作したことに、心からスタンディング・オベーション。日本人としては、目をそむけて素通りしたくなる事件ですが、でも、見なきゃならない。誰かが映画化すべきテーマだったと思います。

 

関東大震災直後、「朝鮮人の暴徒が放火や殺人を行っている」というデマが流れたことが端緒になって、日本人が各地で罪のない朝鮮人を多数惨殺した、という事件があったことは勿論知っていました。巻き添えなのか便乗なのか、そのどさくさの中で、日本人や中国人、そして思想犯までもが殺されたということも。

ただ、福田村事件のことは、今回初めて知りました。震災当時、ちょうど千葉の福田村に四国から訪れていた薬の行商人の一行が、小さなトラブルが端緒になって朝鮮人ではないかと疑われ、妊婦や幼い子供までもが村人たちに惨殺されたというむごたらしい事件。偶然、一行が被差別部落の出身者だったこともあり、この事件は後年注目を浴びることになります。

念のために書きますが、朝鮮人ではなく日本人を誤って惨殺した事件だから注目されたわけでは勿論ありません。そもそも、阪神淡路大震災で証明されたように、地震に火事はつきもの。朝鮮人が放火しているとか、日本人に危害を加えているという話は、パニック状態の中で発生したデマに過ぎなかった。無実の人を「自警」の名の下に殺害したこと自体、取返しのつかない過ちだったんです。

ただ、この福田村事件は、穏やかな農村に暮らすごく普通の人々が加害者になったこと、被差別部落問題が絡んでいたことで、奇しくも、当時のゆがんだ社会の、もう一段深い層までもあぶりだした。それがこの事件がことさらに注目された所以ではないでしょうか。

 

村人たちの抱えるフラストレーション

いくら「朝鮮人の暴徒が地震に乗じて放火や殺人をしている」というデマが流れ、「殺さなければ殺される」的なパニック状態に追い込まれていたとしても、ごくごく普通の人々が、武器も持たない行商人一行、それも、こちらに危害など加えるはずもないことが一目瞭然の妊婦や幼児までを執拗に追い回して殺害するとは・・・一体どうしてそこまでの狂気が村人たちに宿ったのか。

誰もが不思議に思うのはそこですよね。

本作では被害者たち以上に、加害者になった福田村の人々の日常・人間関係をじっくり描き、その謎に迫っています。

当時の日増しに軍国主義の色を増していく時代の風潮、その抑圧感に一層拍車をかける、狭い村特有の閉塞的な空気の中で、福田村の人々の心に堆積していくフラストレーションが描写されていく。

 

 

暴走する軍国主義を象徴しているのが、水道橋博士演じる在郷軍人の長谷川秀吉。

日本では戦国の英傑・韓国では侵略者の大悪人である豊臣秀吉と同じ名を持つ男。軍服を着ていなければ村の中でもうだつの上がらない存在なんでしょうが、それだけに、国粋主義を振り回し、村人たちへのマウンティングにいそしんでいます。

村で定期的に開かれるらしい在郷軍人会は、長谷川秀吉のコピーたちが集まる宴。男たちは酒くさい息で武勇伝を語り、村の女たちはその饗応役に駆り出される。好むと好まざるとにかかわらず、村人たちは軍国主義の踏み絵を踏まされ、協力しない者は非国民→村八分、という刷り込みが行われる場でもあります。

関東大震災が起きる少し前、日本はシベリアに出兵していて、映画の中では福田村にも戦死者が出たことになっています。出征も、遺骨となった家族の帰還も、「天皇陛下万歳!」で受け入れなければならなかった。そういう時代を象徴するのが、在郷軍人という存在なんですね。

 

長谷川秀吉が目の敵にしているのが、二言目には「デモクラシー」を口にする村長(豊原功輔)。代々村長を務める家に生まれ、村では数少ない高等教育を受けた男、進学を理由に兵役もまぬがれている。口ではデモクラシーを熱く語っても、秀吉に「進学を口実に兵役をまぬがれたくせに」と言われると、もう何も言えなくなってしまいます。

井浦新演じる主人公の澤田も、村長と同じく「頭では分かっていても、いざとなると傍観者」タイプ。当時日本が併合していた朝鮮へ渡り、日本の国策企業の重役の娘・静子(田中麗奈)と結婚しますが、朝鮮での独立運動弾圧に不本意ながらも協力してしまい、凄惨な惨殺の現場を目の当たりにしたことで心を病み、失意のうつに郷里に戻ってきた男です。

 

同じインテリ層でも、地元新聞は朝鮮人差別を煽る側。新聞の煽情的な論調もまた、朝鮮人虐殺事件の遠因になっていたんですね。

 

村人たちの人間関係も事件への伏線として絡んでくる。

兵役に行っている間に父親(柄本明)に妻を寝取られた茂次(松浦祐也)は、夫が出征している咲江(コムアイ)とねんごろになった船頭の倉蔵(東出昌大)に嫉妬に近い反感を抱いています。

元を正せば兵役というものがいかに農村にひずみを生じさせているか、というところへ行きつくのですが、なにしろこの2人の軋轢が、事件の起爆剤になっていきます。

 

村における船頭の危うい立ち位置

 

関東大震災と朝鮮人虐殺事件から百年を記念する社会派映画に、こんなことを書くのは不謹慎かもしれませんが・・・本作で船頭役の東出昌大が漂わせる色気、これまでにないものがあって、目が釘付けだったんですよねえ。

肩や背中を露わにした腹掛け姿の彼は、それだけでもう村人たちの中でダントツにセクシー。その上にあの高身長・ルックスですから、あんな男が狭い村にいたら、それだけで村の空気がざわつくんじゃないかと。彼の色気もまた「事件」と呼ぶにふさわしい不穏さをはらんでいます。

実際、倉蔵と人妻の咲江との関係は村人たちみんなが知っている・・・すでに村の「危ない男」という立ち位置にいるわけです。

 

『福田村事件』(辻野弥生著・五月書房)を読むと、実際の事件で行商人たちを「朝鮮人ではないか」と疑い始め、村人を集めるために村の半鐘を鳴らしたのは、この船頭だったようです。

船頭というのは、集団作業をしながら暮らす農業従事者とは少し距離がある立ち位置の仕事。、地域によっては船頭が被差別民の扱いを受けていたところもあったようですね。

身分制度による抑圧や差別が当たり前に存在するような社会では、差別されている側も差別意識から逃れられないという悲しさがあります。本当に憎むべきは、そういう社会構造を作り上げている為政者なんですが、差別や抑圧のフラストレーションは不思議と、上への反発ではなく、より下の階層の人間への抑圧に向かいがち。悲しいけれど、これも自覚しておくべき人間の習性なんだろうと思います。福田村事件でも、さまざまな要因の1つとして、そういう人間の習性が暗に作用した可能性もあるのかもしれません。

 

本作の船頭が、「女好きのするヤサ男ゆえに、村で浮き上がっている男」として描かれているのを見て、村八分になりかけている彼の焦りが事件の引き金になった、という展開を私が想像したのは、そういうわけです。

しかし、予想に反して、最終的に半鐘を鳴らす役割は「兵役に行っている間に妻を父親に寝取られ男・茂次」に置き換えられていた。茂次自身とは逆に、人妻を寝取った立場である船頭の倉蔵への反感・嫉妬心が、茂次を事件の火付け役にしてしまうという流れ。船頭はむしろ、村人たちの前で堂々と行商人たちをかばう側なんですね。

つまり本作では、戦争による人々のフラストレーションに光を当て、福田村事件の原因をそこにつなげているわけです。

在郷軍人会で語られる戦争の「武勇伝」と言い、敵を殺すことが正義とみなされた時代だったことも含めて、戦争の時代であることが事件を誘発したことは間違いない。そういう意味で、とても自然な流れで事件への経過が描かれていたと思います。

 

え?ルッキズム?

ただ、この流れ、どうにもモヤモヤするものが残ったというのか・・・船頭が、単に茂次の嫉妬を買う役割にとどまり、むしろ行商人たちをかばう側にまわっていること、長谷川秀吉の村長に対する嫉妬めいた言動・・・

ズバリそのモヤモヤの原因を指摘してくれていたのが、岡田斗司夫のyoutubeチャンネルでした。

 

 

船頭の倉蔵(東出昌大)や行商人の頭(永山瑛太)はちょっとそこらにはいない艶のある男なわけですよ。そして、恵まれているがゆえに反感を買う村長(豊原功補)や、知識人である澤田(井浦新)も、端正な容姿。女性陣にしても、倉蔵と暮らし始めた戦争未亡人の咲江(コムアイ)や澤田の妻静子(田中麗奈)も、新聞社の中で数少ない、真実の報道を行おうとする女性記者(木竜麻生)も、正義の側は皆美人!

一方、差別と殺戮に向かって暴走する秀吉・茂次は見た目も野暮ったく(あくまでも役柄としての話です)、うだつの上がらない男として描かれていて、ルックスのレベルと事件に対する善悪のレベルが比例しているという。

製作者にそういう意図はなかったにしろ、秀吉や茂次の抱えるコンプレックスが、彼らを過激な差別へと駆り立てた、という構図にも見えてしまうんですよね。

 

ジャンヌ・ダルクも天草四郎も、絵画や映画では、美少女・美少年に描かれます。正義や善を美で表現するのは視覚に訴える芸術の定石ではあるのですが、今作は差別にかかわる映画だけに、敢えてそこははずしてほしかった。

さらに本作に対するモヤモヤに拍車をかけてしまったのが、この映画の後に観た『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。この作品で、主演のディカプリオが見せてくれた渾身のダメ男ぶり! 美しいディカプリオを観るのも幸せだけど、美しさをかなぐり捨てて、役柄に没入する姿を見せてくれたのは嬉しい驚きでしたね。それで一層、『福田村事件』の美しく整えられた体裁に物足りなさを感じてしまった部分は正直ありました。

 

そんなことが言える社会なら、事件は起きなかったかもしれない

もう1つ違和感を感じたのが、くだんの在郷軍人会の酒席で、船頭の倉蔵があからさまに軍隊生活に対して不平を言い、「国のためなら俺ら(国民)を殺してもいいんか!」と叫ぶ場面です。

しかも、倉蔵と不倫関係にあった(夫はその後戦死)咲江も、村人たちに不倫を責められると、

「さびしかったのよ、さびしくなったらいけないの?」

と衆人環視の場でつぶやく・・・今とは全く違う価値観の時代のことだし、今の観客にわかりやすくするためにあえて心情を吐露させて場面だということはわかるんですが、村人たちがそんな個人主義が身についた人たちで、堂々と物が言える社会なら、村に鬱屈した空気が堆積していくこともなく、あんな狂った集団殺人事件は起きなかったのでは・・・という気がして、どうにも納得できなかったですね。

 

とは言え、この映画は、民主主義も差別の理不尽さも、みんな頭では理解しているのに、いざとなると何もできず理不尽な暴走を傍観してしまう村長や澤田のような人間を反面教師にして、現代人に警鐘を鳴らした作品。あまり余計なところにとらわれて一番大事なメッセージを受け止めそびれても良くないので、文句はこの辺にしておきます。

国家が人間どうしの対立を煽る場面、現在進行形でいくらでも類似の例を挙げることができます。そういう時、間違いなく情報は統制されていて、知らず知らずその対立の構図に絡めとられてしまう。でも、流されないで、立ち止まって状況を見極めること、そして右に倣えではなく、自分の良心に従って行動することが、今この瞬間も求められている気がします。そのことに改めて気づかせてくれた作品。

9月に封切られて以降、いまだに各地で上映が続いていますが、ほんとうにたくさんの人に観て、知ってほしい映画です。