旅行、美術館、書評 -24ページ目

3月まとめ

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レンブラントとその時代

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レンブラントとその時代

「ユダヤ人」レンブラントを追う その2

以下のような展示会がオランダの歴史博物館 で開催されていたのを見つけた。

「ユダヤ人」レンブラント The ‘Jewish’ Rembrandt
何年間もレンブラントはアムステルダムのユダヤ人地区に住んでおり、
しばしば作品にユダヤ人、そして聖書の中のユダヤを描きました。

レンブラントはユダヤ人に共感していたのではないかとも言われています。
レンブラントはユダヤ人の画家だったのではないか、と考える人がいますが、
これは本当でしょうか?
http://www.holland.or.jp/nbt/rembrandt/r02.htm
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どうなんでしょか?  その2です。

一昨日の 「ユダヤ人」レンブラントを追う  では コンベルソ  という言葉に
引かれスペイン から オランダ への時代背景を調べてみました。

レンブラントが亡くなる数年前の有名な作品「ユダヤの花嫁」 The Jewish Bride については
アムステルダム国立美術館 のサイトで詳しく説明されていて、ちょっと真剣に英文を読んでみました。


ユダヤの花嫁
one of the most famous and mysterious paintings
in the museum's collection
これは有名で、そしてミステリアスな作品
The painting became known as the 'Jewish Bride' in the early nineteenth century after the Amsterdam art collector, Van der Hoop , identified the subject of the painting as a Jewish father hanging a necklace around his daughter's neck on her wedding day.
19世紀初頭にアムステルダムのコレクターが
「Jewish Bride」と銘打った。
Today, no one sees this man has the woman's father anymore. It is clearly a couple, although who they are is not clear. The faces appear to be portraits, but the clothes are unusual for the time. Perhaps they were contemporaries of Rembrandt's who posed as characters from the Bible.
今では男性は彼女の父親でなく、この絵は明らかに
カップルの肖像画であるとされている。
モデルは誰だか判らず、衣装が当時のものと
ちょっと違っているけれども。
多分、レンブラントと同時代の人で、キャラクタは
聖書による。

右図の説明 / イサクとレベカの習作
Rembrandt's drawing of Isaac and Rebecca, a preparatory study for the 'Jewish Bride'. Private Collection, New York

When the 'Jewish Bride' was restored in 1993/94, the thick layers of yellowed varnish were removed. There then appeared to be something strange about the man's black hat. Beneath a thin layer of black paint a red-brown cap was discovered.
1993/94年の修復作業中、何か変だと思ったら
black hat の下からred-born cap が見つかった。

Analysis showed that the black paint contained a binding agent (alkyd) that was first used in 1930. This paint had therefore been applied by someone other than Rembrandt.
黒色の含有物に1930年以降に使われだしたものがあることから、レンブラントでない誰かが書き加えたに違いない。

After removing the hat, however, a thin layer of black paint remained which, judging by its composition, could have stemmed from the seventeenth century. Because the circumstances surrounding the hat remained a mystery, it was decided to give him a new one. This has been done in such a way that the addition is easily reversible.
black hat を取り除いたのだけれども、17世紀の
薄い黒い層もみつかり、この件に関してはいろいろ
ありそうなので、新しいのを描き戻すことにした。

でも、簡単に描き戻したものは取り除くことはできる。

以上、http://www.rijksmuseum.nl/  より


1993年の修復以前に、 black hat はなんだか不自然だと指摘していた方々はおられなかったの
でしょうか。
Van der Hoop 氏はオランダでも有数の富豪で250もの作品をアムステルダム市に
のこしたそうですが、red-born cap だったら「Jewish Bride」と題名しますよね。

それより、 black hat を描き戻したときに、red-born cap を見えるようにしたのではないかと
思えてきて、修復作業前の the thick layers of yellowed 除去前の作品をみてみたくなりました。

これは多分、修復まえかと。 やはり、脂で不明瞭ですが cap らしきものもみえますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Rembrandt_Harmensz._van_Rijn_042.jpg

http://www.rijksmuseum.nl/ このウェブサイトは私がこれまでいくつかみた中では
一番、解説が詳しく面白い美術館の公式サイトかもしれません。

しかし、いろいろと...



「ユダヤ人」レンブラントを追う

以下のような展示会がオランダのユダヤ歴史博物館 で開催されていたのを見つけた。

「ユダヤ人」レンブラント The ‘Jewish’ Rembrandt
何年間もレンブラントはアムステルダムのユダヤ人地区に住んでおり、
しばしば作品にユダヤ人、そして聖書の中のユダヤを描きました。

レンブラントはユダヤ人に共感していたのではないかとも言われています。
レンブラントはユダヤ人の画家だったのではないか、と考える人がいますが、
これは本当でしょうか?
http://www.holland.or.jp/nbt/rembrandt/r02.htm


どんな内容だったのだろうか? 少し調べてみた。

1492年 イスラムの最期の砦、グラナダ陥落 レコンキスタ終結

   ディアスポラ にによってヨーロッパ各地に散ったユダヤ人のなかでも、
   最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスからイベリア半島 南岸にかけての一帯であった。
   この地域に展開したユダヤ人たちをセファルディム と呼ぶ。

   しかし15世紀後半、レコンキスタの完了が近づくと、イサベル フェルナンド イスラム教徒 に換えて
   セファルディムを排撃の対象に設定する。
   これはアラゴン とカスティーリャという異質な国家を統合するための政策であった。
   一方、ユダヤ人共同体内部でも、政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人たちは
   次々にキリスト教に改宗して
 コンベルソ ( Converso ユダヤ教 からカトリック への改宗 者を指すスペイン語 )となっていった。
 Wikipedia より

スペインMAP  スペイン、コルドバのメスキータはイスラム教と
キリスト教混じった印象深いところだったと 以前書いた
けれども、あいかわらず、コルドバグラナダ (アルハンブラがある)
がわからなくなる。

しかし、スペインがグラナダ奪回と同時に、
ユダヤ教徒排撃という政策も進めていたとは知らなかった。

これでか改宗したくないユダヤ人たちはオランダへと移動。



1602年 オランダ東インド会社設立


1568年から1648年まで80年に及ぶ(停戦期間を含む)
    オランダ独立戦争はネーデルランドのプロテスタントとスペインのカトリックへ反乱による



この『パリスの審判』はスペイン王 フェリペ4世 (在位1621-1661)パリスの審判(プラド)
からオランダのルーベンスへのオーダーによる作品。
                       参照:プラド美術館 II

そういえばルーベンスは画家であると同時に外交官であった。

1621年にその(停戦)期限が切れると、
フランドルは再び戦火にさらされた。
当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、
フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。

1628年、イザベラ王女は和平のための外交使節として、
ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。
ルーベンスはそこでスペイン最大の画家ベラスケス に会っており、
またスペイン宮廷が所蔵していた
ティツィアーノ (ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、
画家としての活動もしている。 wikipedia より



1637年 チューリップ・バブル崩壊 。 世界最初のバブル崩壊。


シナゴーグのユダヤ人

1648年 レンブラント Rembrandt 、銅版画 Etching
     『シナゴーグのユダヤ人』 Jews in the synagogue *1

     オランダ独立戦争終わる
      ヴェストファーレン条約
       30年つづいたカトリックとプロテスタントの戦争終結
       各王国ごとの信教の自由が成立。


1642-1649年  英国 清教徒革命


ユダヤの花嫁 1666年のこのレンブラントの作品は「ユダヤの花嫁」と
呼ばれていたが、素描などから現在では
「イサクとリベカ」とされている。

 ゴッホは「この絵の前で2週間、
 パンをかじりながらいることができたら、
 10年寿命が短くなってもいい」と言った
http://archive.mag2.com/0000113076/20040629232000000.html





1688年 英国 名誉革命
  ステュアート朝イングランドジェームズ2世 を王位から追放し
  ジェームズ2世の娘メアリー とその夫でオランダ統領ウィリアム3世
  イングランド王位に即位させたクーデター 。 wikipadia より

  オランダから英国への移動。


参考

*1
http://www.conncoll.edu/visual/Rembrandt-prints/index-5.html より
 

誰が近代資本主義を作ったのか

労働基準法の規制緩和で
日雇い労働の派遣で儲ける企業がでてきて、
ネットカフェ難民なるものが発生してきた構造
にいまさら気がついたことを昨日書いた

それで、先日、ブックオフで見つけて
積んだままの本を思い出した。

金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ



金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ

マックス・ヴェーバーの犯罪
序 ユダヤ人だけが、なぜ金儲けが上手いのか      
によると、この本のきっかけは
『マックス・ウェーバーの犯罪』であるという。
―『倫理』論文における資料操作の
詐術と 「知的誠実性」の崩壊
右の本 はかなり強烈な論文なようで、
山本七平賞 を受賞していたりすることもあり、
かなり議論が沸騰している。 *1

詳細はさておき、 マックス・ヴェーバー
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
は素人目にも、なにか違和感があった。 *2

では、プロテスタントでないとすると
誰が近代資本主義をつくったのか

(MINERVA人文・社会科学叢書)
/羽入 辰郎


 ウィーン郊外で
イングランドのリチャード1世 を捕らえた
 ( ドイツでの捕囚 ) 身代金で貨幣を鋳造した
 12世紀末のユダヤ人。 
   (参照: ウィーンの環状道路と世紀末芸術.12

 ナポレオン戦争の援助金により、ロスチャイルド家が
 貴族の称号を与えられたのが1817年。

 この20年前までは富はあっても
 なお忌むべきシャイロックの後裔として
 ユダヤ人居住区に住んでいたとは。 *6
 

ヴェニスの商人
それはユダヤ人に他ならないと、
金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ 」は
マックス・ウェーバーと同時代の
ヴェルナー・ゾンバルト著

ユダヤ人と経済生活 」をあげる。


ユダヤ人を追放したスペイン、ポルトガルは没落し、
移住先のオランダが繁栄する...
その後、英国、そして米国へと ... 

近代資本主義の成り立ちについては、
こちらの説明の方が納得できる。

少し、すっきりしたような気がする。


しかし、これらに関わっているのは
「アシュケナージ」のユダヤ人のごく一部 *3
だけのことでもあるためか(?) ユダヤ人自身は
この説を拒否。 *4


ユダヤの花嫁
イサクとリベカ ( ユダヤの花嫁 ) *5
レンブラント 1666年

「ユダヤ人」レンブラントを追う
につづく



参考

*1
羽入が言っていることは、「犯罪」とか「詐欺師」とかの挑発用のレトリックを全部除いて
簡単に言えば、「『プロ倫』でウェーバーは、ルターが本当は Beruffと訳してない語を、
ルターの原文にあたらずに普及版聖書だけ見てBeruffと訳したとして論じている。

また、ウェーバーのフランクリン像にあわないフランクリンの叙述を、強引に原意と違えて解釈したり、
意図的に引用しなかったりしている」ということである。  

これは、文献学的事実の指摘としては、周到緻密な一つの業績なのだと思う。
もっとも、マルクスなんか扱っている身としては、この程度で「犯罪者」扱いかよという感じだ。
なにしろマルクスなど、論敵の論旨を強引にねじ曲げる不当なわら人形攻撃は毎度の手口。
どうでもいい表現に過剰な政治的意味をかぎとっていちいち噛み付くし、
明らかに他人からヒントをもらった議論でも名前をあげないし、
こんな人間にだけはなりたくないといつも思う。

人格的欠陥を笑い飛ばしながらその思想の側で研究対象にしているのは私だけではあるまい。
松尾匡のページ 羽入-折原論争を読んだ  より
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_409081.html


*2
禁欲的労働によって蓄えられた金は、禁欲であるから浪費されることもなく、再び営利追求のために使われることになる。

こうして(結果的に)プロテスタンティズムの信仰が資本主義の発展に作用したが、近代化とともに信仰が薄れてゆくと、営利追求自体が自己目的化するようになった。元々「内からの動機」であった営利追求が、「外圧的動機」に変貌していった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E3%81%A8%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B2%BE%E7%A5%9E

*3
「スファラディ」(スファルディ)のユダヤ人で、
旧約聖書にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫として歴史に登場する「モーセの民」
「アシュケナージ」のユダヤ人で、その多くは東ヨーロッパで多数のコミュニティをつくっていたのだが、
ロシアのポグロムやドイツのホロコーストで迫害され、西ヨーロッパあるいはアメリカに移住した。

千夜千冊 『ユダヤ人とは誰か』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0946.html


*4 キリスト教と共産主義の創始者はユダヤ人だ、ということをユダヤ人はあまり気が進まぬにも
   一応認めるが、資本主義を創始したのはユダヤ人だといわれれば、それは断固として拒否する。
   ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾムバルトが例の物議をかもしだした....
               マックス・I・ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 』 朝日選書 P58
   金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ
 P114 より

*5
またあまり表現されない主題であり、レンブラント独特の謎めいた秘密的な印象から、
キリスト教圏外の国の儀式を描いたものであると考えられたことから『ユダヤの花嫁』と呼ばれた
http://www.salvastyle.com/menu_baroque/rembrandt_jewish.html

この絵は長い間、娘を嫁がせるユダヤ人の父親を描いたものだと解釈され、《 ユダヤの花嫁 》
というタイトルで知られていました。 しかし最近では、レンブラントの描き溜めていた素描
などの研究から、聖書にあるイサクとリベカ ( アイザックとレベッカ ) を描いたものだと
考えられるようになっています。
そう、あのアブラハムに神への供え物にされようとしたイサク ( 《 アブラハムの犠牲 》 参照 )
が成長し結婚したリベカとのひとときを描いた、歴史画という位置付けです。
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Rebecca.html

*6
1816年、オーストリアの宰相メッテルニヒは、
ロスチャイルド家に貴族の称号を与える決断をした。
その理由は、オーストリアの対ナポレオン戦争の援助金を
ロスチャイルド商会が送り届けたから、というものだった。
反ユダヤ感情から、反対する声も強かった中での決断だった。

ユダヤ人全種族の社会的解放、勝利の鐘であったのだ。
僅々20年前までは、ドイツ名流に伍する富をもちながら、
なお忌むべきシャイロックの後裔として、
彼らにあのユダヤ人区の不潔な陋屋(ろうおく)生活を
強制していた社会差別そのものが、
まさにいま破れ去ったのだ。
中野好夫「血の決算報告書-ロスチャイルド王国の勃興」
(『世界史12の出来事』ちくま文庫所収)
金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ P34 より


以下
金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ
序 ユダヤ人だけが、なぜ金儲けが上手いのか より
 
ユダヤ教だけが金儲けを肯定している。だからユダヤ教(=ユダヤ思想)を信仰するユダヤ人たちが、世界中でお金持ちになっているのである。
そして世界中には彼ら以外に『隠れユダヤ人(クローゼット・ジュー closet Jew )と呼ばれるユダヤ人たちが大勢いる。
 
西暦1391年にヨーロッパ各地で政治弾圧を受けたユダヤ人たちが、大量にキリスト教に改宗した。
それらの人たちは「マラーノ maranos )」と呼ばれたが、現代に続くヨーロッパ近代知識人の大きな流れの基となっている。
 
1197年 第3回ラテラノ公会議では「利子を取る者は、キリスト教徒して埋葬しない」と決議している。
それがやがて崩れて、カトリック教会では、1517年 第5回ラテラノ公会議では「利子を取る貸し金を認める」と決定した。
このときをもって、人類の近代社会(モダン modem )の成立の日とすべきではないか、と私は考える
・・・
きっかけとなったのは『マックス・ウェーバーの犯罪』(2002年、ミネルヴァ書刊)という衝撃的な本を書いた羽入辰郎・青森県立保健大学教授の業績である。
このきわめて学術的な本で、羽入教授は、マックス・ウェーバー(Max Weber 1864-1920)という、20世紀最大の社会科学者(社会科学者、経済史学者、政治学者)を今も世界中で認められている大学者の学問犯罪を、証拠付きで詳しく証明した。
私たちは、この羽入辰郎著『マックス・ウェーバーの犯罪』に大いに啓発されて、それを土台として、導きの糸としながら「近代資本主義の精神(エトス)をつくったのはプロテステンティズムではなくて、本当はまさしくユダヤ大商人たちそのものだったのである」
という新しい大理論を本書で提起している。
・・・・
1816年、オーストリアの宰相メッテルニヒは、ロスチャイルド家に貴族の称号を与える決断をした。
その理由は、オーストリアの対ナポレオン戦争の援助金をロスチャイルド商会が送り届けたから、というものだった。反ユダヤ感情から、反対する声も強かった中での決断だった。
 
ユダヤ人全種族の社会的解放、勝利の鐘であったのだ。僅々20年前までは、ドイツ名流に伍する富をもちながら、なお忌むべきシャイロックの後裔として、彼らにあのユダヤ人区の不潔な陋屋(ろうおく)生活を強制していた社会差別そのものが、まさにいま破れ去ったのだ。
中野好夫「血の決算報告書-ロスチャイルド王国の勃興」(『世界史12の出来事』ちくま文庫所収)より

派遣法と伴天連(ばてれん)追放令

大企業の利益は上がっているが、労働者の賃金が上がっていない、というのは事実だと
思っていましたが、もうひとつ、わかっていませんでした。

正直、共産党はどうなんだろうと思っていたのですが、
志位氏の衆議院予算委員会でのこの追求はすばらしかった思います。

  "半数以上が派遣"の工場も キヤノンの場合/志位和夫 2月8日、衆院予算委ハイライト6
 http://jp.youtube.com/watch?v=FB5Puq0VG4Y
  
もう、一月以上前のものですが、知りませんでした。

工場労働者を対象とした規制緩和も「毎日更新する日雇い」までは想定していなかったのではないでしょうか。

槍玉に挙げられたキャノンはさすがに改善する方向で動いているようですが、
やはり、外国人の株主比率が高い会社であることも影響しているように思えます。

グッドウィルやフルキャストが随分叩かれていると感じていたのですが、
処分が遅すぎたくらいなのでしょう。

大きな理由として月契約派遣には社会保険費を払わなくてはならないが、日雇い派遣には不要だからである。グッドウィルとフルキャストの2社はかつて「手配師」と呼ばれ建設現場に人を送るダーティなイメージがついて回る日雇い派遣中心にし急成長し、派遣業は規制緩和の影響で2000年以降急激な伸びを見せている。
  http://news.livedoor.com/article/detail/3257750/

たぶん両社とも上場したので株価をにらみながらの経営でこうなっていってしまったのだと
思いますが.... 酷いですね...

最近目にした伴天追放令 を連想してしまいました。



参考
  キャノン6000人直接雇用("労働者派遣法"の即時撤廃を)
  http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/6000_858a.html








天ノ朝と元伊勢と伊勢遺跡

内宮 外宮 そもそもは
伊勢神宮は天皇家の神宮だと思っていたのに、
持統天皇以来、明治天皇まで参拝していないのはどうして?
というのがそもそもの疑問のはじまり。

ホームページをみると、まず
伊勢神宮には内宮(右図上)と外宮(右図下)とがあり.....
いろいろと深い事情がありそうなことは
伊勢神宮 深夜0時の祭儀  で参考図書をメモしておいた。

さらに元伊勢 なるものがあることを知り、この変遷が興味深い。

なぜなら、
弥生時代史誕生の天照皇朝執権政治説 が面白く、その元となる
ホツマツタエ 天の巻 1アヤ  と元伊勢の流れが妙に一致している
ように思えるから。

丹後、和歌山、吉備そして琵琶湖の東側のエリアにいったりしている。

また1992年に国最大級の掘立柱建物が発掘された伊勢遺跡
独特の祭殿跡を持つ弥生時代後期の大規模な集落遺跡であるという。

こんなものが、今頃になって、琵琶湖のあたりで発掘されていたとは。

これらは天ノ朝 を思わせる。




以下 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2
より
  1. 倭国 笠縫邑檜原神社奈良県 桜井市 三輪)
  2. 丹波乃国 吉佐宮籠神社京都府 宮津市 字大垣、皇大神社:同府福知山市 大江町内宮、竹野神社:同府京丹後市 丹後町宮)
  3. 倭国 伊豆加志本宮与喜天神宮 :桜井市初瀬字与喜山
  4. 木乃国 奈久佐浜宮日前神宮・國懸神宮和歌山県 和歌山市 秋月)
  5. 吉備国 名方濱宮伊勢神社岡山県 岡山市 番町)
  6. 倭国 彌和乃御室嶺上宮大神神社 :桜井市三輪)
  7. 大和国 宇多秋市野宮阿紀神社 :奈良県宇陀市 大宇陀区)
  8. 大和国 佐々波多宮篠畑神社 :奈良県宇陀市榛原区)
  9. 伊賀国 隠市守宮宇流冨志禰神社三重県 名張市
  10. 伊賀国 穴穂宮神戸神社 :三重県伊賀市 上神戸)
  11. 伊賀国 敢都美恵宮都美恵神社 :三重県伊賀市)
  12. 淡海国 甲可日雲宮頓宮滋賀県 甲賀市
  13. 淡海国 坂田宮頓宮滋賀県米原市
  14. 美濃国 伊久良河宮天神神社岐阜県 瑞穂市
  15. 尾張国 中嶋宮酒見神社愛知県 一宮市 今伊勢町
  16. 伊勢国 桑名野代宮野志里神社 :三重県桑名市 多度町)
  17. 伊勢国 奈其波志忍山宮布気皇館太神社 :三重県亀山市 布気町)
  18. 伊勢国 阿佐加藤方片樋宮加良比乃神社 :三重県津市 藤方森目)
  19. 伊勢国 飯野高宮神山神社松阪市 山添町)
  20. 伊勢国 佐々牟江宮竹佐々夫江神社 :三重県多気郡 明和町
  21. 伊勢国 伊蘇宮磯神社伊勢市 磯町)
  22. 伊勢国 瀧原宮(瀧原宮 :三重県度会郡 大紀町
  23. 伊勢国 矢田宮矢田宮伊勢市 楠部町)
  24. 伊勢国 家田宮神宮神田 :伊勢市楠部町)
  25. 伊勢国 家田田上宮 (神宮神田:伊勢市楠部町)
  26. 伊勢国 奈尾之根宮津長神社 (皇大神宮摂社):伊勢市宇治)
  27. 伊勢国 五十鈴宮伊勢神宮 皇大神宮 :伊勢市宇治館町)






鉄と美女の左目


Nefertiti
 エジプトの三大美女というとクレオパトラと
 ラムセス2世 の正妃ネフェルタリ
 そしてこの ネフェルティティ Nefertiti 。

 破壊放棄されたアケトアテンの遺跡の砂の中から見つかった
 Nefertiti の胸像の左目は欠損している。
 どうやら作成されていたものが、壊れたのではないらしい。
 


東西ともに鍛冶の神は職業病 *1 として片目が不自由。
ギリシャ神話のヘーパイストス (上図の右上)。
北欧神話のオーディン      (上図の右下)。 
日本では【天目一箇神 】(あめのまひとつのかみ)王妃ネフェルティティのトルソ


ではネフェルティティ   は鍛冶職人だったのか。

この(左図  王妃ネフェルティティのトルソ  )ような
ボディの持ち主が鍛冶職人であったわけがなく。

左目が不自由であると右脳が働く。

  柳田氏の「一目伝説」の論考は不備な点が多く、 *2
  最後に示した「片目の神への供儀」の結論も不完全
  なものとされていますが、

  柳田氏の直観、すなわち「左目を傷つける」ことで、
  『神の使者』となるという部分は、
  かなり核心をついているのではないかといわれています。
  

http://www7a.biglobe.ne.jp/~amusic/diary-0503b.htm#513






確かにこの仮面が何をいおうとしているのか気になります。

   青森県・麻生遺跡出土の土製
















青森県・麻生遺跡出土の土製仮面(縄文晩期、重要文化財指定)

[ 参考 ]
左目をコンピュータ・ネットワークに接続しているゴクウ

*1
たたら作業の技術責任者を村下(むらげ)と言います。
村下は連日連夜たたらの炎と、たたらの側壁下部に設けられた
「ほど穴」から炉内の状況を観察しな がら、
砂鉄や木炭の装入や鞴を踏む速度を細かく指示し、
炉況の安定を図ります。
長年にわたって高温の炉内を直視するため、
村下の眼は強い光によって衰えを早め、
ついには全く視力を失うに至るとのこと。
村下はまさに火との壮絶な闘いによって鉄を作ったのです。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0105.htm

*2
柳田国男は「一目小僧(ひとつめこぞう)」で次のようなことを述べている。

 ずっと昔の大昔には、祭りのたびごとに一人ずつの神主を
殺す風習があった。
殺される神主は前の年の祭りの時から籤(くじ)か神の声である
神託(しんたく)によって決められていた。
 生け贄(にえ)となるこの神主をはっきり見分けることができるように、
片目をつぶし、逃げられないように片足を折った。

 そしてその人を優遇し尊敬した。
 やがて、その神主も死んだら神になれるという確信を持つようになり、
心も澄んで、神の心を伝える神託預言を始め、人々の中で力を持ってくる。
死にたくないという気持ちから、「この神主(自分)を殺す必要はない」
と神が言っているという託宣(たくせん)もしたかもしれない。
http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/katame.html

柳田国男は、山に棲む一つ目でしかも一本足の妖怪を恐れまたあがめた話について繰り返し述べている(例えば「一目小僧その他」、「妖怪談義、一眼一足の怪」など)。この一つ目で一本足を山の神だと考えている所もあるという。土湯のこけしが特異な目を持ち、一本棒の胴、即ち一本足であるならば、山の呪力を現すものとしての完璧なイメージ喚起力を持っていたに違いない。さらに聖徳太子の血の呪力である赤をまとっているとすれば、もうその力を誰もが疑いもしなかったであろう。こけしが山の神の呪力を持って、五穀豊穣や多産を村にもたらすものであるとすれば土湯木でこはその象徴的表標を色濃く身にまとっているのである。
イメージによる推論を駆使する人ならば、一つ目、一本足のはるか原始の姿として生殖力を体現したファロスをさらに思い浮かべるかも知れない。それは大地母神とともに人類の最も原初的な象徴の一つであった。この点で私は柳田国男の議論に多少の物足りなさを感じる。謹厳な官吏であった柳田国男は、敢えてこの種の議論を避けた感もあるが、中央に縦に裂ける一つ目を持った一本棒こそ最も古い姿であって、片目を潰すことの聖性は、これに近づくことによって始めて成立するように思えるのだ。
http://homepage3.nifty.com/bokujin/kanwa13.htm

鉄と「無縁の人」と明治維新

ヒッタイトの鉄、
鉄のシルクロード 鉄のシルクロード(右図 民族学伝承ひろいあげ辞典  参照)
にあるようにこの鉄技術の日本への伝播経路は複雑。


  すでに研究者たちが一致して仮説していることに、
  出雲を収めた  オオクニヌシ系 と、
  新たに渡来した アメノヒボコ 系  とのあいだには
  対立か抗争か、
もしくは祭祀力あるいは技能力における
  交代があった
のではないかという見方がある。
  ・・・
  これはどういうことかというと、
  ホノニニギ からイワレヒコ(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)までは
  オオクニヌシ系(オオクニヌシからコトシロヌシに及ぶ系譜)の
  国作りにかかわっていた物語の主人公たちで、


  その後の崇神天皇(ミマキイリ)以降が
  新たな大和朝廷の次代支配者として、アメノヒボコ集団の祭祀と技能を吸収したのだろうということになる。
   - 千夜千冊 「王権の海」 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0881.html  より ー


租庸調 は米、労役、絹布であるが、鉄については養老律令 (757年)には五行の器 *1 という令がある。


 (網野氏による律令制度外の) 「無縁の人びと」が供御人の流れを汲み、古くは天皇に仕えたものと
 されたいたこと、しかも通行の自由、税・諸役の免除、私的隷属からの開放とうい「特権」を天皇から
 引き出していたことだ。そこで網野氏は、無縁の人々が天皇を利用し、また守ったのだろうと
 考えたわけである。
  「古代史」封印された謎を解く―あまりに意外な「あの人物・あの事件」の真相とは?/関 裕二
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))/網野 善彦
どうして、武家による時代も長かったのに天皇制がなくならなかったのか、不思議だったが
こうした、山で鉄を探す「無縁の人々」などとの連携もあったのだろう。

そうだとすると、明治天皇あたりでいろいろとあったうえに 、政府と一体化したこともあり
「無縁の人々」を結果として裏切った。 それで、こうした本もでてきている?

日本のいちばん醜い日/鬼塚 英昭

 結論を言えば、この中佐とは、鬼塚氏は、
 塚本誠 (戦後、広告代理店の「電通 」に就職した)のことであり、
 この人物(情報将校)が終戦直前に台湾から呼び戻され、
 反乱の機運盛んな陸軍の青年将校たちをたきつけて、
 「宮城事件 」というクーデターを起こさせたのだという。
 ・・・
 このクーデターを支援するように、阿南陸軍大臣に直訴した青年将校は、

 「軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、
 軍務課員竹下正 彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐」。
 が、この中の井田大佐 は、畑中、椎崎の二人と違って、
 自害もせずに生き残り、岩田と改名して、なんと 「電通」に入社したという。
 ・・・
  要するに天皇の身の保全はアメリカの戦争指導部によって保証されたわけだ。
 ・・・
 
米内 と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。
 陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。
 このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、
 スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、
 終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。
 ・・・
 ただ、鬼塚さんたちに言いたいのは、この宮中グループというか、
 ヨ
ハンセンの功績というのもある、というところ。

 グローバリストのヨハンセン・グループ は、吉田茂を初めとして、
 国際金融資本グループの「実力」を明確に理解していた。
 だから、憲法九条によって、戦争に 巻き込まれることを避ける、という決断をした。
 グローバルに「奴ら」の恐ろしさを本当に分かっていたからこそ、
 戦争放棄というウルトラCの憲法を逆用し て、
 少なくとも軍事的には国際秩序に積極的にコミットしていくことを封じるとという「妙手」を可能にしたのだろう。
 経済的にはむしられているけれども。
  ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 http://amesei.exblog.jp/5972644/  より
                           「天皇のロザリオ」著者の鬼塚英昭氏にお会いした                     


[ 参考 ]

*1
五行の器という言葉をご存知でしょうか?
これは朝廷の条例として出された「国郡はみな五行の器を作れ」という命令からきたいわゆる献上品の規定で、そのうちわけは木を切る斧、火を扱う金バサミ、土を耕すクワ、精錬用のルツボ、水を入れる桶・土器の五つです。桶以外はみな金属製品ですし、これは陰陽五行にそった指示なのです。ですから東国の常陸国の国司ウネメの朝臣という人がカヌチの佐備大麿を率いて、鹿島の若松の浜の砂鉄をとって剣を作ったという記事からウネメの朝臣が東国製鉄のはじまりと言われてきたのは、もともと国司たちが鉄製品を作る義務が生じたためなのです。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/tetunomiti.html

第十八 儀制令 全26条
  17 五行条

国郡は、みな五行の器(各種の器)を作ること。必要に応じて用いること。

いずれも官物を用いる(公費で作る)こと。

http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro18.html

ヒッタイトは滅亡して、鉄とフリジア帽を残す

 ヒッタイトの強大な力を支えた一つに、
 製鉄技術の開発と独占があったと考えられています。

 帝国内で生産された鉄を使って「軽戦車」などの武器を製作し、

 それを駆使して周辺地域を次々と征圧し、シリアのカデシュでは
 エジプト軍と大戦闘を繰り広げましたが、
 紀元前1200年頃「海の民」といわれる異民族の侵入によって滅亡したといわれています。

 オリエント世界における青銅器から鉄器への変遷、すなわち鉄器時代の幕開けは

 一般に、ヒッタイト帝国滅亡後、帝国が占有していた製鉄技術が周辺地域に拡散し
 たことに起因するとされています。

  最古の鋼片の検出とその意味 
―ヒッタイト帝国が鉄生産に果たした役割の再検討― より
  http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/106p2.pdf


ヤズカルヤの岩神殿にある神々の出会い Phrygia
天上の天候神は別の2人の神の上に立ち、
アリンナの太陽女神は獅子の上に立っている。
雄牛と神々の帽子についている雄牛の角は、
いつも出てくるシンボルである。
ヒッタイト帝国 」 P191 より  右図の右上
ヒッタイトの帽子は帝国滅亡後も
ギリシャ神話にも登場する
フリギア の赤い三角帽「フリジア帽 」となって残る。

フリジア帽を被った少年の胸像。2世紀ローマ帝国 時代。  
右図の右下
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Bust_Attis_CdM.jpg

フランス革命を描いたドラクロアの
民衆を導く自由の女神 」の自由の女神が
かぶっているのもこのフリジア帽。 これは労働者をあらわすサン・キュロット
象徴として使われている。 *1


一方、角がついている方の帽子は遮光器土偶の冠ににているような気もする。



参考
フリギア人は紀元前12世紀頃アナトリアに入ったとみられる。これはちょうど、アナトリア中央部のヒッタイト帝国 が崩壊した頃に当たるが、フリギア人が直接それに手を貸したか、それともただ混乱に乗じただけかは定かでない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A2

フリギア人の文化は主にヒッタイト帝国 と ギリシャのものを受け継ぎ、特に音楽はギリシャ音楽の手本になったといいます。言語はインド・ヨーロッパ語族に属しフェニキア人のアルファベットのもとを 作ったと言われています。又、経済は農業を中心に営まれていました。
宗教は2人の神を崇拝するもので1人は自然、特に山の女神として知られるカイベレ
(人 間の容姿をしベルト付きの長いスカート、円筒型の長い帽子を身につける女神でギリシャ神話ではシベル又はレア)、もう1人は空の神として知られるサバジオ スでした。


http://www.jp-tr.com/icerik/genel/history/phrygia.html

フリギア人達は特徴的な帽子を被っていたと言われています。「フリギア帽」 と呼ばれるこの帽子は円錐形をした柔らかい生地で作られているため、先端部分が先に曲がっているのです。ミダス王もこのような帽子を被っていたことから、 ロバの耳の伝説が生まれてきたとも言われています。この帽子はのちのローマ時代には解放された奴隷が儀式で着用したことから自由の象徴となり、フランス革 命でも着用され有名となりました。又、歴史的にフリギア人達の音楽はギリシャ音楽のもととなったと考えられています。(フリギア調またはフリギア旋法~ミ ソラシドレミの音階で教会音楽等に使用されています。)

http://www.jp-tr.com/icerik/efsane/king_Midas.html

*1
ヒッタイト帝国 」 より 
王さまの耳はロバの耳
ミダスがロバの耳を隠した不思議な帽子が注目される。
このフリギの帽子は額にまで深くかかり、上部は赤く丸い三角形の袋のような
形をしている。この帽子はギリシャ人にはとてもこっけいに見えたらしく、
後のギリシャの美術品には野蛮人の象徴としてこの奇妙な帽子が
かぶせられている。
2500年後にこのフリギアの帽子は Bonnet Rouge 赤い帽子と呼ばれ
フランス革命のとき自由の象徴として急進派ジャコバン党員のかぶった帽子となった。
ジャコバン党員はヒッタイトの天候神の帽子をかぶっていたことになる。
それは元々のとがった帽子から、だんだんゆるい曲線の角型に移ったものである。


関連

ヒッタイト帝国


ヒッタイト帝国
ヒッタイト帝国―消えた古代民族の謎 (単行本)
ヨハネス・レ-マン (著), 内野 隆司 (翻訳), 戸叶 勝也 (翻訳)
この本は図書館などでみつけるしかないと思うが、
名著であると思う。

ヒッタイトといわれても、どこのことやらわからない。
実際、ヘロトドスだって知らなかった。 *1

けれども、アブラハムに土地を売ったのはこの
ヒッタイト人だった。 *2

エジプトで発見され、センセーショナルを巻き起こした
粘土板。 太陽神アトンを崇拝することをすすめたあの
イクナートンの官文書であることがわかった。 *3

夫であるツタンカーメンを失ったエジプトの后が
ヒッタイトの王に息子をエジプト王にください
との書簡を送っているのです。 こちらを参照

古代帝国『ヒッタイト』に想いをよせて・・・トルコの旅♪
ヒッタイトの王に極秘の親書

そして、これらの粘土板の中から歴史の中に位置づける
ことのできるヒッタイト王が、ついに見つかった。 *4

ヒッタイトの都ボアズキョイ(古代名ハットウシャ 世界遺産)でヒッタイト側の文書がみつかる。 
  余の生涯でこんなことは初めてだ *5  シュッピルリウマ1世

正確には、このような文書が見つかったのだから、ここがエジプトのマナル書がいう、ヒッタイトの都だ


参考 ・ また世界最初の和平交渉の文書についてはOnline ゲームになっている エジプトとヒッタイトの戦い

遺跡を整理すると
アラジャホユック はハットウシャからは20km程度、小規模であるが、出土品が有名。スフィンクス門など。
カマン・カレホユック は日本隊が発掘調査を進めいているところ。 
チャタル・ヒュユク は以下で書いた、ヒッタイト帝国以前の古い遺跡 小アジア


参考 「ヒッタイト帝国」の該当部分

*1 第7章 滅亡
ギリシア人はもうまったくヒッタイトのことを知らなかった。
ギリシアの歴史家ヘロトドスは、紀元前450年頃、
小アジア西岸のイズミールの近くでみつけた
ヒッタイト神像を「エジプトの服装をした」男の像と思い、
ヒッタイト絵文字を「エジプトの聖なる文字」と考えた。

「千の神々の民」と名乗ったヒッタイトが
再び発見されるまで数千年もの間
ただ聖書だけがその消えた民族の記憶をとどめていたのである。

*2
イスラエルの祖アブラハムはヒッタイト人の前でお辞儀をする
旧約聖書のなかでヘテびとエフロンから土地を購入する

アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀400シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。

こうしてマムレの前のマクベラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。
(創23:16~18) 前14世紀

*3
エジプトの農民の女がカイロからはるか離れたナイル河の上流で廃墟を
ほじくりまわして、文字の書いてある数枚の粘土板を見つけ、それを
友人に十ピアスと(当時としてはやっと2マルクほど)で売った、という話である。
この取引の結果、別の農民達も発掘を始めた。
当時、古美術品はすでに「投資」であるとみなされていたのでだった。
もっとおもしろいが、現実的でない異説は次のような話である。
同じような貧しい農民の女が、厚かましい見知らぬ男達に非常に腹を立て、
彼らを追い返そうと粘土板の破片を投げつけたが、逆にその男たちは
近寄ってきてしまったという。男たちはまさにその破片を求めてやってきたのでだった。
いずれにしても事実としては、1887年末までに少なくとも2百の粘土板の破片が
カイロで不法に闇取引されていた。

160枚というそれまでに例のないほどの大量のにせ物と言われる粘土板の
大部分は、時がたつうちにカイロで、あるいはグラーフの収集からベルリンの
博物館に買い入れられた。最初のくわしい調査の結果、その粘土板は本物で
あることがわかり、大変なセンセーショナルをまきおこした。
それはエジプト最大の、そしてもっとも重要な粘土板文書の発見であった。
その粘土板は、それまでの古い宗教を廃し、太陽神アトンを崇拝することを
すすめたあのイクナートンの官文書であることがわかった。
BC1350頃、アトンの憩いの場 アヘトアトン という名の新しい都を造った。

イクナートンの死後、その都は見捨てられ荒廃し、砂に埋もれた。
現在、ベルリン博物館にあるネフェルティティの胸像は、百年前にそこで
発掘されたもっとも有名なものである。
今日、この都市は考古学上の名前であるテル・エル=アマナルとして
知られており、発見された粘土板はアマナル文書と呼ばれている。

*4
エジプトはその当時、ナイル河上流のヌビアにある属領から金がとれたため、
当時の文化世界での金産出国となった。
そのため次のような、非常に直接的に、あつかましく金をねだることに
終始一貫しているような手紙もでてくるのである。
ミニタンの王トゥシャラッタは、アメフィス3世に...

この無心状の中に、バビロニアの楔形文字で書かれた一つの文書が見出される。
とにかくこの書簡より、歴史の中に位置づけることのできるヒッタイト王が、
ついに見つかった。

*5
夫は死んでしまいました。私には一人も息子がいません。
聞くところによると、あたなにはたくさんの王子がいらっしゃる
そうですが、
その中の一人を私の夫にいただけないでしょうか。
家臣から夫を選んだりすることは、なんとしてでも
避けたいのです」と、ネフェルティティの娘であり、
まだ二十歳にならないうちに夫のトゥトアンクアメン
(ツタンカーメン)を失ったアンケスエンアムンは
エジプトの地から彼に親書を送ってきた。





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