「ユダヤ人」レンブラントを追う
以下のような展示会がオランダのユダヤ歴史博物館
で開催されていたのを見つけた。
「ユダヤ人」レンブラント The ‘Jewish’ Rembrandt
何年間もレンブラントはアムステルダムのユダヤ人地区に住んでおり、
しばしば作品にユダヤ人、そして聖書の中のユダヤを描きました。
レンブラントはユダヤ人に共感していたのではないかとも言われています。
レンブラントはユダヤ人の画家だったのではないか、と考える人がいますが、
これは本当でしょうか?
http://www.holland.or.jp/nbt/rembrandt/r02.htm
どんな内容だったのだろうか? 少し調べてみた。
1492年 イスラムの最期の砦、グラナダ陥落 レコンキスタ終結
ディアスポラ にによってヨーロッパ各地に散ったユダヤ人のなかでも、
最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスからイベリア半島 南岸にかけての一帯であった。
この地域に展開したユダヤ人たちをセファルディム と呼ぶ。
しかし15世紀後半、レコンキスタの完了が近づくと、イサベル とフェルナンド はイスラム教徒 に換えて
セファルディムを排撃の対象に設定する。
これはアラゴン とカスティーリャという異質な国家を統合するための政策であった。
一方、ユダヤ人共同体内部でも、政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人たちは
次々にキリスト教に改宗して
コンベルソ ( Converso ユダヤ教 からカトリック への改宗 者を指すスペイン語 )となっていった。
Wikipedia より
スペイン、コルドバのメスキータはイスラム教と
キリスト教混じった印象深いところだったと 以前書いた
けれども、あいかわらず、コルドバ とグラナダ (アルハンブラがある)
がわからなくなる。
しかし、スペインがグラナダ奪回と同時に、
ユダヤ教徒排撃という政策も進めていたとは知らなかった。
これでか改宗したくないユダヤ人たちはオランダへと移動。
1602年 オランダ東インド会社設立
1568年から1648年まで80年に及ぶ(停戦期間を含む)
オランダ独立戦争はネーデルランドのプロテスタントとスペインのカトリックへ反乱による
この『パリスの審判』はスペイン王 フェリペ4世 (在位1621-1661)
からオランダのルーベンスへのオーダーによる作品。
参照:プラド美術館 II
そういえばルーベンスは画家であると同時に外交官であった。
1621年にその(停戦)期限が切れると、
フランドルは再び戦火にさらされた。
当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、
フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。
1628年、イザベラ王女は和平のための外交使節として、
ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。
ルーベンスはそこでスペイン最大の画家ベラスケス に会っており、
またスペイン宮廷が所蔵していた
ティツィアーノ (ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、
画家としての活動もしている。 wikipedia より
1637年 チューリップ・バブル崩壊 。 世界最初のバブル崩壊。
1648年 レンブラント Rembrandt 、銅版画 Etching
『シナゴーグのユダヤ人』 Jews in the synagogue *1
オランダ独立戦争終わる
ヴェストファーレン条約
30年つづいたカトリックとプロテスタントの戦争終結
各王国ごとの信教の自由が成立。
1642-1649年 英国 清教徒革命
1666年のこのレンブラントの作品は「ユダヤの花嫁」と
呼ばれていたが、素描などから現在では
「イサクとリベカ」とされている。
ゴッホは「この絵の前で2週間、
パンをかじりながらいることができたら、
10年寿命が短くなってもいい」と言った
http://archive.mag2.com/0000113076/20040629232000000.html
1688年 英国 名誉革命
ステュアート朝 のイングランド 王ジェームズ2世 を王位から追放し
ジェームズ2世の娘メアリー とその夫でオランダ統領 のウィリアム3世 を
イングランド王位に即位させたクーデター 。 wikipadia より
オランダから英国への移動。
参考
*1
http://www.conncoll.edu/visual/Rembrandt-prints/index-5.html より
「ユダヤ人」レンブラント The ‘Jewish’ Rembrandt
何年間もレンブラントはアムステルダムのユダヤ人地区に住んでおり、
しばしば作品にユダヤ人、そして聖書の中のユダヤを描きました。
レンブラントはユダヤ人に共感していたのではないかとも言われています。
レンブラントはユダヤ人の画家だったのではないか、と考える人がいますが、
これは本当でしょうか?
http://www.holland.or.jp/nbt/rembrandt/r02.htm
どんな内容だったのだろうか? 少し調べてみた。
1492年 イスラムの最期の砦、グラナダ陥落 レコンキスタ終結
ディアスポラ にによってヨーロッパ各地に散ったユダヤ人のなかでも、
最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスからイベリア半島 南岸にかけての一帯であった。
この地域に展開したユダヤ人たちをセファルディム と呼ぶ。
しかし15世紀後半、レコンキスタの完了が近づくと、イサベル とフェルナンド はイスラム教徒 に換えて
セファルディムを排撃の対象に設定する。
これはアラゴン とカスティーリャという異質な国家を統合するための政策であった。
一方、ユダヤ人共同体内部でも、政権中枢に入り込んでいた有力ユダヤ人たちは
次々にキリスト教に改宗して
コンベルソ ( Converso ユダヤ教 からカトリック への改宗 者を指すスペイン語 )となっていった。
Wikipedia より
スペイン、コルドバのメスキータはイスラム教と
キリスト教混じった印象深いところだったと 以前書いた
けれども、あいかわらず、コルドバ とグラナダ (アルハンブラがある)
がわからなくなる。
しかし、スペインがグラナダ奪回と同時に、
ユダヤ教徒排撃という政策も進めていたとは知らなかった。
これでか改宗したくないユダヤ人たちはオランダへと移動。
1602年 オランダ東インド会社設立
1568年から1648年まで80年に及ぶ(停戦期間を含む)
オランダ独立戦争はネーデルランドのプロテスタントとスペインのカトリックへ反乱による
この『パリスの審判』はスペイン王 フェリペ4世 (在位1621-1661)
からオランダのルーベンスへのオーダーによる作品。
参照:プラド美術館 II
そういえばルーベンスは画家であると同時に外交官であった。
1621年にその(停戦)期限が切れると、
フランドルは再び戦火にさらされた。
当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、
フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。
1628年、イザベラ王女は和平のための外交使節として、
ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。
ルーベンスはそこでスペイン最大の画家ベラスケス に会っており、
またスペイン宮廷が所蔵していた
ティツィアーノ (ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、
画家としての活動もしている。 wikipedia より
1637年 チューリップ・バブル崩壊 。 世界最初のバブル崩壊。
1648年 レンブラント Rembrandt 、銅版画 Etching
『シナゴーグのユダヤ人』 Jews in the synagogue *1
オランダ独立戦争終わる
ヴェストファーレン条約
30年つづいたカトリックとプロテスタントの戦争終結
各王国ごとの信教の自由が成立。
1642-1649年 英国 清教徒革命
1666年のこのレンブラントの作品は「ユダヤの花嫁」と呼ばれていたが、素描などから現在では
「イサクとリベカ」とされている。
ゴッホは「この絵の前で2週間、
パンをかじりながらいることができたら、
10年寿命が短くなってもいい」と言った
http://archive.mag2.com/0000113076/20040629232000000.html
1688年 英国 名誉革命
ステュアート朝 のイングランド 王ジェームズ2世 を王位から追放し
ジェームズ2世の娘メアリー とその夫でオランダ統領 のウィリアム3世 を
イングランド王位に即位させたクーデター 。 wikipadia より
オランダから英国への移動。
参考
*1
http://www.conncoll.edu/visual/Rembrandt-prints/index-5.html より