ヒッタイト帝国

ヒッタイト帝国―消えた古代民族の謎 (単行本)
ヨハネス・レ-マン (著), 内野 隆司 (翻訳), 戸叶 勝也 (翻訳)
この本は図書館などでみつけるしかないと思うが、
名著であると思う。
ヒッタイトといわれても、どこのことやらわからない。
実際、ヘロトドスだって知らなかった。 *1
けれども、アブラハムに土地を売ったのはこの
ヒッタイト人だった。 *2
エジプトで発見され、センセーショナルを巻き起こした
粘土板。 太陽神アトンを崇拝することをすすめたあの
イクナートンの官文書であることがわかった。 *3
夫であるツタンカーメンを失ったエジプトの后が
ヒッタイトの王に息子をエジプト王にください
との書簡を送っているのです。 こちらを参照
・古代帝国『ヒッタイト』に想いをよせて・・・トルコの旅♪
・ヒッタイトの王に極秘の親書
そして、これらの粘土板の中から歴史の中に位置づける
ことのできるヒッタイト王が、ついに見つかった。 *4
ヒッタイトの都ボアズキョイ(古代名ハットウシャ 世界遺産)でヒッタイト側の文書がみつかる。
余の生涯でこんなことは初めてだ *5 シュッピルリウマ1世
正確には、このような文書が見つかったのだから、ここがエジプトのマナル書がいう、ヒッタイトの都だ。
参考 ・ また世界最初の和平交渉の文書についてはOnline ゲームになっている エジプトとヒッタイトの戦い
遺跡を整理すると
・アラジャホユック はハットウシャからは20km程度、小規模であるが、出土品が有名。スフィンクス門など。
・カマン・カレホユック は日本隊が発掘調査を進めいているところ。
・チャタル・ヒュユク は以下で書いた、ヒッタイト帝国以前の古い遺跡

参考 「ヒッタイト帝国」の該当部分
*1 第7章 滅亡
ギリシア人はもうまったくヒッタイトのことを知らなかった。
ギリシアの歴史家ヘロトドスは、紀元前450年頃、
小アジア西岸のイズミールの近くでみつけた
ヒッタイト神像を「エジプトの服装をした」男の像と思い、
ヒッタイト絵文字を「エジプトの聖なる文字」と考えた。
「千の神々の民」と名乗ったヒッタイトが
再び発見されるまで数千年もの間
ただ聖書だけがその消えた民族の記憶をとどめていたのである。
*2
イスラエルの祖アブラハムはヒッタイト人の前でお辞儀をする
旧約聖書のなかでヘテびとエフロンから土地を購入する
アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀400シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。
こうしてマムレの前のマクベラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。
(創23:16~18) 前14世紀
*3
エジプトの農民の女がカイロからはるか離れたナイル河の上流で廃墟を
ほじくりまわして、文字の書いてある数枚の粘土板を見つけ、それを
友人に十ピアスと(当時としてはやっと2マルクほど)で売った、という話である。
この取引の結果、別の農民達も発掘を始めた。
当時、古美術品はすでに「投資」であるとみなされていたのでだった。
もっとおもしろいが、現実的でない異説は次のような話である。
同じような貧しい農民の女が、厚かましい見知らぬ男達に非常に腹を立て、
彼らを追い返そうと粘土板の破片を投げつけたが、逆にその男たちは
近寄ってきてしまったという。男たちはまさにその破片を求めてやってきたのでだった。
いずれにしても事実としては、1887年末までに少なくとも2百の粘土板の破片が
カイロで不法に闇取引されていた。
160枚というそれまでに例のないほどの大量のにせ物と言われる粘土板の
大部分は、時がたつうちにカイロで、あるいはグラーフの収集からベルリンの
博物館に買い入れられた。最初のくわしい調査の結果、その粘土板は本物で
あることがわかり、大変なセンセーショナルをまきおこした。
それはエジプト最大の、そしてもっとも重要な粘土板文書の発見であった。
その粘土板は、それまでの古い宗教を廃し、太陽神アトンを崇拝することを
すすめたあのイクナートンの官文書であることがわかった。
BC1350頃、アトンの憩いの場 アヘトアトン という名の新しい都を造った。
イクナートンの死後、その都は見捨てられ荒廃し、砂に埋もれた。
現在、ベルリン博物館にあるネフェルティティの胸像は、百年前にそこで
発掘されたもっとも有名なものである。
今日、この都市は考古学上の名前であるテル・エル=アマナルとして
知られており、発見された粘土板はアマナル文書と呼ばれている。
*4
エジプトはその当時、ナイル河上流のヌビアにある属領から金がとれたため、
当時の文化世界での金産出国となった。
そのため次のような、非常に直接的に、あつかましく金をねだることに
終始一貫しているような手紙もでてくるのである。
ミニタンの王トゥシャラッタは、アメフィス3世に...
この無心状の中に、バビロニアの楔形文字で書かれた一つの文書が見出される。
とにかくこの書簡より、歴史の中に位置づけることのできるヒッタイト王が、
ついに見つかった。
*5
夫は死んでしまいました。私には一人も息子がいません。
聞くところによると、あたなにはたくさんの王子がいらっしゃる
そうですが、
その中の一人を私の夫にいただけないでしょうか。
家臣から夫を選んだりすることは、なんとしてでも
避けたいのです」と、ネフェルティティの娘であり、
まだ二十歳にならないうちに夫のトゥトアンクアメン
(ツタンカーメン)を失ったアンケスエンアムンは
エジプトの地から彼に親書を送ってきた。
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