私が沖縄について最初に得た知識は「鉄道のない県」だ。鉄道好きの私に幼いころ、父が私に買い与えた鉄道の解説書にそう書いてあった。そういう話を父にしたら、
「昔は沖縄にも鉄道はあった。」
という。1937年生まれの父は幼いとき、沖縄で過ごした。祖父がある会社の那覇事務所に勤務していたからだ。ある日、父は祖父に肩車されて出かけた。そのとき、蒸気機関車が貨車を牽いているところを見たという。
かつて沖縄には鉄道があった。沖縄県営鉄道は那覇から与那原、糸満、嘉手納に路線を伸ばし、旅客、貨物の輸送を行なっていたが1945年3月26日に米軍が沖縄本島に上陸して地上戦が始まると線路は荒廃して運行不能な状態となった。その後1972年まで沖縄が米軍統治下に置かれたことで、この鉄道の正式な廃止手続きは行なわれていない。
そして2003年に沖縄都市モノレールが開業するまで、沖縄は「鉄道のない県」となった。
沖縄で地上戦があった頃、父は東京都八王子市に住んでいた。そこでいつ頃沖縄から引っ越したのかこの間父に聞いたら1941年12月だという。
1941年12月は太平洋戦争の始まった月だが、そのとき日本は中国とはすでに戦争状態にあった。中国に対しては正式に宣戦布告はなされていなかったので当時は日華事変とか支那事変とか日本ではよばれていたが、実態は戦争である。さらに日本は当時欧米列強の植民地だった東南アジアにも勢力を伸ばそうとしたところアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)から経済制裁を受けて石油を思う通りに輸入できなくなっていた。その状態で日本はアメリカのハワイ州の真珠湾を攻撃し、アメリカ、イギリスと戦争を始めた。
真珠湾攻撃前から当時の日本では日米開戦やむなし、という世論が高まっていた。そういう状況の中、祖母の兄から
「日米開戦となればそのうちに沖縄で戦闘がある。その前に本土へ戻れ。」
という内容の手紙が「矢のように」祖父へ送られてきたという。
それで祖父は沖縄を離れる決意をした。大阪への転勤も決まり、父たちは真珠湾攻撃の月に沖縄を離れた。
真珠湾攻撃からしばらくの間太平洋戦争は日本軍有利に展開し、1942年6月のミッドウェイ海戦で形勢が逆転した、とよく言われるが、真珠湾攻撃のころの東シナ海では米軍の潜水艦が日本の船舶を狙って潜んでおり、民間船といえどもそれを警戒しなければ沖縄と本土の間を行き来することはできなくなっていた。父の乗った船も平時ならば那覇から鹿児島まで2日で航行できるところ、7日かかったという。
本土に戻った祖父はその後東京の軍需工場に転職した。そして父は1945年3月10日の東京大空襲に遭遇した。空襲で焼け出された後は東京都八王子市に移ったのだが、八王子では外で遊んでいたら機銃掃射する米軍機に遭遇し、危うく弾に当たりそうにある体験もした。
そして敗戦を迎えた。
東京でも危険に遭遇した父だが、1945年当時沖縄にいたらどうなっていただろうか?父は子供の時は病弱だったという。日本の敗色が日々濃くなる中、「国体護持」のためだけに行なわれた戦闘、全県民の3分の1が一命を失ったこの戦闘に父が巻き込まれたら…私には悲惨なことしか想像できない。
沖縄について父に尋ねると、
「俺は平和だった沖縄にいた。」
と語った。一緒に遊んだ近所のおにいちゃん、やさしくしてくれたおじさんたち、おばさんたちが沖縄戦でどうなったのか、気になるという。
「米英と戦闘状態に入れり。」
1941年12月8日、日米開戦を告げるラジオの臨時ニュースを聴いて祖父は
「またか!」
と叫んだと父は語る。支那事変がまだ終わっていないのにまた戦争を続けるのか、という意味だ。日本と中国の戦争だって1937年7月7日の盧溝橋事件でいきなり始まったわけではない。1931年9月18日の柳条湖事件を機に日本軍が中国各地に展開し、その末に泥沼の戦争となったのだ。いや、柳条湖以前に戦争の芽となる出来事はあっただろう。
そして私たちは教訓とするべきだ。
一度戦争を起こしたらキリがない、と。