昨日書いたように、大山氏のあとで反論者として組織された3人に共通するのは、大山氏の疑問、要望に応えていない点である。その点では3人とも同じだ。 

 

 大山氏は何と言っているのか。まず1点目。

 

「『こんなことになるなら、将来共産党が政権を取ったら党内に限らず、国民をこんなふうに統制すると思えてしまう』と。党の未来社会論への疑念につながっているわけです。」

 

 これには誰一人として答えていない。たとえ頭を使わなくても、公式的な見解として「党内での措置を国家に持ち込むことはしないと『自由と民主主主義の宣言』で明確にしている」程度のことは言えるはずなのに、誰も言わない。

 

 しかも問題は、党と国家は違うという程度のことでは、国民の疑念は収まらないことだ。だから、従来型とは異なって踏み込まないといけないのに、その程度の自覚も持てないほど逆上しているのである。その結果、3人とも、ただただ私の綱領・規約違反を声高に叫び続けるだけなので、大山氏が言うように、「国民をこんなふうに統制すると思えてしまう」という効果を生み出すだけなのである。

 

 この点では、私を除名した直後、書記局次長の土井洋彦氏が、「政党のあり方と、社会のあり方──とりわけその政党が政権党になった場合に、その社会がどのような社会になるのかは、もちろん無関係ではありません」と正直に述べたことは大事だった(「赤旗」23.2.25)。その例証として、スターリン時代のソ連やナチス・ドイツの例をあげているのも、国民の実感に沿ったものだろう。

 

 問題は、土井氏の場合、日本共産党の党内民主主義はすでに完成形で、これ以上は民主主義的になりようがないという立場に立っていることだ。それが国民の実感に合わないから、大山氏が言うような国民の懸念が生まれるわけだ。

 

 地区党会議や県党会議で代議員の2割、3割が疑問を呈し、全国大会の代議員になりたいと立候補しても、すべてが切り捨てられていく(大山氏は代議員になれたので、「すべてマイナス1」が適切かもしれない)。国民の常識では民主主義とは少数意見の尊重なのに、党内の民主主義の常識では、少数意見が全国大会の議論に反映しにくいし、ましてや少数意見の人は役員に選出されない。それどころか、田村委員長の荻上チキ氏の質問に対する田村新委員長の答えのように、少数意見(異論)とは、党指導部にとって尊重する対象ではなく、「許す」対象なのである。

 

 「政党のあり方と社会のあり方は無関係ではない」と言うのであれば、少数意見は持っていることは許されるが、表明したらパワハラに遭うし、党外で表明したら除名になるような政党でも、政権政党になれば国家は民主主義を保てるという論理が提示できないといけない。3人はそれを何も提示できなかったのだ。だから、大山氏が提起した問題は深められることにならなかった。

 

 次に、大山氏が提起した問題の2つ目である。こっちのほうがもっと深刻な問題提起である。明日は日曜日なので少し軽やかな話題にして、週明けから連載を続ける。(続)

 それにしても、中祖氏の言葉は汚い。こんな言葉が次から次へと出てくる。

 

「最低限の誠実さと批判の節度が必要だ」(大山氏には誠実さと節度がないと言っている)

「あまりにも乱暴な批判だと思います」(私ではなく大山発言を「乱暴」だと認定)

「(大山発言は)極論すれば、殺人や強盗でもしない限り除名はないということになります。党破壊攻撃をどこまでも許せという論理になりかねない。」

「反共主義者による共闘破壊の攻撃と同列に置く、これもまた極めて節度を欠く、誠実さを欠く批判なのではないか。」

 

 引用するためにパソコンのキーボードを叩くのにも躊躇するほどの言いようである。大会幹部団の筋書き通り、まず大山氏に発言をさせ、続くおじさん3人が集団で糾弾するという構図が、こうしてつくられたわけだ。

 

 党大会では、田村副委員長(当時)の結語での大山批判ばかりが話題になるが、言葉づかいの激烈さでは、中祖氏は優るとも劣らない。あの結語は中祖氏が起案したのかと思わせるほどである。

 

 しかもだ。こうやって大山氏の発言に続く3氏の糾弾全文をまとめて読むと、中祖発言の異様さが浮き彫りになる。前2者の発言は、冒頭で大山発言を批判する見地のものだとは表明している。そういう演出を大会幹部団がしたのだから、当然、そういう見地になる。しかし、発言内容はあくまで私の言動に対する批判なのだ。

 

 ところが、3人のなかで唯一、中祖氏の発言だけは、私以上に大山氏が標的となっている。前2者のような発言をすることもできただろうに、中祖氏だけは大山批判に焦点を当てることを選びとったのだ。そして、先ほど引用したように、「誠実」や「節度」「乱暴」など人格攻撃をしたいだけしているのだ。大会幹部団は、大山発言のあと3人に発言させ、大山氏の再反論を許さないまま山下氏の再審査報告に移るというシナリオを書いたので、中祖氏は、自分の発言に対する批判がされないことを事前に知っているので、まさに言いたい放題である。

 

 なぜ3人のなかで中祖氏だけが、そんなことをしたのか。その理由は私にはわからない。中祖氏にとっては、それが日常の仕事のあり方なのかな、職場の部下に対してもそういう態度をとっているのかなと、想像をたくましくするだけである。

 

 ただし、3人に共通することがある。それは、大山氏の問題提起に何も答えていないことである。もし、3人の誰かが大山発言が提起したことをちゃんと受け止め、それに真摯に答えていたら、私の再審査結果は覆らなかったにしても、党にとって少しは有益な議論ができたはずだと感じる。それができなかったために、大山問題は党によるパワハラ公認問題になってしまったのだ。それは次回に。(続)

 

 この間のメルマガでは、自由法曹団幹部(常任幹事)の神原元氏の貴重な問題提起を受け、私なりの考え方を提示してきた。本日配信する第8号は、その最後である。いろいろと考える機会をくださって感謝している。以下、メルマガ冒頭からの部分的な引用。ご購読はここからお願いします。

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 神原氏も判例変更は容認しており、私の弁護団もそこをめざしているの。この点では神原氏と大きな違いはないことになる。是非、部分社会の法理の判例変更をめざし、一緒に活動したいものである。

 

 また、それに続いて神原氏が書いているが、「そうだとしても適正な除名は有効性がある」ということも賛成である。私も、共産党が規約で除名を位置づけていることには賛成だし、除名しなければならないケースがあることも理解している。けれども、私の場合に限っては、除名はおかしいと言っているだけである。

 

 となると、神原氏と私では、いったい何が違うのだろうか。結局、神原氏が言いたいのは、私が裁判で勝利すると、「我々は安保自衛隊に反対する団体を作る『結社の自由』を否定され」るということであろう。部分社会の法理は見直す必要があるが、その結果として私の党員としての地位が確認されてしまうと、共産党は安保自衛隊問題で真逆の意見を抱え込むことになって、安保自衛隊反対の党としての結社の自由が侵されるという懸念があるのだろう。

 

 しかしそれは杞憂だ。神原氏は「もし自由法曹団が安保自衛隊容認の立場になったら俺はさっさと辞めると思う」と書いているが、私だって「もし共産党が安保自衛隊容認の立場になったら私はさっさと辞める」だろう。だから、その点でも神原氏と私は同じなのだ。それなのになぜ、神原氏のような誤解が生まれるのか。今回の主題はその点である。

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 中祖氏は、大山氏が本を読んでいないことを批判することで、昨日書いたように、「異論をもったから除名したのだ」という本心を告白することになった。同時に、そういう批判に固執することで、党指導部としてはとんでもない見地に立つことになってしまった。まず、以下の発言をご覧あれ。

 

「党は、著作の内容を慎重に吟味して、党の根本路線への攻撃を認定して除名を決定しています。」

 

 これって、まずは「異論をもったから除名したのだ」ということである。昨日と同趣旨の文章だが、こうやって何回もくり返しているのだ。

 

 しかも、ここにある「党」って、どこの党のことだろう。「除名を決定」したのは共産党南地区委員会である。しかし、中祖氏がこの「党」という言葉で地区委員会のことを指そうとしていたなら、地区委員会という固有名詞を使うはずだ。それをせずに「党」という言葉を使う場合、中祖氏は中央の人間だから、当然、中央委員会のことを意味している。

 

 つまり、中祖氏は無意識に、私の除名を決定したのは京都の党ではなく、党中央だと告白しているのである。頭に血が上っているので、正直になれたというべきか。

 

 さらに問題なのは、次の発言である。

 

「(大山さんは)本も読んでいないとおっしゃった。党の除名処分の理由を厳密に検討することもしてないということです。」

「党の処分を批判するのであれば、著作の内容を検討するのは当然のことで、最低限の誠実さと批判の節度が必要だと申しあげたいと思います。」

 

 問題発言だと書いたが、これは党にとっての問題発言である。私にとっては、「中祖さん、ありがとう、涙が出てきます」という発言である。

 

 だって、「党の処分を批判する」場合だけではなく、「除名処分の理由を厳密に検討する」にも、私の本を読まないなどという態度は許されないということだから。私の処分問題を厳密に考えようとしたら、私の本は必読文献だと言っているということだから、

 

 私の除名問題が浮上した昨年1月21日以降、「赤旗」には何回も、何十回も私を批判する論文などが掲載された。しかし、私の本を読んで検討しようという言葉はなかった。それどころか、一度たりとも、私の本のタイトルすら明らかにされることもなかった。『シン・日本共産党宣言』はこの一年間、読んではならない本だったのだ。

 

 それが中祖氏の発言でとうとうひっくり返ったのである。中祖氏が「赤旗」で次に書く論文は、こんな書き出しになるのではなかろうか。

 

「松竹氏に対する除名処分の正しさを確認するためには、理由を厳密に検討する必要があり、そのためには『シン・日本共産党宣言』が党員の必読文書となった。これを読まない党員は神奈川の大山氏と同じく『最低限の誠実さと批判の節度』をもたない党員だと断ぜざるを得ない。1000円以内で買えるのだから、すぐに本屋に注文しよう。地区委員会でも受け付けます。」(続)

 さて、ようやく「前衛」臨時増刊号の「赤旗」中祖政治部長の発言を論じていく。この発言は、直前に行われた除名問題での神奈川の大山代議員の発言への糾弾として組織されたものであるから、両方を論じることになる。

 

 まずは第一印象だが、中祖氏は大山氏の発言をまともに読んでいないのではないか。頭に血が上って、自分が何を発言しているのかも理解できていないように見える。

 

 「前衛」臨時増刊号を入手してようやく大山発言の全文を読めることになったが、この発言ポイントの1つは、冒頭から「私は、松竹氏の著作をまだ読めていません」とあることだ。それが事実かどうか私は知らないが、それが前提になっていることだ。

 

 なぜそれを冒頭に置いたかというと、私の除名問題を党員や有権者に理解してもらおうとすれば、読まないでも分かる論理が必要だからだ。そういう見地に大山氏は立っている。

 

 なぜかと言えば、党が「異論だから除名したのではない」と説明しているからである。それなら、その異論の内容を説明しなくても、ちゃんと除名の理由が国民に理解できるものでなければならない。ところが党の対応はそうなっていない。大山氏曰く、

「除名したことについて、異論を唱えたからではないとくり返しわが党の見解が報じられていますが、そのあとに続く論には、松竹氏の論の中身の問題が熱心に展開されますので、やはり『異論だから排除された』と思わせてしまうんです。」

 

 これは現場の党員の共通の見方だと思う。それを何とかしてほしいと、党指導部に願っているのだ。党の幹部というのは、現場の党員が要望すれば、それに誠実に答えるのが役目だろう。

 

 とりわけ中祖氏は、私の除名問題で中心的な役割を果たしたのだから、「松竹の本を読んでいなくても除名の正当性を党員、有権者に理解してもらうにはこうすればいいのだ」と答えなければならなかった。

 

 それ以前に、「異論をもったから除名したのではない」という党の方針に忠実に従い、せいぜい1000字程度のコラム「読まなくてもわかる除名の正しさ」でも書いて、「赤旗」で記事にすべきなのだ。政治部長なのだから、そんな程度のことはお茶の子さいさいだろう。

 

 ところが、中祖氏の発言の大半は、私の異論(安保自衛隊論)への批判なのである。そして、「(除名問題で)機敏な対応をしたのは、先ほど述べたような出版内容の重大性、安保容認、自衛隊合憲を党の基本路線にして、党の根本路線を否定し解体をもたらす議論だったからであります」と言うのである(この間違いについては連載の後半で論じる)。

 

 あちゃー、やっぱり「異論をもったから除名したのだ」というのが、中祖氏の発言の核心なのだ。これって、大山氏の要望に応えていないのはもちろんなんだが、「異論をもったから除名したのではない」という党の基本的な考え方を否定しているのである。

 

 いやあ、人間、頭に血が上ると、ろくなことにならないね。(続)