アメリカの終身雇用制の誕生と終焉(4)-終身雇用を棄てた労働市場の形とそれを支える教育インフラ
1992年秋の大統領選挙で勝ち、翌93年1月より第42代代アメリカ大統領職に就いたビル・クリントンは、戦後のアメリカでただ一人、経済成長を進めながら財政の健全化、つまり財政赤字の解消、を果たした大統領です。そのクリントン政権にあって財務長官を務めたロバート・ルービンは、その回顧録(“In an Uncertain World”〈2003年:邦訳2005年〉)の中で、「数十年後に歴史家がこの時代の政治を振り返るとき、クリントン政権はグローバルな市場統合に総力を挙げ、先端テクノロジーを加速し、市場主導経済を広めたと評価することだろう」と書いています。 そして、MMT派の学者たちが口汚くクリントン政権のあり様をののしるにも拘わらず、私を含めて科学的に評価する力のある者は、ルービンの自己評価がまったく事実であったことを知っています(その詳細は、2022年3月2日付ブログ『MMT派が「政府財政を黒字にした」と批判するクリントンの大功績!』の中で解説しています)。クリントンとルービンの経済政策が功を奏したのは、1970年代末から始まり、1980年代に花開いたアメリカのIT革命の躍進を、はっきりとした態度で後押ししたからです。ビル・クリントン(左)とロバート・ルービン(右)【画像出展:Wikipedia File:Bill Clinton.jpg、File:Robert Rubin headshot.jpg、Author:Ralph Alswang】 さらにルービンは、「これらの国々(日本やヨーロッパ:筆者註)でも、わが国同様、新しいテクノロジーを利用できるようになったが、大幅な生産性向上にはつながらなかった。(中略)ヨーロッパと日本では、資本市場と労働力市場の構造が硬直していたために、投資が不足したものと思われる」とも書いています。民主党から選出された大統領であったにもかかわらず、クリントン政権は、共和党から選出された大統領であったロナルド・レーガン(任期:1981-89年)顔負けの労働市場の自由化を推進してIT革命推進の条件を維持したのですが、それを後押しするために職業訓練制度を拡充するための巨額の予算(例えば、1994年から5年間の間に130億ドル支出する職業訓練・支援法案を策定して実施)を実現したのです。 何れにしても、重要なことは、IT革命による経済発展を維持するためには労働市場の自由な態勢を維持し、発展し続けることであり、それがアメリカのクリントン政権の下で実現したが、同時代の日本とヨーロッパでは無視された、ということなのです。 しかしその中でイギリスは、ケンブリッジ大学を拠点校とするイギリス版シリコンバレーであるシリコンフェンを開発して、アメリカに追随する姿勢を見せていますが(”フェン“とは”湿地“を意味する言葉で〈伝統的な自然環境を下の画像に示しています〉、”シリコンフェン”は、”シリコンバレー”になぞらえて命名された地域の通称です。詳しくは、2020年9月30日付ブログ『イギリス版シリコンバレーへの道筋』を参照ください)、日本はそのような試みにまったく取り組まず、今に至るも1980年代以前の古い体制を変えようとはしていません。そしてそのことが、1990年代以降、30年間にも及び日本の経済停滞・後退の根本原因であるということは、私が今まで主張し続けてきたところです。ケンブリッジ周辺の湿地帯と、19世紀初め(1820年代)に設けられた蒸気機関による排水施設【画像出展:Wikipedia File:Wicken-Fen-Hide.jpg(ウィッケン湿地)、File:Stretham Old Engine.JPG、Author:William M, Connolley at English Wikipedi】 IT革命が進行するにつれて労働市場が流動化して、企業が労働者を終身雇用することが一般的ではなくなると、企業は以前の様には労働者を企業内で教育・訓練することを行わなくなりました。 『経済企画庁 平成5年(1993年)年次世界経済報告書』は、「急速な技術進歩による新しい装置や製造工程プロセスの導入により、労働者への訓練が従来にも増して重要となってきている。しかし、アメリカでは、一般的技能は学校や被雇用者の負担で企業外で習得してくることが原則となっており、日本等に比べると企業内訓練はあまり行われていない」と書いています(下のグラフを参照ください)。出典:経済企画庁 平成5年(1993年)年次世界経済報告書に記載されたデータを素に作成。原典:OECDの“Employment Outlook 1993” それでも、社員千人以上の大企業については、アメリカの企業内での労働訓練の受講率は4人に1人(26.2%)となっており、日本の同規模の企業の4割程度の労働者が訓練を受講しているという実態があります。しかし、企業規模が違っても訓練受講率は非常に高い日本と違って、アメリカの被雇用者数が500人未満の中小企業では、その比率は精々が1割強という低さであるという特徴があることは、後の説明に関連しますので、覚えておいてください。 同報告書はさらに、「また、訓練時間をアメリカ企業と日本企業で比べてみると、特に新規雇用の生産工においてアメリカ企業の訓練時間の短さが顕著である」と書き続けています(下のグラフを参照ください)。出典:経済企画庁 平成5年(1993年)年次世界経済報告書に記載されたデータを素に作成。原典:アメリカOTA“Competing Economics” IT革命が始まって10ほど経った1990年代初頭には、以上のようにはっきりと統計に現れるほど、アメリカの企業内職業訓練がなされなくなっているのです。 それでは、IT革命とともに雇用のニューディールが広まったというピーター・キャペリの説明に従えば、一体アメリカの新しい労働市場はどのような形に変わったのか? それを私なりに理解したものを、下の図に表わしています。これは、一般にシリコンバレーの「人的資源のエコシステム」と呼ばれているものです。出典:筆者作成。 新卒者の中で、自らの技能に自信があるものは、直接大企業ではないITベンチャーに就職する者もいますが、一方、多くの者は企業の中で比較的企業内訓練を丁寧に施してくれる寡占的な大企業に就職することがあります。そして一定年数の経験を経て自身の技能が十分に向上したとの自信を得た者は、大規模でないシリコンバレー内のIT企業に引き抜かれることになります。 伝統的でないIT企業では、開発する製品の寿命が短いので、その都度必要とする最先端技能が変わるので、社員と企業の間の互いのニーズがずれることになるので、一旦「結婚」した社員と企業は「離婚」して、社員は自らの技能を必要とする別のIT企業に移ることになります。ピーター・キャペリが指摘したように、企業と社員は、「結婚と離婚を生涯繰り返す」のです。 それでも、その社員の身につけた知識や技能がどのIT企業についても不足すると感じられる場合には、その社員は地域の中に整備されている各種の教育機関で最先端技能の再教育(生涯教育)を受けることになります。より積極的な社員は、日頃より大学やコミュニティカレッジの夜学に通って不断に技能のブラッシュアップをし、あるいは一旦企業を辞めて、地域内の大学院に入学し直して、より高度の技能開発に努めます。 多くの場合は、数年間働いていた間に貯めた貯金と奨学金を合わせて学費に充てます。工学系の博士課程に再入学する場合には(日本と違って修士号を得ていることは評価されないので、いきなり博士課程の履修が始まります)、特にスタンフォード大学等の私立大学は、手厚い奨学金制度を準備する他、ティーチング・アシスタントとしてのポストを大学院生に与えて、その給与で必要な学費を賄うことを可能としています。 あるいは余程運が良ければ、自ら雇用する社員の技能向上を希望する企業が企業外での再教育費用を負担してくれる場合もあります。いずれにしても、企業は、それらの社員の生涯技能開発を邪魔することなく、むしろ支援する立場をとることが一般的です。そうしなければ、新たに有能な社員を雇用することは難しいからです。 では、いったん就職した後に再び教育・訓練を受けることを希望する者は、どのような教育・訓練期間に行くことが多いのか? それを示しているのが下のグラフです。出典:坂本辰朗著『アメリカのコミュニティ・カレッジと「生涯学習」』(1985年)に示されたデータを素に作成。 IT革命が始まってあまり年数が経たない1981年には、一旦就職した者が外部で再び教育・訓練を受ける者のうちおおよそ4分の1ずつが大学、コミュニティ・カレッジ、職業・技術学校に行くとの統計があります。 IT革命が始まったばかりの1977年からそれより4年後の1981年までの間に、大学へ行く者の割合が3%ポイント増えていますが、てコミュニティ・カレッジに行く者の割合が6%ポイントと大幅に増えています。 では、“コミュニティ・カレッジ”とは、いったいどのようなものであるのか? 履修期間が2年間であることから、1970年代以前のアメリカでも“短期大学”と呼ばれた時期があるので、日本の短大に比較されることがありますが、しかし、日本の短大とは全く別物です。 コミュニティ・カレッジは、地域の様々なニーズにより創設され始めましたが、アメリカの第2次産業革命の末期となる1920年代から大恐慌の30年代にかけて、その目的は労働力の開発にシフトしていきました。工業の技術的発展により必要とされたより高度の技能は、伝統的な職人親方のつくる学校では教えきれなくなっていたからです。また、実際の現場で多くの労働者に必要とされる実践的技能は、より高度の技術を教育する大学以外の場所で教えられる必要があるとも考えられ、時代のニーズに沿ってコミュニティ・カレッジは急速にその数を増していきました。カリフォルニア州最初のコミュニティ・カレッジ(Fullerton College:1913年創設)【画像出展:Wikipedia File:6304-FullertonJrCollege-1.jpg、Author:Robert J. Boser EditorASC】 現在、アメリカ中にはおよそ4,000の大学がありますが、そのうちの3割に当たる1,200校がコミュニティ・カレッジです。1校当たりの学生数は、4年制大学が6,354人(2021年)であるのに対し、コミュニティ・カレッジの1校当たりの学生数は、総平均で4,470人であるものの、その大半を占める公立のコミュニティ・カレッジの平均学生数は5,922人となっており、コミュニティ・カレッジは、4年制大学とほぼ同等の規模をもっていることがわかります(下のグラフを参照ください)。出典:コミュニティ・カレッジの学生数については“COMMUNITY COLLEGE REVIEW”に、4年制大学の学生数については、“Sage-Advices”に示されたデータを素に作成。 そのコミュニティ・カレッジの特徴の一つが、既に示した通り、実践的な職場で役に立つ技能を中心とした教育がされていることです。 そして第2の特徴が、授業料が年間5,000ドルから1万ドルと非常に安くなっていることです。これは、コミュニティ・カレッジの運営財源の3分の2(65.4%:2021年)が州、地方自治体、連邦政府によって負担されているためであり、学生の支払う授業料はコミュニティ・カレッジの運営財源の4分の1(26.5%)を占めるに過ぎません(下のグラフを参照ください)。地域によっては、授業料を無料とするというような措置をとっているところもあります。出典:アメリカコミュニティ・カレッジ協会2021年資料に示されたデータを素に作成。 つまり、コミュニティ・カレッジはあらゆる所得層の人が容易に入りやすい教育機関なのです。入学に当たっての選考はなく、誰でも入れるのですが、2年で卒業する者の割合は入学者総数の平均13%と相当に低く、努力なしに容易に卒業できるという所でもありません。 第3の特徴は、学生の平均年齢が28歳で4年制大学の24歳よりかなり高く、学生の半数が22歳から39歳の間の年齢の者であり、6割の学生がパートタイムの学生です。つまり、働きながら通う年長の学生がコミュニティ・カレッジには随分と多いということです。 経営者、あるいは管理職にある者が、再教育を受けるときには大学院(工学系の博士課程やMBA)に戻ることが多いのに対して、より平均的な就業者は高い報酬を生涯得続けるために必要な自身の技能の維持のために、便利に使っているのが、都市部にあり、授業料が安く、あるいは免除されるコミュニティ・カレッジだということなのです。 このように、一旦企業に就職した後も、不断に自身の「雇用される能力(エンプロイアビリティ:employability)」を労働者自身の努力により生涯にわたって開発し続けられる環境がある、ということがシリコンバレーの労働市場の流動性を支えるインフラになっているということなのです。 つまり、アメリカの労働市場の高い流動性を支えているのは、労働者の技能開発を企業のみの努力に依存するのではなく、社会全体ですべての労働者が等しくその機会を活用できる企業の外部の教育・訓練機関の総合的な力であるということなのです。 アメリカの連邦、州、地方自治体の支出する教育費予算合計のGDPに対する比率は1975年から1984年まで下がったものの(6.2%→5.1%)、IT革命が本格的に進み始めた1985年以降は再び増加傾向に転じ、2002年には6%を超え(6.2%)、以降現在までおおよそ6%の水準で推移しています(下のグラフを参照ください)。これは、その間、政府と地方自治体の支出する教育費予算合計の対GDP比率が3%強であり続けている日本に比べて倍近く多い水準です。出典:アメリカについてはusgogovernmentspending.comの示す、日本についてはUESCOが示すデータを素に作成。 そして、1980年代半ば以降のアメリカの教育費予算の増額に最も貢献しているは、州政府です(例えばカリフォルニア州では、1980年代半ばに連邦政府・州政府・地方自治体の費用負担割合を5:40:55から5:70:25に変更しています)。このことは、州政府がコミュニティ・カレッジの発展とコミュニティ・カレッジに参画する人たちに授業費支援を盛んに行っていることの財政的裏付けになっています。 日本では、アメリカの教育費予算が日本より高い水準にあることばかりが指摘されていますが、アメリカの教育予算は若年者に対してのみならず、一旦社会に出て職を得た者が、その生涯にわたって技能開発を続けるための再教育についても支出されていることは議論されていません。日本人は、日本とアメリカの教育予算の多寡の違いのみを論ずるのではなく、その中身についても、特に生涯教育についての姿勢の圧倒的な違いについてもようく知り、そのあり方について考えるべきです。 最後に、4年制大学(universities)やコミュニティ・カレッジの他に、多くの民営の各種職業・技術学校があります。その対象とする分野は、コンピュータサイエンス、自動車、医療・看護、美容、漫画、アート、音楽、観光、ファッション、建築、インテリア、映画、料理、福祉などと多岐にわたっていて、新たな職を得るために必要な技能を会得する手段を提供しています。 年間の授業料は年7,000ドル~14,000ドル程度(2017年現在)で、コミュニティ・カレッジとほぼ同等です。さらに、民間の財団が各種多様な奨学金を準備しており、運がよければ年間1,500ドルから5,000ドルの援助を受けることができます。 民間財団の各種奨学金を紹介する団体は、「あなたが高校の卒業証書、準学士号、学士号、あるいは修士号を持っているかどうかにかかわらず、別の学位を求めて学界の世界に戻ることは、今日の競争力のある労働力で上向きのモビリティを達成する可能性を高めるための優れた選択肢です。大人にとって、高校を卒業したばかりの学生ほど財政的な資金提供の機会は確かに豊富ではありませんが、これらは人生の後半のキャリアアップを得るために利用できる」ものだと説明しています。 こうして、4年制大学、コミュニティ・カレッジ、そして民間の各種職業・技術学校が合わさって、労働者の就職中の、あるいはいったん退職した後の技能向上努力を支える強力な教育機関の構造がアメリカではでき上っている、という実態があります。 この結果、1980年代以降労働市場の流動化が進むにつれて、勤労者の転職回数は増え、一生の間に平均して11回強(下のグラフで示す就職回数-1回)も転職し、そして2022年の平均勤続年数はおおよそ4年(もう一つ下のグラフを参照ください)、と何れも際立って高い、あるいは短い数値を示しています。そしてこれらの数値は、2000年代に入って以降は、男女別にも、あるいは学歴別にも、それらの間の差が大いに解消され、すべてのアメリカ人勤労者に共通の特徴となっています。出典:アメリカのBureau of Labor Statisticsが示すデータを素に作成。出典:同上。 つまり、分厚い生涯教育機会提供体制の存在の基に、シリコンバレーのみならず、現在のアメリカの労働市場の流動性はすべての企業と勤労者にとって円滑に機能している、と言っていい状態にある、というのが私の評価です。 以上を、連載『終身雇用を深く考える』の第8回とします。