社会の変革は容易にできない、できたとしても長時間を要する、特に労働市場の変革などというのはそうだ、と大概の日本人は考えています。

 

 しかし、アメリカの労働市場から終身雇用制がおおよそ消え去るに要した時間は、そう長い時間ではありませんでした。IT改革を主導するITベンチャーが有力になり始めたのは、ようやく1970年代半ばのことであり、その後ベンチャーの革新的な企業構造が一般化し始め、それとともに伝統的企業の終身雇用制は急速に放棄されていったのですが、終身雇用制の牙城であり、アメリカの終身雇用制のシンボルであったIBMがついに終身雇用制を放棄したのが1994年です。

 

 つまり、アメリカの終身雇用制の崩壊の始まりから終焉に至るまでに要した時間は、おおよそ20年ほど(two decades)ということになり、アメリカの第1次産業革命が始まったからのおおよそ2世紀の長さから見れば、「ほんの一瞬の短期間」であった、ということがわかります。

 

 それでは一体、アメリカの労働市場をかくも短期間に革命的に変革することを可能とした要因はいったい何であったのか、という問いに今回は迫りたいと思います。それは、この連載『終身雇用を深く考える』の第5回から前回、第7回にかけて掲載した小連載『アメリカの終身雇用制の誕生と終焉』の中に書き込まれたアメリカの終身雇用制の誕生と終焉についての歴史を労働市場構造変革の視点から改めて総括し直す作業だということになります。

 

 そうすれば、わずか20年間(two decades)のうちに始まり終わった終身雇用制崩壊のシナリオが19世紀末のスタンフォード大学の設立にまで遡るということに気が付きます。そしてまた同時に、アメリカの大企業の終身雇用制が誕生し安定的な労働市場の構築が始まり、進化した時期に重なっているのだということもわかります(2022年9月22日付『アメリカの終身雇用制の誕生と終焉(1)』を参照ください)。

 

 つまり、アメリカでは、当時のアメリカ経済の中心地であった東部で終身雇用制が生まれて育ちつつあったその時に、西部の果てのカリフォルニア州はまだ経済的に進んだ地域ではなく、1848年以来のゴールドラッシュによって金の大産出地域として栄えているほどでした(下に示す1850年のカリフォルニア行の快速帆船〈当時は南米南端ホーン岬を周って100日余の航海でした〉の宣伝には、ゴールドラッシュの光景を描いています)

 

【画像出展:Wikipedia File:California Clipper 500.jpg】

 

 その経済先進地ではなかったカリフォルニア州で、ゴールドラッシュに沸く市場を利用して財を成したリーランド・スタンフォードが大学を設立したのはようやく1891年のことでした(アメリカ大陸横断鉄道は、1869年に開通していました)

 

1891年のスタンフォード大学のキャンパスの光景

【画像出展:Wikipedia File:1891 Stanford.jpg】

 

 そのスタンフォード大学(Stanford University)が、東部の大学に先んじて産学連携を模索しつつ工学部を設立するというのは、ある意味途方もない大きな意味を持っていたことになります。

 

 東部で1636年にアメリカで初めて設立された総合大学(university)であるハーバード大学は、人文系中心の高等教育機関でした。アメリカ東部で最初に設立された工学系の大学は、1861年に設立されたMIT(Masachusetts Institute of Technology:マサチューセッツ工科大学)でした。今でこそMITとハーバード大学の間では連携した研究活動が行われていますが、設立当時は「MITは職業訓練学校だ」と口にするハーバードの学生たちの理不尽な偏見に晒されており、工学部を擁する総合大学は生まれなかったのです。

 

 鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーも東部のピッツバーグにカーネギーメロン大学を設立していますが、当初は総合大学ではなく、Technical School(技術学校)であり、1912年に工科大学とされた後、総合大学にまで拡大されたのは、20世紀半ばを過ぎた1967年のことでした。

 

 ところが、新進気鋭の西部カリフォルニアでは、人文系と工学系の縦割りの壁は19世紀中に軽々と越えられていたのでした。

 

 そしてこの大学についての概念の差が、1世紀後に大きな東部と西部の発展力の差を産むことになったのです。

 

 

 こうした東部のエスタブリッシュメントの産業文化とは隔絶した、自由な風土の中で大学での研究成果をそのまま学生たちが在学中から、あるいは卒業してすぐに実経済社会で企業活動に結び付ける、つまりベンチャーを設立して発展させる、という構造ができ始めたのです。その時、大学は、ベンチャーの基盤となる技術開発に直接貢献するのみならず、学生たちの起業に必要な資金を提供するエンジェル投資家の応援を得る手助けをしたのでした(スタンフォード大学の初代学長となったデービッド・スター・ジョーダン自身がエンジェル投資の役割を果たしたことは、9月30日付ブログ『アメリカの終身雇用制の誕生と終焉(2)-シリコンバレーのニューディール』で紹介したとおりです)

 

 このことは、大学を卒業すると自ら起業するより伝統的大企業に就職することが一般的であった、東部の総合大学や工科大学の学生たちを取り巻く環境とは随分と違っています。このように、ベンチャーを起業することを大事と考えて、それが可能となる環境を1世紀近くかかって育ててきたスタンフォード大学を中心とするカリフォルニア州の産業基盤づくりがあって、研究者、エンジニア、あるいは経営者たちが伝統的大企業に頼らずに自らの力で労働の機会を得ることが一般的という環境がつくられてきたことが、カリフォルニア州で早期に終身雇用制が放棄できた背景にあることは、間違いありません。つまり、起業してもいいし、あるいは転職しようとしても、常に先端技能を活かす場を提供する発展途上の企業が容易に見つけられるという環境があった、ということです。

 

 ここに、アメリカが単一中央集権国家ではなく、ステーツ(state:州)という国の連合体、連邦体制、であるということの強みを見ることができます。特に、東部に対する強い対抗意識をもった西部、そして特にその代表格であり東部独立13州より四半世紀(72年)遅れてアメリカ合衆国(United States of America)に参加することとなったカリフォルニア州が(米墨戦争の結果メキシコからアメリカに割譲)、まことに運のいいことに、州政府が発足したその年に金鉱脈が発見されて、以降激しいゴールドラッシュによって急成長するという幸運に恵まれています。

 

 そしてカリフォルニア州は、その富を消費し尽くすのではなく、それから得た経済基盤をその後の近代産業発展の糧としたということが評価されます。富→文化→産業の連環が起こった、ということが重要です。ここで「文化」というのは、金産業で富を成したスタンフォードの興した大学がハーバード大学の模倣ではなく、まったく新しい大学教育についての概念を産みだした、ということを言っています。翻って、日本の近代で富の蓄積に成功した人が、産業改革につながる文化の創造にそれを活かした勢いが余りに小さいことに改めて気が付くのです(例外として、京セラを設立した稲森和夫が国立大学である九州大学や京都大学に多額の寄付を行っていますが、しかし、自ら創造的な学際学を追求する革新的私立大学の設立を図る、というようなところまでは行っていません)

 

稲森和夫と九州大学稲森和夫財団記念館

【画像出展:File:Kazuo Inamori 2011 Heritage Day HD2011-71.JPG、Author:Science History Institute, Conrad Erbe(稲森和夫)、 File:INAMORI Center.jpg 、Author:Hot cake sycrup(稲森記念財団)】

 

 19世紀半ば過ぎまで一種の連邦制(幕藩体制)の下で日本の中央権力からおおいに独立していた西南日本雄藩の官僚たちが、一旦国家権力の中央に座ると、一転してドイツのビスマルクに倣った強度の中央集権体制を築き(文の伊藤博文と武の山縣有朋による)、地方の創造的な教育・経済開発を一切封じたという歴史の真逆をアメリカ、特にカリフォルニア州、が辿ったのだ、ということを印象付けます。このアメリカと日本の辿った19世紀末から現代至るまでの歴史発展の過程の大きな違いは、今の私の心情を圧迫しています。

 

 

 もう一つの重要な要素は、「生涯学習(lifelong educdation)」という概念が一般的にあり、そのための学習機会が大いに与えられていた、ということです。

 

 例えば、アメリカの大学院は一般に大学学部を卒業した者がそのまま進学するということではなく、一旦社会に出てキャリアを積んだ者が、数年後に再び大学院に戻り、そこで修士号を獲得するというのが一般的です。とくに、経営修士号、MBA(Master of Business Administration)は、企業の管理職に就く者がその獲得を目指すものであり、MBAを得た者が企業に戻る時には直接に管理職のポストに就くことが一般的です(アメリカで管理職にある者の大半は修士号をもった者です)。つまり、大学の新卒→大企業への就職→年功序列制の出世階段を上って管理職のポストにまで到達する、というキャリアパスは圧倒的に少数なのです。

 

 このキャリアコースは、IBMに代表される企業内教育・訓練を受けながら年功によって次第に企業内で出世するという伝統的キャリアパスに代替する機会を就業者に与えています。そしてMBA教育(特に、企業現場を再現するシミュレーション教育)の効果が認められるに従って、このキャリアパスが優勢になったのです。企業内教育・訓練が、所属する企業内に限られた知識や技能を教えるだけなのに対して、時代の最先端の広範囲にわたる産業、企業で現実に機能している知識や技能をMBAは学生に教えることができたことが、MBAの優位を勝ちとったと言えます。

 

 

 経営修士号、MBA、を取得しようとする者が、2年間の学業に要する費用は非常に高額ですが、再就職後に元の職にいた時の倍~3倍の報酬を得られるので、奨学金ローンを組んでも一定年数後には完済する見通しがおおよそ立つので、富裕な親をもたなければMBAコースに通えないということはありません(例えば、アメリカ人で学生ローンを借りたが返せない者の割合は7%だという報告もなされていますが、その精度、詳細は不明です。また一方で、私立大学が返済不用の多額の奨学金を提供しているということもあります

 

 また、工学系については、高く評価されるのは修士号ではなく博士号で、その博士号を得るには、学部卒→修士課程で修士号学獲得→博士課程に上り博士号獲得、というキャリアパスを通ることなく、直接博士課程に入り、5年間の就学を経たのち博士号を獲得し、その称号をもって企業に就職します(博士課程に入学の際、修士号を得ていることは評価されません)

 

 博士課程での5年間の学業を全うするために必要な生活費と学費の合計は多額となりますが、博士課程在学中に一定程度以下に成績を下げないでいれば、大学教授にティーチング・アシスタントとして雇用され、その報酬で生活費と学費の合計額を支弁することができます(十分な学業成績を示さないと解雇されるというリスクは、あります)

 

 このようにして、経営管理職に就こうとする者も、研究開発職に就こうとする者も、経営学修士課程、または工学系の博士課程を終えることが必要となるのですが、その過程に一旦企業に就職した後に再び戻ることは一般的です。つまり、経営学、あるいは工学についての生涯学習コースが潤沢に大学に用意されており、自ら起業し、あるいは企業内で出世しようとするに者は、不断に最先端の技能を獲得する努力が必要なのですが、そのような機会を多くの大学が提供しているのです(もちろん特に有能な者、例えばFacebookを立ち上げたマーク・ザッカーバーグ、の中には、大学学部在学中に起業する者もいます)

 

 そしてさらにアメリカの労働市場にとって重要なことは、主に州政府が提供するコミュニティ・カレッジが高度の経営管理職、あるいは研究開発職に就くわけではない大多数の就業者に対して、不断の技能開発を行うための生涯教育機会を提供していることです(その詳しい内容については、前回のブログで紹介したとおりです)


 コミュニティ・カレッジは、20世紀初頭に誕生し、1920年代までに急拡大したのですが、当初は地域に根差して4年制大学に入学できない所得や人種の人たちの4年制大学へのもう一つの入り口を提供することが一番の役目でしたが(2年の課程を修了すると4年制大学の第3学年に入学する資格を得ることができます)、1930年代の大恐慌期に職業訓練機能が強化されることとなりました。そしてIT改革が進んだ1970年代から1980年代にかけて、職業訓練を強化する動きが再び生れています。

 

 

 アメリカの大学生数は、IT革命が始まった1970年後半からその伸びが弱まっています(下のグラフを参照ください)。ただこれは、1960年代から大学生数が急増して、1970年代半ばに大学生数が人口の5%に達して、おおよその飽和状態に至ったからです。

 

出典:学生数についてはアメリカCensus Bureauの“CPS Historical Time Series Tables on School Enrollment”に示されたデータと人口についてはアメリカのDEMOGRAPHIA.comの示すデータを素に計算して作成

 

 しかし、大学生数を年齢階層別に分けてみると、それとは違った様相が見えてきます。

 

 1970年代から30歳以上の比較的高齢の大学生数が急増し始めているのです。そしてIT革命が一定の進展を見た1990年には、30歳以上の大学生の割合は総数の4分の1を超えるほどの高さに達しています(下のグラフを参照ください)。つまり、大学が若者だけではなく、中年以降のアメリカ人の生涯学習機関としての働きを大きくしたことがわかるのです。

 

出典:アメリカCensus Bureauの“CPS Historical Time Series Tables on School Enrollment”に示されたデータを素に作成。

 

 アメリカの学生がどの様な種別の大学に通っているのかを示す割合を見ると、1970年以降、一つにはコミュニティ・カレッジに通う学生の割合が増え(4分の1から3分の1へ)、また、大学院に通う学生の割合も2割弱から4分の1に達するほどに増えて、いったん就職した後に大学に戻る人たちが、特に高度の技能を求める管理職クラスの人たちは大学院に、そして一般のアメリカ人労働者はコミュニティ・カレッジに戻っているということがわかります。

 

出典:アメリカCensus Bureauの“CPS Historical Time Series Tables on School Enrollment”に示されたデータを素に作成。

 

 このことは、既に前回までに述べてきたアメリカの大学やコミュニティ・カレッジがアメリカのあらゆる階層の労働者に対して生涯にわたる技能向上の機会を企業外で与えてだけの十分な備えをしている、ということを統計上で証明しているのです。

 

 ちなみに、2つの上のグラフで示された2011年以降のアメリカの大学生総数の急減は、一つには、人口構造の高齢化が進んで高校生の数が減り始めていること、そしてもう一つには、2011年以降、急激に失業率が減少して(下のグラフを参照ください)、コミュニティ・カレッジに入学する労働者の数が減ったからだ、と説明されていますアメリカのNational Student Clearinghouse Research Centerのダぐ・シャピロによる:2018年4月

 

出典:学生数についてはアメリカCensus Bureauの“CPS Historical Time Series Tables on School Enrollment”に示されたデータと失業率についてはアメリカのBureau of Labor Statisticsの示すデータを素に計算して作成。

 

 このことは、くしくも、アメリカの大学が労働市場と鋭敏な関係をもって機能しているこということを証明しています。アメリカの労働市場の流動性の高さは、アメリカの大学やコミュニティ・カレッジ、さらには民間の職業訓練機関の分厚い備えによって、とくに1970年代以降に急速に拡大したということです。

 

 

 こうして見ると、アメリカが終身雇用制から短期間中に離脱できた背景には、東部の産業・文化とカリフォルニア州の産業・文化の1世紀にわたる並列があり、その中で頭部と西部がそれぞれの産業・文化を発展させてきた中で、1970年代に至ってカリフォルニア州を頭目とする西部の産業・文化が東部のそれに優越してアメリカ全土の産業・文化を代表することとなったという歴史観が得られます。

 

 そしてさらには、生涯教育という、アメリカ人が1620年にイングランドから渡ってきた最初の移民であるピルグリム・ファーザーズ以来の伝統的な教育についての積極的な姿勢がその背景にあることも読み取れます(アメリカ初の大学であるハーバードが設立されたのは、ピルグリム・ファーザーズがアメリカ大陸に上陸してからわずか16年後、ということがそのことを象徴しています。キリスト新教は、他の宗教に較べて、特に科学的論理を重視していたことが知られています)。

 

『メイフラワー誓約』の署名(メイフラワー号上)

【画像出展:Wikipedia File:Embarkation of the Pilgrims.jpg】

 

 以上が、私が、なぜアメリカが短期間中に終身雇用制から離脱して、IT革命に始まる「第3の産業革命」を開始し、なお続けられているのか(下のグラフを参照ください)、と考える理由です。

 

出典:アメリカのMeasuringWorth.comの提供するデータを素に計算して作成。

 

出典:同上