IT革命により市場の競争が激化したことは、アメリカの労働市場の構造を大きく転換することになったのですが、1980年代に入ると長期的雇用関係のメリットを脅かす動向が見られた、と人材・経営学者のピーター・キャペリは言うのです(『雇用の未来』〈1999年。邦訳:2001年〉による)。それは、以下に示すような動向が生じたからだ、とキャペリは説明しています。
1つには、製品の市場投入時間が短縮されたことから、以前より人の陳腐化や設備の老朽化が加速したため、人や設備に対する固定的な資本投資が困難になったことです。2つには、ITが導入されたことにより外部供給業者を監督したり、組織内部の業務と連携させることができるようになり、そのために、多岐にわたる機能をアウトソーシングすることが可能となったことです。
3つには、金融界でIT革命が進行したことから、伝統的ステークホルダー(当該企業に直接に利害関係がある組織で多くの株式を保有する者)が追いやられて、株主が最優先されるようになり、そのために株主価値の上昇を求める圧力によって、コスト削減(特に固定費)が強いられるようになったことです。
そして最後に4つには、それらがすべて合わさって、あらゆるビジネスの場面や個々の社員が市場の脅威にさらされるようになったことです。
こうして、新しい環境に合うように企業構造、あるいは雇用態勢を機敏に変革できた企業は生き残ることができたのですが、一方、これに失敗した多くの企業は倒産することを余儀なくされたのです。
下に、アメリカの企業倒産件数の推移を失業率と併せてグラフにしたものを掲示していますが、それまでが精々年間1万件ほどであった企業倒産件数が、1970年代末から急増し、1985年にはそれ以前の6倍の年間6万件に達し、一旦は落ち着く気配を見せたものの、1990年代初頭には年間9万件を大きく超えるまで増加したのです(下のグラフを参照ください)。
出典:倒産件数については、“Business Failure Record, Dun & Bradstree, a company of The Dun & Bradstreet Corporation, 1996”に示されたデータを素に、失業率についてはアメリカ労働省の示すデータを素に作成。
アメリカの失業率は、1979年から1982年までは上昇する傾向を見せたものの、それ以降はむしろ低下して、倒産件数が急増する以前の水準に戻っています。このことは、企業構造の変革を要求する市場環境の中で、それに追随できなかった企業は退出を余儀なくされたものの、労働者の方はIT革命が景気を拡大させる中で企業間を何とか渡り切った、という状況を示しています。
そうした変化を通じて、企業総数のうち3分の2(67%)が雇用契約を変更し、その結果以前から雇用契約に雇用保障を含めたことがない企業(6%)を加えると、全体の4分の3近く(73%)の企業が雇用契約に雇用保障を含めないことにした、つまり終身雇用を保障しないことになったです(下のグラフを参照ください)。そして依然として雇用保障を雇用契約に含み続けている企業は全体の4分の1(27%。但し、製造業については29%、サービス業については20%)にまで激減したのです。
出典:ピーター・キャペリ著『雇用の未来』に示されたデータを素に作成。
こうして雇用契約が変更されたことの効果は、統計上はアメリカの高齢者の勤続年数(今いる職場に継続して勤務している年数)の変化としてはっきりと表れています(下のグラフを参照ください)。
出典:アメリカについてはアメリカ労働統計局の示すデータを素に、日本については厚労省『賃金構造基本統計調査結果』に示されたデータを素に作成。
アメリカの高齢者(55~64歳)の平均勤続年数が、IT革命が始まった1970年代末以降急速に短くなっている(平均15年→10年)のに対して、日本の高齢者の勤続年数は、1980年以降急速に伸び、50歳代後半の男の平均勤続年数が1990年代末に23年に達してから停滞しているのに対して、60歳代前半の男の平均勤続年数は現在まだ伸び続けていて、アメリカとはまったく違った様相を示しています。
しかしまことに驚くべきことに、この市場の激変にアメリカの労働者はよく追随したのです。下に、アメリカの社員が企業にどのようなことを期待しているのかということを最も強く期待しているものから順にそれを望む社員の割合を示したグラフを示しています。
出典:ピーター・キャペリ著『雇用の未来』に示されたデータを素に作成。原典:HR Executive Review: Implementing the New Employment Compact (New York: Conference Board, 1977
社員が企業に最も強く求めることは、「興味の持てるやりがいのある仕事」で、「極めて重要」と考える者と「重要」と考える者の合計は9割近く(87%)に及んでいます。そして一方、「雇用保障」が「極めて重要」と考える者は全体の4分の1に満たず(23%)、それに「重要」と考える者を加えても半数をわずかに超える(56%)ほどにしかなりません。今の日本とは、まったく違った様相が見られるのです。
そして特徴的であることは、「自己の成長・育成機会と手段」が重要と考える者の割合が8割近くに及んでいることです(「極めて重要」:30%、「重要」:47%)。この自己能力開発が重要と考える者が多いということと、雇用保障を求める者の割合が低い、ということが対をなしていると考えられます。「現在の企業での雇用保障はどうせ得られない。だとすれば、いつでも別の成長企業に移れるように自己の能力開発だけは懸命に続けておきたい」ということなのです。
伝統的な雇用契約(オールドディール)から革新的な雇用契約(ニューディール)に移行した企業は、文書で「あくまでも、社員との関係が企業にとって有益である場合に限って、職が保障される」ことを明示したのです。
「社員は長期的にみて有望な昇進機会が存在するのは外部労働市場だということをいやというほど聞かされており、内部市場でなく、外部市場に注意を向けて自己のキャリア・マネジメントを行うように奨励されている。なかには、外部市場の基準に対して自己のスキルのべンチマーキングを行い、他社で昇進機会を得ることも視野に入れたキャリア形成を考えるべきであるときっぱりとうたっているものもある」とキャペリは言います。
さらに続けて、「こうしたメッセージを肯定的に解釈すれば、社員は、最終的には組織ではなく自分のスキルやキャリアに忠誠をつくすプロの職業人になる必要があるということになるであろう。否定的ではあるが同様に適切だと思われる解釈は、社員はおそらく一時的な雇用主にすぎない現在の会社に対して忠誠をつくす理由はないということになるであろう」と書いています。
忠誠心をもたなくなった社員に対して企業は従来のような社内教育や訓練を提供することはなくなったのですが、但し、企業は社員に対して自己責任による「雇用される能力(エンプロイアビリティ:employability)」の開発を推奨しっぱなしであったわけではなく、ニューディールの重要な部分として、「会社としては雇用を保障できないが、外部労働市場で再雇用されうるスキルの習得に手を貸そう」というほどには約束したのです。こうして労働者の雇用は企業内部の市場ではなく、企業外の市場で保障されるべきだという労働市場構造ができ上り、それを前提として企業も労働者も行動するようになったのです。
このような労働市場の大変革を多くのアメリカ人労働者が受け容れたことは、IT革命が始まった1970年代後半以降、アメリカの労働組合の参加率が急速に低下し、そしてそれと歩を合わせるようにしてストライキ参加者数が激減したことにも現れています。
出典:アメリカ労働統計局の示すデータを素に作成。
1969年に日経連の報告書は、「終身雇用は企業と従業員の間の恋愛結婚である」と書いたことを報告しましたが、キャペリは、「旧来の終身雇用に基づく関係が結婚だとすれば、新しい雇用関係は離婚と再婚を生涯繰り返すようなものだといえよう」と書いています。日本の概算離婚確率(≒人口千人当たり離婚率/人口千人当たり婚姻率。「概算」とは、個人の履歴を追うコーホート型統計ではないという意味)は、1970年以降急速に上昇し、2000年代には3組に1組が離婚するという状況に至っていて、アメリカとの差を大きく縮めていますが(下のグラフを参照ください)、しかし企業との婚姻関係については決して破綻させたくはない、と考えているのは「随分とちぐはぐではないか?」と私には思えるのですが、どうでしょうか?
出典:統計局『人口動態調査結果』に示されたデータを素に作成。
何れにしても、このようにしてアメリカの終身雇用制の崩壊は1970年代末に始まり、1990年代中には終身雇用態勢は、実質的にほぼ終焉したのです。
なお、以上を連載『終身雇用を深く考える』の第7回とします。