アメリカの終身雇用制を語る時に、必ずその代表企業として引き合いに出されるのがIBMです。IBMは20世紀初頭の1911年に誕生後、アメリカの「家族型経営」を行う典型的な企業の一つとして指摘され、1990年代に終身雇用制を放棄するに至るまで、本人の希望に反して解雇しないことを社の第一の誇りとしてきた企業です。

 

1903年のアメリカの事務所風景(左下に見えるのは伝声管)

〔画像出典:Wikipeda File:Office speaking tubes 1903.jpg〕

 

 だから、IBMが辿った雇用態勢についての歴史を辿れば、アメリカの終身雇用態勢についての歴史をおおよそ知ることができるのです。そこで、私は2019年3月29日に、連載『日米両国の反パラレルワールド』の第21回記事として『IBMは、こうして終身雇用制をやめた!』を掲載しました。さらに、今年6月29にづけ記事『「IT革命」と「終身雇用制の放棄」は、一体だ!ーデジタル化して企業構造改革しなければ、効果なし』でもこれに触れ、これらの記事の中でIBMの終身雇用についての歴史については丁寧に説明しています。

 

 なので、今日は、それをただ繰り返すのではなく、IBMを中心としつつも、できるだけアメリカ社会全体の様子に敷衍〈ふえん〉した話をしたいと思います。

 

 

 IBMが設立された1910年代は、アメリカが第2の産業革命を終わりかけていた頃に当たります。アメリカは、1830年以降の半世紀ほどにわたって、イギリスの産業革命をそのまま模倣した蒸気機関を利用して工場生産を発展させた第1の産業革命を終えた後、19世紀末から第2の産業革命を行います(下に、第2の産業革命の時期を示すアメリカの1人当たり実質GDPの推移を表すグラフを載せています)。

 

出典:MeasuringWorthの示すデータを素に計算して作成。

 

 鉄鋼(その代表は「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギー)、化学産業(その代表はデュポン)といった重厚長大産業がおこり、大企業が生まれます。さらに、木材、石炭から脱して石油をエネルギー資源とし、それを独占的に供給する大企業が生れます(ロックフェラーのスタンダード・オイル)

 

カーネギー(左)とロックフェラー(右)

〔画像出典: Wikipedia Andrew Carnegie, three-quarter length portrait, seated, facing slightly left, 1913-crop.jpg(カーネギー) Wikipedia File:John D. Rockefeller 1885.jpg (ロックフェラー) 〕

 

 さらに、20世紀に入ったばかりの1903年にフォードが設立され、大量生産方式を完成して、1908年にT型フォードが発売開始されて、1910年代にその販売台数が爆発的に拡大し始めました。ちょうどそのような時代背景で、IBMはニューヨーク州の地方都市(エディンコット)に設立されたのです。

 

T型フォード

〔画像出典:Wikipedia File:1908 Ford Model T.jpg(1908年モデル)、File:1910Ford-T.jpg(1910年モデル)〕

 

フォードの組み立てライン(1913年ハイランド工場)

〔画像出典:Wikipedia File:Ford assembly line - 1913.jpg 〕

 

 つまり、1910年代というのは、アメリカで大企業が生まれ、育ち、アメリカの労働市場の基本が定まりつつあった時代なのです。それからさらに10年を経た1920年代は、企業合同による巨大企業の誕生が続き、「専門経営者が経営担当者として登場し、一方では科学的管理法ないし能率的管理法による生産合理化をはかると共に(例えば、フレデリック・テイラーの科学的管理法:筆者註)、他方では従業員の適正能力の発見、適正職場への適性の従業員配置のための人事管理が成立し、さらに人間関係的管理の実験的研究が開始され、現在の人事管理のほぼ全部門が開花した」(津田真激著『アメリカの大恐慌と産業別労働組合組織の発展』〈1970年〉による)時期であったのです。

 

 アメリカは当時大量の移民を主にヨーロッパから受け容れており(下のグラフを参照ください)、それらの者が効率的な生産活動に参加できるように、一つには英語やアメリカの地理などの基礎教養を授けるとともに、「企業に忠実な善良なアメリカ市民」となるように倫理教育を行い、企業への帰属意識を高めるために企業内で技能開発教育を行い、企業内で昇進させる仕組みを採ったのです。これは、それ以前の企業の外で汎用的技能を親方が弟子に伝授するという伝統的仕組みから一歩脱したものでした。

 

出典:喜多克己著『アメリカ移民統計と「非合法」外国人労働者』に示されたデータを素に作成。

 

 つまり、1920年代のアメリカでは、労働者を長期雇用し、社内で昇進させる労働政策が一般化しつつあったのでした。だから、この時代のアメリカの労使関係は見ようによっては「温情的」であったともい言えたし、企業経営の方法は「家族的」とも言えたのです。そしてこの新たに生まれた企業経営と雇用態勢の伝統を、多くのアメリカ企業の中でIBMは最もよく守ったのです。

 

 

 しかしこの「良き」労使関係は、1929年10月24日に起こったニューヨーク市場での株価の暴落に端を発し、第2次大戦が勃発した1939年まで10年間続いた大恐慌の中で大きく変化したのです(下に1928年末~1930年の株価の推移を示しています)。

 

【画像出展:Wikipedia File:1929 wall street crash graph.svg 】

 

 1920年代までは、発展を続ける経済という環境の下で、企業経営者が労働者に対して親としての温情を与え続けていたのですが、大恐慌が始まって失業率が最大25%にまで及ぶ(1933年:24.9%。下のグラフを参照ください)に至って、失業者組織が全国的に結成され、急進化したのです。

 

出典:アメリカ労働省の示すデータを素に作成。

 

大恐慌で炊き出しを待つ失業者の列(1931年シカゴ)

〔画像出典:Wikipeda File:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927.jpg 〕

 

 1920年代までは、経営者は温情的であり、労働組合は経営者に対抗するものとして多くのアメリカ人に嫌われていたのですが、大恐慌が始まると突然のように大量生産産業労働者の中に労働組合組織が生まれ、これらが「洪水のようにAFLに流れ込んだ」(上記論文による)のです。AFL(American Federation of Labor:アメリカ労働総同盟)とは、1886年に結成された全国規模の労働組合のことです。

 

 アメリカの労働組合の組織率は1930年代半ばまでは7%程度の低さであったのですが、民主党から選出された大統領のフランクリン・ルーズベルトが、ニュー・デール政策の一環として1935年に「ワーグナー法(全国労働関係法)」を制定して、労働者に組合に加入して、組合代表を通じて企業と団体交渉する権利を与え、あるいは企業に不当労働行為(組合活動に対する妨害行為)を禁止すると、急速に労働組員数が増えていきました。1930年代末には、労働組合の組織率は20%近く(18.5%)にまで高まっています(下のグラフを参照ください)。

 

出典:アメリカについては労働省その他の、日本については厚労省の『労使関係総合調査結果』に示されたデータを素に作成。

 

 ただ、AFLはそのまま順調に発展することなく、ワーグナー法ができてから3年後の1938年にAFLとCIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議:American Federation of Labor and Congresss of Industrial Organizations)に分裂するのです。AFLが熟練労働者の権利を守るために全産業横断的な労働組合組織の拡大を目指したのに対して、企業に対して主張できる技能をもたない非熟練技能者は、産業別に組織された労働組合でなければその権利が擁護できないと主張する者がおおよそ半数に達していたのですが、AFL内に留まる限りにおいて非熟練労働者の権利の保全はいつまでも図れないと考えたからです。

 

 そして、この分裂騒動の中で、アメリカ最大の産業別労働組合であるUAW(United Auto Workers:全米自動車労働者組合。1935年設立)はAFLの支配から脱して、自主独立の活動を始めることとなったのです。

 

 それでは、産業別労働組合であるUAWに属する労働者は、どのようにしてその権利を守ったのか? それは、それらの労働者が自動車メーカーと交渉してレイオフの権限を得ることに拠っています。

 

自動車工場労働者のストライキ(1937年;ミシガン州フリント)

〔画像出典:Wikipeda File:Flint Sit-Down Strike window.jpg〕

 

 「レイオフ」とは、日本語では「一時解雇」と訳されますが、それだけではこの仕組みを理解したことにはなりません。なぜなら、「レイオフ」の背後には「セニオリティ・システム(Seniority System)」という労働者と会社の間に結ばれて雇用契約があるからです。

 

 セニオリティ・システムとは、日本語では「先任権制度」と訳されています。これは、企業の業績が悪化し、あるいは一時的に製品の生産量が大きく減ったときに、余剰となった労働者をその者のその会社での通算勤続年数の短い者から順に一時解雇し、再び企業の業績が回復し、あるいは製品の生産量が増えたときには、通算勤続年数が長い者から順番に再雇用する、という仕組みです。

 

 レイアウトされている間、労働者には失業保険が支払われるほか、産業別労働組合から失われた賃金の一部を補填する助成を受け、生活水準を維持することができる仕組みです。

 

 この措置によって、その企業が破綻せず、あるいは長期にわたってその生産量が低下し続けない限りにおいて、労働者の解雇は「一時的」なのであり、通算勤続年数が長い者には優先的に雇用される権利があり続けます。このことは、一定年齢以上の労働者は、「実質的に企業に継続雇用されている」状態にあることを意味しています。アメリカでは、日本と違って定年制を設けることは年齢差別と考えられ、70歳未満の者をその年齢を理由として解雇することは違法とされているので、セニオリティ・システムの保護下にあるアメリカの労働者は、「実質的に終身雇用されている」と言えのです。

 

 ちなみに、アメリカでの労働者の退職は、定年に達した時にではなく、それまでに蓄財した資産を素に悠々自適の余生を送る年齢に達したと「労働者自身が」判断したときに行われます。だから、アメリカの労働者は、真の意味で「終身雇用」されているのです。

 

 

 以上は、主に大量生産活動を行う大企業に働く工場労働者の雇用のあり方についての説明です。大企業の生産量が季節によって、あるいは年単位で大きく変動したとしても、その企業の事務的業務量や営業活動量はそれほど変動しないので、ホワイトカラーについての人的需要度はその企業の生産活動量の変動によって大きくは影響を受けません。そのために、多くの大企業で上の工場労働者に対して適用された「温情的」雇用や、「家族的」企業経営の風土を維持する企業が多かったのです。そして繰り返しになりますが、IBMやフィルムメーカーのイーストマン・コダック(1892年設立)は、それらの中でも最も強烈な「家族的」経営を行い、社員の希望に反した解雇は断固として行わない決意を貫いたのです。

 

 IBMが特に終身雇用制を重んじたのには、いくつかの理由があります。IBMは、ホワイトカラーに特定の部門に長居させるよりも異なる部門を転々とさせて、総合的な経営能力を涵養することを図りました。そのために、「新入社員は入社するやいなや限りなく続く教育訓練プログラムに送り込まれた」(ピーター・キャペリ著『雇用の未来』〈1999年、和訳2001年〉による)のです。

 

 こうしたことが可能となったのは、IBMがコンピュータ業界で優越的な地位を占め続け、特に1964年にシステム360というメインフレーム・コンピュータ(mainframe:大型コンピュータ)の販売を始めてから1970年代末にPCが躍進し始めるまでの間は、世界のコンピュータ市場を支配するほどの力をもったからです(富士通を初め他のメーカーはIBM互換機を供給することで、辛うじて市場に留まり続けることができるほどでした)

 

IBMのシステム360とICを使ったSLTモデュール

【画像出展:Wikipedia File:Ken Thompson (sitting) and Dennis Ritchie at PDP-11 (2876612463).jpg Author:Peter Hamer(システム360)、File:Slt1.jpg Author:Jim Berlin(SLTモデュール)】

 

 こうした環境の中で、IBMという企業の総合的経営能力をもった人材を育てることが重要だと考えられ、「仕事についてはさほどでもないが、会社についてはよく精通している」社員が育てられ、出世し、終身雇用されたのです。

 

 その他の企業についてもIBMほどではないにしても、M&Aによる垂直統合(1926~33年にブーム)や他業種にまで業務を拡大してコングロマリット化する(1965~69年にブーム)ということが頻繁に行われて、企業経営に関する事務に長けた社員が重宝され、そしてそれは自社のことについて多くの知識と経験をもっていることにより評価されたのです。そしてこのことは、これらの企業でも、IBMほどではないにしても基本的に長期雇用、実質的には終身雇用(死ぬまで奉職することはないが、辞職の時期は社員自身が決める)、されることになったのです。

 

 ただ、IBMで終身雇用の厚遇を受けることのできるのは、企業が長期にわたって安定的に雇用し続けたいと考えている「コア社員」に限ってのことであり、需要が一時的に急激に伸びたような場合にあっては、長期雇用保障を必要としないインターン、パート、退職者、下請け業者などをより多く受け入れて、コア社員の数と一時的に必要となる人材の数とのギャップを埋める雇用政策を採ってもいたことは指摘しておかなければなりません。要するに、IBMも日本と同様に正規、非正規の社員の待遇格差を現実の雇用の中で運用していたのです。

 

 つまり、20世紀初頭以来、アメリカで終身雇用の恩恵を受けていたホワイトカラーは、若年で長期雇用を前提として採用された正規の「コア社員」であったということで、それ以外の短期を前提として大企業に雇用された者、そして中小企業に雇用された者にはそのような特権は与えられていませんでした。それは、1970年代以降の日本の雇用の実態と同類であった、と言うべきです。

 

 こうして1950年代以降、IT革命が始まる1970年代末から1980年代末まで、多くの大企業では、ホワイトカラーは終身雇用され、ブルーカラーは、「シニオリティ・システム」の下で、継続雇用、そして実質的に終身雇用、されたのです。但し、日本の場合と同様に、終身雇用されたホワイトカラーやブルーカラーは大企業に雇用される者に限られており、そのような雇用態勢をとるだけのゆとりをもたない中小企業に働く労働者にはそのような特権は与えられていなかったことは、もちろんです。

 

 

 以上が、アメリカに終身雇用制が生れ、継続された20世紀初めからIT革命が始まるまでの時代の様子です。

 

 なお、アメリカ人の終身雇用制の歴史を考えるときに、アメリカ人と日本人の寿命の差はあまり考えなくてもいいことは、下に示すアメリカ人と日本人男の平均寿命の推移を表すグラフから推察できます。

 

出典:アメリカについてはStatisticaの示すデータを、日本については厚労省の「完全生命表」に示されたデータを素に作成。

 

 以上を、連載『深く終身雇用を考える』の第5回とします。