カケラ
  監督 : 安藤モモ子
  製作 : 日本

  作年 : 2009年
  出演 : 満島ひかり / 中村映里子 / かたせ梨乃 / 永岡 佑 / 光石 研 / 津川雅彦

 

 

安藤モモ子 カケラ 満島ひかり


このまま、ずっといまのままということがおぼろなしかし消し去れない思いになって明け方に寝床から天井を見上げる、あの距離感に浮かんでいます。彼氏は白河夜船どころか三途の川を下っているようなぴくりもしない眠りのなかにあって(ほんと顔だけ見ていると河童の川流れという言葉を思い出しますが)その横顔の、無邪気なというか自分の目先のことしか考えていないただ悪気がないというだけの寝顔に余計にそう思います。原作は桜沢エリカでまったく時代を同伴したものからしますと都会の、息を吹きかけられたような(半笑いの)残酷さを岡崎京子が皮膚で受け止めたとすると桜沢は(目を瞑って)鼻孔で探り当てようとしていたという感じで残酷ということが一方で揺るぎない現実の痛みでありながらどこまでもフィクションの予感に震えていて現在はそこにあって夢のように遠いのです。その痛みつつもどかしいという感触がヒロインを包み込んでいますがそれはそれで(このまま、ずっといまのままということを呑み込みさえすれば)適当に心地のいい牢獄です。正直ということを股の間にぶら下げているこの彼氏は当然二股を掛けていてそれをヒロインには教えていますがもうひとりとは世界でふたりきりの恋愛を堪能中でして彼の理屈からすると嘘をついてるお芝居の恋愛と本当のことを教えている正真正銘の恋愛ということになるわけです。ヒロインの気持ちは収まりませんが熱愛の現場に乗り込むほど自分を押し出せません。しかし本当のことという殻のなかで不満にもがいているというのも(このチャランポランな彼氏が望みそして自分もどこかでそれでいいと諦めてしまっている)ひとつのお芝居なんであって... 彼女はこのまま、ずっといまのままということを天井に見つめるわけです。さて本作にはもうひとりヒロインがいまして勝ち気さが割れないピスタチオのようにカラカラと転がっているそんな魅力です。正確に何というのかわかりませんが失われた体の一部を樹脂で模造を作る職業で(<カケラ>という題名はひとつにこの身体の喪失と再生を表していて)いまも教会で結婚式を挙げる花嫁のために(ほんと本物に見紛うばかりの)左の薬指に息を吹き込んでいるところです。足先に手首、耳たぶに鼻、指の数々そして乳房と事情はわからないながらそれぞれのひとが被った苦難と身体(以上に心)の大きな穴を埋める新しい身体です。勿論どれも本物ではありませんが失ったものを前にすれば本物か偽物かなんて愚かしいことです、過去と未来をつなぐもの、まさに現在を送り届けるのが彼女の仕事です。さてそんなふたりが出会って... 大切なのは相手に本当を求めることじゃなくて自分が本当になることだと若さは教えてくれるわけです。

 

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「 映画と映らないもの:映画と原作の間:演劇そして漫画』  」

 

 

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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


「 映画と映らないもの:映画と原作の間:探偵小説 」 の続きです。

 

ジョージ・キューカー監督『ボーン・イエスタデイ』(アメリカ 1950年)は当時人気を博したブロードウェイの戯曲からの移植で元々舞台の演出家だったキューカーからすればまあお手の物というところです(ギャビン・ランバート『ジョージ・キューカー、映画を語る』国書刊行会 2016.6)。ただ移すに当たっては映画ならではの面倒がありまして、そうです、幾分赤鰯になったとは言えまだまだヘイズ・コードが厳めしい目を光らせております。表現出版の自由を認めた修正第一条の保護下にある演劇と違いましてそこは巷に吹き晒される映画であれば、<スケ>なんて(登場人物の生い立ちとその後の境遇を表現するためであっても)ご法度ですし況してやヒロインとは同棲中なんて敬虔なご婦人方の目をまん丸くさせるようなことも慎まねばなりません(、ですからふたりでホテルに泊まりながら寝室は別々... )。12歳から働きに出るとすぐに割のいい屑鉄拾いに職を変えて一度売った屑を夜中に盗んで翌朝もう一度売るなんて思いつく少年です。貧乏を歯でしごくような生きる荒れ野をまさに実力で踏み越えていまでは名だたる事業者です。ただ12歳から明け暮れて人品ということでは人類に脱皮し掛かったところで止まっていていまもロビー活動で招いた議員夫妻の身嗜みを揉み潰さんばかりのもてなしようです。その彼から見ても自分の彼女の無作法ぶりは目に余るものでしていまさら淑女とはいかないにしても何とかそれなりにならないものかと頭を痛めています。長くどっちつかずの関係を続けながら彼は彼なりに彼女を愛してはいるんです、ただ如何せん鉄屑を拾うかちょろまかすかしか知らない人生の愛し方なのです。その彼女の教育係として雇われるのがワシントンで作家をしている主人公というわけです。

 

 

 

 

同じ物語を描きながら映画と異なる表現の間に横たわるものを手探りしていく今回のお話で『ボーン・イエスタデイ』に現れるのが唐突な主人公のキッスです。物語は田舎のコーラスガール出身のまま日々をというよりも自分が持っているものを無為にしてきたヒロインが主人公に導かれて自分を取り囲む有形無形ひとつひとつに理由があり歴史があってそのあるべく姿があることを知っていきます。ふたりはやがて恋に落ちるわけですが東部のスマートさを身につけている主人公からしてヒロインが男性との距離に無遠慮に身を寄せてくるのにたじろぎますが、そんな浮足立った気分があるとは言え会って二度目にしかも依頼主の妻同然の女性に思わず口づけをしかもかなり濃厚な口づけをするほどにふたりの間柄は何ら通い合っていないのです。のちに教養に目を見開かされながら首都の歴史的遺産をふたりして訪ねて歩くそんなしっとりとしたときの方がはるかにキッスの収まりはよさそうです。勿論ふたりが異性として物語の流れを捻るその交点がこのキッスであって以降ヒロインの闊達な(そして知的な)反逆が始まるのですがやはり映画においては唐突です。ヒロインを演ずるのはジュディ・ホリデイでマトリョーシカに詰められた何番目かの人形といった感じのやや茫洋とした美人です。ブロードウェイでもこの役は彼女が演じていますが映画化に際してはリタ・ヘイワースが演ずる予定だったのを彼女の降板で引き続いた形です。ただこのキッスはリタ・ヘイワースの美貌を以てしても唐突で寧ろ考えさせられるのはこの唐突さは演劇的であるということです。ひとつの舞台を幕と場によって場所を設える演劇においては場所に入る、出るが大きな動であって出来事は場所に集約されます。唐突であるということは(物語以上に)場所を掻き立てます。それに対して映画は場所を移動しカットで割って物語を小さく断絶させながら語っていきますから(場所よりも)それを再構成し続ける脈に集約されて唐突さは(脈に収まらずに)どこまでも唐突であるということなのだと思います。
 

ジョージ・キューカー ボーン・イエスタディ ウィリアム・ホールデン ジュディ・ホリデイ

 


さてもうひとつ、唐突さということでははるかに収まり難いものを片渕須直監督『この世界の片隅で』(日本 2016年)は抱えているように思います。ヒロインのひと柄をなぞるような素朴な筆致のアニメーションに峰を越えて現れる敵戦闘機の機銃が(絵としての動きではなく重い鉛が破壊的な速度で打ち出され)現代的な軌跡を描いて(それが飛行機の速度で町の広さをひと呑みしながら)つぎつぎ着弾していくさまには逃げようのない戦争の破壊力が迫ってきます。元は夢のように照り輝く波打ち際の小さな漁村でその夢を見続けるように育った少女ですが乞われて嫁いだのが地方の軍港町、海へと開ける高台が新しい人生の場所です。温順な夫と同じひと柄の舅姑、出戻りの小姑がやや険のあるひと柄ですが戦争へとひとが肩身を寄せ合うなかのあれやこれやです。しかしもはや引き戻しようのない戦局は連日の本土空襲となってやがてヒロインを襲う巨大な喪失となります。そこからのヒロインの感情の振幅は銃後に生きそして夥しい死に晒されたひとの、戦争への複雑な心情を吐露して物語の豊かさを感じさせるところです。駆け足に原爆の地へも足を踏み入れながらそんな人類の惨禍のなかで失われたヒロインの腕が新たな生命に繋がる結末は(戦争があろうがそれに負けようが占領されようがどうしようが)歩みを止めないひとびとの希望となって灯ります。ただ...  この映画にあってどうにも収まりがつかないものが私に残ります。いよいよ戦況が逼迫するなかいまや海軍の軍人となった同郷の男がヒロインを婚家に訪ねてきます。(入港した軍艦の乗組員に宿泊先を民家が受け入れるにしても)既にひとの妻である女性へあまりに馴れ馴れしい接し方は(どの時代に照らしてもやはり)常識を越えています。挙句に納屋に泊めるその男の許に妻をやって母屋の鍵を締める夫というのは(いくら同郷の好みに話の花を咲かせると言っても)一夜をそこで過ごせということであってどう見ても男に自分の妻を一夜妻として差し出しているわけです。この場面はのほほんとしながらも(実は人生の変転に内心では追いつけていない)ヒロインの奥深い脱出願望を吐き出させようというのですが男の布団に一緒に入り男の方はすっかりその気でさっそくヒロインへの愛撫を始めて(母屋には夫の他に彼の母も姉もありながらこの事態を何と受け入れたものか)どうにも奇異に映ります。ただここにこのことを引いたのは(原作は漫画ということですから)この無理は案外漫画であればすっと滑り込むのかしらと思ったからで漫画のコマというのは映画のカットよりもはるかに切断されひとコマひとコマは対話的でありながら独立していてたっぷりとした余白に浮かんで(語りが線的で不可逆的な映画と違って)コマを戻ることも容易です。見開き全体を一気に見渡せる開放さもあって映画の画面よりも引き込む力の自由さを持っているように見えます。ちょうどコマの形を矩形から菱形、枠なしなど自由に変形させるように常識の無理を違う形に引き入れられるのかも知れません。まあ何にせよ漫画に不案内な私の思うところではあります。

 

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「 映画ひとつ、ジョン・フォード監督『荒野の女たち』 」

 

 


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荒野の女たち
  監督 : ジョン・フォード
  製作 : アメリカ

  作年 : 1965年
  出演 : アン・バンクロフト / マーガレット・レイトン / スー・リオン / ベティ・フィールド / エディ・アルバート

 

 

ジョン・フォード 荒野の女たち アン・バンクロフト


以前ジェームズ・スチュワートの評伝を読んでいると『馬上の二人』に差し掛かったところでもはや往年の卓抜した演出力を失っているジョン・フォードの映画にジミーはよりにもよって3作も出演していると書いてあって(まあ私がクイックキャノン軍曹であったならばこの書き手の尻をいやというほど蹴り上げるところですが)本作でも口あけからモンゴル草原を蹴立てる馬賊の疾駆が(レナード・バースタンの、風雲たなびく主題歌を踏み鳴らして)心踊らせますよ。1935年のうららかな日、中国の国境深くに入り込んだ伝導所の門が開きます。医者もなければ文字が読めるものもない僻地にあって近隣の村々には日々あれやこれや起こります。いまも骨折の手当てをして帰ってきたところでこれしきのことは門前の小坊主(じゃなかった、こちらは耶蘇教の尼さん)で見様見真似でやり遂げねば布教は務まりません。そう説くこの女性こそこの伝導所の長でありまさにそれにふさわしい年齢ながら中年女性の、鼻の先がやや上に向いたような自信とその自信の鼻先を不安がゆっくりと円を描いて近づいてくる、そんなところに立っています。それもこれも国境に荒れ狂う馬賊の蹂躙がそこここで囁かれて大きくこの伝導所を取り囲むようにその野蛮な手を狭めているからでしてそうだけに神の御心とともに彼女たちの拠りどころとなっているのが(膝下の中国人たちとは違い)自分たちはアメリカ人であることなんですが神のお叱りも聞こえぬらしい蛮族の耳にさてアメリカの御威光が届きますかどうか。ただ彼女の不安はそのような外的な状況は(神の為されることでもありますから)寧ろ楽観に寄りがちでそれに比べて伝導所に渦巻くもの、しかしそれもこれも彼女の体のなかを吹き荒れる何かが伝導所をこのように際立たせているのです。そのひとつが見習い牧師の夫婦に子供ができたことで高齢ながら子供を授かったことの狂喜と生来の、やや裏声になりがちな気性が相俟っていまや寝ても覚めてお腹のなかの子供のことでかまびすしく神に身を捧げる独身の彼女からすれば神の家で夫婦関係が営まれていることが(神の家の包容力をはみ出して)落ち着かないのです。そしてさらに奥に秘めたものが彼女の堅い信仰を砂糖菓子のようにひと雫ひと雫甘く溶けさせていて... 。ところでフォードゆえにかような邦題ですが原題は(その名も)"7 women"で否が応でも黒澤明のかの作品を横目に見ることになって戦乱の世にその暴力の真っ只中に放り込まれて侍ではなく女性であることに黒澤を見据えて尚野心的に微笑むフォードがいます。女とは何か、宗教とは、ひとを救うとは、ひととは... インディアンと撃ち合うライフルよりもはるかに旺盛に問いの銃弾が飛び交って遺作にあって尚映画の前線に立ってみせるフォードの怯まなさ。

 

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高原の月
  監督 : 佐々木啓祐

  製作 : 松竹
  作年 : 1942年
  出演 : 坂本 武 /高峰三枝子 / 佐野周二 / 小藤田正一 / 河村黎吉

 

 

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出演の顔ぶれを見ているだけでも愉しいものです。1942年(ともなれば戦前もあとわずかですが)松竹を彩るあのひとこのひとが顔を揃えます。雪を頂く連峰を見据えて峻険な高原にひとり暮らす坂本武は一本鉄を呑んだような頑固者です。ご機嫌伺いに先廻りして<当節ちょっと手に入らん>鮭を持たせてやって自分はあとから悠々とやってくる河村黎吉にはまあ魂胆があるわけです。土産を餌に坂本が飼育している卵を廻して貰おうというのですが村人に小分けすると言いつつその実町の料亭に卸しているものですからまあ口には出さないながら持ちつ持たれつの含みです。しかるにバレないと思っていた料亭の件はとっくに坂本に知られていてそうなると梃子でも卵を廻すつもりはないらしく鮭を鼻先にぶら下げてもそれどころか両手をついて頼み込んでもけんもほろろで鮭も足許に放り投げられます。そんな偏屈な山暮らしの老人の許にいま若い女に連れられて子供が預けられることからこの物語は始まって...  お察しの通り『アルプスの少女ハイジ』の頂きです。小藤田正一なんて結構な歳ながら子供が扱うような羊の群れを引っ張ってさしずめペーターというところでしょう。対米英戦争に突入しているとは思えないほど子供たちの長閑な物語に全編大きく伸びでもするように緩められた映画の節々が時代を越えて心地いいです。子供を主人公に据えて大人の背丈からはずっと低い視線から汲汲とする大人たちの隙間をくぐり抜けるように生活を写し社会を写していく姿勢には『風の中の子供』(清水宏監督 松竹 1937年)や『子供の四季』(清水宏監督 松竹 1939年)、或いは『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(小津安二郎監督 松竹 1932年)や『腰弁頑張れ』(成瀬巳喜男監督 松竹 1931年)まで遡る松竹映画の系譜を思わせます。それだけでなく子供の姉である高峰三枝子はいまは師範学校に通っていますがそれをほどなく卒業すると海浜の小学校に赴任します。そのうららかな光景を転々と映しながやがて校舎に入ってくるキャメラがその壁に捉えるのは(教育勅語ではなくて)大きく書き出された譜面で子供たちは唱歌を歌っています。子供の純真と教育のありかを語って同じく高峰が教員であった『信子』(清水宏監督 松竹 1940年)から大きく風が流れ込むようです。清水宏ゆえか原作が獅子文六ゆえか『信子』なんて少なくとも1960年代の日活の学園映画程度には民主化されていて...  そんな戦前の松竹のうるわしいあれやこれやを花束のように掴んで進んでいく本作にもやはり戦争の渦中にある現実が追いついて作品の(時代に何とか持ち堪えてきた)様相は最後の5分で一変していまが1942年であることをいやというほど思い知らされます。

 

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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


野村芳太郎 八つ墓村 山崎努

 

湖からにょっきり出ている肉づきのいい二の足だとか桜の宵闇に取り憑かれた力走で裾を絡げた(こちらも日本男児のふくふくとした)太腿も顕に白塗りの般若顔で猟銃だの日本刀だのを振りかざす狂乱だとか子供の頃に震え上がった映像はいまも心の水面を突き出して駆けずり廻っておりますよ。斯界の風雲児が出版業に飽き足らず映画製作にも乗り出してまさに降って湧いた横溝正史ブーム、『犬神家の一族』(市川崑監督 角川春樹事務所 1976年)を皮切りに映画各社が(これ幸いと)相乗りしながら結局1981年の『悪霊島』(篠田正浩監督 角川春樹事務所)まで打ち続くわけです(その頃の彼の句が<かなかなや蠟涙父の貌に似る>で才能と(まあそれ以上の)いななきの凄まじいこと)。しかし思えば70年代も遠くになりにけりで同じだけ(とはとても思えないほど)自分の子供だった時間も遠くになって(いまにすれば自分でもそんな時間があったことが嘘のようですし同時に襖を開ければ死んでしまったあのひとこのひとが昔の家のままに自分を見返していてそんなあの日のおこたに入っていく... ふとそんな気もして)歳を取るというのは何ともファンタジーです。改めて勘定してみますと『悪魔の手毬唄』(市川崑監督 東宝 1977年)のときでヒロインの岸恵子は四十代半ば(振り返りたくはないのですが見れば若山富三郎が五十前の艷やかな満面の笑みで見つめてきますよ)、まさか自分が彼らより年長者になろうとは。さてさてそんなこんなで70年代の金田一耕助映画をひと渡り見返そうとしたことが今回のお話の始まりです。

 

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市川崑 女王蜂 岸恵子  市川崑 悪魔の手毬唄 若山富三郎

 

 

いっかな風雲児とは言え異業種出身の個人プロから興した『犬神家の一族』は山場となるお屋敷の大広間からして精一杯の美術で況んや旅館の壁ひとつ殺人現場のテラスひとつとっても予算の厳しさを感じさせます。それが『悪魔の手毬唄』ではブーム真っ只中の予算の手応えもずっしりといがみ合う素封家それぞれの家格の出し方にしても旅館の部屋も風呂も中村伸郎が棲む掘っ立て小屋の年の刻み方にも格段の深みが加わってまさに映画に相応しい出来栄えです。(そういうなかを如何にも謎が秘められていますと言わんばかりの手毬唄が次々と連続殺人をなぞっていって限られた登場人物の上に出すには出すなりの俳優の格からしても中盤には犯人はわかります。市川崑の演出もあるときを境に謎が開くのを開くままにしてあとは犯行に滑り込んでいくひとの憎悪と情愛の劇へと俳優の芝居に譲る演出になっていて役それぞれの哀切さに胸を打たれます... )ただ『悪霊島』まで見ていって監督も市川崑だけでなく野村芳太郎から篠田正浩、斎藤光正に至ってはテレビの演出家ですし金田一も石坂浩二は勿論のこと渥美清、西田敏行、鹿賀丈史とまさに丸いのから細いのまで多士済済ではあるんですが、毎度毎度のおどろおどろしい仕掛けもだんだんに張りぼてに見えてきます。この辺り市川崑が横溝の物語世界に持ち込んだ様式美と映像の実験が諸刃の刃になっていて伝奇的なものを掻き立てると同時に探偵小説の書割的な人物たちに人間の愛らしい輪郭を際立たせます。屏風絵のように物語世界を屹立させながら絵のなかの人物を抜け出させて人間の躍動として捉える、この作り物めいた(何か能を思わせる)幽玄さが市川崑の魅力ですが掻き立てそして際立たせたそのなかは如何ともし難い探偵小説の動機の単純さです。(その意味では探偵小説の稗史的な息苦しさを砂地をなぞるように描いてみせたのが『八つ墓村』(松竹 1977年)の野村芳太郎で勿論既に物している『砂の器』(松竹・橋本プロ 1974年)の手法をそのまま引いて映画の中盤から長い語りの謎解きが始まりしかもその間に芥川也寸志の壮大な交響曲が思う存分奏でられその沸き立つ旋律を駆け巡るように事件の結末が同時進行に描かれるのですが、私としては寧ろ『伴淳・森繁の糞尿譚』(松竹 1957年)で見せた部落を閉じ込める見えない外縁を描きながらそこに群像劇を落とし込む野村の語りが発揮されたと見るところです。市川のモダンな手際ではなく野村のこの(乾いた)泥臭さ(と松竹喜劇映画の、書割的人物描写)が案外探偵小説の世界を等分に捉えたのかも知れません。まあ何にせよ張り切って北海道ロケまで行って舞台となる瀬戸内の小島に広大なリアス式海岸を現出させた『悪霊島』の篠田正浩には瞑目するばかりですが... )

 

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市川崑 悪魔の手毬唄 石坂浩二 山岡久乃

 

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遺産相続に昔日の怨念、そういう判で押した動機にあまりに律儀で労力を厭わない大仕掛けの連続殺人がだんだんとちぐはぐに思えてきて続けて見るうちにこちらの興味が遊離していきます。それをその映画の瑕疵とか探偵小説の<幼稚さ>に帰そうというのが今回のお話ではありません。横溝の原作を読んでいる分には動機の単純さというのはあまり気にはならないものです。寧ろこのことは映画にされたことで逆照射に浮かび上がったのであって言わば横たわるのは映画と原作の間にあって形式が異なる物語を映画にすることで見えてくるその見えざる何かです。端的に申して小説の人物を形作っているのは言葉の重量です。勿論私たちの脳裏では映像化されますがそれはどこまでも言葉をなぞります。それに比べて映画とはあからさまに映像であり実在をなぞるものですから人物は否が応でもその生身の重さに引き寄せられます。人間の等身大に比率して物語が奥行きを形作るためある程度の現実性が前提になっていて... (だからこそ映画で神話的な神々の世界を描くと洋の東西を問わず何とも面映い気分になってヤマトタケルの三船敏郎を見ることになるわけで)動機の単純さが役者の血肉の(彼が動けば動くほど私たちに募ってくるその)感触にだんだんと釣り合わなくなっていくのだと思います。そんな探偵小説を口火に演劇そして漫画を見ていこうというのが今回のお話です。

 

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野村芳太郎 悪霊島

 

 

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