サロマ・アゲイン  そしてロングトライアスロンへの挑戦 -10ページ目

「認知症の人の心の中はどうなっているのか?」佐藤眞一著

 日本の高齢社会は寿命の長期化とともに世界的に急速に進んでいるようです。高齢者が増えることで認知症の人も増えていて、誰もがなりうることが考えられます。

 

 そんな思いと、実際、認知症になるとどうなるのか、何を考えているのかに対して一定の回答をもらえるかもと読んでみました。

 

 へ~と思った点を列記してみます。

 

・認知症になると物事を記憶するチカラが衰え、自分がさっき同じことを尋ねたという事実も覚えていません。大事なことだから気になって不安になり、また、尋ねる。この繰り返しです。→このような場合は、何度でも繰り返し問いに答えて安心してもらうのが基本です。

 

・それでも繰り返す場合は、繰り返しに終止符をうつためによくとられる方法は、その人の好きな物事(花、甘いもの、歌など)で気をそらす方法があります。

 

・認知症の人が、自分をだれなのかわからない場合はどうすればいいでしょうか?→警戒心を解いて信頼してもらうために、まずは笑顔でせっすることが大切です。さらに、自分が何者で、何のためにここにいるのかを繰り返し説明する。思い出話をしてみると徐々に誰だかわかるようになるかもしれません。

 

・どのような話をしても関心を示さない場合は、一度に話すことを1つにする、平易な言葉に言い換えるということで解決できる場合があります。

 

・今がいつかわかってない場合は、それを尋ねないこと、今がいつか分からなくても支障のない話をすることが大切です。

 

・認知症の人の言動に対して、こちらが怒ったり悲しんだりしてもあまり伝わらず、「もううんざりだ」という嫌悪感や驚いたり、喜んだりするのはほぼわかるようです。

 

・高齢者や認知症の人は、他者との関係において第一印象が大きな意味を持つということ。いったん思いこんだことは、容易に変わらないということです。したがって、こちらを信頼してもらうには、演技をするというのは聞こえが悪いのですが、笑顔で接していい印象を与えることが大事です。「この人はいい人だ」「信頼できる人だ」と思えば、認知症の人の気持ちも安定し、会話も増えます。

 

・認知症になると直面する苦悩は、これから自分はどうなっていくのだろうという「予期不安」に苦しみます。自分が壊れてしまうのではないか、おかしなことをするのではないか、家族に迷惑をかけるのではないか。そんふうに予期して不安に駆られ、苦悩するのです。

 

・自分を自分でコントロールできないこと。その原因が自分の内部にあること。他者に依存せざるを得ないこと。それらすべてが、誇りを持って自律的に生きてきた自分の身に起こるのです。

 

・こう見られたいという「自己呈示」がコントロールできなくなり、相手や状況に応じて自分を変えることができなくなっていきます。認知症の人はどこで介護されたいかを聞くと、他の病気は「自宅で」と答えるが、認知症だけは「施設で」という答えが最も多い。要介護では排せつや入浴の際に、裸の肉体をさらさなければなりませんが、認知症になると「裸の心」まで晒さざるを得ない。それが辛いのです。

 

・認知症になると複雑な遂行能力が必要な料理や車の運転が難しくなります。料理が作れなくなってしまって、家族には「料理が下手になっちゃった」と言い訳をしたりします。また、車を運転できなくなるということは、自由を失うことであり、幸せの象徴を失うことでもあります。そのことが辛いのです。

 

・同じものを何度も買ってしまうということがあります。「どうして同じものを買うの!」などと叱責せずに、これまで通り冷蔵庫をチェックして、古いものは捨てておけばいいでしょう。

 

・お金のことを気にする人がいます。なぜお金のことを気にするかというと、お金は「これがあれば何でもできる」という自由の象徴です。言い換えれば、自己決定の象徴、自律性の象徴なのです。認知症になってお金のことを頻繁に言うようになると、「お金に執着するようになった」と思われますが、そうではありません。それはお金がとても大切なものであり、「お金は大切」だと誰もが思っていることをストレートに口に出してしまうだけなのです。

 

・歯磨きをしているときに口を漱いで水を吐き出すことができない人もいます。汚れた水を飲みこんでしますのです。人にとっては、何かを飲み込んだりするよりも、吐き出したりすることの方が難しいのです。

 

・認知症の人には昨日と今日、今日と明日がつながらないと未来への展望が持てません。認知症の人は未来展望が持てません。未来展望のない状態にずっといます。昨日がどうだったのか、明日どうなるのかわからない。自分がどこに向かって進んでいるのかわからず、未来が思い描けないのです。未来展望のない「寄る辺なさ」に気づき、不安の気持ちに寄り添うことが大切です。

 

・認知症が進むと本人の希望は、「家に帰りたい」という人が多いのです。「家に帰りたい」とは「ここにいたくない」という意味です。でもだからと言って世話のできない自宅にはなかなか戻せない。それなら「ここにいたい」というようにすればいいわけです。施設に入ると自由を奪われたと感じてしまうのです。「コミュニケーション」がそのカギを握っていると考えます。介助のための声掛けをするだけではなくて、日常会話をすると、その中に「家に帰りたい」以外の「こうしたい」が出てくるのではないでしょうか?

 

・夕方になると「家に帰ります」と言って出て行こうとします。刺激のすくない時間帯だから「家に帰ろう」と思いつくようです。よく話しかけてくれる介護職員がいる日には徘徊しないという事例もあります。

 

・認知症の人は、自分を客観的に見ることが難しくなっています。プライドと戦う姿が、周囲からは虚勢を張っているように、あるいは惨めに見えることに気づかないのです。したがって、プライドと戦う姿を隠しません。それどころか、自分のプライドを守るために、他者を貶めたり攻撃したりしてしまうのです。

 

・認知症の人は、しばしば「物とられ妄想」が起こります。自分が終始探し物をしていることや、物忘れが多いことなどは覚えていません。いつもの場所に財布がない。どこか違うところにしまった記憶もない。とすれば誰かが盗んだのだろう。きっと、いつも近くにいて財布の置き場所を知っている人、介護者が盗んだに違いない、といわけです。→認知症の人が妄想状態のときは、興奮しているため、言い返すと余計興奮して状態が悪化します。それを避けるためには、相手の訴えに耳を傾け、共感的な態度できくことが大事です。泥棒呼ばわりされても否定せず、「一緒に探しましょう」と言って、一緒に探します。するとだんだん落ち着いていきます。

 

・介護される人は、介護者に感謝する一方で、負債感が募り、介護されることが徐々に苦しみに変っていきます。この負債感を解消するには、介護者が介護される人に、ときには「ありがとう」という場面を設けることが大事です。洗濯物を畳むのを手伝ってもらうとか。そのようなこともできない場合は、「ご飯をたべてくれてありがとう」「起きてくれてありがとう」でも構いません。

 

・入浴やおむつ交換で抵抗される場合があります。自分をお風呂に入れようとしている人が誰なのかわからない。そのような状態で、服を脱がされそうになったら激しく抵抗するのが当然です。この場合は、不安や恐怖を取り除き、いかに安心させるかがポイントです。「お風呂に入ろうね」と言って脱衣所に来た後も、すぐ入浴の準備をするのではなく、話したりして認知症の人が落ち着くまで待ちます。認知症の人の身になって、何度も繰り返し同じことを告げたり、時間をかけて落ち着くのを待ったりすることが大事です。困っているのは介護される人であり、問題は介護者にあるのです。

 

・認知症なのだから、介護が必要なのだからと、一から十まで指示したり、何もやらせなくなったりすることがあるのです。あるいは、記憶を取り戻させようとして、しつこく以前のことを尋ねたり、計算ドリルをさせたりする人もいます。このような接し方は、本人が自信がなくしてうつ状態になったり、怒りをため込んだりするだけで逆効果です。そんなときは「認知症カフェ」が役立ちます。いろんな人に会って、会話をすることが大切です。目的などなくても構いません。行って、ただ話をするだけで、ずいぶん気持ちが楽になります。

 

・介護者が全部やってしまうと、どんどんできないことが増えていきます。手間はかかりますが、手続き的記憶(歩き方やハサミの使い方などの体で覚えた記憶)を上手に利用することができれば、認知症の人の生活が楽になりますし、残った能力を最大限に生かすことにもなるのです。

 

・認知症になると自分だけで楽しい気持ちになることはできません。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいという状態にします。これを心理学では情動伝染と呼び、これを利用すれば、認知症の人を笑わせて楽しい気持ちにすることができるはずです。認知症の人が笑顔になれば、介護する人も嬉しくなります。そして今度は、心の内側から楽しくなって、笑顔がこぼれます。笑顔が好循環を生み、みんなが楽しい気持ちになれるのです。

 

第32回秋田トライアスロン象潟大会の結果

 長い言い訳になりそうなので、結果から申し上げると、秋田県にかほ市象潟には行きましたが、レース参加は断念しました。

 

 前述したように腰の痛みは完全に回復しているわけではないが、整体とはりきゅうでほぼ80%程度まで回復したと実感しており、当日は旭川のレースのときのようにキネシオテープで腰を養生すればなんとかなるだろうと7月19日金曜日に釧路から一路フェリーふ頭のある苫小牧へ向かいました。

 

 苫小牧植苗にあるラーメン大王総本店でカレーラーメンを食べようと雨の中車を走らせました。

 

 走らせる都度に腰の具合が徐々に悪化し、ラーメン大王到着時には車の乗り降りにも3分程度かかるという悪化ぶりになっていました。

 

 苫小牧市内で市立科学館のミールというソビエトの宇宙ステーションの予備機の本物があることを北海道新聞でみていたので、ちょうど時間もあるので、行ってみました。岩倉建設が購入したものだそうです。本物はやはり迫力がありました。

 

 そんなこんなで時間が過ぎていき、市内からフェリーターミナルがある苫小牧東部に移動し、午後7時半出港・翌日の7時35分秋田港着の新日本海フェリーに乗り込みました。船旅は極めて快適。お風呂も大きいし(腰には悪いので湯舟に入れなかったのは残念でした。)、揺れも少なく。ただ、ぎっくり腰が完全に悪化し、寝返りすると激痛が走るので、気持ちよく寝れず、9時頃就寝しましたが、夜の12時頃まで寝付けませんでした。

 

 翌朝、秋田に到着後、とてもいい天気で暑く、夏の秋田に上陸です。港がある土崎地区では1年で一番盛り上がる祭りが早朝にも関わらず、既に開催されており、祭囃子が遠くから聞こえてきていました。

 

 受付は昼からなので、しばし秋田観光ということでお城を散歩してました。ゆっくりと。しばらくすると、イヌを散歩させている方がいたので、声をかけ、ぎっくり腰だけども明日のトライアスロンのレースに参加するために来たんですが、参加できるかどうか、と話したら、その方が「私はバレーボールをやって腰を悪くしたときに先生に注射をしてもらい、その瞬間から痛みはなくなりました。」とのこと。えっ、どこですか?という話から、土曜日もやっている、その病院に行って、注射をしてもらいました。レースの受付に間に合うようにお願いしたら、100人くらい待っているような病院でしたが、何とか時間内に診察してもらいました。

 

 改善するかに感じたぎっくり腰でしたが、やはり注射をしても運転を秋田市からにかほ市に秋田自動車道を30分走らせることで、またしても悪化してしまいました。

 

 もう、ここまで来たら断念せざるをえないという気持ちに傾きました。受付をして、お米をもらい、1時からのバイクコースの案内をバスにのって1時間半かけて丁寧に説明してもらいました。途中、九十九島や合歓(ねむ)の木の案内もしてもらい観光を体験させてもらいました。九十九島は昔たくさんの島があって松島のような状態だったそうですが、地面が隆起し、象潟地区いったいに小島のような山がいっぱいあるすばらしい景観でした。

 

 バスの案内の後は、レース参加者は必ず参加しなければならない競技説明会です。が、4時半まで1時間半ほどあるので、今回の目的である「きれいな海で泳ぎたい。」をせめて少しでも体験しようと海辺に行きました。

 

 そこには、多くの海水浴客とともに1人の選手が既に練習していました。それじゃ、私もということで、すぐにウエットスーツに着替えて、暑い夏のきれいな遠浅の砂浜に足を踏み込みました。

 

 本当にきれいです。海の底が見れます。気温が高いおかげで海水も温かいです。すでにレースのロープも張っていたので、それにそって泳いでみました。1人だったので、沖までは行かないで海岸に平行して泳ぎました。気持ちよく泳げました。

 

 しかし、そろそろ上がろうとしたところ、ぎっくり腰でうまく立ち上がれず、危うく30㎝くらいの浅い砂浜で溺れそうになりました。ここで、レース参加を完全に断念しました。

 

 その後の競技説明会には一応出席し、その後、宿泊地の由利本荘ルートインホテルに向かい、翌日には、レース開催地に向かわないで、朝6時に青森港に向かい、10時前に青森港に到着し、11時半ころの青函フェリーに乗って、函館港に到着し、一路札幌の実家へ。

 

 翌日には釧路の自宅に到着し、私の今年のトライアスロンレースは何にもしないで終了してしまいました。

 

 まずは、このガラスの腰の強靭化を図らなければ、これぞというときにレースに出られないということになってしまうことが判明しました。まめに整体でひどくなる前に体の状況を回復してもらおうと思います。

 

 でも、まず痩せないとだめです。

 

 レースで頑張れるからだ作りをすることが今後の課題だと改めて認識させられた秋田大会でした。

 

 来年は北海道トライアスロンに出ようと思っていましたが、ゆっくり来シーズンまで検討してみます。

 

息子の結婚式

話はちょっと前になる。

 

 平成29年11月の出来事。アクアトピアの私のロッカーで携帯を見てみると電話の着信があった。息子からだった。あまり連絡を寄こさない息子からの電話。すぐに折り返し電話をしたら、まじめな話があるとのこと。その時は更衣室だったので、帰宅してから私から電話をする旨を話してとりあえず電話を切った。

 

帰宅までの間、いい内容なのか、悪い内容なのか気が気でなくて、ちょっとさわりだけでも聞いておけばよかったと後悔した。

 

帰宅後、すぐに息子に電話をしたら、彼女を釧路に連れてくるとのこと。同棲しようと思っているとのこと。だった。彼女を連れてくるのはうれしいが、どうも同棲するというのはしっくり喜べないと女房と話していた。彼女の親の想いもあるだろうし。

 

相手は大学時代のオーケストラの部の同級生とのこと。

 

そんなこんながあって、結局両方の親の意向を踏まえ、同棲ではなくて、まずはちゃんと入籍するように話し、本人たちも了解したもよう。

 

あけて平成30年5月の連休に札幌在住の彼女の親に初めて会った。子供たちの意向、お互いの家のこと、今後のことを食事をしながら話した。

 

5月20日に入籍。結構な速さである。

 

そして令和元年5月11日に札幌で結婚式を挙げた。

 

よかった。現在は2人とも旭川に住んでいるので、札幌での挙式はいろいろ大変だったろうが、親もあんまり口出ししたらまずいかとも思って、傍観していたが、ホテルともよくよく相談して、すばらしい結婚式になった。やはり慶事はいい。

 

60人くらいの規模で、近しい親戚、多くは室蘭の大学時代の同級生。若い人たちがいっぱいで、でも、もう社会にみんな出ているので、それなりにきちっとしていて、全国からやってきて感謝で涙がでるほどだった。

 

最後に両家代表でのあいさつまでビールは飲めないということはあったが、今から思い起こしてもいい結婚式だった。

 

はじめて家族の分類を作成して、あんまり会話が弾まない息子について書いてみた。息子とはそういうものだろうか。むしろ酒が飲めない息子よりも、少しは酒をたしなむ新たな娘の方が盛り上がるというのも新郎の父親の傾向なんだろうか。

 

 

 

まだ痛い腰

ぎっくり腰。

まだ痛い。椅子から立ち上がるときが一苦労である。

 

5月にぎっくりになったときに町内会の会長に紹介された文苑はりきゅう接骨院に行っている。

 

前回は、旭川市で開催されたカムイの杜トレイルランニングの開催日の8日前にぎっくり腰になった。

 

その日にまず門木さんの整体でもんでもらい。6日前から4回連続文苑はりきゅう接骨院に行った。

 

その後、仕上げに旭川に行く前日に門木さんのところでもんでもらった。

 

当日はキネシオテープで腰を縦2本、横3本貼って、完全に固定したため、腰による痛みは全くなかった。

 

けど、ふくらはぎが痙攣し、両足膝内側の痛みで結局14キロ地点でリタイヤ。30℃を超える暑さのせいかもしれなかった。

 

でも、腰は何ともなかった。

 

ということで、今回は、ぎっくりになったのがレースの7日前の日曜日14日。翌日月曜日15日海の日に門木さんにお願いし、火曜日の昨日に文苑はりきゅう接骨院に行った。今後、今日から金曜日までの3日間にも行って、計4日間で何とか治してもらうように先生にお願いした。

 

今回もキネシオテープで何とかスタートを切れればと思っている。

 

ちなみに、今日から苫小牧東港発・秋田港着のフェリーは今日キャンセルしても30%解約金がかかってしまう。ということで、レースに行く前提で臨もうと思っている。

 

しかし、職場では、私の歩く様は「老人」と評されている。はたまた、旧社会党の牛歩戦術のような状況。何とか金曜日までに椅子から普通に立ち上がれるようになりたいものである。

あ~、またぎっくり腰

秋田トライアスロンも今度の日曜日になった。

のに、この3連休で家の中の断捨離をしていたら、子供の参考書やらをまとめて外の物置に運んでいた。このときはまだぎっくり腰になったような気がしなかった。

 

が、その後、日曜日にアクアトピアでクロール千メートルちょい。ターンのときにちょっとグキっと行った。

 

さらにお風呂に入ったあとに腰痛が悪化し、まさにぎっくり腰状態。これが日曜日のできごと。

 

すぐに翌日海の日の祝日に門木さんに無理言って、整体してもらった。だいぶん改善したが、まだ、ぎっくり状態。

 

今度の金曜日に車で移動開始の予定。大丈夫か、この腰!!

第32回秋田トライアスロン芭蕉レース象潟大会の参加

トライアスロンのレースはマラソンのようにあっちこっちで開催してなくて、特に北海道では今や苫小牧の1か所のみである。

 

私は平成20年に帯広アクアスロンのミドル(スイム800メートル→ラン6.5キロ)にはじめて参加し、なんとか完走。平成21年から足底筋膜炎で2年間レースにはほぼ参加せず、平成24年に今度は帯広アクアスロンのロング(スイム1500メートル→ラン13キロ)で完走し、その勢いをかって、同年8月に第6回大雪山忠別湖トライアスロンINひがしかわで初完走した。はじめてトライアスロンに参加したときのスイムのこわさは今も忘れない。

 

翌平成25年は帯広アクアスロンを5月に、9月には小樽アクアスロンで初完走した。はじめて海で泳いで本当に海の水はしょっぱいと強く感じたことを覚えている。

 

その翌平成26年には帯広アクアスロン。平成26年はその後、ぎっくり腰になり、車を追突され、その後のレースはまったく参加しなかった。

 

平成27年は仕事で全レースを不参加。

 

平成28年はなんか気が乗らなくてトライアスロンレースは全くでなかった。

 

平成29年にもう一度忠別に行こうと思ったが、忠別は前年で中止となり、急遽苫小牧のハスカップトライアスロンレースに申し込んだ。同様の参加者が多く、いつにない速さで参加者が満杯になったようだ。このときにアクアトピアで知り合いになったオオノさんと参加した。試泳をしたときに海の水が伸ばした手の先が見えないほど濁っていたことと、砂浜ではないため、スタートから足がつかないことにちょっとしたパニックになり、今日はレースにでないで帰ろうと思ったくらいだった。が、この話をオオノさんに言うと、自分も前回は汚い水に顔をつけたくなくて背泳でいったんだとのこと。「カナダさん、なんでもいいから、遅くても大丈夫。ゴールすれば何とかなるから。」と励まされ、見えない海の中を泳ぎ切り、あとはバイクとランなので、地面についている状況では、スイムのときの恐怖感はなくなるので、なんとかゴールできた。これが2回目のトライアスロン大会である。

 

オオノさんからは、その後もレースへの参加を誘われ、沖縄の伊是名島のミドルのレースが人気が高いとのこと。なぜかというと島民の歓迎もすごいが、ウミガメと泳げるような美しい海が最高の魅力とのこと。苫小牧のレースで海の濁りにへきえきしたので、私もその気になり、イゼナの申込をした。結果からいうと台風で中止になり、飛行機の手配等をしていたが、瞬間にきれいな海でのスイムの夢は霧消した。

 

その同じ年に、もう一つオリンピックディスタンスのレース(スイム1.5キロ→バイク40キロ→ラン10キロの計51.5キロ)に出たいと思い、少しでもきれいな海を探して、行きやすいレースを探して、青森県の鰺ヶ沢トライアスロンにいくこととした。

 

鰺ヶ沢には津軽海峡フェリーを使って車で往復した。今、津軽海峡フェリーは片道14,800円(実は車に乗る人数が何人でもこの値段。というリーズナブルさ。でも私は1人だけど)とそれなりに安い。車の移動も比較的楽、しかも私の大学は弘前大学。大学時代の部の連中と旧交を温められるというお楽しみ付きである。青森県庁にいる後輩に電話をして、当日来れそうな連中に連絡をとってもらった。既に校長先生になっているのが3人ほどもいて時間の流れを感じた1日だった。

 

そうそう、鰺ヶ沢のレースはよかった。海は砂浜と並行に1回も岸に上がらずに1500メートル泳ぐが、事前に目印を探しておかないと無駄なコース取りで泳いでしまう。気を付けてほしい。

 

次のバイクはひたすら山登りをして下ってくるというもの。ランも同様。私はバイクの上りで頑張りすぎたせいかラン開始早々、先日のカムイの杜のように両膝の内側が痛くて一歩も歩けなくなった。幸い、既に帰ってきた選手から氷をもらって冷やしたら少しずつ走れるようになり、関門2分前にゴールできた。当日の最高気温は30℃を軽く超えており、終わったあとのメロンとスイカが本当においしかった。いいコメントではないが、アットホームな本当にいいレースだった。

 

そういわけで、今年も海のきれいな行きやすいレースに行きたいと思ってルミナのレースガイドを見ていたら、やはり東北のフェリーを使って車でいけるレースを見ていた。そうしたら渚百選に選ばれているという秋田県にかほ市象潟のレースが目に入った。松尾芭蕉が来た景勝地である。鳥海山も見えるらしい。なんといっても東北は私の第二のふるさと。行っただけで包まれるような温かさがある。

 

きっと海がきれいだろうと期待している。ネットでドローン撮影をしたスイムの様子も見てみると、遠浅の砂浜からまっすぐ海に泳いでいくというちょっと怖そうなコースどり。でも、それ以上にきれいな海で泳げるというわくわく感が先行している。

秋田トライアスロン芭蕉レース象潟大会はここをクリック→http://www.nikaho-kanko.jp/triathlon/

 

レースは来週の日曜日の7月21日。忘れ物をしないように今週末も準備に専念しなくては、と思っている。5月中旬にぎっくり腰もようやく治りつつある。でも大事をとりながら慎重にレースに臨みたいと思っている。

 

ちなみに行きは苫小牧東港から秋田港までフェリーで約12時間。ゆっくり船旅を楽しむつもり。到着後、秋田市内観光をして、その後、会場となるにかほ市象潟に入り、受付、下見、歓迎パーティーに参加し、その日は由利本荘のルートインに宿泊し、翌日の日曜日は早朝に移動し、9時スイムスタートし、レース終了後ににかほ市から青森港に直行し、約4時間ほどで青森港に到着し、午後8時半に青函フェリーに乗って、夜の12時過ぎに函館港に到着。その後もひた走り有珠サービスエリアまで車で行き、そこで仮眠してから翌日の月曜日に釧路にかえるというスケジュール。弾丸ツアーである。

 

そもそも今の車(スバル・アウトバック)を購入したのは、アイサイトで楽に長距離が走れるように購入した。女房とフェリーに乗って各地を観光するための準備という意味合いもここ数年のフェリーでのレース参戦に意味がある。

 

まあ、女房との観光旅行はもう少し先になるだろうけど。

令和元年サロマ100キロウルトラマラソン完走記(5)

これで最後にします。

 

ちょっとしたことだけど気が付いたこと。

 

既にランナーの常識となりつつあるコーラの効用。いきなり血糖値があがり元気になるドラッグのような飲みもの。公式エイドには昨年の北海道マラソンの後半に大コーラエイドがあり、感激した思い出があります。

 

さすがにサロマには公式のコーラエイドはありませんが、要所要所でプライベートエイドにコーラを用意していただいています。というかボランティア、無償の行為です。

 

コーラを提供しているプライベートエイドにはランナーが群がっていきます。

 

「すみません。いただけますか?」「私もいいですか?」「私もいいですか?」・・・

という感じです。

 

私の所属する釧路マラソンクラブでもコーラを用意していただきました。会員には手取り足取りいただけますが、そのほかのランナーにも提供していたそうです。コーラの大きいペットボトルで20本くらいだったそうです。感謝で涙が出そうになりました。

 

このように命の水と化しているコーラが完走の要因になっていることは間違いありません。

 

途中、どこかの集落では自販機があり、そこでコーラを買って飲んでいるランナーもいました。そのときはお金を少し持ってくればよかった~と思いながら走り抜けました。

 

そういえば、80キロまではけっこう淡々と走れたんですが、魔女の森ではなぜか急激に睡魔に襲われ、蛇行しながら走っていた記憶があります。たけちゃんのブログを見ると睡魔がくることがあるとのこと。私はサロマで睡魔がきたのははじめてだったので、この先、走り切れるか心配になった記憶があります。まあ、出口の魔女のコスチュームの女性陣に目がなぜか覚めましたが・・・。

 

今回の勝因を備忘録として書いておきます。

①鬼さんの示唆から行けるところまで行く走り方に方針を変更してキロ6分半前後で走り続けることができたこと(当初はフルまでキロ7分、その後は少しづつ遅くする方針だった。)。

②天気が申し分なくよかったこと。雨も晴れて、風もそんなでもなく、がっちり暑いわけでもなく、寒くもなかった。

③消炎スプレーを2缶用意し、足に吹き続けて、走れない痛みにならなかったこと。

④釧路マラソンクラブの声援が自分を叱咤激励してくれたこと。

⑤ぎっくり腰の余韻がある腰に縦2本、横3本のキネシオテープでがっしり守ったこと。

⑥上記のとおり私的エイドのコーラに助けられたこと。

⑦両足のふくらはぎにもキネシオテープを貼ったこと(5月のカムイの杜でこむらがえりになって、結果リタイヤしたことがあった。)。

⑧たいがぁさんに紹介してもらったこむらがえりになったときのマグネフォースという飲み物をこむらがえりになりそうなときに事前に飲んでこむらがえりにならずに済んだこと。

⑨いつものロキソニンと胃薬は中間地点でアリナミンみたいな栄養ドリンクと一緒に飲んだこと。

⑩「がんばってくださ~い」と声をかけてくれたエイドの高校生のみなさん、沿道のみなさん、交通整理のみなさん、私的エイドのみなさんの応援がいっぱいあったこと。

 

今回は5年ぶりのサロマであり、5月中旬のぎっくり腰が完全に治らないという状況だったので、内心、完走できるかどうかは本当に自信がありませんでした。しかし、上記の勝因が混じりあって、今回の私の完走に結び付いたと思っています。

 

みなさんに感謝するレースでした。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

令和元年サロマ100キロウルトラマラソン完走記(4)

100キロの道のり。記憶が断片的になるので、順不同で書いてみます。

 

今回はハセミツの消炎スプレーを持参して走りました。ウエストバックには、このスプレーとロキソニン、胃薬、、ティッシュ、ウインドブレーカーを入れて走り続けました。このうち、使ったのはスプレーとロキソニンと胃薬。スプレーは足の関節部、筋肉部とあたりかまわずかけました。中間地点にも置いておき、入れ替えて100キロ2缶使いました。これが非常によかったと思っています。

 

エイドでは、水、ポカリ、麦茶が提供され、毎回これらを飲みました。あとおいしかったのはオレンジ。ガバガバ食べました。それにスイカは塩をかけてくれて提供されるので、塩分補給には積極的にいただきました。斉藤商店では、ブルーベリーの凍ったものを手づかみで3回分いただきました。気持ち目がよくなったきがしました。その後、屋根の上で応援してくれる大漁旗の二人。大いに元気をいただきました。

 

いままで食べられなかった鶴雅のホテルエイドでの善哉をはじめていただきました。その直前に釧路マラソンクラブのナナランさんから羊羹をいただきましたので、ダブルで糖分補給になり、さらに80キロまでのエネルギーをいただきました。どういえば、善哉のところで吐いている人がいました。それぞれに厳しいレースをしているんだと感じました。

 

この鬼さんやしんちゃんが言っていた行けるところまで行く方式に私もいつしか変更し、とりあえず70キロまで頑張ろうと思っていたら、なんとかクリア。その後は80キロ関門を目標にしていたら、前に鬼さんが走っていたのにはびっくりしました。私が鬼さんに無駄口をたたいて、前進。あと20キロは歩いても完走できるとおもっていたが、ワッカに入ってから大失速。折り返してくる仲間たちからエールをもらって頑張りました。90キロ手前のエイドでたけちゃんと会ってこの分で頑張れば完走できるよと言われ、万里の長城のような橋を渡ります。景色は最高ですが、時間に追われ、気持ちが急いてしまい余裕がなくなっていました。

 

この折り返しまでは向かい風。体が冷える感じでしたが、折り返した途端追い風に当然なって、走っていると暑いくらいです。

 

91キロの関門をクリアし、あと9キロと完走が完全に見えてきましたが、どうにも歩いたら完走できない症候群になって、下りになると足がいたくて遅くなり、平地は平地でまったく走れないような状態でした。

 

80キロまでの余裕の走りとは変わり、余裕のないような気持ちにとらわれ、ひたすらここで歩けば完走できないと思い続けました。

 

が、結果12時間48分のゴールは12分前で余裕がありそうで、まったく心の余裕はありませんでした。やはり30分の余裕は持たないと景色を楽しむ余裕もなくなるんだなあと感じました。

 

ゴールには釧路マラソンクラブのみんなが、そしてまっちゃんがあかちゃんを抱えて待っていてくれました。仲間に支えられて走ったサロマ100キロ。楽しいのと、苦しいのとがまじりあった1日でした。

 

まだ続きます。

令和元年サロマ100キロウルトラマラソン完走記(3)

サロマウルトラマラソンの公式サイトから記録を転記しました。

 

タイムリスト

計測ポイント スプリット ラップ
Start 00:01:05  
10km 01:05:36 1:04:31
20km 02:11:48 1:06:12
30km 03:23:57 1:12:09
40km 04:37:34 1:13:37
42.195km 04:52:48 0:15:14
50km 05:52:45 0:59:57
60km 07:17:13 1:24:28
70km 08:43:40 1:26:27
80km 09:59:12 1:15:32
90km 11:23:42 1:24:30
Finish 12:48:37 1:24:55

 

どんな走りをするかは以前に自作した制限時間表を見ながら、以前とは今回の関門場所が若干異なるので、作り直した。

 

ペースは降るまではキロ7分半で行こう。その後は80キロまでは8分、90キロからは9分、ゴールまでは10分で行けばギリギリではあるが完走できると予定していた。

 

ところが、調子が良かったわけではなかったのに、キロ7分でほぼ走れた。これが80キロまで行けたのが今回の完走の勝因だと思っている。なぜ、こんなペースで走れたのかは不明。73キロ当たりの釧路マラソンクラブの応援のときには、過去の記憶では、死ぬほどつらくなっているというものだったが、全くと言っていいほど調子が良かった。不思議である。

 

さて、そんなペースで走る。でも苦しくなかったというわけでもない。いままでのサロマはだれか彼かと話しながら走った。これがクラブの練習会と同様に疲れを感じないで距離を踏むことができる要因になっていた。が、今回は、全く話す機会がなかった。こちらから話しかけるというような状態にもならなかった。今回のレースで今までと違った点がいくつかあったが、この走っている間にだれとも話さなかったというのが一番の違った点である。サロマは話しながら13時間制限時間いっぱい使って、色々な方と、または特定の方と十分話すというのが、いままでの私のサロマの印象だった。これが今回はなかった。そのためでタイムがよかったのかもしれない。でも非常にさみしいと感じた。

 

まあ、目標は完走。淡々と走った。

次回につづく。

令和元年サロマ100キロウルトラマラソン完走記(2)

さて、第2回目。今回の体調は腰に不安があり、5月末の旭川のカムイの杜トレイルランニングのときに、キネシオを腰に縦2本、横3本を貼り付けて、ほぼ腰はキネシオテープで覆った感じ。釧路マラソンクラブのサロマ練のときも同様にし、いずれも腰が痛くて走れなくなるということはなかったので、サロマ当日も鬼さんと準備しているときに腰にキネシオを付けて臨むこととした。

 

会場の体育館につくと、多くの選手がいる。この人たち全員が100キロ走るんだと思うと驚きである。館内には壁で仕切った場所があり、サロンマンブルー、グランドブルーの皆さんは特別扱いをされていた。我々一般走者は中間地点、ゴール地点に置く荷物は外のトラックまでもっていかないとならないが、サロマンブルーの皆さんは館内に置いておくだけど、係の人が持って行ってくれるという厚遇さである。

 

鬼さんはすっかりサロマンブルーである。そう、このときには鬼さんは、みんなから青鬼さんと呼ばれており、さらには、スタート地点も我々一般走者の前に後から御大尽のごとく悠々と現れることが許されているという階級社会がここにも存在しているのであります。なんとも腑に落ちない気がするが、この階級社会は世襲ではなく、実力で勝ち取ったものであることに若干に許せる気持ちになります。若干ですが。

 

ということでお大尽さながら悠々として青鬼さんたちに合わせて行動するとスタートの位置を確保できないということで、なおきさん、いわみさんと先に荷物を持ってスタート地点に向かいました。

 

荷物をトラックのお兄さんに渡して、近くにあったブースではアミノバイタルのいい製品をもらえたので、そこでエネルギーを充填し、スタート地点へ。そのあたりでクロサキさんに会い、ゴールで会おうと誓い合いました。

 

スタート地点に向かうと、途中でしなそばさん、まーちゃんのご夫婦に久しぶりに再会できました。相変わらず最強の夫婦です。100キロ一緒に走る夫婦なんてそういません。まあ、しなさんは余裕で100キロを走るのでしょう。折り返してもう100キロも走れるんじゃないでしょうか。強靭です。

 

しなさん夫婦と少しでも前がいいということで、サロマンブルーエリアを過ぎて、それほど後ろにならないような場所で待機しました。ここで使い慣れないガーミン230Jをスタートがすぐできるように設定しました。これが案外慣れてないせいで時間がかかりました。

 

そんなときにトレラン男のアオキさんがやってきて久しぶりの再会。「走ってますね~」と言っておいた。

 

そうこうしているうちにスタート1分前。以前はだれか芸人みたいな人とかがスタート前に頑張って走りましょう的な話をしていたが、何もなく、しばらくして10秒くらい前から、みんなが秒読みを開始し、ゼロという周りの人たちの声とともにスタートの号砲。一斉に隊列がゆっくりではありますが、動きだしました。

 

令和元年サロマ100キロウルトラマラソンの始まりです。

 

ということで次に続きます。