ボランティアは自分勝手で不公平でお節介なのだ | 愚僧日記3

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知外坊真教

ボランティアで!って言うと、日本では無償で!という意味に取られてしまう。でもボランティアとは無償奉仕ではない。ボランティアとは……端的に言うと、自分の意志で行うことを言う。だから、人によって様々な目的があり、その人によって影響を与える人も様々なのは当然だ。

アメリカの兵隊は全員志願兵でボランティア・ソールジャー(Volunteer Soldiers)という。彼らは無償で戦っているのではない。自分の意志で志願して兵隊になったのだ。私は大阪でアメリカ兵と話したことがある。彼は海兵隊に入って学費を稼ぎ、将来は弁護士になりたいと言っていた。

そもそもボランティアは自分勝手なのだ。ボランティアにはいろんな人が、いろんな方向を向いていている。いろんな能力を持っている反面、いろんな欠点もある。だから、ボランティアは不公平な存在だと言える。

阪神淡路大震災はボランティア元年と言われる。そのときのボランティアは、困ってる人に手を差し伸べたいという一心で勝手に集まった。個別の困りごとを抱えている人に対して、自分も同じ困りごとを抱えてるから困り果ててることが痛いほどわかる人達が勝手に手を差し伸べた。

耳の聞こえない人、目の見えない人、足の不自由な人、食物アレルギーを持っている人。こういう人達が避難所に避難した場合、どうしても遠慮がちになり、結局は何も支援が受けられないことになるのだ。

そんな時に、耳の聞こえない人の耳になって何をして欲しいかを伝えてくれる援助者、目の見えない人には目になってくれる援助者、足の不自由な人には足になってくれる援助者、食物アレルギーを持っている人には、代替食品を確保してくれる援助者が現れた。

ひとつひとつは皆にとっては不公平な支援なのだ。だから公平性を絶対に保とうとする自治体などの公的支援では常に後回しされる。その公平性の隙間から漏れている人に勝手に駆けつけて支援したのが阪神淡路大震災の時のボランティアの姿だった。

ボランティア自身も完璧ではない、できることは限られている。限られてるけど、やらずにはいられないという思いが勝手な行動を起こした。しかし、それが充分に制御されていれば、それは公的支援の隙間を埋めていた。

災害支援の食といえば、アルファ米や乾パンと相場が決まっていた当時の日本の公的避難食のなか、コンビニエンスストアの会社が、大量のおにぎりを避難所に届け始めたのも話題になった。

もしこれをお役所がしようとすると、避難者数、避難所の数、必要数を把握し、配送計画など練るなど、事を起こすのに相当な時間が掛かっていただろう。そんなことは、コンビニ業界にとってみれば、日常業務の範囲内だったのだ。

このようにボランティアというのは、自分勝手で不公平なのだ。それこそが、ボランティアの最大の長所でもある。そのことを承知してなかったのが、今回の能登半島地震のボランティアに対する初期対応の誤りの原点だと思う。

そのことを痛感したのが、石川県庁に今年度入庁した職員にボランティア体験をさせたというニュースだった。公平性を旨とする自治体職員が業務命令(個人の意志ではなく)でする活動をボランティアと呼んでしまうこと自体、認識を誤っている証である。

ボランティアは自分勝手で不公平なお節介なのだ。