きりく319号は、真言宗の開祖である弘法大師空海さんについて書きました。空海さんから伝えられた真言密教には、修行の末に潅頂という儀式があります。私は真っ暗の御堂の中で、伝授してくれた中川善教さんという阿闍梨から言葉をかけられました。
空海が命がけで伝えた真言密教に出逢ったのは奇蹟に近い。こうして伝えられたあなたは空海の継承者として覚悟してこの法を受けなさいと。この阿闍梨さんは、生涯肉食妻帯しませんでした。そんな高僧から、私たちは修行中にあたたかな声をかけられました。行者への慈しみは格別でした。
一方で学ぶことへの厳しさも格別でした。声明の大家でもありましたが、直接面前で口伝することにこだわり、録音を一切禁止していました。録音していたことがバレると、その場で退室を言い渡され、以後の受講を禁止しました。この厳しさは、空海さんが最澄さんに面前伝授することにこだわった姿に似ています。
よく空海さんは最澄と喧嘩別れしたと言われますが、それは行者としての姿勢に失望したからであって、同時代に生きた同じ仏教者としては敬意を持っていました。その証拠に、空海さんは亡くなる一年前に比叡山を訪れて法要に出席したことが知られています。
穿った想像をすると、空海さんは最後に最澄さんのもとに行きたかったのではないかと思えます。仏教というと、皆さん厳しい修行とか、厳しい戒律があると見られがちです。しかし、本当に極めた人は、実は慈しみとやさしさに溢れている人ばかりです。
デイビッド・ブレイジャーさんの「フィーリングブッダ」という本にこんな事が書かれていました。「正見」という仏教の基本的な教えについて、
(正見とは)
支えや避難所を見出すことなどまったく当てにしていない、
こういう屈託のない自由さを持つことなのです。
そこから逃げ出そうとはしないで、
しっかりと腰を落ち着けて、
人生をありのままに生きようとする勇気を持つとき、
こころのなかに深いくつろぎを経験します。
重荷を下ろし、何かから自分を守らなければと、
いつもおびえて身構えている防衛的な生き方を、
もうしなくても済むようになるのですと。
そんな生き方をしたいですね。