空海さんを学び直す ① | 愚僧日記3

愚僧日記3

知外坊真教

空海出生地論争


 一年半前くらいから、弘法大師空(くう)海(かい)のことにあらためて興味が湧いてきて、本を読み漁り、勉強し直しています。
 弘法大師空海は、長仙寺が属する真言宗(真言密教)の開祖です。宝亀5年(774)に今の香川県で生まれたとして長く伝えられています。しかし最近の研究で、空海は母方の実家に近い近畿地方のどこかで生まれたのではないかという説も出ています。

 

 いずれにしても、空海の父は今の香川県(讃岐)の豪族である佐伯(さえき)氏だったことは確かです。そして母方の阿刀(あと)氏は近畿地方の豪族でした。空海は15歳で畿内に住む阿刀氏のもとで論語などを学び始め漢籍に親しむようになりました。そして十八歳で大学に進学し、官僚になるべく学びを深めていました。

 

 しかしその一方で、勤操という僧侶から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という修行法を教わり、今の徳島の山奥や、室戸岬の洞窟の中で修行したと伝えられています。
 

空海 空白の七年
 

 この経歴を今風に言い換えると、有能な官僚になるために勉強する一方で、空海は京都の街中で暮らす日々に飽き足らず、奈良の寺を訪れ、仏教の教えを学び歩いたようです。それと共に、奈良の山奥の山岳修行者と出会て、自分の知らない奥深い教えと実践体系に触れるようになっていました。奈良の僧侶たちは、大寺の中での修行とは別に、葛城山や吉野山などで当時伝わり始めた初期の密教経典の修行法を実践し、民間で加持祈祷の現世利益的な活動もしていたようです。
 

 こうした修行者たちに伝えられた最新の仏教は、遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)によって伝えられた仏教です。唐招提寺(とうしようだいじ)を開いた鑑(がん)真(じん)和尚も七五二年に第十二次の遣唐使の帰還船で唐から命がけで来日しました。遣唐使によって伝えられた最新仏教は、奈良時代に奈良の大寺院のなかで育まれ、山林修行者も育てていたのです。
 

 空海は第十八次の遣唐使船に八〇三年に最澄(さいちよう)と共に渡るのですが、七九七年に聾瞽指帰(ろうこしいき)という著作を著した二十四歳から遣唐使船に乗る直前八〇四年に出家得度する三十一歳までの約七年の空白時代があります。この七年間に空海が何をしていたかという論争が今も学界で喧しく議論されています。空海は遣唐使船が難破して地方政府の役人を相手にしたり、唐の都での活躍ぶりから察するに、唐に渡る頃には唐の言葉に精通し、もしかしたら唐以外の国の言葉にも精通していたのかもしれません。

 

 そしてこの空白の七年間に奈良の大寺の僧侶とも学びを深めていたことも想像できます。その交流があったからこそ、空海は遣唐使の一員として同行する機会が得られたのでしょう。そして渡航する直前に東大寺で受戒も受けているのですから、それまでの関係が予想できます。その一方で、山林修行者たちとも交流し、おそらく山暮らしにも慣れていたと思われます。山の歩き方や、植生や地形によって山の豊かさを見分ける眼力も備えていたはずです。そうした自然に対する知見があったからこそ、満濃池(まんのういけ)の修築などの治山治水事業にも貢献できたのでしょう。
 

恵果和尚に出逢うという奇蹟
 

 唐に渡ってからの三年弱の間に、空海は精力的に活動し、ついに恵果(けいか)という密教の正統な継承者に出逢いました。今から約二千年前にインドの土着の信仰と融合発展し、密教が起こります。密教の潮流は、大きく分けて大日経系統と金剛頂経系統の二つがありましたが、中国に伝わって恵果和尚に至って大日経系統と金剛頂経系統の二つの流れが合流したのです。

 

 当時の唐はシルクロード交易の最終地点として、世界中の文化や宗教が伝えられていました。当然ながら多くの人がいたはずです。そんなところで、大日経系統と金剛頂経系統のただひとりの継承者である恵果和尚に出逢うというのは、奇蹟と言っても過言ではないと私は思います。もちろん何年も唐に住んでいれば、人間関係が成熟して出逢うかもしれません。しかし空海は唐の都に至って一年も経たないうちに恵果和尚に出逢い、その教えを余すところなく受け継いだのです。

 

 恵果和尚は、空海に教えを伝えて程なく亡くなりました。この出逢いの奇蹟は、必然だったとも言えます。この奇蹟は空海自身にとって、密教の教えを伝える使命感を強靱にしたに違いありません。そして恵果和尚の遺志でもある、日本に密教を伝え広める大任を果たすべく、二十年という留学期間を三年足らずで切り上げて帰ってきたのです。
 

最澄と決別した理由
 

 空海の持ってきた経典の目録を見た天台宗の開祖最澄(さいちよう)は驚きました。私は京都国立博物館で、最澄が空海の目録を書写したと伝えられる文書全体を見せて貰ったことがあります。最初は最澄らしく丁寧に空海の書に似せて書写していたのですが、やがて興奮してきたのか、次第に最澄らしい書体で書写していました。

 

 後に最澄は空海に目録にある経典類を貸して欲しいと何度も申し込みました。最澄は文字に書いてあることのみを重んじて、口伝は弟子たちに受けさせて、最澄自身は空海に直接教えを受けにはなかなか来ませんでした。師と出逢うということの大切さは、空海が恵果和尚と出逢うことで身を持って体験していました。文字だけでは全ては伝えられないのです。そのことを分かってくれない最澄に、空海は落胆して決別したのです。

 

 最澄という人は実直な人でした。それは空海も分かっていたようです。最澄が亡くなった後も、空海は最澄の弟子たちを応援していた記録が残っています。