最近、聞かなくなりましたね。
12〜13年くらい前は流行語にもなる程、聞こえてきてましたけどね。
言うまでもなく空気が読めない(Kuukiga Yomenai)の略語でKYなわけだけど…
私の身を置いているITかつインフラの世界だと危険予知(Kiken Yochi)もKYと略すことがあるので、
今なら「KYだなぁ」と言われると、「危険予知能力が高いんですね!」と誉められてるように取ることもできるんですよね😂
と言う冗談はさておき…(笑)
このKYについてちょっと考察してみようかなと思います。
自分で言うのも難だけど、私はこの空気を読むと言うことがどちらかと言えば苦手と自覚してる。
人から「空気を読め」と言われたこともあるし、「空気を読むってなんぞや?」と考えて、それが分からずに悩んだこともある。
因みに空気を読むとはどんな意味か、ヤホーで調べてみましたw
Weblio辞書より
だそうです。
因みに私…
この空気を読むって言葉…
大っ嫌いです!!!
自分が空気を読めないから…と言うのも全くないわけでは無いのだけど、そもそもこの言葉がなぜに嫌いかと言うと…
不透明さを感じる
そして
都合よく使える言葉
である側面を持った言葉だと認識しているから。
確かに自身が空気を読めてないなと感じること正直、多々ある。
まずは喜怒哀楽。
直情型な人間な故になんでもどストレートに出る。
笑いたい時やツボに入ると大いに笑う。
笑い過ぎてお腹が痛くなったりら時には涙流しながら笑ってることもある。
感動したり心が震える出来事に直面すればすぐ泣く。
時には子供のように大泣きする。
逆鱗を刺激されるとすぐ怒る。
しかも瞬間湯沸かし器の如く怒るため、噛み締めることが出来ずに怒りが招いたトラブルはいつもややこしい方に行く。
次に言動。
普段は言葉はかなり気をつけてるつもりだけど、スイッチが入ると意外と変わる。
そして無駄に正義感が強かったり、筋の通らないことが嫌いなので、納得が行かないと抑えきれずに一言物申してしまう。
俗に言う一言居士ってヤツ。
それ故に幼稚園の年長の時には喧嘩を止めに入ったのを引き金に酷いイジメを受けた。
そして小学4年生の時だったかな…
通知表のコメント欄に担任の先生(女性)からこんな事を書かれたことがあった。
「自分の思ったことや良くないことに対して言えるのは良いが、時と場合や周りを考慮せずに言ってしまうこともあるのが惜しい」
なので思ったことをその場でストレートに出してしまうようなところがあるのだ。
他にも、自分の楽しい、悲しい、嬉しいという感情に左右されると途端に周りが見えなくなってしまったりとか…?
そういう部分を指して「空気が読めない」だの「空気を読め」と言われていたのだろうと自覚しているし、反省したり自分で向き合うべき点ではあるのかなと思う。
ただ、、、
その反面で「空気を読め」って言葉は言う側の人間の都合で使っていたり、組織を上手くまとめようとする際に一部の異論を持った人間を黙らせるための殺し文句のようにも思えてくる言葉でもあると感じるため大嫌いなのだ。
特に、KYの言葉が流行してた頃ってどこかでこんなイコールが存在しているように感じていた。
空気が読めない=コミュニケーション能力の欠如
だからこそ「空気が読めない」と言われるとコミュニケーション能力が欠如していると言うレッテルを貼られた気がして物凄くショックだった…
時に読めていない点があるのは自覚してるけど、常日頃から空気を読まずに人と接している認識が無かったから。
そうなってくると「自分は空気が読めていない=自分はコミュニケーション能力が欠落している」に置き換える自分が顔を出す。
自分は周りからコミュニケーション能力が欠落してると思われてる。
自分は周りから浮いてると思われてる。
そんな思い込みが顔を出して、「どうしたら周りと同じように見られるか」とか「コミュニケーションもちゃんと出来てると見てもらえるのだろうか」と、そんなところばかりをフォーカスしていく。
すると、自分から動き出すよりも周りを観察して人が動き出してから動くようになったり、どのように動けばいいのか分からなくて落ち着きがなくなって挙動不審になったりすることもある。
正直、20代の頃はそんな思いに駆られながら割と苦しくなることも多々あった。
でも。。。
その反面で納得のいかない事が起きると同時に、ある事に気づいたんだよね。
その気付きについては次回書いていきます。