前回の記事の続きを書いてます。(記事)
「空気が読めないヤツ」とか「空気読め」と言われるとコミュニケーション能力の欠如のレッテルを貼られたものと結び付けて、どのように行動したら良いかを考えるようになった。
考えられるようになる分には問題ないのだけれど、そこまで言われているわけでもないのに、
自分は周りからコミュニケーション能力が欠落してると思われてる。
自分は周りから浮いてると思われてる。
と勝手に自身で思い込むようにもなった。
そんな思い込みが顔を出すと、「どうしたら周りと同じように見られるか」とか「コミュニケーションもちゃんと出来てると見てもらえるのだろうか」と、そんなところばかりをフォーカスしていく。
その結果、自分から動き出すよりも周りを観察して人が動き出してから動くようになったり、どのように動けばいいのか分からなくて落ち着きがなくなって挙動不審になったりすることもあったり。。。
正直、20代の頃はそんな思いに駆られながら割と苦しくなることも多々あった。
その反面で納得のいかない事が起きると同時に、ある事に気づいたんだよね。
それは「空気が読めない」とか「空気を読め」と相手に発言する人間に限って、言われた側の人間のフォローを一切しない事。
一方通行に言ってきてそれで終わり。
どこをどうすれば良いかとか、言う側にとって何が空気を読んでることになるのか提示はしてくれない。
言わなくても分かるだろ?
言わなくても察してくれ…
みたいなコミュニケーションの放棄のように思えてくる。
そして、空気を読むって周りとの調和をとるために、ある意味では自制だと思っていて、どこかで自分を抑える必要も出てくる。
組織や集団で動く時に自分本位にありのままに動いていたら、周りとの調和は取れないし、空気を読むとはかけ離れてると思うから、どこかで自制をする必要が出てくる。
しかもそれを探り探りでね。
「空気読め」と言ってきた側が、そこで何らかのアプローチをしてくれれば安心できるのだろうけど、何もフォローやアプローチをしてきてくれるわけでもない。
なので、空気が読めてるかも分からなければ、気づけばそれが当たり前のようになっている。
少し前に自制と言う書き方をしたけれど、それすらも無視されてるような感覚にもなる。
そして結局、自分はその場に居るだけで、みんなと楽しむことすら許されないのでは?と言う思い込みにも発展する。
いや、楽しみたいなら楽しむために自分から積極的にアプローチをすれば良い。
寧ろ自分から積極的に取りにいかなければ、楽しみは待ってても来ない。
だから遠慮しないで自分からガツガツと取りに行けばいい。
それは分かってる。
でも、それを相手に発信したら不愉快に思うのではないか?
「またコイツは空気読めないこと言ってるよ」なんて言われるのではないか?
↑これはある遊び仲間たちと付き合っていた時に当時、自分の抱えていた事。
でも、この時の自分はもっと大切なことを忘却していることに気づいていなかったのだ。