「危機の構造」を読む その13 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

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第7章 社会科学の解体
前回は、社会科学的な思考法について書いた。
今回は、日本における社会科学の現状と今後のあり方について書こう。

日本の社会科学の現状
日本の社会科学は、激動の社会を分析して、危機の時代において導きの星となれるか?
小室直樹は、この問いに対して、Noと答える。
いや、Neverか。
続けて、日本の社会科学は、日本の破局を救済するどころではなく、
その存在理由すら危うい、と言う。
その理由を、経済学と政治学を例に挙げて、小室直樹は論じる。

ここでは、別の例として、社会学をとってみよう。
日本においては、経済学の不振、政治学の消滅と共に、社会学も悲惨な状況にある。
一般の人や自然科学に携わる人間にとっては、社会学が何をやってるのか、
さっぱり分からないだろう。
それだけ日本社会における重要性が低く、認知度が低いということでもある。
だいたい、社会学科が文学部に属している、というのは、もはやジョーク以外のなにものでもない。
陸軍が海軍の艦隊を持って、それを指揮するようなもので、
普通のuniversityを持つ社会では、意味不明、理解不能である。
世界に向けて、そんなに笑いの種を提供しなくてもいいと思うのだが、
日本社会は、いつの間にかジョークが得意になっていたようだ。

これまた、山のように例示することができるのだが、一つにしておこう。
それは、学校でのいじめ問題。
日本の学校でのいじめは、欧米とは異なる現象"も"持っている。
欧米などでは、1対1、あるいは数人で1人をいじめるパターンがよく見られる。
それをやるのは、大抵、力の強い、ガキ大将みたいな奴である。
のび太とジャイアン、スネ夫の関係である。
ところが日本では、数人どころか、男子や女子全員、あるいはクラス全員で、1人をいじめるのは普通。
大人の社会と同じように、教室では「ノリ」や「空気」が支配的になり、
個人の人格や尊厳を破壊する。
止めに入る人は皆無。今の日本には、respectable citizenや立派な人、という概念が無いから。
「フェア?何それ。」と笑われておしまい。
こうした現象は、社会構造に根ざしている。
そのため、治療は社会学者らによって先導されることが望ましい。
そして、「昔、オレの時はこうだった。だから~だ」みたいな意見が力を持つのも抑え込む必要がある。
しかし、そのような試みはほとんど為されず、昨年は素晴らしい法律が作成された。
「いじめ防止対策推進法」という名前を持つものの、実体は「いじめ隠蔽推進法」である。
中世社会日本の本領発揮である。


新しい社会科学のあり方
小室直樹は、そもそも、各個別の社会科学が専門に閉じこもる時代は終わった、と言う。
そして、新しい社会科学は、学際的基礎の上に立つべきである。
それを使って、現代日本の危機を分析するべきである、と指摘する。
ところが、そうしたことは容易ではない。
各社会科学はそれぞれ得意な方法を持っている上、それぞれの方法の進歩の度合いが全く異なる。
これこそが、学際的協力に基づく、社会科学の形成を困難にする。

小室直樹は、こうした現状に対して、次のようなことから始めるべきである、と言う。
それは、科学方法論の真の理解である。
小室直樹の言う科学は、次の3つが必要十分条件である(注)。(小室直樹、"私の学問の方法論"より)
 ①理論と実証の統合である。
 ②理論は、完全理論である。
 ③実証は、実験計画法に基づく。

まず、②について。
完全理論とは、
「はじめにいくつかの公理が要請されており、それによって導かれた他の定理はすべて真である」という理論。
小室直樹は、例として、ユークリッド幾何学やニュートン力学を挙げる。
ユークリッド幾何学なら5つの公理(公準)、ニュートン力学なら4つの公理(法則)から出発し、
他の定理を証明していく。
筆者は、量子力学を例に挙げておこう。
量子力学でも、長らくノイマンによる5つの公理(ヒルベルト空間上での状態と物理量の定義、ボルンの統計公式、シュレーディンガー方程式、合成系公理、測定公理)が採用されてきた。
因みに、最近では、ハイゼンベルクの不確定性原理を修正するために、
小澤正直教授によって、測定公理が修正されている。
こうした公理に関する話は、ヒルベルトによって意識され始め、ゲーデルを経由して、今に至る。
「完全理論」という言葉は、このゲーデルの完全性定理から取ってきたと思われる。
小室直樹は、数学科出身であったから、このようなことも当然頭に入っていたはず。

次に、③について。
実験計画法とは、良質な実験とその解析を行うための方法である。
実験計画法に基づく実験は、まず、ある結果が起こったと考えられる原因を挙げる。
これが、実験を制御する変数になる。
次に、その原因が生じる時点での条件を整備する。
そうした後で、変数を操作しながら、実験を繰り返し行う。
自然科学ではもちろんのこと、社会科学でもこうした方法が採用されている。
心理学や計量経済学などは、その典型的な例である。

原発事故の原因の解明など、よい演習問題になるだろう。
事故の原因として考えられるのは、最単純なものとして、①地震、②津波がある。
事故が起こるまでの原発の配管や電源設備などは、全て良好であったと仮定する。
また、運転員の熟練度や経営陣の判断能力も十分であったと仮定する。
この時、(思考)実験するパターンは、次の3通りである。
 a: 地震によって、原発が爆発した。
 b: 津波によって、原発が爆発した。
 c: 地震と津波の両方によって、原発が爆発した。
この3パターン全てを考えてからでなくては、原発が爆発した原因はさっぱり分からない。
因みに、現在では、木村俊雄氏らの努力によって、徐々にその原因が明らかになりつつある。
地震発生から約1分30秒後に、原子炉圧力容器への配管が破損し、冷却剤が漏洩。
その後、メルトダウン、爆発への一途を辿った。
こうした姿が浮かび上がっている。
ここまでは、工学の立場からの分析である。
この後、社会的な過程に関する仮定も変数に加えて考えるのは、社会科学者の役割である。

最後に、①について。
科学は、理論と実証の統合である。
科学では、理論のみ、実証のみが、「千万人と雖も吾往かん(孟子)」と言って突き進んで行くこともある。
そのため、地に足の着かない理論、煩雑な実験結果の山が生まれることがよくある。
しかし、始めは地に足の着かない理論であっても、後に実証研究が進むにつれ、強力な理論になりうる。
また、理論も実証からのチェックを受けることで、より洗練されていく。
一方、煩雑な実験結果の山から、それらを一挙に説明する強力な理論が生まれることもある。
こうした統合をしていくところに科学の特徴がある。


小室直樹は、まず、このような科学方法論の真の理解に達するべきだ、と言う。
その段階に達すれば、それぞれの社会科学の方法論の長短を補いつつ、社会科学を統合することができる。
そうすることが、日本に迫り来る危機を分析し、有効に制御するために必要なことである。
しかし、そのような試みは、未だ為されておらず、現代日本の危機は救いようのないものとなる。
小室直樹は、そう締めくくる。


終わりに
本書は、37年と少し前に書かれた。
しかし、未だその危機の構造は保持されたままであり、危機は制御されていない。
その危機は、現代日本が、"表面上は"近代国家っぽくなったけれど、
その深層の行動・思考様式の部分は全くそれに適応できていない、というギャップから生まれる。
こうした危機の根源を、小室直樹は見事に摘出していた。
37年経っても、その理論や論理が通用するのが、その証拠である。

筆者は、今回、小室直樹のモデルをそのまま使って書いてみた。
若干の修正や拡張を行っただけで、そのまま通用するのである。
また、本文中で挙げられている事例は、最近のものに入れ替えた。
その際、本文とよく似た事例ではなく、違ったように見える事例も挙げた。
一見すると、異なっているように見えるが、本質的には同型である。

社会科学の本が、これだけ長く生き続けるのは、稀有なことである。
さらに言うと、この本が50年生きるのは、ほぼ確定している。
今後10年で、日本人の行動様式が変わることはない。
もし、あるとすれば奇蹟しかないのだが、通常起こらないから奇蹟と言うのである。
そして、日本という国が40年後も存在すると仮定すると、恐らく75年も生きることだろう。
一世代まるまる交代すれば、行動様式も変わりうるのであるが、
そのような試みはなされていないので、変わらないままである。

「現実は、時間を掛けてやがて、『私に追い付いてくる』であろう」
と、小室直樹は言った。
果たして、追い付くのはいつになるのだろう。


我 圯橋(いきょう)の上に來り
古を懐うて 英風を欽(した)う。
唯だ見る 碧流(へきりゅう)の水
曾て無し 黄石公
嘆息す 此の人去りて
蕭條(しょうじょう)として徐泗(じょし)の空しきを。
               ――李白、『下邳の圯橋を経て張子房を懐う』より

(注):科学であるための必要十分条件を述べるのは、「境界設定問題」という形で、
科学哲学の世界でもわりと昔から議論されている。
そうしたことに対して、有名な批判はラリー・ラウダンによるものである。
その批判をかわすために、実際にはこの部分は若干緩める必要がある、ということを記しておく。