戦争には金がかかる~暴力や偽りの手法による利権の時代は終わらせねば | キビコジのブログ

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NHKの朝ドラ
今朝は主人公あさの舅である加野屋の主人(近藤正臣)が慌てふためいて帰ってくる場面
徳川が負けて(戊辰戦争)薩長が新政府を打ち立て大阪の商人に莫大な軍資金の調達命じた。そのとんでもない要求に腰を抜かして帰って来たのである。

戦争には金がかかる。
薩長は戊辰戦争に勝って徳川を亡ぼして薩長主導の新政府を打ち立て行くがここには膨大な戦費が必要となった。
戦争というのは実はこの軍資金調達の戦いでもある。
戦国時代に勝ち抜いた信長や秀吉もこの軍資金調達に長けていたからこそ天下を取ることができたと言割れている。

戊辰戦争を戦って明治新政府を打ち立てた薩長も軍資金調達には相当苦労していたようである。
明治になって神仏分離令が出て廃仏毀釈が進むが、これも実は宗教的な意味合いより、寺受け制度で莫大なお金が寺院に流れるのをやめさせるため薩摩が取った政策だとも言われている。宗教弾圧の背後には金の問題があるこtも知らないといけない。

さて、明治維新後の日本は富国強兵政策を進めるが、日清日ロの戦争は莫大な軍事費を必要とした。
日清戦争に勝利した時に日本は清国から莫大な戦後補償金を受け取って日清戦争で失った資金を回復したが、日露戦争に勝利した後はポーツマスの講和条約で露紙が賠償金の支払いを拒否して、それがその後の日米戦争を引き起こしていく要因の一つにもなったということは以前のブログ記事でも明らかにした。

日露戦争遂行のためにその資金到達に奔走したのが高橋是清だった。高橋はその後世界大恐慌を超える施策など日本経済に貢献するが、最期は2・26で軍部若手将校の凶弾に倒れる。

また、日露の直接的戦争を回避するべく動いていたのが実は伊藤博文であった。またポーツマスの講和後もロシアとの関係修復や周辺国との宥和に動いていた。

その伊藤博文は1909年ハルビンで安重根に暗殺される。伊藤が朝鮮人によって殺害されたことは内外に大衝撃を与え、内外からその死を悼む声が相次いだ。
今では韓国は安重根は義士として、愛国者として褒めたたえられているが、当時は、朝鮮の人々からもとんでもないことをした人物として徹底的に非難されていた。実際伊藤博文は当初日韓併合に反対していたし、併合に際しても朝鮮の人々の自主性を尊重することに配慮して、自ら朝鮮総監を引き受けていたのである。
当時安重根は十数項目にわたって伊藤を殺害した理由を述べているが、そのかなりの部分が伊藤の人物や背景について当時の風聞に基づくことが多く、事実の誤認が指摘されている。伊藤の殺害は朝鮮の人々の独立やその後の人権にマイナスに働いたのではと言われている。

さて、ポーツマス講和条約で日本は樺太南部や満州に対しての一定の利権は確保できたが、この戦争のために失った莫大な人命や、なにより費やされた莫大な戦費のために後々苦しみ続けることになる。この時にポーツマスで得たほどの内容であれば、直接戦争をすることなく両國講和を模索していた伊藤博文のロシアとの友好策で十分だったのではないかと言われた。
伊藤はロシアとの強力なパイプをもち、その伊藤の外交が成功していれば旅順の攻防戦や日本海海戦を経ずとも日本は一定の権利をロシアに対して得ることができたのにと言うのである。

伊藤博文がハルビン駅頭で安重根に殺される直前の歓迎会で「戦争が国家の利益になることはない」と語っていたという。伊藤は根本的に平和主義であった。

伊藤は戦争がもたらすマイナスを誰よりもよく知っていたリーダーだったとも言える。かれは日韓併合に対して当初反対を表明していた。世界的にも信頼され、期待されるリーダーだったことは暗殺後に寄せられた世界からの弔意をあらわす様々なコメントからもうかがわれる。

安重根は伊藤殺害の理由を十数項目あげているが、そのほとんどが事実誤認に基づくものが多く、安の優れた資質を称賛する向きもあるが、伊藤の暗殺は当時の日本のみならず朝鮮にもアジア全体にも多大なマイナスの結果をもたらしたことは間違いがない。
伊藤は日露戦争後のロシアや周辺諸国との宥和、また半島統治にも穏健な施策を求めていた。

伊藤のリーダーシップが続いていれば日中戦争や日米戦争の泥沼に陥ることも防げたかもしれないし、朝鮮半島に対する統治政策ももっと緩慢かつ朝鮮の自主性を尊重したものになっていた可能性は大であったであろう。

日本はその後関東軍による満州制圧が続き、また太平洋では米国や欧州諸国との軋轢が続いていく。

第一次大戦(~1918)、関東大震災(1923)後に陸軍大臣になった宇垣一成によるいわゆる「宇垣軍縮」は軍の部隊を減らす代わりに近代化を図っていくことが趣旨であり、その後首相になった犬養毅も絶賛するないようだったが、軍部の反発は強かった。戦いを回避する思いの強かった昭和天皇は篤く宇垣を信任していた。昭和12年その天皇からの組閣の大命にも拘わらす、当時の陸軍幹部の猛反対で陸軍大臣が決まらず結果、この組閣は流産することとなった。
その後宇垣は、蒋介石の国民政府との戦争終結に動き昭和19年まで日中友好の回復に努めたが、それもならずそのまま敗戦に突き進んで行ってしまった。(その後宇垣一成は戦後最初の参議院選挙の全国区でトップ当選を果たす。当時は昭和天皇の信任とともに国民からも期待された人物だたことがわかる。戦時中は郷里の岡山に帰ることもあったが大変な警備態勢だったと当時を知る人の話である。当時軍縮を嫌った軍部によるテロに遭う可能性も大きかったのであろう。)

日本では5・15や2・26など軍部若手将校によって起こされたテロで犬養毅など非軍事的手段で日中問題などを解決しようとした人々が多く殺害されて行った。

軍部が軍縮に反対したのは、軍事予算の削減で自分たちの地位や収入が減ることを恐れてのこととも言われている。

それにしても戦争やテロリズムによっては理想は実現できない。
戦争末期上海に朝鮮臨時政府を組織していたのが金九である彼は大戦後の韓国国家樹立の過程で李承晩と対立。李承晩の送った刺客によって殺害された。
今では韓国の独立運動の志士として評価されている人物ですが、彼の独立運動の手法はテロであった。日本人首脳へのテロを計画実行していたのがその実態だた。彼は戦争末期に近づくころ蒋介石と会ったそうだが、その時蒋介石は彼に「テロでは独立は難しい。軍隊を組織して戦うように。」と諭したという。蒋介石のアドバイスを受け入れ軍隊を組織しようとした金九だったが時すでに遅く、彼が戦うまでもなく日本の敗戦に至り、半島は連合軍の支配のもとにおかれるようになった。
金九は檀君の弘益人間思想を掲げ広く世界に貢献する韓国を目指し、半島に南北左右一致の政権樹立を目指すなど、その理想は優れていて高く評価する人もいますがが、残念ながらその手法はテロリズムでした。
結局その最後は結局政敵の李承晩(李承晩は米国をバックにした南半だけの国家樹立を目指した)のテロに倒れるという結果になってしまいました。

軍事やテロで理想世界の実現を目指したのが共産主義でしたが、その共産主義もそのことごとくが失敗し、最期は中国共産徒とその他一部の国家を残すのみとなってきていて、その政権も限界に近付いてきています。

どんなに素晴らしい目標や理想を掲げても人の命を奪ったり、莫大な経済的な損失を伴う軍事的手段による手法は最後は自らを滅ぼし、理想とは真逆の事実にさかのぼる結果になることを我々は知らなければならないでしょう。

もちろん暴力的手段に訴える輩や国家がある以上、まったくの無防備というのはあり得ないでしょう。ソ連崩壊を促した米国の戦略はレーガンによるSDI構想だとも言われています。まずは経済的な力を蓄え、常に最先端の防衛技術を駆使し、最終的には力に頼らない、平和的な外交や手法で戦わずして勝つ。戦わずして平和と豊かさの実現を図っていくのが知恵ある人間の取るべき道です。

歴史を学びながら~暴力や偽りによる愚かな方法をもって自らの利益を求めるという愚かさを捨て去っていくことが現代人の努めであろうと思う。

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