奈文研 藤原京跡資料館に展示の持統天皇像







◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (25)







今回は途中から趣向を変えて、本当に言いたいことを書きます。

この持統天皇の企画物記事のなかではたびたびやってきましたが…


今回もそういった類いのもの。
通説に異議を唱えるというほどのものではないものの、あまり知られていない真相についてをぶちかまします(笑)



■ 即位後の主な政策や動向 (2)


◎持統天皇四年(690年)七月十八日

━━使者を遣わし廣瀬の大忌神龍田の風神を祭った━━

「延喜式」の巻八「祝詞」で言うところの「大忌祭」と「風神祭」。毎年四月と七月の2回恒例化し、「四時祭」(定例祭)となりました。
注目される点は、廣瀬大社(廣瀬神社)を「水神」ではなく「大忌神」としていること。

◎同年八月四日

━━吉野宮へ行幸した━━



◎同年九月十三日~二十四日

━━紀伊に行幸した━━

12日間にもわたるずいぶんと長い行幸でした。十一日に行幸する旨を詔し、併せて田租・口賦が控除(原文は「収むること勿れ」)されています。何があったのでしょうか。これ以外の情報はありません。

紀伊国といっても範囲は広く、現在の和歌山市から新宮市、三重県熊野市まで。紀伊半島のおよそ半分くらいが該当するため、具体的な場所すら特定はできません。
和歌山市なら片道1日、新宮市・熊野市で片道3日でしょうほどでしょうか。

即位から藤原京遷都までの、大変に重要な時期の長期行幸。おそらく何かあったのでしょう。



◎同年十月五日


━━吉野宮へ行幸した━━



◎同年十月二十二日

━━天皇は軍丁(下級兵士)の筑紫国上陽咩郡(かみつやめのこほり、現在の八女市)にいる大伴部博麻(ハカマ)に詔した。「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)七年に、百済救援の役(白村江の戦)に汝は唐軍の捕虜となった。天命開別天皇(天智天皇)三年に至り、土師連富杼(ハジノムラジホド)・氷連老(ヒノムラジオユ)・筑紫君薩夜麻(ツクシノキミサチヤマ)・弓削連元寶(ユゲノムラジガンホウ)の子の四人は、唐が日本を攻めようとしていることを奏上しようと思ったが、服も食糧もなくできないことを憂えていた。博麻は土師連富杼等の四人に曰く「皆と共に日本に還りたいが服も食糧も無い。共に唐を去ることはかなわない。願わくは我身を売り衣食に充てるように」と。富杼等は博麻の計らいにより天朝(当時の天皇)に伝えることができた。汝は独り異国に滞ること三十年。朕は朝廷を尊び国を愛し、己を売ってまで忠誠を顕したことを嘉とする(立派だ、誉めたい)。故に大肆の位階と、絁(あしぎぬ)五匹(ひつ)、綿十屯、布三十端、稻一千束、水田四町。その水田の三代の課役を免除しよう━━

しれっとドえらいことが記されています。このままさらっと流すことは決してできないほどの内容。少々留まります。

「愛国」と記されています。訳文では「愛する国」としましたが、原文では「愛国」という文字の並び。特に第2次世界大戦では「愛国心」の表象としてもてはやされたようです。

ところがこの内容は明らかにおかしいのです。下級兵士が四人の上級役人に命令などできるはずなどないのです。特に天武持統朝では身分秩序を厳しく統制しました。古い言い伝えならまだしも、編纂中のこと。また捕虜の身分でありながら身を売るなどということができるのかという疑問も。

まるまる作り話とまでは言いませんが、編纂者によりかなり脚色されたようです。国史ですから校正もしっかりなされていたはず。にもかかわらず…ということは、意図的に脚色したということなのでしょう。




◎同年十月二十九日

━━高市皇子が藤原の宮地を視察。公卿百寮が従った━━

この時点では未着工かと思います。大勢が参加していることですし、建築図面(絵図?)を広げながら、最終的な確認をしていったというところでしょうか。
ひょっとしたら…高市皇子が太政大臣になってからの一番の大仕事だったのかもしれませんね。



◎同年十二月十二日~十四日

━━吉野宮へ行幸した━━


だんだんと吉野行幸の頻度が上がっています。政権上の懸念材料は多くはないように思うのですが。新都への遷都を滞りなく成し遂げるということが、現状の最大の課題かと思います。


この辺りで「吉野宮」について触れておくことにします。そして「吉野宮」の真の意義…についても、少々考えてみましょうか。

お堅い話ではなく、露骨な表現でやってみたいと思います。久々に無双モードに突入して。



■ 「吉野宮」

◎33回もの「吉野宮」行幸

持統天皇は皇后であった鸕野讚良時代、退位後も含めて、実に33回も「吉野宮」へ行幸しています。

これは尋常ではない、敢えてはっきりと下世話な言葉で言ってみましょう。

「キチガイじみた」行動。

持統天皇は稀代の天賦の才を有した人(神)と認識しています。こういった人たちは時に奇怪な行動をよくするもの。精神のバランスを保つためなのでしょうか。

確かに自身と夫(天武天皇)との「生死を賭けた戦い」であった「壬申の乱」は、「吉野宮」から始まりました。この深い思い出の地で精神の静養を…

ところが持統天皇の「吉野宮」行幸は、例え「キチガイじみた」ほど繰り返されても、それは相応の意図があってのことと考えています。



◎「吉野宮」への思い

既にこの企画物記事内で書いていますが、「壬申の乱」というのは、夫婦が「決死の覚悟」で挑んだ世紀の大決戦でした。しかも普通ならまったく勝ち目の無い、あたかも真珠湾攻撃の如く…な戦い。

ところがこの夫婦は「奇跡中の奇跡」を起こしてしまったのです。

一般には…
強大な戦力となり、多量の武器を有した東国の勢力(主に尾張氏)といち早く手を組んだ…
「不破の関」をいち早く封鎖して、その東国勢力や物資などが敵軍に流入するのを阻止した…
有力で従順な家臣に恵まれ、また快進撃とともに敵軍の主力が寝返ってきた…

これらの「奇策」と、類い稀な「運」により「奇跡」が起こったとされます。これらを否定するつもりもなければ、正にその通りだとも思っています。



◎想像を絶する「壬申の乱」の苦難

あまり取り沙汰されることはありませんが、実は想像を絶するものだったのです。既に書いたものを振り返ることとなりますが、あらためて。

桜木神社の伝承
おそらくは「壬申の乱」勃発前のこと。大友皇子軍に攻め込まれ、大海人皇子は桜の木の根元に隠れて難を免れたと伝わります。

これは「壬申の乱」の数日前のことではないかと思うのです。ひょっとしたら前日?ぐらいにでも。

そして「壬申の乱」を起こしたなどとかっこよく紀には書かれていますが、実は「吉野宮」からの「命からがらの逃亡」だったのではないかと秘かに考えています。ただ逃げるだけではなく、その間に着々と手を打っていったのがこの夫婦の天才たるところかと。

「壬申の乱」が起こり、先ず大海人皇子軍は「吉野川」を遡り、「菜摘」から「矢治峠」を越えて「津振川」(現在の「津風呂湖」)へ。

おそらく大友皇子軍が迫ってきていたのでしょう。道無き道を進み山越えしたのでしょう。鸕野讚良は「駕」(天皇の乗り物)に乗らずに越えたと紀には記されます。

「駕」どころか山道を這い登り、落下するが如く下ったものと思います。まさに命懸け。ちょくちょく無茶なことをやってる私でさえも、この峠越えは絶対無理!登山装備をしたプロの登山家でないと。津風呂春日神社の急な石段を登るのが精一杯。



津風呂春日神社と大海人皇子軍が越えてきたと思われる背後の山。



その後も「絶望」という目に遭います。
「隠(なばり)(現在の名張)に到着した際には、軍を結集させておくようにと指示をしていたのに、誰一人と来ない…
鈴鹿山脈越えをしようとすると、豪雨に見舞われ天照大神に祈る…

ただし「吉野宮」を経つ数日間で起こったことは、生涯忘れ得ない生死をさ迷ったとも言えるもの。持統天皇が特別な思い入れを抱くのは当然のことなのです。



◎「吉野宮」とは

詳細地を示す文献が存在しないため、古来より比定地は諸説ありましたが、発掘成果により現在は「宮瀧遺跡」で事実上確定しました。

斉明天皇の御代に造営されたと、紀には記されます。掘立柱建物の遺構と礎石が複数発見されたことにより事実上確定に至りました。遺跡からは縄文時代の遺物が出土します。上古より過ごしやすく聖なる地という認識があったように思います。

どんなところかということを、必要なものに絞り書いておきます。

*「吉野川」の河原(段丘上に)に造営
*「象山(きさやま)」を神奈備山としていたと思われる(背後の「吉野山」は見えない)


(吉野資料館の展示物)



◎神奈備山「象山」

なぜ「吉野宮」について長々と触れたかというと、「象山(きさやま)」についてを書きたいから。そしてこの山について触れているものがあまりに少な過ぎるため。

典型的な神奈備型の美麗な三角錐の山容。ただしこれは「吉野宮」から見てのこと。どうしても「夢のわだ・中岩・滝つ河内」を入れ込んで写したいからと、そちらから撮ると神奈備型の山容とはなりません。

宮を営むにちょうど良い場所があったというだけではなく、「象山」がもっとも美しく映える場所に宮を営んだと見るべきだと思います。

「神奈備」とは「神霊が宿る御霊代(みたましろ)・依り代を擁した領域のこと」(Wikiより)。つまり「象山」に神霊が宿ると捉えていたということになります。



◎「象山」に降臨

持統天皇は自らを、天照大神の生まれ変わり、或いは再び降臨したものとして振る舞ったと言われています。和風諡号が紀では「高天原廣野姫天皇」となっていることから。天照大神だと言わんばかりの諡号。振る舞ったというよりも、本当にそう信じていたのかもしれません。

つまり持統天皇は、「象山」に降臨した天照大神の生まれ変わり、或いは「象山」に再降臨した天照大神であると認識していたと考えます。



◎「象山」の祭祀

ここからは多少個人的な想像を行います。

「神奈備山」には神が宿るわけですから、当然のことながら祭祀が行われます。紀には「象山」への祭祀が行われた様子が記されないのは、それが当たり前であったから。

祭祀は持統天皇自らが行っていたのではないでしょうか。

天皇自らが祭祀を行うという事例は限られます。記紀に於いて記されるのは、わずかに神武天皇と神功皇后(即位していたと考えます)のみ。

上古は祭政分離型。祭祀は長子が行い、政治は末子が行いました。祭祀の方が遥かに重要であったため。末子であり政治を行う神武天皇は次々と兄たちを失い、祭祀をも行わなければならなくなったと考えます。神功皇后は例外と言えるでしょうか。


「持統天皇=天照大神」ですから、果たして最高神が祭祀などを行うのか?という疑問符が付きます。
これについての答えは、天照大神は「太陽」を祀っていた、そして太陽の霊力を一身に承りそれを世の中全てに解放していた…と。鏡は太陽の霊力を集めるための用具であり、天孫降臨時に瓊瓊杵命に授けたのは地上でその代理役を担うようにということではないかと思うのです。

以上から、持統天皇が「吉野宮」へ「キチガイじみた」行幸を重ねたのは、「象山」にて自らが太陽祭祀を行っていたからではないかと推論します。

「宮瀧遺跡」と「象山」



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。