☆宮瀧遺跡



大和国吉野郡
奈良県吉野郡吉野町宮瀧
(P無し、吉野歴史資料館から徒歩5分足らず)



吉野歴史資料館の記事でも紹介しているので簡潔に。

紀伊半島の真ん中辺りを横断する吉野川(下流の紀伊国では「紀ノ川」)沿いにあります。いくつかの時代にまたがる複合遺跡。

特筆すべきものは以下の時代のものであるかと思います。

*縄文早期 → 土器など
*縄文後期~晩期 → 宮瀧式土器など
*弥生時代 → 竪穴住居、方形周溝墓、弥生式土器など
*飛鳥時代 → 吉野宮

「宮瀧式土器」というのは巻貝(海産)の模様を付けたもの。線刻などもすべてこの巻貝にて施され、縄は使われていません。

なぜここに人が住みついたのか。

「吉野川」がS字型に蛇行しており川原があること、上流から流れてきた大岩の溜まり場となっていること、山間部なので山の幸は当たり前のこと、川の幸が確保しやすい地であったことが挙げられます。

もちろん住むのに適した川原があることも。冬場は雪から凌ぐために下流域へ移動したと言います。

「吉野宮」は斉明天皇が造営、持統天皇がこちらに30回以上も行幸したというもの。また「仁申の乱」の出発点ともなっています。

なぜこんな山奥に宮を設ける必要があったのか、なぜ大海人皇子(後の天武天皇)はここに身を隠し、ここで挙兵する必要があったのか、

答えは一つしかないでしょう。神武東征ゆかりの地であったからでしょう。

当地に住んだ縄文人は、神武天皇が出会った国栖(國樔)の祖先。

つまり住んでいたのは久米氏(=大伴氏・紀伊国造家)とみられます。「阿蘇山大噴火」により、やむなく移住を強いられたのではないかと考えます。


神武東征時を先導したのは久米氏と大伴氏。同祖同族です。彼らの祖先が移住していた地へ赴いたということかと思います。


*写真は2019年5月、2024年10月撮影のものとが混在しています。











以下の写真は吉野歴史資料館で頂いたもの。いつの間にかどこかに眠ってしまうであろうと思われるので、この記事に挙げておきます。







*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。