◆ 火吹く人たちの神 ~26






この記事が上がる頃には、
既に転職先で仕事を始めています。

しばらくは記事作成の時間があまり取ることができなくなるでしょう。

したがって…

これまで精力的に記事を上げてきましたが、
他の企画物記事と同様に、月に1本程度上げるペースに移行します。






第一部 青銅の神々
第三章 最後のヤマトタケル


 不破から三重へ━━つきまとう金属精錬の影

前回の記事にも掲載した、日本武尊の「伊吹山」以降の足取りを落とし込んだ地図を下部に再掲しておきます。



◎「居醒の清水」


日本武尊はやっと「伊吹山」から脱出して、まるで酔ったようにふらつく足取りで下山しました。そして麓の泉の水を飲んで、辛うじて人心地を取り戻したと。そこは「玉倉部」であったと記には記されます。


「玉倉部」の推定地は2ヶ所有り、いずれも「居醒の清水」と謳っています(ともに未訪)

*岐阜県不破郡関ケ原町玉

*滋賀県米原市醒井


本書では岐阜県不破郡の方をもっとも有力としていますが…
これは「壬申の乱」の際の大海人皇子軍の行宮があった「野上」の近くとしています。ただし7~8kmほど離れており、近くといえるのかどうか微妙なところですが。

日本武尊の足跡を落とし込んだ地図。
2ヶ所の「居醒の清水」と「野上行宮」跡。



◎「野上行宮」

この「野上行宮」というのは、大海人皇子軍に貸した尾治大隅(尾張氏一族)の私邸だったとされます。

尾治大隅は私邸を提供したばかりでなく、「軍資を供助」したとも続紀は伝えます。

この「軍資」とは何なのか?
前川明久氏(日本古代史研究者)は、美濃の伊福部の鍛造した武器を大海人皇子軍に提供したのではないかとしています。

尾張氏は金属精錬に関係の深い氏族とされており、また伊福部氏は尾張氏(尾治氏)の同族の中に含まれます。そして「野上」と「伊吹」集落は1kmと離れていない。この両集落の氏神が伊富岐神社

尾治大隅は野上にあって、隣の「伊吹」集落にいた伊福部氏を督励して鉄の武器を作らせたと考えることができると結論付けています。


[美濃国不破郡] 伊富岐神社




◎美濃国多藝郡、伊勢国員弁郡へ

「伊吹山」を下りた日本武尊が向かったのは、紀では尾張から伊勢国員弁郡「尾津」へ、記では美濃国多藝郡を経由して伊勢国員弁郡「尾津」へ。


多藝郡の記の表記は「当藝野(たぎの)」。現在の岐阜県養老郡。


日本武尊が「当藝野」に着いた頃には、足が膨れて歩むことができず、たぎたぎしくなったと記されます。これが地名由来に。


本書では触れていませんが、郡名ともなっている多岐神社が鎮座。こちらは物部氏の部民であった多岐氏(多芸氏)が奉斎した社とされます。物部氏は軍事氏族であり、武器の製造・管理を職掌とした氏族。


また久々美雄彦神社伊富岐神社のご祭神と同神とする説も。南宮大社と同緯度の南方に鎮座しています。さらに志那津比古神・志那津比女神を祀る長彦神社も鎮座。

こちらも製鉄鍛冶氏族が居住していた材料は揃っています。




[美濃国多藝郡] 久々美雄彦神社




記紀ともに記される伊勢国員弁郡「尾津」。現在の桑名市多度町「戸津」が比定地。忘れていた剣を見付けた…云々の「尾津前の一本松」の歌が載せられている場面。

比定地のすぐ隣には多度大社が鎮座。本宮に天津彦根命、別宮 一目竜社に天目一箇命の父子を祀る神社。言うまでもなく鍛冶の祖神を祀る社。


[伊勢国員弁郡] 多度大社



◎三重から能褒野へ

「尾津」を発った日本武尊は次に、紀では「能褒野」へ、記では「三重」を経由して「能褒野」へ向かっています。


「三重村」に至った際に、「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と詔し、「三重」の地名由来になったとあります。

「三重」の候補地について、本書では3箇所が上げられています。いずれも四日市市。
*「釆女町(うねめちょう)
*「西坂部町」
*「水沢町(すいざわちょう)

*「釆女町」
剣を杖代わりに登ったという急坂「杖衝坂」。血を洗い流したという血塚社が近くにあります。本書では釆女貢進の地、郡家の地であることのみ上げています。




[伊勢国三重郡] 「杖衝坂」

[伊勢国三重郡] 血塚社




*「西坂部町」
足を洗ったという「足洗池」があります。本書では取り上げていない弟の五十功彦尊(イトコヒコノミコト)を祀る江田神社が鎮座。日本武尊が弟の元を訪ねたという伝承有り。

以上の2箇所について谷川健一氏は取るに足りないものとして退けています。両地が「三重村」となったのは明治以降のことであり、これは館通因という学者によるもの。館通因は自身の出生地に結び付けておきたかったからと、甚だ手厳しく批判しています。

*「水沢町」
式内社 足見田神社が鎮座。天目一箇神の後裔とされる芦田首が奉斎したという社。一説には日本武尊を祀るとも。

谷川健一氏は「三重」をこの地に宛てています。「和名抄」に於いては三重県「芦田郷」を「アシミタ」と読ませており、また日本武尊が足を痛め悩ましたことによる地名であるからとしています。


[伊勢国三重郡] 足見田神社




以上については異論を唱えます。個人的に考える日本武尊の足取りは下に示す地図の通りではなかったかと思うのです。

それは日本武尊を祀り、有力な御陵説の高い白鳥塚古墳を神域に有する加佐登神社の宮司から伺った情報。

それによると、ある学者が日本武尊の足跡を探るため、自身が歩いて伝承地を訪ねたとのこと。すると概ね下に示したような結果があぶり出されたというもの。

これは当時の海岸線と推測されるもの。つまり日本武尊は海岸沿いをひたすら歩き続けたのであろうと考えています。


*地図に落とし込んだ史跡は主要なもののみで、またそれらの位置はおおよそのものです。



この地図から察するに、足見田神社や御陵説のある長瀬神社境内の武備塚は、推測する日本武尊の進路とは大きく外れています。

したがって「三重」は「釆女町」「西坂部町」のいずれかではないかと考えます。


[伊勢国鈴鹿郡] 加佐登神社境内の日本武尊像





今回はここまで。


次回は足見田神社から話が続いていきます。


日本武尊の足跡からは否定したとはいえ、谷川健一氏が考えられた大枠の説を否定するものではありません。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。