☆ 武備塚 (日本武尊御陵、長瀬神社境内)
鈴鹿市長沢町に鎮座する長瀬神社のご本殿背後に築かれている古墳。
江戸時代には亀山藩により、こちらが日本武尊の御陵と定められていました。
「神社覈録」(天保七年、1836年)に、長瀬神社と当墳墓に関する記述があるので掲げておきます(一部、括弧書き等を追捕しています)。
━━熱田社 寛平二年(890年)縁起に 「自後倭建命体中不豫 欲帰尾張便移伊勢 既而過鈴鹿山病痛危迫 渡鈴鹿河中瀬忽随逝水 時年三十 仍號其瀬曰能知瀬」(能知者命終之詞也)今改爲長瀬訛也」とあれどこは当社の故事にはあらじ 名の同しきをもて混ずベからず 名島政方云 或人云 英太郷長澤村武備神社是也 所祭稚武彦命 又云吉備武彦命の墓云々 武備社記云 能褒野武備神社坐日本武尊一座云々 抑長瀬の社號郷名は熱田大神縁起曰云々と見えたる是也 或人英太郷長澤村といへるは 長瀬郷と地の接するをもての事にや云々と云へり 連胤 按るに長瀬の名は一ツなれど事は異なるべし 尤長瀬社と武備社とは別社なるをや━━
この記述によると日本武尊は、鈴鹿の川中に逝去したとあります。そしてその瀬を「能知瀬」と名付けたが、今は「長瀬」へと転訛したと。
ところが覈録は、これは当社(長瀬神社)のことではなく別の神社であるとしています。日本武尊ゆかりの社は「武備神社」であり、その社では稚武彦命(第七代孝霊天皇皇子)を祀るとも日本武尊を祀るとも言われていると。
吉備武彦の神名が記されます。「新撰姓氏録」には稚武彦命の子または孫とあります。日本武尊東征の従者の一。
この墓はその吉備武彦命のものではないかという伝承があるとしています。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。